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知取気亭主人の四方山話
 

『雪で明けた今年は?』

 

2015年1月7日

本来時の流れに区切りはないのだが、暦で区切られた「新年」という響きは、たった一晩過ぎただけなのに、何となく気分が一新するから不思議なものである。そんな事は有り得ないのに、元旦の朝目を覚ますと、昨日までの自分ではないような錯覚を覚えてしまった受験生時代もあった。そんな荒唐無稽な経験は兎も角として、日本人は、長い間、元旦を特別な目出度い日として祝ってきた。また、「一年の計は元旦にあり」と言われるように、元旦に一年の計画を立てたり、志を持ったりするのを習わしとしてきた。そういう意味からすると、元旦に起こった身の回りの出来事から、今年一年を占うのも面白い趣向だろう。そこで、年の初め主な出来事から、今年の私を占ってみた。

今年の金沢は、大雪で明けた。大雪と言っても既に1メートルを超えている地方の人々には申し訳ない程の積雪量で、30センチを僅か超えた程度である。それでも、私が住む団地の様に、融雪装置のついていない道路で車を走らせようとすると、やはり雪かきが必要な積雪量だ。そんな大雪の中、長男が、元旦勤務ということで、なんとか車1台が動けるだけの雪かきをして出勤していった。流石4輪駆動車である。彼を見送った後、次男、長女と私に加え、孫娘の総勢4名で、家の前の道路と駐車場の雪かきをすることになった。尤も、孫娘の場合は、本人の言うとおり“お手伝い”と言うべきなのか、 “遊び”と言うのか微妙なところではあるのだが…。

前夜から大雪警報が出ていたこともあって、目が覚めるなり、2階の部屋から駐車場の状態を恐る恐る覗いてみた。そして、駐車場に止めてある車の状態を見て、愕然とした。車をすっぽりと覆っている雪は、昨年12月上旬に降った大雪よりも見るからに多いのだ。童謡の「雪やこんこん」ではないが、車も家も、そして木々も見事に綿帽子を被っている。見た目は真っ白で綺麗なのだが、3台分の駐車スペースを空けるとなると、元旦、しかも飲み疲れているだけに気が重い。それにしても、昨年の暮れにも雪で苦労させられたのに年明け早々この大雪とは、今年一年が思いやられる、と思ったのは無理からぬところだ。

そんな思いを抱きながらも覚悟を決め、スコップ片手に外に出た。ところが、年末に降った重たい雪とはえらい違いで、極めて軽い。サラサラの雪だ。お蔭で、4歳の孫娘でも、一丁前に(勿論子供用の)スコップで雪をすくうことが出来、結構頑張ってくれる。4人でワイワイガヤガヤやっていると、隣の駐車スペースを借りているご近所さんも、雪かきをし始めた。それを見て、597話でも書いた“雪の滑り台”を造りたい旨を話し、雪集めに協力してもらった。その結果、念願の滑り台を完成させるに十分な雪が集まった。後は成形するだけだ。見た時はゲンナリしたが、暮れからの目標だった滑り台が完成間近になると、楽しみの方が勝って来た。不思議なものである。ただ、その日は、入院している母の見舞いや、息子夫婦が借りている借家の雪かきもあり、滑り台を完成させる事は出来なかった。

しかし、案ずるまでも無く、2日の夜から3日の朝に掛けても15センチ程の積雪があり、孫娘のたっての希望もあって、3日、長男、長女、孫娘も加わって、念願の滑り台を完成させた。リフトも無いし極めて短いけれど、ソリ専用の、しかも贅沢な私設ゲレンデである。勿論、孫娘は大喜びだ。大喜びで滑っている様子が、次の写真だ。

 
カーブもしている、総延長約1,000センチの滑り台
 

これで今冬は暫く遊ばせてやることが出来る、と喜んでいたのだが、その思いはあっさりと破れてしまった。4日に気温が上昇した上にタップリと雨が降ったことと、5日の晴天で、折角の滑り台は、面影を僅かに残し無残にも3分の1程の雪の塊になってしまったのだ。あれだけ苦労して作ったのに、たった1日だけの滑り台となってしまった。まさに、「労多くして功少なし」である。

しかし、見方を変えると、「禍福は糾う縄の如し」ではないが、悪い事ばかりではない。4日の雨と5日の晴天で、路面にあった雪は完全に溶け、小山となっていた雪捨て場も随分と小さくなった。これで、次に雪が降っても、ある程度までは雪捨て場が確保できる。毎年のことながら、私が住む団地は住宅が密集していて、いつも雪捨て場に苦労しているのだ。体の事を考えれば、滑り台の消滅よりこちらの方がむしろ有り難い。孫娘にはかわいそうだが、視点を変えると、思いも随分変わるものである。

こうして年明け早々の出来事を思い返してみると、雪に始まり雪で終わった正月休みであった様に思う。しかし、随分と信念の無い捉え方をしているものである。ただ、ビジネス本張の表現を借りれば、都合の悪いと思われる出来事も視点を変えると都合が良いと思えるようになる、ということなのだろう。言い換えれば、気持ちの持ちようでどうにでもなる、という事だ。私の大好きな、ケセラセラである。だとすると、占いなど気にせず、ケセラセラ、“どうにかなるさ”である。しかしながら、これでは昨年までの私と同じで、「今年の私を占う」と見えを切ったにしては、何ともいい加減な話になってしまう。まあ、それこそが私の得意とする“いい加減さ”、なのかもしれないのだが…。

【文責:知取気亭主人】】

  
 
 

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