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知取気亭主人の四方山話
 

『やっと会えるね』

 

2016年1月20日

お屠蘇気分も抜けない6日の夕方、母が逝った。1週間後の13日に満95歳の誕生日を迎えるところだったから、年齢的に言えば大往生だ。とは言うものの、やはり親を亡くすというのは悲しい。そして、寂しい。そこで、きわめて個人的な話題で申し訳ないが、母の波乱万丈な人生を振り返り、追悼したい。

母は、大正10年、今の掛川市で5男5女の次女として生まれた。近ごろと違って“産めよ増やせよ”の時代であったから、当時としては、そんなに驚くほどの子だくさんという事でもないらしい。ところが、戸籍を調べるとこれほどいた兄弟ではあったが、医学も衛生状態も、そして栄養状態も今と比べ物にならないくらい劣悪であったこともあり、幼くして亡くなった子も多く、私が物心ついた時には、10人兄弟のうち母を真ん中に3姉妹だけが存命しているという寂しい状態だった。わずか3名を残すだけになったのには、勿論、戦争という暗い影も強く影響している。

昔母に聞いたところによれば、母の実家は、母が幼かった頃は村でも評判の裕福な家だったらしい。ところが(母の)祖父が亡くなると、瞬く間に、どん底の生活に転落していったという。そうなると、子供といえども、貴重な働き手として期待されることになる。昭和初期の田舎の家庭は多くがそうだったのだろうが、尋常高等小学校(今の中学1、2年に相当)を出ると、直ぐに働きに出た。東京のお屋敷にお手伝いさんとして奉公していた、という。奉公先の転勤に付いて台湾にも行ったことがあったらしい。

そんな状況の中で、写真だけで父と見合い結婚をし、満鉄に勤めていた父のもとへ単身海を渡ったというから、当時の女性の強さがうかがえる。満州での新婚生活は、比較的恵まれていたらしい。しかし、それも長くは続かず、直ぐに満州から引き上げなければならなくなった。敗戦だ。多くを語らなかった母が時々漏らした、引き上げも含めた敗戦前後の生活は、本当に大変だったらしい。

それでも、生きて帰ってこられたのは何よりだった。敗戦後、母より遅れて帰国した父と、母の実家近くで生活を始め、やがて姉が生まれ、私が生まれた。そんな幸せが見え始めた頃、母の弟が結核に罹り、その看病の手伝いに母と父が行くことになる。まだ結核が不治の病の仲間だった頃だ。しかも、栄養ある物を食べようにも、三度の食事さえまともに食べられない時代のこと、病人と雖も粗末な食事しか摂れなかったのだろう。やがて弟が死に、父も結核に罹り、昭和28年、私が4歳、姉が7歳の時に他界する。母32歳の時だ。母は発症しなかったとばかり思っていたのだが、右肺が結核の影響で石灰化しており、ほとんど左の肺しか働いていなかったことを、金沢に呼んで初めて知った。運良く母は助かったものの、実は、二人とも結核にやられていたのだ。

父がどれほどの期間寝込んでいたのか小さかった私は全く記憶にないが、寝込むようになり、父の死後学校の用務員という定職を得るまで、母の人生の中で最も辛かったであろう苦労が始まる。定職を得るまでの仕事は土方であったり、農家の手伝いであったりと、きっと身を粉にして働いたのだろう。幼い私を布団で恵方巻のように包み、それを家の柱に縛り付けて働きに出ていたという。仕事から帰ってみると私がひどい下痢をしていて、危うく死ぬところだった、とよく聞かされた。それも含め、私は小学校に入るまでに三度死にかけているらしい。それでも働きに出なければ、我が家は食べていけなかったのだろう。余程貧しかったたらしく、小学校の入学式に姉のおさがりを、着て行ったのか持って行ったのか定かでないが、明らかに女物を身に付けて行き、幼心にも恥ずかしい思いをした記憶がうっすらと残っている。そうしなければならなかった母は、もっと辛かったのかも知れない。

母は、この父が亡くなった頃の辛い思いを、死ぬまで忘れることはなかったようだ。手を差し伸べてくれた親戚にはいつまでも感謝をしていた一方で、冷たくされた親戚には、歳を取ってからも良く私に恨み辛みをこぼしていた。余程辛かったし、悔しかったのだろう。この経験が、絶対に見返してやる、の負けじ魂に火を点けたのかもしれない。とにかく、気丈な母だった。その気丈さは、時に軋轢を生むこともあったのだが…。

また、自分の兄弟の看病に行って病気を貰い亡くなった父に、ずっと“申し訳ない気持ち”を持ち続け、私にその胸の内を明かすこともあった。そんな負い目もあってか、70歳を過ぎたあたりから自分の葬儀について希望を話す様になり、「決して派手な葬儀はしないで」とよく懇願された。62年も前の昔の田舎の事とて、父の葬儀は至って簡素だったらしい。その葬儀より絶対に派手にしたくない、と心に決めていたようだ。古びた父の葬儀の香典帳には、拾円、弐拾円の文字も見える。世の中まだ戦争の傷跡ばかりで、日本中が本当に貧しかった時代だったのだ。その後も苦労は絶えなかったのだが、この紙面では書ききれない。

しかし、そんな幾多の苦労を乗り越え、私と姉を育て上げてくれた。お陰で、私も姉も孫を設け、次の世代に繋いでいくことができた。これがせめてもの親孝行だったのかもしれない。正月休みに私たち夫婦や、母にとっての孫やひ孫の顔を見て安心したのか、穏やかな顔で息を引き取った。

「これでやっと苦労から解放されて、62年ぶりに父と再会できる」、そう思った穏やかな顔だったのかもしれない。(合掌)  


【文責:知取気亭主人】


大きいお婆ちゃん、私も大きくなるね!

  
 

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