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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム3: 八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成(887)と303日後の決壊
 

1.平安時代の大災害
平安時代の仁和(にんな)三年七月三十日(ユリウス暦887年8月22日)の五畿七道の地震(南海―東海地震)で、北八ヶ岳(きたやつがたけ)の火山体が強く揺すられ、大規模な山体崩壊が発生したことが知られています(石橋2000)。千曲川沿いの佐久平(さくだいら)から善光寺平(ぜんこうじだいら)付近までの平安時代前半の遺跡では、条里制水田などを覆うほぼ同じ年代(陶磁器などで認定)の洪水砂が多くの遺跡で発掘され、「仁和の洪水砂」(川崎2010)と呼ばれています。井上ほか(2010)はこの大規模土砂移動と天然ダムの形成・決壊状況を調査し、古千曲湖T(南牧村史(1986)では南牧湖)、古相木湖(同小海湖)と命名しました。

図1 八ヶ岳大月川岩屑なだれと天然ダムと「仁和の洪水砂」の範囲(井上ほか2010)


2.史料の記載
この災害は多くの史料に記載されています。
『扶桑略記』
「仁和三年秋七月三十日辛牛、申の時地大いに震(ふる)う。数刻やまず。(中略)同日亥時(22時)、又震うこと三度、五畿七道諸国、同日大いに振い官舎多く損す。海の潮陸に漲り、溺死するものあげて計うべからず。その中摂津国もっとも甚し。信乃国大山頽崩し、巨河溢れ流れ、六郡の城廬地を払って漂流し、牛馬男女の流れ死すもの丘を成す。」
『日本紀略』前篇二十 宇多
「仁和四年五月八日(888年6月20日)、信濃国大水ありて、山頽れ河溢る。五月十五日辛亥、詔(みことのり)す。水災を被(こうむ)る者は今年の租調を輸すなかれ、所在の倉を賑貸し、その生産を経、もし屍骸の未だおさめざる者あらば埋葬をなせ。太政大臣(藤原基経)上書五ヶ条」
 これらの史料を要約しますと、仁和三年(887)の記載は地震による被害の記録であるのに対し、仁和四年(888)の記載は洪水災害が中心です。つまり、887年8月22日には、五畿七道諸国の激甚な地震(海溝性巨大地震)の被害に加え、信濃国の大山で巨大な崩壊が発生して大河を閉塞し、巨大な天然ダム(古千曲湖1)が形成されました。その後、303日後の888年6月20日に、古千曲湖Tは決壊して大洪水を引き起こし、信濃国の六郡(佐久・小県(ちいさがた)・埴科(はにしな)・更級(さらしな)・水内(みのち)・高井郡)の城や住居を押し流し、牛馬男女流死するもの多く、死骸は丘を成したと解釈できます。
 六郡に影響を与える可能性のある山は、千曲川上流の八ヶ岳山塊しかなく(浅間山の可能性もあるが、当時噴火や大規模土砂災害の記録はない)、大規模土砂移動による古千曲湖1の形成と決壊が大災害の発生原因となったと考えられます。大規模な古千曲湖Tが一年近く(303日間)かかって満水となって決壊し、大洪水が流下したと解釈しますと、これらの史料の記載は矛盾がなくなります。

3.天然ダムの規模と決壊洪水の範囲
 現在も、地上から北八ヶ岳を望む風景のなかに、山体崩壊の範囲を確認できます。図2は町田・田村(2010)が作成した大月川流域の地形分類図です。写真1は大月川岩屑なだれ上の新開(戦後の開拓地)から見た北八ヶ岳の山体崩壊地形です。中央の白い山は天狗岳(標高2646m)で、その前面が大きく山体崩壊して凹地となったカルデラ地形です。右側が稲子岳(いなごだけ)(標高2380m)で、大きくスランピング(回転)したものの、まだカルデラ頭部に巨大な移動岩体が残っています(写真2)。

 河内(1983)は、ニュウから硫黄岳までの間のすべてを山体崩壊の範囲としましたが、町田・田村(2010)は天狗岳東側の尾根部から北側のみと判断しました。河内の説だとすれば、南側を流れる湯川にも岩屑なだれ堆積物が存在する筈ですが、現地調査や写真判読では認められません。
 河内は、天狗岳東壁の山体崩壊によって、南北2.25km、東西3.5km、最大比高350mの馬蹄形カルデラが形成されたと考え、大月川岩屑なだれの堆積物を3.5億m3と見積もっています。しかし、馬蹄形カルデラの大きさは10億m3以上と推定されるので、887年のような大規模な岩屑なだれが繰り返し発生して、水蒸気爆発などの火山活動も加わって、形成された地形と判断しました。
 図3に、千曲川の河床縦断面図を示します。北八ヶ岳の山体崩壊と大月川岩屑なだれ・天然ダム、「仁和の洪水砂」に覆われた遺跡の分布を投影してあります。山体崩壊以前の推定地形を破線ハッチで示しました。馬蹄形カルデラのすべてが887年の山体崩壊で形成されたとは考えられませんが、天然ダム決壊後に下流に流下した分を含めると、山体崩壊の移動土砂量は3.5億m3よりもっと多くなると判断されます。通常の河成段丘と比較すると、大小の角礫が乱雑に厚く堆積しています。

 千曲川に面した大月川岩屑なだれ堆積物の末端斜面には、多くの巨木が埋もれているのが散見されました。これらの木片を用いた14C年代測定値の半分は、AD900年頃を示しています。河内・光谷・川崎(未公表,2001年3月12日)は、岩屑なだれ堆積物中の大きなヒノキの埋もれ木をもとに年輪年代を測定した結果、仁和三年(887)に枯死した大木であることを明らかにしました(光谷,2001,川崎2000,2010)。このことにより、岩屑なだれ堆積物は「扶桑略記」に記された五畿七道地震による山体崩壊によって流下・堆積したことが判明しました。
 2.5万分の1地形図や航空写真の判読などによれば、河道閉塞地点(JR松原湖駅付近)の河床標高は1000mで、大月川に沿って岩屑なだれ堆積物が現存し、その堆積物の上面には流れ山地形や松原湖・長湖などの湖沼が多く存在します。八ヶ岳周辺では古代人(多くの遺跡が存在)が生活していましたが、松原湖などが位置する平坦地(1130年前の大月川岩屑なだれが分布する)には、縄文・弥生・古墳時代などの遺跡が存在しないことが考古学上の不思議となっていました。
 松原湖付近の流れ山などの押し出し地形の状況から推定しますと、古千曲湖Tの湛水高は130m(標高1130m)で、この標高で等高線を追い求めますと、古千曲湖Tの湛水面積13.5 km2、湛水量5.8億m3程度となり,日本で最大規模の天然ダムが形成されたことになります(1847年の善光寺地震の岩倉山地すべりの湛水量は3.5億m3)(井上2006)。
 この天然ダムは湛水量が極めて大きいため、すぐには満水になりませんでした。古千曲湖Tは徐々に湛水し始め、ついに303日後の梅雨期(新暦の6月20日)に満水となり、決壊して二次岩屑なだれが発生しました。天然ダムに満杯となった湛水は段波となって、千曲川を100km以上の下流まで流下し、「仁和の洪水砂」を氾濫・堆積させました。303日(2610万秒)で天然ダムが満水になったとしますと、上流からの平均流入量は22.2m3/s(河道閉塞地点より上流の流域面積353km2)となります。恐らく、天然ダムの決壊は1回ではなく、数回(1年以内)に分かれて発生したのでしょう。
 千曲川を閉塞していた岩屑なだれ堆積物は、二次岩屑なだれとなって、河道閉塞地点から下流の小海(こうみ)町八那池(やないけ)から馬流(まながし)付近の河谷を埋積し、比高20〜50mの河成段丘を形成しました。現地調査によれば、この段丘面の上や千曲川の河床には、八ヶ岳起源の巨礫が多く残っており、異様な風景です。この堆積物は小海町馬流付近で相木川を閉塞し、湛水高さ30m、湛水量660万m3の古相木湖を形成したと考えられます。
 大量の土砂を含む洪水段波は、千曲川の中・下流域を襲い、平安時代の多くの人家や田畑を埋没させました。川崎(2010)によれば、千曲川沿いの平安時代前半の遺跡では、田畑を覆って広範囲に厚く堆積する砂層が認められます。写真3は、屋代(やしろ)遺跡群地之目(ちのめ)遺跡(山頂から92km地点、2009年4月18日の現地説明会)で、皿と壺などが発掘されました。大量の土砂を含む洪水段波が千曲川の中・下流域を襲い、平安時代の多くの人家や田畑を埋没させたと判断されます。


4.決壊後の二次岩屑なだれによる天然ダムの形成およびその後の決壊と消滅
 天然ダムの決壊後も、湛水高さ50m程度(湛水量4100万m3)の古千曲湖Uが残りました。南佐久郡誌(2002)によれば、「仁和四年から133年後の寛弘八年八月三日(1011年8月23日)に,海尻と海ノ口の間にあった古千曲湖Uが松原湖下の深山で決壊し、その湖底が干潟となって、谷底の平地部が形成された」と伝えられています(菊池1984)。海尻(うみじり)・海ノ口(うみのくち)・深山(みやま)・馬流(まながし)・広瀬(ひろせ)などの地名は、当初の高さ130mの古千曲湖Tではなく(303日間で決壊している)、高さ50m程度の古千曲湖U(123年もの期間残っていた)に関連した地名だと思います。
 写真4に示したように、JR小海線佐久海ノ口駅近くの国道141号の踏切付近には、「湊神社」が存在します。古千曲湖Uが存在していた133年間に海ノ口と海尻間を舟で渡っていた頃、水路の安全祈願の場として、湊神社が存在したのでしょう。

 303日後の古千曲湖Tの決壊によって、二次岩屑なだれが千曲川を流下し、相木川を塞き止めて、二次的な古相木湖を形成しました。小海(こうみ)の地名は、相木川に形成された高さ30mの古相木湖が長期間形成されたため、名付けられた地名です。
 千曲川上流の南佐久郡地域には、戦国時代に描かれた8枚以上の絵図が存在します(山崎1993、小海町誌川東編1963)。『武藤A絵図』(佐久市平賀、武藤守善氏蔵)や『楜沢(くるみさわ)絵図』(佐久市上平尾、楜沢竜吉氏蔵)には、小海付近の相木川に湖が描かれており、600年以上も古相木湖が残っていたことになります。歴史地震研究会での口頭発表(井上2009b)の際に、新潟大学人文学部の矢田俊文先生から、「地名を小判型に○で囲むのは近世以降の絵図の表現方法である」との指摘を受けました。
 上記の指摘から判断すると、古相木湖は江戸時代前半まで、700年以上も長い間存在したと考えられます。


5.稲子岳の移動岩塊
 3.項でも説明しましたように、大月川上流部の馬蹄形凹地形は河内(1963)が想定した大月川岩屑なだれよりも規模がはるかに大きいと考えられます。このことは大月川岩屑なだれのような大規模土砂移動が繰り返し発生したことを示唆しており、千曲川沿いには成因の不明な高位段丘が存在します。
 写真1,2に示したように、馬蹄形凹地に稲子岳が長軸1000m、短軸700m、高さ200m、推定体積1.4億m3程度)の巨大な移動岩体として残っています。この移動岩体は887年の山体崩壊時に形成されたものでしょうか。それとも、以前から現在よりも大きな移動岩体が存在し、887年にはその一部を含めて大規模に山体崩壊を起こしたと想定されます。
 この移動岩体には風穴があるなど、基盤からはほぼ完全に分離していることが指摘されています(飯島・篠田1998、清水2009)。現在も残る稲子岳を載せた移動岩体は、今後の地震や豪雨、後火山活動によって、大きく崩落し、新たな岩屑なだれが発生して、千曲川を河道閉塞し、天然ダムを形成する可能性が考えられます。このような観点から、稲子岳の移動岩体の変動状況をGPSなどによる移動量観測によって把握すべきでしょう。
 気象庁(2003)は、活火山の定義見直しを行った際に、八ヶ岳最北部に位置する横岳を奥野ほか(1984)などをもとに、1万年前以降に噴火があるとして、活火山に認定しました。しかし、完新世における火山活動の詳細は明らかになっていません。大石ほか(2011)は、ニュウ北方〜麦草峠の他数地点で白色のシルトサイズの白色火山灰が数cm存在し、稲子岳溶岩に特徴的な酸化角閃石が含まれることを明らかにしました。この白色火山灰は、その岩石学的特徴と分布から、大月川岩屑なだれの推定崩壊域である稲子岳の二重山稜付近を給源としている可能性が高く、このような堆積物を生産した噴火が完新世にどの程度の規模で発生したのか、また、これらの噴火が八ヶ岳の山体崩壊に関与しているのか、さらに調査を進める必要があります。

参考文献
・飯島慈裕・篠田雅人(1998):八ヶ岳連峰稲子岳の凹地内における暖候期の冷気形成,地理学評論,71巻A-8号,p.559-572.
・石橋克彦(2000):887年仁和地震が東海・南海地震であったことの確からしさ,地球惑星科学関連学会予稿集,S1-017.
・井上公夫(2009) :八ヶ岳大月川岩屑なだれ(887)によって形成され,302日後に決壊した天然ダム,第26回歴史地震研究会発表会要旨集,p.41-42.歴史地震,25号, p.134-135.
・井上公夫・川崎保・町田尚久(2010):八ヶ岳大月川岩屑なだれ,−887年の大規模山体崩壊と天然ダム決壊の痕跡を探る−,地理,55巻5号,口絵,p.1-4,本文,p.106-116.
・井上公夫・服部聡子・町田尚久(2011):2.1 八ヶ岳大月川岩屑なだれによる天然ダムの形成と決壊,水山高久監修,森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著:日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.35-50.
・大石雅之・町田尚久・竹田朋矢(2011):八ヶ岳火山における歴史時代の小規模噴火堆積物の記載とその意義,日本地球惑星科学連合2011年度連合大会,SVC048-P03
・奥野充・中村俊夫・守屋以智雄(1994):北八ヶ岳火山,横岳溶岩ドームの完新世噴火活動,日本地質学会101年学術大会講演要旨,p.221
・川崎保(2000):「仁和の洪水砂層」と大月川岩屑なだれ、長野県埋蔵文化財センター紀要,8号,p.39-49.
・川崎保(2010):仁和三年(887)の八ヶ岳崩壊と仁和四年(888)の千曲川大洪水,佐久,60号,p.2-12.
・河内晋平(1983):八ヶ岳大月岩屑流,地質学雑誌,89巻3号,p.173-182.
・気象庁(1991作成,1996発行):日本活火山総覧,第2版,p.191-211.
・小海町誌編纂委員会 (1963): 小海町誌1,川東編,358p.
・清水長正(2009):日本の風穴,―その利用と先駆的研究をめぐって,地理,54巻7号,徳集夏を涼しく−天然氷と風穴,口絵p.1-4,本文p.32-39,2009年全国風穴一覧表,p.76-81
・南牧村史編纂委員会(1986):南牧村史,1429p.
・町田尚久・田村俊和(2010):八ヶ岳東麓部大月川付近の地形分類と大月川岩屑なだれ堆積地形の特徴,日本地形学連合2010年秋季大会,P15
・光谷拓実(2001):自然災害と年輪年代法,特集年輪年代と文化財,日本の美術,至文堂,421号,p.86-97.
・南相木村誌歴史編刊行会(2015):南相木村誌 歴史編 一原始・古代・中世,320p.
・山崎哲人(1993) :絵図が明かす平賀玄信の佐久支配,郷土出版社,334p.

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