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シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く |
コラム4:
寛文二年(1662)の近江・若狭地震と町居崩れ |
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1.寛文二年(1662)の近江・若狭地震による大災害
宇佐美(1996)、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2005)によれば、寛文二年五月一日午之上刻(1662年6月16日11時頃)、京都、大阪、滋賀、福井地域を中心として、近江・若狭地震(琵琶湖西岸地震,M71/2〜3/4)が発生しました(図1,井上・今村,2002,今村ほか,2002,井上,2006)。琵琶湖西岸では田畑が湖中に「ゆりこむ」とあり、検地史料などをもとにした分析から水没現象があったようです(萩原ほか,1982)。安曇(あど)川上流の朽木谷(くちきだに)では、町居崩れと呼ばれる大規模崩壊が発生し、その崩壊土砂によって、安曇川の河道が閉塞されて、天然ダムが形成され、約560人が犠牲になりました。若狭(福井県)の三方五湖では、隆起により排水路を失った湖の水位が上昇し、諸村が水没するという被害がでました。このため、排水路を構築するという突貫工事が実施されました(小松原,1999,堤ほか,2005)。
2.花折断層沿いの河谷地形
琵琶湖西方の比良山地(大津市内)を北流する安曇川沿いには、坂戸・木戸口・中村・坊村・町居・梅ノ木・貫井・細川などの集落が分布し、朽木谷あるいは葛川(かつらがわ)地区と呼ばれています。坊村にある天台宗の寺院「明王院」は貞観元年(859)に創建と言われ、比叡山の高僧が修行場所を求めてこの地に入り、不動明王を刻んで本尊としました(山田,1992)。図2は明治26年(1893)測図の1/2万の旧版地形図「細川」,「葛川村」で、町居崩れと天然ダムの湛水範囲を示しています。安曇川は花折断層の影響を受けてほぼ直線型の深いV字谷を形成し、武奈ヶ嶽(1214m)を主峰に南北に連なる急峻な尾根線が続きます。地質は丹波帯の古生層の砂岩・頁岩から形成されています。断層活動に支配された地形・地質素因に地震や降雨等の誘因が加わり、土砂災害の多い地域です。京都と若狭を結ぶ道は花折街道・朽木街道・若狭街道・鯖街道(若狭湾で獲れたサバがこの街道を通って京都へ運ばれた)と呼ばれる古い歴史を持つ街道です。車の通行が可能となったのは昭和初期で、国道367号の花折トンネルは昭和50年(1975)に開通しましたが、この国道には斜面崩壊による復旧工事の記録が多く残されています。
3.町居崩れによる天然ダムの形成と決壊
図2に示したように、近江・若狭地震による最も大きな土砂災害は、朽木谷町居村・榎村(現在は大津市梅ノ木)対岸の斜面です。『明王院文書』によれば、「五月一日に大地震があり、イオウハゲと呼ばれる斜面が大規模崩壊(深層崩壊)を起こし、崩壊土砂は土石流となって流下しました。坊村の田畑は壊滅、明王院(図3,4では堂と記載)前の石舞台・大橋・寺周囲の石垣も崩れました。榎村東の大峰が十三町程(1300m)上より二つに破れて、榎・町居の両村を埋没させました。崩壊地(イオウハゲ)では、両所より割れ出で、谷へ崩れ落ちて、谷を埋め高山をなし、その高さ二町(200m)、長さ八町(800m)、家数50軒、300人のうち生存していたのは37人のみでした。土砂に埋まり、遺体も見えない状態で、家々もすべて埋没した」と記されています。崩壊土砂は安曇川を河道閉塞し、天然ダムの湛水は明王院(堂)の前の石段まで達しました。
坊村の人家は湛水によって次第に浮流し、五月十五日辰下刻(6月30日9時頃)に満水となって、天然ダムは決壊して洪水が下流に流下し、次第に天然ダムの水位は低下しました。図3 葛川(かつらがわ)谷絵図(坊村町自治会蔵,大津市歴史博物館,2000),図4は部分拡大図で、明王院(堂)や河道閉塞を起こした崩壊地(イオウハゲ)が描かれ、町居〜明王院の間には湛水が残っていることが分ります。明王院(堂)での聞き込み調査によれば、現存する石段の下から3段目まで水没したと伝えられています。
明王院(堂)では、破損個所などを修繕の上、六月の法会を無事行ったと記されています。
図4の部分拡大図によれば、崩壊地の上に「壬寅(みずのえとら)歳地震崩」と書かれており,寛文二年(1662)は壬寅で、この年の地震で崩れたことを示しています。
写真2は、町居崩れ(イオウハゲ)を対岸から撮影したものです。残念ながら、町居崩れ頭部の滑落崖は見えませんが、崩壊地から土石流となって流下・堆積した土砂が見えます。崩壊土砂は安曇川を閉塞して天然ダムを形成しました。対岸(当時、町居の集落があった)には、現在も安曇川の現河床(285m)より100mもの比高を有する「かまぼこ状」の堆積地形となっています。
写真3に示したように現在はこの堆積土砂は採石場となっています。切土面を観察すると、大量の巨礫を含む砂礫層からなっています。この堆積地形と対岸の背後斜面とが接する部分には、浅い溝状地形が確認されることから、町居崩れの崩壊土砂は、地震の直撃によって急斜面を一気に流下し、対岸斜面まで乗り上げたと考えられます。
現在は堆積地形に面した安曇川は河川改修工事が施工中でした。右岸側には国道357号が通っていますが、町居崩れからの土砂流出は続いており,国道に並行する林道は土砂が流出し,通行できませんでした。
図5は、上記の文書や絵図、旧版地形図や現地調査結果をもとに、縦・横断面図を作成したものです。明王院(堂)の本堂は水没せず、本堂の石段の3段目まで湛水したという記録などから、最高の湛水位は標高312m程度であったと判断しました。天然ダムは15日ほどで満水に至り、右岸側から決壊したと考えられます。大津市都市計画図(縮尺1/2500)をもとに、当時の天然ダムの規模を推定しました。縦・横断面図から、地震前の安曇川の河床は現在よりも10m低いと判断しました。
以上の考察結果と地形図から、崩壊の規模は崩壊長(L)700m、最大幅(D)650m、平均傾斜30度、崩壊土砂量(V1)2400万m
3、湛水高(H)37m、湛水面積(S)48万m
3、湛水量(V2)590万m
3(V
2=1/3×H×S)と計測しました。15日間(130万秒)で満水になったことから、天然ダムへの平均流入量は4.5m
3/s程度であったと考えられます。
現在の町居集落の北側には「観音寺」という寺院があります。写真4は、埋没した死者を供養するために、延宝六年(1676)に当時の生存者により建立された石宝塔が戦後土中から発見され、寺の境内に再建されています。地震前の町居集落は、観音寺も含めてほとんど河道閉塞した土砂で埋没してしまい、現在の観音寺は元の集落のすぐ南に復興されたものです。
引用・参考文献
・井上公夫(2006):建設技術者のための土砂災害の地形判読実例問題 中・上級編,古今書院,143p.
・井上公夫・今村隆正・西山昭仁(2002):琵琶湖西岸地震(1662)と町居崩れによる天然ダムの形成と決壊,平成14年度砂防学会研究会発表概要集,p.324-325.
・今村隆正・井上公夫・西山昭仁(2002):琵琶湖西岸地震(1662)と町居崩れによる天然ダムの形成と決壊,歴史地震,18号,p.53-58.
・宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧,増補改訂版,416-1995,東京大学出版会,434p.
・大津市(1980):新修大津市史,第3巻,近世前期,p.374-375.
・大津市(1984):新修大津市史,第7巻,北部地域,p.16-46.
・大津市歴史博物館(2000):古絵図が語る大津の歴史,企画展図録,64p.
・北原糸子・小松原琢(2001):葛川谷における寛文地震の土砂崩れと坊村・榎村の被害,琵琶湖博物館5周年記念企画展解説書「鯰−魚がむすぶ琵琶湖ととんぼ」,p.65-66.
・小松原琢(2006):寛文二年(1662)近江・若狭地震の地震像と被害地区の歴史地理的考察,京都歴史災害研究,5号,p.81-100.
・小松原琢・水野清秀・金田平太郎・須藤宗孝・山根博(1999):史料による1662年寛文地震時の三方五湖周辺における地震変動の復元,歴史地震,15号,p.81-100.
・千木良雅弘(2000):比良山地の大規模崩壊前兆現象,京都大学防災研究所地盤災害研究部門山地災害環境分野共同研究,10p-1,大規模崩壊の地質・地形特性の研究,p.11-20.
・中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2005):1662 寛文近江・若狭地震報告書,170p.
・堤浩之・小松原琢・吉岡敏和(2005):花折断層・琵琶湖西岸断層帯と1662年寛文地震,日本地質学会第112年学術大会(2005年京都)見学旅行案内書L班,p.132-152.
・西山昭仁(2006):寛文二年(1662)近江・若狭地震における京都での被害と震災対応,京都歴史災害研究,5号,p.39-54.
・西山昭仁・小松原琢(2006):寛文二年(1662)近江・若狭地震における京都盆地での被害状況,歴史地震,21号,p.165-171.
・萩原尊禮・藤田和夫(1982):古地震―歴史資料と活断層からさぐる―,東京大学出版会,p.203-219.
・水野章二・小松原琢・西山昭仁(2005):葛川谷での被害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2005):1662 寛文近江・若狭地震報告書,p.27-50.
・山田芳夫(1992):葛川,31p.
・吉岡敏和・長秋雄・木村克己・中江訓(2000):1/2.5万花折断層ストリップマップ及び説明書,地質調査所,35p.