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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム6: 1707年富士山宝永噴火〜長期間に及んだ土砂災害〜
 

1.はじめに
 富士山では、平成12〜13年(2000〜2001)に、富士山直下で低周波地震の多発が観測されました。このため、平成13年7月に国及び関係県・市町村により、「富士山火山防災協議会」が設置され、その下に「富士山ハザードマップ検討委員会」(委員長・荒牧重雄東京大学名誉教授)が組織され、平成16年6月に委員会報告書(2004)が作成されました。
 宝永四年(1707)の富士山宝永噴火では、大量の降下火砕物・焼砂(宝永スコリア)が富士山の東麓斜面に厚く堆積し、冬の強い季節風に乗って、遠く江戸まで降下・堆積しました。多摩地域は富士山から60〜100km離れていますが、南部ほど厚く堆積しました。筆者らは検討委員会の下で降下火砕物と噴火後の土砂災害の実態を調査するため、郷土史料の収集を行い、各地域での土砂流入と氾濫・災害状況を整理しましたので、その概要を紹介します。

2.富士山宝永噴火後の土砂災害の概要
 宝永地震から49日後の宝永四年十一月二十三日(グレゴリオ暦,1707年12月16日)に、富士山は大規模な宝永噴火を開始しました。その後16日間も噴火が続き、大量の宝永テフラ・降下火砕物(当時の文書では砂降り・焼砂・富士砂・黒砂と呼ばれました)が降り続きました。図1は、宝永噴火による火砕物の等層厚線(下鶴,1981)と宝永噴火後の主な土砂災害地点を示しています(井上,2007)。

図1 富士山宝永噴火による火砕物の等層厚線(下鶴,1981)と噴火後の主な土砂災害地点(南ほか,2002,井上,2007)

 降下火砕物・焼砂は富士山に近いほど厚く堆積し、粒径が大きく高温であったため、大雨や風が吹いても移動しにくくなっています。富士山から離れるにつれて、次第に薄くなり、粒径も小さくなります。丹沢山地以東では、300年以上経過した現在、宝永の火山砂礫(焼砂)はほとんど残っていません(考古の発掘調査では多くの地域で見つかっています,英,2012,湯瀬,2015)。
 噴火直後より、焼砂が厚く堆積した地域では、
 1高温の降下火砕物による家屋の焼失
 2降下火砕物の重さによる家屋の倒壊・埋没
 3田畑・草地への降下・堆積による作物・飼料・燃料の不作と森林の荒廃
 4焼砂の二次移動による渓流・河川への土砂流入と河床上昇による土砂・洪水氾濫
などの災害が地域住民を襲いました。


3.富士山東麓から酒匂川上・中流域での被害

写真1 静岡県小山町の伊奈神社と伊奈半左衛門忠順像(2008年井上撮影)

 宝永噴火によって、富士山の東側山麓(地点1〜5)では3〜1mもスコリア質の焼砂・焼石が降り積もり、人家の焼失・倒潰、草木の枯死が起こり、耕作はまったく不能となりました。富士山東麓の地域は厚い火砕物の堆積層を耕作地から取り除くことができないため、小田原藩では激甚な被災地を亡所(ぼうしょ)とし、江戸幕府に返地しました。
 図2は酒匂川中流・山北地区(地点6〜9)の旧版地形図(1/2万正式図、1887年測図)で、東海道線(現御殿場線)が山北駅まで開通した直後の状況を示しています。この旧版地形図には、江戸時代とほとんど同じ地名が記載されているので、災害関連の史料を読んで得た地名と地形状況が確認できます。この付近は焼砂が2尺(60cm)以上も堆積したため、降雨のたびに斜面に堆積した焼け砂が斜面下方に移動して、酒匂川の河床が上昇し、土砂氾濫が発生しました。特に、半年後の宝永五年六月二十二日(1708.8.8)に酒匂川は大氾濫し、足柄平野は非常に大きな被害を受けました。このような氾濫は百年以上もの間、繰り返し発生し、この地域の復興には長い期間を要しました。この辺の状況については、新田次郎(1974)『怒る富士』に詳しく描かれています。主人公の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)は、関東郡代として多摩地域を含む関東の40万石を支配し、架橋工事、治水工事などの土木事業を主に行っていました。小田原藩から江戸幕府に被災地が返地されたため、幕府は砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行を忠順に命じました。忠順は被災地に長期間滞在し、被災民ともに復旧事業に活躍した実在の武士です。

図2 山北町付近の酒匂川と皆瀬川の河谷地形と主な地名(井上,2007)

 酒匂川は元々暴れ川として知られていました。このため、小田原藩は酒匂川の洪水の流速を弱めるために、春日森堤・岩流瀬堤(がらぜてい)・大口堤などを構築し、足柄平野を洪水・氾濫から守ろうとしてきました。しかし、宝永噴火後に谷壁斜面や支渓流からの土砂流出によって、酒匂川の河床が次第に上昇しました。半年後の台風襲来による豪雨によって、大口堤は決壊して足柄平野を大洪水が襲い、上流から流出してきた焼砂が厚く堆積し、激甚な被害となりました。
 図2に示したように、山北集落の載る幅広い河谷地形は、元の酒匂川の河谷地形ですが、2900年前の富士山の山体崩壊に伴い、御殿場岩屑なだれが流下し、酒匂川の河谷を埋積しました。その後、酒匂川は次第に下刻して、現在の流路になりました。現在の酒匂川の広い河谷は、このような地形変化の名残りの地形です。宝永噴火以前には、皆瀬川が山北の集落付近を流下し、山北の東側で酒匂川に合流していました。半年後の豪雨によって、大量の焼砂が皆瀬川上流から流出し、山北の集落は洪水土砂が堆積し、一面湖のようになりました。
 山北町史(2003)によれば、近世の山北町の状況が村・小字単位で詳細に記載され、被災状況とその後の復旧・復興過程が良く分ります。宝永噴火以前の皆瀬川は山北の集落の真中を流れていました。この地域は宝永の焼砂が2尺も堆積し、長期間にわたって甚大な被害を受けましたが、被災住民の懸命な復興への努力を読み取ることができます。天保十年(1839)の『新編相模国風土記稿』には、相模国の神社・仏閣等の地理情報が詳しく記載されています。
 貞享三年(1686)の『皆瀬川村差出帳』によれば、皆瀬川村は人口540人、石高117石の山村でした。皆瀬川村では、元禄地震でほとんどすべての家は全半壊しました(死者の記載はありません)。中でも家屋敷共無7軒という記録があり、地すべりや崩壊・土石流によって、家屋の敷地ごと流失してしまったと考えられます。宝永地震による皆瀬川村の被害記録は記載されていません(山北町,2009)。海溝型の巨大地震ですが、皆瀬川村は震源から離れており、被害は少なかったのでしょう。
 噴火から14日後の十二月六日(12月29日)には、皆瀬川村から『砂降り被害の書上げ』が小田原藩に提出されました(被災戸数は12戸)。噴火終了後の十二月十一日(1708年1月3日)には『炭運送路変更願い』が提出され、「山北西の川村関所(東海道の裏街道の関所)を通らずに、川村山北から小田原の城下町へ直接搬出させて欲しい」と嘆願しました。
 皆瀬川村の名主・市右衛門は、噴火から3ヶ月後の宝永五年二月十五日に『皆瀬川村差出帳下書』を提出しました。4年前よりも22軒増えて、民戸80軒、91人増で631人となっています。「年々川成永引」(次第に耕作地が沢状となり耕作できない)となった耕地は16.6石で全体の15%にも達しました。
 1年半後の宝永六年(1709)七月十一日の記録では,飢人が390人(全人口の60%)となり、扶持米39石(1人に付き米1合を10日間に過ぎない)が渡されました。
 宝永五年(1708年8月8日)の台風襲来によって、酒匂川流域では降砂が大量に流出し、大氾濫しました。山北地区では、皆瀬川や滝沢川から大量の土砂が流出し、山北の集落は土砂氾濫によって、土砂埋積・水没が起こり、生活ができなくなりました。
 このため、名主からの嘆願書をもとに、江戸幕府は伊勢国津藩(藤堂藩)に手伝い普請を命じ、皆瀬川の掘割(瀬替)工事が行われました。この工事によって、皆瀬川は山北集落の手前で、直接酒匂川に流入できるようになりました。しかし、瀬替工事によって、皆瀬川からの取水ができなくなり、山北集落は水不足となりました。このため、25年後に名主を中心として、酒匂川上流2kmの瀬戸に用水堰「瀬戸堤」を造り、酒匂川の左岸に水路(今も一部は残っている)を建設しました。これらの工事を記念して、川村土功碑が明治26年(1893)に建立されました(位置は川村関所のあった皆瀬川の瀬替地点)。また、東名高速道路の下には、「天頂地久(てんちょうちきゅう)碑」が建立されました。

4.天地返しによる復興
 図2に示したように、山北の集落と南側を流れる酒匂川の間にある丘陵地には、戦国期の河村城跡があり、山北町教育委員会によって発掘調査が行われました(安藤,2003,2004)。その後、河村城は廃止され、宝永の頃には畑となっていました。しかし、宝永噴火によって、畑の上に2尺以上の焼砂が堆積し、耕作不能となりました。写真2、図3に示したように、耕作土・黒土の上に、数cmの白い軽石層(最初の噴火で堆積)があり、その上に黒いスコリア質の焼砂が堆積しました。
 驚いたことに、当時の住民たちは、叡智を注いで「天地返し」を実施し、焼砂で埋まった畑を再び耕作可能な土地としたのです。これまで、史料などで天地返しという言葉は目にしていましたが、実際の掘削断面を見たのは初めてでした。機械力のない江戸時代に人力だけで1m以上も掘削し、下に埋もれた耕作土と降り積もった焼砂を天地返しして、畑を復元するという発想はすごいと思います。

写真2 河村城跡(神奈川県山北町)における発掘状況(2003年7月,井上撮影)

図3 「天地返し」の模式図(山北町教育委員会,土砂崩埋蔵作)

5.酒匂川下流の足柄平野における土砂災害
 図2の右上図に示したように、酒匂川の治水に関して、小田原藩は酒匂川の春日森堤、岩流瀬堤(がらぜてい)、大口堤を構築しました。岩流瀬堤は足柄平野の出口の谷地形を利用して、狭窄部に突出させた堤として建設されました。これは洪水の際の流路を南に誘導して、岩盤の露出部(千貫岩)にぶつけ、大口堤が破壊されることを防ぐためでした。大口堤は酒匂川を東に誘導し、足柄平野を耕作地とするため構築されました。
 噴火終了後から、降下火砕物が谷壁や支渓流から流出するようになり、酒匂川の河床は次第に上昇して行きました。宝永五年六月二十二日(1708.8.8)の台風襲来によって、岩流瀬堤、大口堤が決壊し、酒匂川下流の足柄平野では、大規模な土砂洪水氾濫が発生しました。図4に4時期の氾濫範囲を示しました。噴火後100年近くにわたって、土砂洪水氾濫が繰り返し発生しました(井上,2007,14,15)。
 
第1期(1708〜1711)
 この時には足柄平野の酒匂川右岸(西側)地域を洪水流は流下し、大氾濫して、大口堤が築かれる前の流路を流れ下りました。大口堤はすぐに修復されませんでしたが、岩流瀬堤の修復は享保十一年(1726)まで実施されませんでした。  

図4 足柄平野における宝永噴火後の洪水氾濫範囲(南ほか,2002,井上,2007)

第2期(1711〜1731)
 正徳元年(1711)には、岩流瀬堤は完成しておらず、大口堤は激流の直撃を受けて再び決壊し、大被害をもたらしました。大口堤による流路の固定がなくなった酒匂川は、出水の毎に流路を変えて流下しました。足柄平野の扇頂部には、岡野村・班目(まだらめ)村・千津島村・壗下(まました)村・竹松村・和田河原村があり、「大口水下水損(おおぐちすいかすいそん)六ヶ村」と呼ばれました。水損六ヶ村の住民は足柄平野に隣接する微高地に避難し、幕府に大口堤修復の嘆願書を提出しました。
 多摩郡平沢村(あきる野市平沢)生まれで、川崎宿の問屋役人であった田中丘隅(きゅうぐ,1662〜1730)は、紀州流・井沢弥惣兵衛(やそべい)のもとで、荒川などの普請を行っていました。江戸町奉行大岡越前忠相(ただすけ)は、酒匂川の治水事業を幕府の手(公儀負担)で実施することを決め、丘隅にその指揮を任せました。丘隅は享保十一年(1726)二月に酒匂川の普請に着手し、六月までに、大口堤(文命東堤)と岩流瀬堤(文命西堤)を完成させました。写真3に示すように、強固になった堤防は中国の皇帝の名前を借りて文命堤と呼ばれるようになりました。

写真3 文命堤,2008年井上撮影

 この事業によって、15年ぶりに酒匂川を本流に戻すことができましたが、丘隅の普請は基本的に幕府領(小田原藩預かり地)のみで、川東の小田原藩領分の普請は実施されませんでした。このため、翌七月の大雨で堤防が決壊してしまいました。その後、東岸堤防も丘隅の担当となり、翌享保十二年閏(1727)正月から着手し、八月には大岡忠相が酒匂川の普請現場を視察しました。
 丘隅は享保十四年(1729)七月に支配勘定役(実質上の代官)に昇進したため、娘婿の巳野庄次郎(1687〜1711、後に蓑笠之助(みのかさのすけ)正高と改名)は、在方普請役格として、酒匂川西側堤防の普請を行いました。

第3期(1731〜1802)
 しかし、享保十六年(1731)五月には、支流・川音川との合流点左岸の堤防(三角土手)が決壊し、洪水流は足柄平野の東側を流れるようになりました。
 このため、小田原藩は江戸町奉行大岡忠相に救済を直訴し、享保十七年(1732)三月から川除け普請が開始されました。しかし、以前の堤防よりも小さかったため、六月五日(1732年7月26日)の大雨で決壊しました。岩流瀬堤、大口堤は次第に堅固に再構築されましたが、逆に左岸側流域の村々が洪水・土砂氾濫の被害を受けるようになりました。

第4期(1802〜)
 享和二年(1802)の出水では、岩流瀬堤は決壊しましたが、大口堤は決壊しませんでした。しかし、下流域の数ヶ所で決壊したため、古代(平安時代)の流路と想定される付近を流下して氾濫しました。


6.酒匂川以東での土砂災害
 丹沢山地の多くは、天領や大山・阿夫利(あぶり)神社が社有している美林でした。しかし、この地域では斜面から多量の焼砂が崩落して斜面下方へ移動し、豪雨時に土石流や泥流となって流下し、各地で河道閉塞と河床上昇を引き起こしました。
 この地域では、大正12年(1923)9月1日の関東地震(M7.9)による激震を受け無数の崩壊が発生しました(井上,2013)。また、2週間後の台風襲来により、大規模な土石流が発生し、阿夫利神社門前町の大半が流失した。神社の社務所も全壊したため、それ以前の貴重な神社史料も流失してしまったといいます。
 図1に示したように、神奈川県中央部で15〜60cmも焼砂が降り積もった地区では、豪雨のたびに堆積した土砂が流出し、多くの被害が発生しました。
地点10 秦野市 菖蒲川(四十八瀬川流域)「菖蒲川工事につき三廻部(みくるべ)村他四ヶ村普請願」(宝永七年三月) 降灰量39〜42cm
地点12 二宮町 塩海川(葛川)流域 中里村「恐れながら書付をもって願い上げ奉り候御事」(宝永四年十二月)同40cm
地点14 秦野市 大根川・善波川流域 曽屋村「横野区有文書」 同42〜45cm
地点15 平塚市 鈴川流域 西富岡村「西富岡村等富士山噴火砂降検分書上帳」(宝永五年閏正月)同36cm
地点16 平塚市 金目川流域 北金目村「砂降り後北金目村柄書上覚」(宝永五年閏正月)同21〜24cm
地点17 東京都町田市 野津田村 薬師池
 野津田村は、鶴見川の上流部に位置し、福王寺溜井(現在の薬師池)が村内の水田7町歩の用水源となっていました、噴火後の降灰により、多量の焼砂が河川に流れ込み、河床上昇を引き起こしました。さらにそれらの土砂が薬師池にも流れ込み、溜池の貯水量は減少しました。このため、宝永五年(1708)七月、野津田村と大塚村(藤沢市)の名主が連名で領主の旗本多賀主税に、溜池の浚い人足に扶持米を支給して欲しいと訴えでました。しかし、この訴えは却下されたため、江戸まで出向き嘆願し続け、同年十二月に堰の普請に関する嘆願書を御留守居久貝正方に提出しました。その結果、宝永六年二月に福王寺溜井の浚い普請が上記2村と周辺3ヶ村からの人足によって実施されました。
 写真4に示した町田市の薬師池公園に行かれた方も多いと思います。池のほとりには、天平年間(729〜749)に行基の開基と伝えられている野津田薬師があります。福王寺溜井は宝永噴火による埋積土砂を3年もの期間をかけて浚い普請が行われました。薬師池の東側には鎌倉街道が通っています。文化十四年(1817)に発生した「びゃく」(崖崩れ)(井上,2014b,c)によって、鎌倉街道は不通となり、崩壊土砂が池に流入しました(藤棚のある岬部分)。
地点22 藤沢市 江ノ島の下之坊知行所の村々 焼砂のために沿岸の海底が浅くなり、エビ・アワビ・サザエ・海苔・海草等の磯漁に被害がでました。

写真4 町田市の薬師池公園と公園の説明看板(2013年3月井上撮影)


7.むすび
 富士山宝永噴火後の土砂災害と復旧・復興過程について説明しました。
 富士山の噴火が再び発生した場合、個々の被害だけでなく、現在では交通網や通信・送電線網などによって、密接な高度社会が形成されています。新幹線や高速道路などが交通止めとなれば、社会的影響は甚大なものとなるでしょう。
 富士山宝永噴火による土砂災害事例は、まだ多くあると思われますので、史料を掘り起こして、現地調査を行いたいと思います。史料などをご存知の方は教えて下さい。

引用・参考文献
・安藤文一(2003):河村城跡発掘調査速報,―南北朝から戦国時代の川村城跡を探る−,山北町地方史研究会文化講演会,p.1-10.
・安藤文一(2004):河村城跡史跡整備に伴う平成十五年度試掘略報,あしがらの文化,31号,p.48-67.
・井上公夫(2007):富士山宝永噴火(1707)後の長期間に及んだ土砂災害,富士火山,荒牧重雄・藤井敏嗣・中田節也・宮地直道編集,日本火山学会,p.427〜439.
・井上公夫(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p. 本文,226p.
・井上公夫(2014a):富士山宝永噴火後の土砂災害,地理,59巻5号,口絵,p.2-3,本文,p.42-50.
・井上公夫(2014b):伊豆大島・元町の土砂災害史,地理,59巻2号,口絵p.8. 本文p.10-19.
・井上公夫(2014c):伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,砂防と治水,219号,p.85-90.
・井上公夫(2015):富士山宝永噴火と南関東の被害,―長期間に及んだ土砂災害―,多摩のあゆみ,158号,p.4-17.
・宇佐美龍夫(2003):新編日本地震総覧,416-2001,東京大学出版会,605p.
・小山真人(2009):富士山噴火とハザードマップ,―宝永噴火の16日間―,175p.
・小山真人・西山昭仁・井上公夫・今村隆正・花岡正明(2001):富士山宝永噴火の推移を記録する良質史料『伊東志摩守日記』,歴史地震,17号,p.80-88.
・国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所(2003):富士山宝永噴火と土砂災害,口絵,37p.,本文,143p.
・下鶴大輔(1981):富士山の活動史,Disaster Mapと災害評価,噴火災害の特質とHazard Mapの作成およびそれによる噴火災害の予測の研究,文部省科研費自然災害特別研究成果報告書,No.A-56-1,p.88〜97.
・新田次郎(1974):怒る富士,文芸春秋,文春文庫(1980)
・英太郎(2012):宝永の富士山噴火と府中に降った火山灰,武蔵野,87巻1号,武蔵野文化協会,p.44-48.
・平塚市博物館(2015):天変地異―平塚周辺の自然災害,平成26年度春期特別展図録
・富士山ハザードマップ検討委員会(2004):富士山ハザードマップ検討委員会報告書,240p.
・南哲行・花岡正明・中村一郎・安養寺信夫・井上公夫・角谷ひとみ(2002):富士山宝永噴火(1707)後の土砂災害-1,2,平成14年度砂防学会研究発表会概要集,p.20-21,p.252-253.
・山北町(2003):山北町史,史料編,近世,1421p.
・湯瀬禎彦(2015):府中宿に降った宝永火山灰のその後,―府中市域の発掘調査事例から―,多摩のあゆみ,158号,p.32-41.

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