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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム7: 1792年の島原大変肥後迷惑
 

1.雲仙普賢岳と眉山
 図1に示しましたように、雲仙普賢岳は223年前に寛政噴火(1791-92)を起こし、噴火の最末期の寛政四年四月朔日(1792年5月21日)夜、四月朔地震(M6.4)によって、島原城下町の西側にそびえる眉山が大規模な山体崩壊を起こしました(片山,1974,井上,1999)。崩壊した岩石や土砂は流れ山を形成して、島原城下町南部と付近の農村を埋め尽くしただけでなく、有明海に流入して大津波を発生させました。このため、多くの住民が崩壊土砂によって生き埋めとなり、島原半島の沿岸や有明海対岸の熊本や天草の沿岸では死者・行方不明者1万5000人にも達したため、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれています。
 島原大変については非常に大規模な災害であったため、島原地方だけでなく日本各地に多くの絵図や記録が残されています(井上,1999,井上,2014,菊地,1980,島原市,1992)。島原藩の公式記録だけでなく、民間でも様々な記録が残され,雲仙普賢岳の噴火や眉山の研究資料として、大きな意義を持っています。
 島原半島の中央部には雲仙地溝帯があって,東西方向の断層が数本平行して走っています(渡辺・星住,1995)。この地溝帯は現在でも南北に拡大し続け、火山活動や地震活動が活発です。雲仙火山は粘り気の強いデイサイト質の岩石からなり、平成新山(標高1486m)や普賢岳,国見岳,眉山など多くの溶岩ドームからなります。図1は国土地理院(1998)の沿岸海域土地条件図「島原」の上に写真判読結果を記入したものです。溶岩ドームは不安定で崩壊しやすく、火砕流(噴火時のみ)や土石流が多く発生し、山麓部には崩落・流出した土砂によって形成された複合扇状地が広がっています。時には、島原大変のような大規模な山体崩壊を起こすため、斜面下部には多くの流れ山地形が分布しています。眉山は2つの溶岩ドーム(七面山と天狗岳)からなり、南側の天狗岳は1792年に山体崩壊を起こし、東側が大きく抉られています。東側の沖合5kmまで、広い範囲に多数の流れ山地形が認められます(井上・今村,1997,国土交通省雲仙復興事務所,2002)。

図1 雲仙普賢岳・眉山周辺の地形分類図(井上,1999),沿岸海域土地条件図「島原」に追記
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2.寛政噴火から島原大変に至るまでの経緯
 寛政噴火と眉山山体崩壊に至る経緯は、図2に示した4段階であり、その後の状況を加えて5段階について説明します(井上,2014,雲仙復興事務所,2003)。

図2 眉山山体崩壊に至るまでの推移(片山,1974,雲仙復興事務所,2003)

第1段階 1791年11月3日に始まり、以後毎日のように有感地震が続いた前駆地震群の時期です。地震動は島原西側の小浜地方で最も強く、震度5〜6に達しました。

第2段階 新焼け溶岩が噴出し続けた時期です。1792年1月には前駆地震はほぼ静まりましたが、次第に普賢岳付近で山鳴りが激しくなり、2月10日から大きな鳴動・地震が起こり、噴火が始まりました。そして、新焼け溶岩流が噴出し、長さ2kmの穴迫谷を埋めて、徐々に流下しました。普賢岳東麓の山中で有毒の火山ガスが大量に噴出し、鳥地獄の様相を示しました。

第3段階 眉山−島原地区を中心として、4月21日(新暦)の新月の時期に三月朔地震が発生しました。この地震群は5月14日頃まで続き、島原城下では震度5〜6に達しました。眉山・天狗岳で山鳴りが激しく、強い地震時には天狗岳からの落石や崩壊で山が一時的に見えなくなりました。4月29日に天狗岳の東麓の楠平で大規模な地すべり(南北720m,東西1080m,滑落崖90m)が発生しました。この地すべりが眉山の山体崩壊の前兆だった可能性が強く、楠平で地下水の異常な上昇に気付いて島原大変前に避難して助かった者もいました。

第4段階 寛政四年四月朔日(1792年5月21日)20時頃に四月朔地震が発生しました。2度の強い地震とともに、天狗岳から海上にかけて大音響が鳴って、天狗岳は山体崩壊を起こし、有明海に高速で突入したため、大規模な津波を引き起こしました。図-3は、眉山崩壊と島原半島全体の津波の被害状況を示しています。

第5段階 その後も天狗岳は地震のたびに二次崩壊を引き起こしました。湧水が各地で発生し,現在よりも大きな白土(しらち)湖が形成されました。このため、島原藩では音無川を開削して、白土湖の湛水範囲を減少させる工事を行いました。眉山には六筋の竪割れができ、数箇所の穴から泥水が噴出し、煮えるような音がしました。7月8日には水無川で土石流が発生し、9日には普賢岳で噴火し、火山灰を周辺に降灰させました。

図3 大変後島原絵図(本光寺常盤歴史資料館所蔵)

3.絵図からみた地形変化
 寛政噴火時の多数の絵図の中で、島原藩が幕府に報告した絵図は眉山の山体現象を考える上で重要です。島原藩は五月十八日(7月3日)、六月三日(7月21日)、九月二十五日(11月9日)に幕府(老中・松平定信)に提出しています。図-4と図-5は、2回目に提出されたものです(小林ほか,1986)。図-4は新焼け溶岩が流下していますが,三月朔地震で発生した市内の地割れが描かれていません。図-5は地割れが描かれ,四月朔地震で発生した天狗山の山体崩壊と流れ山地形を示しています。両図では右側の七面山の図柄は全く同じです。図-5は,島原城の天守閣に登って頂くとわかりますが、島原城の天守閣から見た景観(高さ方向は2倍に強調)とほぼ同じです。

図4 寛政四年大震図(本光寺常盤歴史資料館所蔵) 図5 島原大変大地図(肥前島原松平文庫所蔵)

 これらの図をもとに、山体崩壊前後の眉山(天狗山と七面山)の地形変化を比較したのが、図6です(井上,1999)。右図は国土数値情報(1996年作成の沿岸海域地形図1/2.5万「島原」)をもとに、島原城を視点として描いた鳥瞰図です。左図は2枚の絵図を比較して、トライアンドエラーで描いた山体崩壊前の鳥瞰図です。
 図-7の上図は、図6の鳥瞰図をもとに標高データを復元した平面図で、左下図は山体崩壊前後の断面図、右下図は地形変化土砂量図を示したもので、山体崩壊土砂の量を示します(井上,1999)。

図6 眉山(天狗山と七面山)の山体崩壊前後の鳥瞰図(井上,1999)

図7 山体崩壊前後の等高線平面図と断面図,地形変化量図(井上,1999,Inoue, 2000)

 これらの図をもとに山体崩壊前後の等高線の差分を求めて,地形変化量を測定しました。山地部は山体崩壊で侵食された地域(最大侵食深360m),堆積地域(最大堆積深40m)は,多くの流れ山地形が有明海の3km先まで認められます。等高線の差から山体崩壊土砂量は3.25億m3,陸上部の堆積土砂量は0.41億m3,海中部の堆積土砂量は2.76億m3と推定しました。
 図5では天狗山から流出した土砂は2種類あったことが分ります。右側が山体崩壊による無数の流れ山地形で、左側の黒い流れはその後に発生した火山泥流(土石流)と考えられます。島原大変時に有明海を航海中であった船員の報告には、天狗山が6分ほど崩れたところで白砂が噴出したと記録されています(小林・鳴海,2002)。

4.災害復興の記録『大岳地獄物語』
 大変後島原絵図(図3)は、眉山の山体崩壊と津波発生後の状況を示したもので、海岸線に沿って、津波の到達範囲が表現されています。島原半島は壊滅的被害を受けましたが、対岸の佐賀藩の救援などもあって、徐々に復興が進んできました(井上,2014,国土交通省雲仙復興事務所,2003)。島原半島の北部には,佐賀・鍋島藩の飛地である神代(こうじろ)領(現在の雲仙市国見町)があります。当地は島原半島北部の街道に沿った港町であり,対岸の本藩(佐賀藩)との交流が密接でした。このため、そこを通行する人々から島原の被害などの情報が集まりやすい地区でした。『大岳地獄物語』は,神代領西里名思案橋の与次兵衛という農民が,「病のため仰向けに寝て天に向かいて」見聞したことを8年間にわたり詳細に記録したもので,神代古文書研究会が現代文に翻刻したものです(松尾,2001,神代古文書勉強会,2001)。
 表1は、『大岳地獄物語』の巻別の内容を示しています。この書と島原藩などの公式記録(神代古文書勉強会,2012)を比較検証すると、島原大変肥後迷惑という天変地異に対して、一農民に被害や復興などの情報がどのように伝わって行ったかが分ります。また、公式には書かれていない事実や誇張された情報が書かれており、興味深いものがあります(神代古文書勉強会,2001)。寛政三年七月(1791年8月)には、寛政噴火の前駆地震に関する記述も見られます。また、焼け岩(溶岩流の流下)、火風(火砕流)、山潮(土石流)の発生など、火山噴火に伴う様々な地形変化の状況が詳しく書かれています。島原藩領から佐賀藩神代領へ避難してきた者へは、米だけでなく味噌や薪などに至るまで援助が与えられ、活発な救援活動が行われました。

表1 『大岳地獄物語』の巻ごとの時期と内容(井上,2014)

引用・参考文献
・伊藤和明(1977):地震と火山の災害史,―土地に刻まれた災害の記録―,同文書院,
・井上公夫(1999):1792年の島原四月朔地震と島原大変後の地形変化,砂防学会誌,52巻4号,p.45-54.
・Inoue K.(2000):Shimabara-Shigatsusaku Earthquake and Topographic Changes by the Shimabara Catasteophe in 1792, Geographical Reports of Tokyo Metropolitan University, No.35, p.59-69.
・井上公夫(2014):第2章 寛政の雲仙普賢岳噴火の災害伝承,―島原大変肥後迷惑―,高橋和雄編著,災害伝承,―命を守る地域の知恵―,古今書院,口絵,p.3-5,本文,p.25-52.
・井上公夫・今村隆正(1997):島原四月朔地震(1792)と島原大変,歴史地震,13号,p.99〜111.
・太田一也(1969):眉山崩壊の記録,九大理学部島原火山観測所研報,5巻,p.6-35.
・太田一也(1984):雲仙火山,―地形・地質と火山現象―,長崎県,96p.
・太田一也(1987):眉山大崩壊のメカニズムと津波,月刊地球,9巻4号,p.214-220.
・大森房吉(1903):寛政四年温泉岳の破裂,地学雑誌,15巻181号,p.447-450.
・片山信夫(1974):島原大変に関する自然現象の古記録,九大理学部島原火山観測所研報,9号,pp.1-45.菊地万雄(1980):日本の歴史災害,―江戸時代後期の寺院過去帳による実証―,古今書院,301p.
・菊地万雄(1980):日本の歴史災害,―江戸時代の寺院過去帳による実証―,古今書院,301p.
・建設省国土地理院(1981,1998):沿岸海域地形図,沿岸海域土地条件図「島原」,1981年版と1998年版
・建設省国土地理院(1981,1998):1/25,000火山土地条件図「雲仙岳」
・神代古文書勉強会(2001):大岳地獄物語,国見町教育委員会,171p.
・神代古文書勉強会(2012):寛政四年子正月 島原地変記,星雲社,209p.
・国土交通省雲仙復興事務所(2003):島原大変,―日本の歴史上最大の火山災害―,製作/砂防フロンティア整備推進機構,42p.,英語版(2002),THE WORST DISASTER IN JAPAN, The Catastrophe in Shimabara, The 1971-92 eruption of Unzen-Fugendake and the sector collapse of Mayu-Yama,24p.
・小林茂・小野菊雄・関原祐一(1986):島原大変関係図の検討,野口喜久雄・小野菊雄編「九州地方における近世自然災害の歴史地理学的研究」,九州大学教養部,pp.4-28.
・小林茂・鳴海邦匡(2002):島原大変における眉山崩壊時の水蒸気爆発に関連すると推定される資料について,待兼山論叢,36号(日本学編),pp.1-18.
・駒田亥久雄(1913):寛政四年肥前島原眉山爆裂前後の状況に就て,地質学雑誌,20巻235号,p.150-162.
・佐藤伝蔵(1925):温泉岳前山の山崩説を駁す,地球,4号,p.437-446.
・渋江哲郎(1975):眉山ものがたり,昭和堂印刷総合企画,134p.
・島原仏教会(1992):たいへん,―島原大変2百回忌記念誌―,662p.
・白石一郎(1985):島原大変,文芸春秋,文春文庫(1989),p.9-105.
・関原裕一・小野菊雄・小林茂(1986):島原大変時における島原藩の幕府報告図について,野口喜久雄・小野菊雄編「九州地方における近世自然災害の歴史地理学的研究」,九大教養部,p.29-35.
・都司嘉宣・日野貴之(1993):寛政四年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海の熊本県側における被害,および沿岸遡上高,東京大学地震研究所彙報,68巻2号,p.91-176.
・丹羽俊二(1995):長崎県島原沖の海底流山地形,―ナロービーム音響測定システムによる海底地形調査―,地図の友,40巻5号,表紙,及びp.2-5.
・古谷尊彦(1974):1792年(寛政4年)の眉山大崩壊の地形学的一考察,京大防災研年報,17号B,p.259-164.
・松尾卓次(1997):島原街道を歩く,葦書房,224p.
・松尾卓次(2001):大岳地獄物語,国見町史談会,9p.
・松尾卓次(2004):新島原街道を歩く,出島文庫,290p.
・歴史地震研究会(2000):2000年度歴史地理学会島原大会発表資料集,83p.及び島原大変絵図資料集,42p.
・渡辺一徳・星住英夫(1995):雲仙火山地質図,1:50,000,地質調査所

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