1.高田地震(1751)の概要
高田地震(越中・越後地震)は、寛延四年四月二十六日丑刻(1751年5月21日午前2時頃)、高田平野の直下を震源(東経138.2°,北緯37.1)として発生しました。宇佐美(2003)によれば、マグニチュードM=7.2±0.2と推定されています。発生時期から見ると「寛延高田地震」ですが、この年の十一月二十七日(1752年1月13日)に宝暦と改元されているので、「宝暦高田地震」と呼ばれることもあります。2015年の5月と6月に、土木研究所 雪崩・地すべり研究センターの石田孝司所長と「いさぼうネット」の小田兼雄,高橋浩貴と一緒に現地調査を行いました。
新潟県立図書館のHPの金森敦子氏のエッセイによれば、「この地震によって、高田城は大破し、城下の町屋も将棋倒しに倒れました。『いづれも寝入り端(ばな)の事なればなおさら、ふと起き立つ事、居る事あたわず、逃げる事叶わず』(『九々夜話』)という有様で、逃げ遅れた者はほとんど圧死してしまった。地面は大きく裂け、所々から水や泥が噴き出した。地震発生と同時に城下町の各所から出火したが、夜明け前に雨が強く降り出し、火は自然と消えていった。湊町の今町(直江津)でも大きな震動とともに多くの人家が倒潰した。」
図1は高田地震(1751)の震源と主な土砂移動の発生地点、表1は主な土砂移動地点と被害状況を示しています(井上・今村,1999)。この地震によって、柏崎から直江津、糸魚川にかけての日本海沿岸と、桑取谷・名立谷・能生谷(糸魚川市)などの山中において、山崩れが発生しました。高田地震による死者約2000人中、土砂災害による死者は約950人にも達しました。
2.越後国頸城郡高田領往還破損所絵図
白石(2001)によれば、「越後国頸城郡高田領往還破損所絵図」が、昭和63年(1988)に兵庫県の旧家・佐野清輔氏宅の蔵で見つかり、上越市に寄贈されました。佐野氏の祖先は、姫路藩主の榊原家が寛保元年十一月一日(1741年12月8日)、高田藩(15万石)に国替となった時に、藩士として高田に来ています。この絵図は大地震の様子を実家に報告するための絵図と考えられます。国替え時の藩主・榊原政永は、寛保元年十月十三日(1741年11月20日)に7歳(数え)で家督を継ぎ、高田藩に着任しています。高田地震(1751)の時は17歳でした。
この絵図は、現在上越市公文書センター所蔵ですが、新潟県公文書館のHPから「越後佐渡デジタルライブラリー」→「新潟県内図書館等コレクション」→「上越市公文書センター」→「一般表示」→「越後国頸城郡高田領往還破損所絵図」で閲覧できます。絵図は長さ3.6mの絵巻に描かれています。図2はこの絵巻を繋ぎ合せで表示したものです。描かれている区間は、図1に示す北国街道(国道8号)に沿った新潟県糸魚川市能生筒石から上越市直江津地区居多浜(こたはま)間です。しかし、もっとも大きな被害を出した名立崩れ付近は、江戸幕府の天領だったためか、描かれていません。
絵巻には、地震による山腹斜面の様子、その被害状況等を左側の「凡例」に基づいて着色し、克明に描かれています。また、主な崩壊地の規模、村名・地名とともに、起点(鳥ヶ首)からの距離が示され,崩壊地の位置・規模の推定が可能です。
図2は新潟県公文書館のHPから入手したデータをもとに一続きの絵図としたもので、図3は1/25,000地形図「高田西部」(2006年修正測図)、「名立大町」(2007年修正測図)に土砂移動などの情報を転記したものです。図4は国土地理院の5mメッシュデータを用いて作成したLiDAR図で,地形状況と高田地震や地すべり地形との関係が良く分かります。ここでは白石(1991)に基づき、絵図中の記述の内、往還破損等の主な被害状況特筆事項について、以下に記します(図中に黒〇数字で示しました)。
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@絵巻書き出しには、方位を示す東西南北の記述とともに、
「越後国頸城郡高田領往還破損所絵図 御領筒石村ヨリ居田迄之間」
と記されています。
A
名立崩れは絵図に描かれておらず、空白になっていますが、次の記載があります。
「此間二御領名立小泊之宿 此地震之節
小泊山下ニ成海江突出シ 人死夥クコレアリ由」
B鳥ヶ首(とりがくび)=現在地名も鳥ヶ首
C家・屋敷ごとに滑動したが無事であった様子「仁兵衛屋敷元此所在」
「丹原村出屋敷仁兵衛此所ヘ抜落 本屋敷ヨリ百弐拾間程出ル
家内八人馬1疋難諸木井戸正地之通 無相違也」
D有馬川村=現在地名は有間川
「有馬川村ヨリ 二十丁上中桑取村ヨリ 山腹十丁程抜押出ス
仮之水湛元ノ川尻山ニ成故 村中ヘ水一度ニ流出 宿中川成 有馬川通山ニ成ル」
「有馬川村人数弐百七拾人内五拾八人死ス 家不残流 五軒ハ山下ニ成」
E追立山崩落の状況
「此山惣面海江押出ス」
「有馬川跡ヨリイサザ川迄弐拾弐丁程 古道通ヨリ海江四丁程押出ス」
「海底之岩ニ高五六丁程押上ル 一枚岩砂共上ル平地ノ如有
大岩割レ岩ニ貝類海苔共ニ取付有之 岩虫喰ノ如シ」
F塩濱=現在地名は長浜
「此宿境濱共無難」
G虫生(むしゅう)村=現在地名は虫生
「虫生村は此所ニアタル」
「虫生村人数九拾人家数拾五軒 内六拾九人死ス
弐拾人他所ニ居合無難弐人海ヨリ上ル 舟四艘牛六疋山下ニ成」
H岩戸村=現在地名は岩戸
「此所崩落 谷ヲ埋村江落掛ル」
「岩戸村家数拾四軒 内六軒山下ニ成八軒潰家
人数百壱人 内拾参人山下ニ成 牛七疋死ス 舟九艘山下ニ成」
Iクサウズ=草生水=石油
J「鳥ヶ首ヨリ岩戸村迄古道通百参拾弐町程」
K「居田(こた)明神」=現在地は居田神社前面の海浜(親鸞聖人上陸地)
現在の居田神社は、弘仁四年(813)に「居多神」の
神階が無位から従五位下に昇叙されたという古い神社です。幕末の頃から海岸侵食が進んだため、明治12年(1879)に400mほど山側の現在地に社殿が造営され、遷座しました。
L絵図末尾には
「寛延四未年四月廿五日夜丑の下刻 大地震ニテ北陸道大破」
M「色分」=凡例には、「山」(濃い緑色)「山崩之列」(橙色)「海」(青色)
「海底ヨリ上リタル新山」(灰色)「古道残リ」(黄色)
「朱筋ハ古道之通リ大方此積リト見ル」
「古難所之岩渉(礁)」それぞれに区分、着色されています。
矢田・上田(2011)によれば、本絵図は「海」を青色で描かれていないので、藩所有の元図から佐野氏の祖先が写し取ったものと思われます。
3.頸城郡吉尾組(桑取谷)地震之節諸事亡所之品書上帳
矢田・上田(2011)によれば、『宝暦元年地震之節諸事亡所之品書上帳』を翻刻されていますが、吉野組の桑取川から海岸部の31箇村の被災状況が克明に記されています。また、矢田・卜部(2011)は、図2と上記の書上帳などをもとに、高田地震による被害分布と震源域の再検討を行っています。図3は白石(2001)やこれらの論文などをもとに現地調査を行い、土砂災害の状況を示したものです。
表1は、書上帳をもとに31箇村の死者数、人家の全壊・半壊戸数、耕作地の石高の被害状況を一覧表としてまとめたものです(図3に赤丸数字で村の位置を示しました)。
高田地震の発生した1751年5月21日は,桑取川の上流部では、まだ残雪が残り、雪解け洪水がかなり激しかった頃だと思います。中・上流部では、人的被害は少ないものの、人家の全・半壊、石高の
減少の激しい村が多く認められます。このことは地震による直接の破壊ではなく、その後発生した地すべりや土石流による土砂災害が多発したため、多くの被害を被ったと考えられます。
桑取川の上流部右岸のI東吉尾村には、東吉尾池がありますが、「地震池」とも呼ばれています。高田地震によって、東吉尾村は住民45人のうち28人(62%)は死亡しました。家数9軒ですが、「山崩下7軒」「皆潰1軒」「流失1軒」とすべてが破壊されました。また、高66.5石のうち、「年々引11.2石」「当荒引35.6石」と71%もの耕作地が耕作不能となっています。東吉尾池の背後には大きな地すべり滑落崖が存在し、全体が巨大な移動岩塊であることが分ります。また、南側には細長い地すべり地形が存在します。全体が大きく地すべり変動し、南側の地すべり変動によってできた窪地が「地震池」になったと判断されます。
すぐ下流のJ西吉尾村の被害も大きく、住民153人のうち28人(18%)が死亡し、怪我人3人に達しました。人家数22軒のうち、「山崩下5軒」「皆潰後流失15軒」と91%の人家が破壊されました。高131.9石のうち、「年々引25.4石」「当荒引65.9石」と62%もの耕作地が耕作不能となっています。すなわち、東吉尾で発生した大規模地すべりの移動土塊が西吉尾まで達して集落を襲い、大きな被害を発生させたと考えられます。死者数が比較的少なかったのは、移動土塊が達するまでに時間があり、避難できたためと思います。
S中桑取村(+㉑孫三郎分)では、住人135人に死者はでませんでしたが、人家数22軒のうち、「皆潰1軒」「流失1軒」「半潰6軒」(36%)の人家が破壊されました。石高198.4石のうち、「年々引26.7石」「当荒引101.5石」と65%もの耕作地が耕作不能となっています。この地域の地すべりは比較的速度が遅く、住民は避難できましたが、人家はかなり破損しました。この地すべりによって桑取川は河道閉塞され、高さ30m(湛水標高40m,湛水面積23万m
2,湛水量307万m
3)の天然ダムが形成されたようです。この天然ダムは満水になると決壊し、河口付近の有間川村まで襲いました。
㉗有間川村は北国街道筋の宿場町・漁港で、住人284人のうち、死者45人(16%)、怪我人10人、死馬9匹にも達しており、地震直撃によるものと判断されます。ところが、人家数39軒のうち、「山崩下9軒」「皆潰30軒」で、100%の人家が「不残流失」となっています。石高117.1石のうち、「年々引12.5石」「当荒引39.7石」と45%もの耕作地が耕作不能となっています。このことから、天然ダムの決壊洪水は有間川村を襲い、激甚な被害をもたらしたようです。
㉖長浜村から居多神社までについては,今村隆正が日本海から撮影した写真を
『高田領往還破損所絵図』と並べて、中村ほか(2000)『地震砂防』の口絵カラーに示してありますので、絵図と比較しながら地形状況を把握することができます。
このうち、㉖長浜村の住人407人には死者はなく、ほとんど被害がないように描かれていますが、
『書上帳』では人家数70軒のうち、「皆潰30軒」「半潰12軒」と60%の人家が破損しています。石高140.3石のうち、「年々引・当荒引62.0石」と44%もの耕作地が耕作不能となっています。宿場町・長浜は絵図よりも長く、集落の左右の地すべりによって皆潰・半潰になったと考えられます。
㉛茶屋ヶ原村の西には、写真3に示した
乳母ヶ岳神社があります。一般に、北国(ほっこく)街道は、親不知子不知で知られるように、海岸線付近の急崖地点を通過していますが、市之橋から二ノ橋付近までは海成段丘の上に上がっています(写真4)。
この地域の㉛茶屋ヶ原村、㉚吉浦村、㉙鍋ヶ浦村、㉘丹原地区では、住人428人のうち死者は4人のみですが、人家数69軒のうち、「皆潰24軒」(全壊率35%)「半潰14軒」(全半壊率55%)にも達しています。このことはこの地域の被災は地震直撃による被災は少なく、その後の地すべりなどの土砂災害が多かったと考えられます。乳母ヶ岳神社は高田地震以前から存在していましたが、地すべり変動によってそのまま水平移動したと思われます。
(続く)
引用・参考文献
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・居多神社:越後一の宮 居多神社,パンフレット,4p.
・清水文健・井口隆・大八木規夫(1997):5万分の1地すべり地形分類図「高田」,防災科学技術研究所研究資料,第178号,16葉
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・中村慶三郎(1964):名立崩れ,−崩災と国土−,風間書房,第T章,名立崩れ,p.13-35.
・地震地すべり研究プロジェクト委員会(2012):地震地すべり,―地震地すべりプロジェクト特別委員会総括編―,日本地すべり学会,302p.,及び巻末CD,地震地すべりカルテ票
・矢田俊文・上田洋介(2011):一七五一年越後高田地震史料・越後国頸城郡吉尾組(桑取谷)地震之節諸事防所之品書上帳と越後国頸城郡高田領往還破損所絵図,災害と史料,5号,
・矢田俊文・卜部厚志(2011):1751年越後高田地震による被害分布と震源域の再検討,新潟大学学術リポジトリ,資料学研究,8巻,p.1-23.