4.名立崩れ
地震地すべり研究プロジェクト委員会(2012)の『地震地すべり』では、名立崩れを取り上げ,カルテ票を作成しています。井口・八木(2013)の「空から見る日本の地すべり地形シリーズ―27―」においては,セスナから撮影した写真(写真5)などで、名立崩れの地形状況を説明しています。
図3(前回)と写真6に示したように,名立崩れは高田地震による土砂災害で最大の被害を蒙りました。写真7は国土地理院が昭和51年(1976)に撮影したもので,名立川から流出した褐色の土砂が沿岸流で流されている様子がわかります。北国(ほっこく)街道の宿場町であった名立小泊の背後斜面が大きく崩れました(中村,1964,安間,1987,井上・今村,1999)。寛延四年(1751)には、宿場町名立村は民家91戸のところ、土砂埋没81戸、全壊4戸(93%),半壊3戸にも達し,全人口525人中死者406人(77%)にも達しました(小林家文書)。このため、名立村の民家が高田地震前の状態に復興したのは,160年後の大正初期になってからです(中村,1964)。
名立小泊集落の宗龍寺には,写真8に示した供養塔が建立されています。高田地震から100年後の嘉永年間(1848〜1853)には被災者の子孫による百年祭が行われ、以後毎年慰霊祭が行われています。また、名立崩れの崩壊土砂とともに海中に押し出された宗龍寺の梵鐘(安土桃山時代以前の作とされる)が明治初期に海から引き上げられました。この梵鐘は第二次世界大戦による金属応召を免れ、再建なった宗龍寺本堂の入り口に設置されています(住職から話をお聞きしました,写真8〜10)。
大規模崩壊(地すべり)の規模は、『地震地すべり』のカルテ票(No.15-1)によれば、最大幅が850m、奥行450m、比高160mと計測されています。崩壊斜面の地質は新第三紀鮮新世の名立層に相当する砂岩・泥岩・礫岩層で、「水平〜やや受盤」となっています(赤羽・加藤,1989)。安間(1987)によると、発生斜面の地質構造は「走向がNW-SEないしEW-W方向で、10から20度北方に傾斜する斜面と調和的な流れ盤型を呈している」と記されています(図5)。写真5,6に示したように、滑落崖は北向きのため逆光となり黒く潰れていますが、周囲の地形と崩壊地全体の関係を把握できます。
名立崩れは標高313mの三角台(S)から日本海に向かって高度を下げながら、北西に延びる尾根部が大きく崩れることで発生しています。滑落崖は2段に分かれ、その間に崩壊による移動体(LS)が残存しています。高田地震以前は日本海に面した細長い地帯に宿場町として栄えていましたが、一瞬にして大部分の集落は埋没しました。移動体の前面の2つ目の滑落崖の直下に現在の名立の集落(N)が海岸線に沿って伸びています。安間(1978)によると、崩壊堆積物は1000m近い沖合まで到達したとされています。写真6の米軍写真によれば、1948年当時、名立漁港は建設されておらず、2段の滑落崖と移動岩体が明瞭に認められます。移動岩体の地表面は山頂部付近の元の地表面であり、ほとんど変形を受けずに直下に落下したと考えられます。安間(1978)は地すべり面末端を海面付近にしていますが、すべり面はもっと深い方がすべりやすい地形になると思います。
海上保安庁の沿岸海域地形図によれば,10mコンターで比較的浅い海底がかなり沖合まで続いていますが、海中に没した移動岩体の形状は不明です。
コラム7 島原大変肥後迷惑で説明したように、音波測深による詳細な海底地形の調査が望まれます。
災害直後の高田藩の記録によれば、地震の当日にかなりの雨が降ったとの記述があり、高田藩では当日のうちに雨露を凌ぐための
「陣張りの渋紙」を大量に貸し出す措置が取られたとのことです。高田地震とその後の豪雨、及び山間部での雪解け洪水が重なって、土砂災害が頻発した可能性があります。
写真11は、名立小泊から名立谷浜ICに向かう道路に発生した亀裂の写真です。丁度名立崩れの東側の側方部に位置します。名立崩れの堆積物は現在でも動いている可能性があることから(舗装をやり直している痕跡があります)、道路をまたいで伸縮計を設置するなど,地すべり変動状況を把握しておく必要があると思います。
5.追立山の巨大地すべり
前回の高田領往還破損所絵図と図3の土砂災害分布図によれば、有間川の東側に名立崩れとほぼ同じ規模の巨大地すべりが高田地震によって発生したことがわかります。
破損所絵図には、以下のように記されています(現代文にしました)。この巨大地すべりを追立山の巨大地すべりと呼ぶことにします。
E追立山崩落の状況
・追立山が巨大地すべりの上部にあったが、この山は海へ押し出した。
・有間川の宿場からイササ川まで二十二丁程(2200m)の北国街道(古道)があったが、四丁程(400m)海に押し出した。
・この山海中より押し上がり、新山ができた。
・高さ50間(90m)の砂山でき、この付近には幅一丁程(100m)、長さ六七丁程(600〜700m)の砂濱ができて、平地の如くであった。
・渚の水跡がそのまま残っている。
・海底の岩が高さ五六丁程(500〜600m,1丁=100mではなく、もう少し小さい)押し上がった。1枚の岩が砂とともに上がり、平地のごとくなった。大岩は割れて、岩に貝類・海苔共に取りついて、岩虫の痕跡が認められる。
以上の記載から判断して、巨大な地すべり変動が追立山で発生し、地すべりの末端部は海中にあり、押し上がって貝類・海苔・生痕が多く見られたのでしょう。
現在この地域は、上越市たにはま公園となっています。図6は谷浜公園造成前の1/1000地形図の縮小図で、赤線の範囲が巨大地すべりの範囲と考えられます。図のLiDAR図はたにはま公園の造成後の地形を示しています。地すべり地の中には非常に多くの凹凸があることがわかります。写真12と13に示したように、この地域から大量の土砂が排土され、現在は広大な市民公園となっています。
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この公園は準備工事に平成11年(1999)から着手し,土砂搬出は平成14年(2002)5月から行われました。土砂搬出が完了したのは平成16年8月で,掘削・運搬した排土量は940万m
3にも達しました。基盤整備が完成したのは平成19年(2007)3月で,谷浜公園の整備が完了したのは平成27年(2015)3月です。排土量から判断すると,追立山の地すべり移動土塊は数千万m
3にも達したと考えらます。
図7で示したように,追立山地すべりの西側には桑取川と有間川村の集落が位置しますが,コラム8でも説明したように,中桑取村の天然ダム決壊によって,決壊洪水は有間川村の39戸の集落のすべてが
山崩下や
流出してしまいました。
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6.むすび
以上,2回に分けて高田地震(1751)による土砂災害について説明しました。この地震では有名な名立崩れだけでなく、巨大な追立山地すべりが発生するなど,地震による土砂災害としては極めて発生密度が高かった地震です。図1や表1で示したように、名立川上流にも、小田島村、東蒲生田村、平谷村、池田村などで大規模な地すべりが発生し,天然ダム災害が発生したようです。しかし、今回は詳細な史料調査を行えませんでした。また,長野県北部でも多くの土砂災害が発生したようですが、詳しい調査は行われていないようです。
これらの地域の史料解析を進めて,高田地震の全体像を把握する必要があります。