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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム10: 日光・大谷川流域の地形特性と土砂移動特性
 

1.日光火山群と大谷川の地形特性
 図1接峰面図(井上1993,2006)に示したように、日光火山群には東から女峰・赤薙火山、小真名子火山、大真名子火山、太郎火山、男体山、日光白根火山などの火山が並んでいます。河田(1955)は、女峰・赤薙火山が日光火山群の中で最も古く、数万年前に火山活動を終了したとしていますが、これらの火山の発達史はあまり知られていません。

図1 日光大谷川流域の500m谷埋め法による接峰面図(井上1993,2006)四角枠は図5 1/2.5万地形図と写真1 立体航空写真の範囲

 数万年前の男体山の主活動期の最後に華厳溶岩と含満淵(がんまんがふち)溶岩が流出しました。図2の大谷川河床縦断面図によれば,華厳溶岩は鬼怒川右支・大谷(だいや)川を塞き止めて、中禅寺湖(巨大な天然ダム)と華厳の滝を形成しました。含満淵溶岩は荒沢の河谷を大谷川の合流点まで流下し、含満淵(旧田母沢御用邸・東大植物園南側の大谷川に沿って溶岩が露出しています)と裏見の滝を形成しました。男体山は日光火山群の中では日光白根火山に次いで若い火山で、1万年位の休止期の後、1.2万年前に今市スコリアIPと火砕流、七本桜軽石SPと火砕流を噴出させました(石橋・呉山,2004)。これらのテフラ(降下火砕物・火山灰)は男体山から東南東方向に堆積しました。日光・今市間では黒土の下に、1〜2mのオレンジ色と黄色の見事な堆積物として存在します。IPとSP噴出に伴う火砕流は、男体山の北方向に開いたカルデラ(火口)から荒沢火砕流と竜頭滝火砕流に分かれて流下しました(井上,2002)。

図2 大谷川流域の河床縦断面図(井上,1993)
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2.大谷川流域の土砂災害と地形分類
 合理的な砂防計画を立案するためには、よりマクロな観点から大谷川流域の土砂移動特性を把握し、大谷川における砂防事業自体を当流域の地形発達史の中で位置付ける必要があります。このような理由から大谷川流域の地形発達史調査を実施しました(井上ほか,1984,1985,大石ほか,1986)。この調査では、噴出年代と鉱物組成が判明しているテフラ(降下火砕物・火山灰)と土壌層の有無によって、図3の大谷川流域の地形分類図を作成するとともに、表1の大谷川流域地形発達史年表を作成しました。

図3 大谷川流域の地形分類図(井上ほか,1984,井上2006)
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表1 大谷川流域地形発達史年表(井上ほか,1984,井上,2006)
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 写真判読によって、崩壊地形を抽出して表示するとともに、河岸段丘を高位面H、中位面M1、M2、低位面Lに分けて示しています。河成段丘は比較的平らな斜面ですので、テフラ(降下火砕物・火山灰)が堆積しやすい環境にあります。逆に、噴出年代が分っているテフラが段丘面の上にあれば、この地形面はテフラ堆積後、崩壊堆積や土石流・洪水氾濫堆積に覆われなかったことを意味します。
 この地域には噴出年代の分っているテフラが多く存在します(町田・新井,1983,1992)が,図4に示したように、4万年前のKP(鹿沼軽石,赤城山から噴出),1.2万年前のIP・SPと1400年前のFP(二ツ岳降下軽石,6世紀に榛名山・二ツ岳から噴出),As-B(浅間山から天仁元年(1108)に噴出)が良く目立ちます。FPの分布軸は榛名山から東北東に細長く伸びており、男体山と太郎山の間付近が中心軸です。大谷川流域では黒土・土壌層中(地表面から25〜50cm)に、粟粒状の粒子として存在します。図2にはFPの層厚をcm単位で示してありますが、大谷川・稲荷川合流点付近では数cmと薄く、稲荷川の上流では20cmもの層厚がありました。

図4 北関東の主な降下火山灰(テフラ),町田・新井(2003)より編集(井上,1993)

 稲荷川上・中流部には崩壊地形が非常に多く存在し、土砂流出が非常に活発です。このため、稲荷川の中・下流には、土石流堆積物からなる多くの河成段丘が存在し、稲荷川合流点より下流の大谷川には、幅広い埋積谷が形成されています。
高位面H:1.2万年前のIP・SPが段丘面上に存在し、その上の黒土層も1m程度存在する安定した地形面です。基本的に安全な地形面の上に二社一寺が存在します(東照宮を建立する際にこのような地形状況が考慮されたと思います)。
火砕流堆積面A:1.2万年前の荒沢火砕流により堆積した地形面
中位面M1厚い土壌層を載せる1万年前頃の中位面
中位面M2薄い土壌層と1400年前のFPを載せる3000〜5000年前頃の中位面(開山堂から勝道上人像を結ぶ崖線より東側の堆積面)
低位面L:土壌層やFPが存在せず、大規模な洪水時には土砂が氾濫する可能性の高い低位面
 これらの地形面は、男体山などの火山活動と気候変動によって、侵食(土砂流出量が河川の土砂運搬力より小さく下刻する)と堆積(逆に大きいと河床は上昇する)を繰り返しながら変化してきました。H面やA面の形成時には、ウィルム氷期末期で稲荷川や大谷川には広い堆積段丘が形成されました。その後侵食と堆積の時期があり、M1面が形成されました。
 1.2万年前のIPとSP噴出に伴う火砕流は,男体山の北方向に開いたカルデラ(火口)から荒沢火砕流と竜頭滝火砕流に分かれて流下しました(井上,2002)。荒沢火砕流は荒沢の河谷を広く埋めて流下し,火砕流堆積面Aを形成しました。荒沢と大谷川との合流点付近では,大谷川を塞き止めて、白崖(厚さ50〜70m)と呼ばれる火砕流堆積物(白いブロックとして切り出された)を堆積させ,古清滝湖(面積2.2km2)が形成されました。竜頭滝火砕流は南西に流下して古中禅寺湖に流入し、上流側に戦場ヶ原の原湖を形成しました。その後、男体山も休止期に入ったため、山体の侵食が徐々に始まり、薙(大薙,観音薙など)と呼ばれる放射状の谷地形が形成されました。しかし、男体山にとって、侵食谷の影響は小さく図1の接峰面(500mの谷埋法)には、放射状の谷地形群は全く表れていません。
 天和三年二月(1683年4月)頃から日光付近で群発性の地震が続き、五月二十三日(6月17日,M6.0〜6.5)、二十四日(18日,M6.5〜7.0)、九月一日(10月20日,M7.0)に規模の大きな地震が発生しました(地震調査研究推進本部のHPより)。日光付近を中心に被害が生じ、10月20日の地震では、五十里村で生じた山崩れが鬼怒川を河道閉塞し、天然ダム(五十里湖)が形成されました。これらの地震は、関谷断層で発生した可能性が指摘されています。40年後の享保八年九月九日(1723年8月10日)、その一帯が暴風雨に襲われ、天然ダムは決壊し、五十里洪水が発生しました。洪水は下流地方を席巻し、直下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、その被害は宇都宮まで及びました。
 男体山の南東方向に発達する大薙は、九月一日(10月20日)の日光大地震時に大きく崩壊し、崩壊土砂は7km下流の細尾(図3の左端下部)まで、流下・堆積しました。中宮祠西側の観音薙は明治35年(1992)9月の台風により崩壊し、中宮祠拝殿が破壊され、立木観音堂の一部は中禅寺湖の対岸まで流されました。
 女峰・赤薙火山の山麓部には、放射状の何本もの深い谷が山体を刻んでおり、1.2万年前に火山活動を休止した若い男体山と対照的です。女峰・赤薙火山も当初は富士山型の成層火山でしたが、最後の火山活動で山頂部付近は吹き飛ばされ、直径2kmのカルデラが形成されました。このカルデラは南方向に開いていたため、南から侵食が進んでいた稲荷川の谷頭部がカルデラに到達するようになり、深い谷地形が形成されました。
 大谷川は西から東方向に流れていますが、河道の位置は南にずれており、南側から合流する支流は短いのに対し、日光火山群の存在する北側から合流する支流は長く、土砂の流出が活発であることを示しています(大谷川は少しずつ南に押しやられました)。
 稲荷川については、日光砂防事務所所有の1/5000地形図をもとに、正確な地形分類図を作成するとともに、河床縦断面図を作成して、500mピッチの横断面図を作成し、堆積土砂量を推定しました。
 7000〜5000年前頃にはヒプシサーマルと呼ばれる気候最適期であったため、温暖な気候となり、M1面の上には厚い土壌層が形成されました。稲荷川にはM1面が広く分布し、8000万m3(平均堆積厚さ60m)の土砂で埋積していたと考えられます。その後、この堆積土砂は次第に侵食され、4700万m3(プラス稲荷川源頭部の侵食土砂量が加わる)の土砂が流出し、その過半が日光・今市間の紡錘形扇状地に堆積したと考えられます。低位面L(1400年前以降に形成された)に流出・堆積した土砂量は、550万m3程度と考えられます。

3.大谷川沿いの微地形分類
 以上の地形分類結果や14C年代測定などから総合的に判断して、表1の地形発達史年表を作成しました。図5は新しく2015年7月に発行された1/2.5万地形図「日光北部」から大谷川沿いの地域を示しています。図6は大石(1985)が写真判読したほぼ同じ範囲の微地形判読図です。写真1は写真判読に用いた写真で、国土地理院が1976年9月24日に撮影したカラー航空写真(CKT-76-3, C2B, 9-10)を立体写真としたものです。これらをもとに、大谷川流域の地形特性を詳細に検討しました。

図5 大谷川の河谷地形 1/2.5万地形図「日光北部」2015年7月発行 図6 航空写真1の微地形判読 (大石,1985)

写真1 国土地理院1976年9月24日撮影の立体視写真(CKT-76-3,C2B,9,10)

 1.2万年前のIPとSPの厚いテフラ(降下火砕物)堆積直後には、日光火山群の表面を覆っていた植生が死滅し、土砂生産・流出が活発化したと考えられます。このような状況が1万年前頃のM1面形成時まで続いたと考えられます。
 M1面を構成する段丘砂礫層は礫径が大きく、砂礫層中にはIPとSPの二次堆積物が多く点在します。田母沢扇状地(東大植物園,旧田母沢御用邸が立地)は、かまぼこ型の押し出し地形をしており、IPとSPのかなり大きな塊が扇状地堆積物中に含まれています。この時期は、ウィルム氷期(最終氷河期末期)でかなり寒冷だったことも重なって、上流の急峻な斜面や谷壁斜面の崩壊によって、多量の土砂が大谷川の本川や支渓流に流入したと考えられます。流入土砂の大部分は、稲荷川や田母沢などの支渓流に残り、段丘砂礫層となりました。このため、河床はかなり上昇し、広い埋積谷や扇状地が形成されました(後の中位面M1)。
 しかし、1万年前頃から後氷期となり、気候が温暖化するにつれて、稲荷川などでは土砂の流出が減少し、下刻が開始されて、河床が低下するようになりました。流出した土砂の大半は、日光・今市間の紡錘形の埋積谷に堆積しました。これは、1万年前以降の温暖多雨化により、植生が繁茂するようになり、河川の土砂運搬力が谷壁斜面からの土砂供給量を上回るようになったためと考えられます。貝塚(1969)は、このような河床の低下現象は日本各地の山間部の河川では、一般的な現象であったと指摘しています。特に、7000〜5000年前はヒプシサーマルと呼ばれる気候最適期(縄文海進時)であったため、H面やM1面の上には厚い土壌層(M1面の砂礫層上部の14C年代7170±180年,B.P.(TH-959))が形成されました。
 ヒプシサーマル以降、再び気候が寒冷化すると、土砂の供給が増大するようになり、稲荷川の河床は上昇して、M2面(輪王寺が載る)が形成されました(3200±120年B.P.(N386-1),(3050±120年B.P.(TH958))。
 榛名山の二ツ岳から1400年前に二ツ岳降下軽石FPが北関東一円に降下堆積しました。大谷川流域では層厚5〜30cm(地表面から25〜35cmの土壌層中に粟粒大の軽石粒として存在,図2参照)で堆積しました。FPの分布状況から判断すると、この時期の大谷川と支渓流は、もっとも下刻が進んだ時期であり、稲荷川は現在よりも深い谷となっていたと考えられます。荒沢と大谷川の合流点付近で次第に下刻が進み、含満淵溶岩が露出するようになり、それ以上の下刻は進まなくなりました。それより上流の荒沢火砕流堆積面Aは含満淵溶岩(裏見滝が存在)によって保護され、現在でも平坦な地形面として残っています。大谷川を塞き止めた白崖(火砕流堆積物)は次第に侵食されて河床が低下し、古清滝湖は消滅しました。清滝にある古河電工の工場敷地のボーリング調査ではかなり厚い泥炭層(古清滝湖の堆積物)が存在しました。
 その後、大谷川や稲荷川では再び土砂流出が活発となり、L面を構成する砂礫層が堆積しました。表1に示したように、1532〜54年の白髭水洪水や寛文二年(1662)の大洪水、天和三年(1683)の日光地震を初めとして、享保八年(1723)頃まで、多くの土砂流出や洪水氾濫が起こったという史料が多く残されています(次回詳しく説明します)。日光の市街地が存在する地形面はこのような時期に形成されたものです。
 図5,6,写真1を詳しく比較すると、大谷川沿いの微地形が判読できます。荒沢Arの裏見の滝より上流では、含満淵溶岩の存在によって,下刻はほとんど進んでおらず、平坦面が残っています。荒沢は裏見の滝より下流では下刻が進み、砂防ダムd1地点から急勾配で大谷川本川に合流しています。図6のd1地点右岸のe面、その下流左岸側のf面は荒沢が下刻する過程で形成された侵食面であり、小崖cもその時期に形成されたと考えらます。荒沢と大谷川との合流点付近に勾玉状の低地qがありますが、植生状況から最近まで何回も土砂氾濫・堆積を受けてきた地形面であることがわかります。
 田母沢Taは、土砂流出のかなり活発な河川で、大谷川の中位面Mの上に若い沖積扇状地を形成しつつあります。Ta地点より下流では、田母沢の谷床幅は比較的広く、中高のカマボコ型の堆積形状をなしています。このことから判断すると、田母沢は土石流的な土砂流出が繰り返し起こったと思われます。流出土砂はg地点付近を扇頂部として扇形に広がっていますが、大谷川の中位面の途中で終わっています。日光中学校N裏の砂防ダムd2地点上流では、扇面と谷床面との比高は小さく、d2の右岸袖部から日光中学方向に土砂氾濫の危険性があります。
 流路工の掘削断面の観察によれば、IPとSPが30〜50cmのかなり大きな塊の二次堆積物となって堆積しており、土砂流出時の激しさが伺われます。田母沢の上流に行くと、IPとSPの30〜100cmの大礫が礫層中に散在しています。
 田母沢の大谷川との合流点付近には大正天皇の御用邸や東大植物園があります。扇状地の末端から多くの湧水があり、きれいな庭園になっています。大谷川の河床付近には含満淵溶岩が露出し、見事な景観美を呈しています。
 大谷川沿いの花石町Haや日光本町Nhは中位面Mの上に載り、市街地を形成しています。侵食崖sやuの下には低位段丘Lが存在し、洪水・土砂氾濫を受けやすい地形面です。史料や古地図などによれば、低位面Lにあった寺院などは、何回も土砂・洪水災害を受けて、名称が変わっているものもあります。
 二社一寺の立地する山内は、t1面(日光東照宮・二荒山神社・輪王寺が存在する高位面H)とt2面(開山堂から勝道上人像を結ぶ崖線より東側)に分けられます。t1面(H面)はIPとSPが存在する1.2万年前より古い地形面です。t2面(M2面)は3000〜4000年前の地形面です。稲荷川に面したt3面(元日光小学校が存在する低位面L)は、過去に何回も土砂災害を受けてきました。
 稲荷川合流点より下流の大谷川は、含満ヶ淵溶岩の存在により、渓河床からの土砂流出が少ないため、大谷川本川への土砂流出量は小さい.一方、稲荷川からの大量の土砂流出により大谷川本川では埋積谷が形成されています。細かく観察すると、自然堤防状の高まりや崖線が読み取れます。K点からm点にかけての高まりは自然堤防(日光街道の鉢石宿があった)で、土石流や含砂率の高い洪水流によって、氾濫・堆積して微高地が作られました。実際この付近を歩いてみると、河床勾配は1/25(4%)であり、非常に急なことに驚きます。崖線j付近には大谷川の護岸よりも低い人家が存在しており、護岸工がなければ大きな被害が発生する危険性があります。
 神橋から右岸山脚沿いに続く崖線pは古い時代の大谷川の侵食崖です。この侵食崖と自然堤防の間は一段低い低地として続いています。
 以上述べてきた地形特性を背景として寛文二年(1662)に日光地区で大規模な土砂災害が発生しました。次回のコラムで詳しく説明します。

引用・参考文献
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