1.コラム102の追加修正
コラム102を2025年9月11日にいさぼうネットで公表しました。2025年9月の総アクセス数は8914件で、コラム102のアクセス数は540件と多くの方に閲覧して頂き、ありがとうございました。真田宝物館に所蔵されている「島原大変」の絵図とくずし字の解読結果に関心が集まったようです。また、なぜ遠く離れた長野市の真田宝物館にこれらの絵図が蔵書されているのかなど、多くの方々から意見や質問を頂きました。
コラム102の2.4枚の絵図の経緯の項で、筆者は以下の様に推察していました。
「なぜ遠く離れた長野の地で、島原大変の4枚の絵図が見つかったのでしょうか。その理由は島原藩主であった松平忠恕の正室は松代藩主・真田幸弘の妹でした(太田,2002)。二人の間に生まれた子供が島原大変直後に急逝した忠恕の後を継いだ忠馮でした。島原大変関係の文書や絵図は島原藩から江戸幕府に提出するため、島原藩の江戸屋敷に送られ、幕府に提出されました。江戸屋敷におられた奥方が幕府に提出する前に、これらの絵図などを写し取り、実家の松代藩に送った絵図が真田宝物館に残されたと考えられます。」
上記について確認するため、真田宝物館と島原市教育委員会文化財課に問い合わせたところ、以下の回答が得られ、コラム102の推察は修正が必要であることが判明しました。
1) 真田宝物館の回答
「松代藩の六代藩主・真田幸弘の妹・藤姫は、延享五年(1748)に江戸で生まれました。藤姫の輿入れは松平忠恕が宇都宮藩の藩主だった明和五年(1768)です。松平忠恕は安永三年(1774)六月に宇都宮藩から島原藩に転封となりました。藤姫は安永六年(1777)十月に亡くなっています。院号ははじめ玉樹院といい、文化十一年(1813)に珪樹院と改められました。藤姫の履歴については、真田家所有の系譜によります。輿入れ時期は国文学研究資料館編(1998)『松代藩庁と記録』(名著出版)に書かれています。その後に起こった島原大変は、藤姫が死去してかなり経っていますので、島原大変関連の絵図の写しに藤姫個人が関与した可能性は無いと考えられます。」
2) 島原市教育委員会文化財課の回答
「松平文庫に残る藩の記録は、島原に関係するものが多いので、江戸藩邸のことや松代藩との絵図のやり取りの記録は現時点では確認できていません。」
2.島原大変肥後迷惑の絵図は各地に存在する
「島原大変肥後迷惑」は、寛政四年(1792)と江戸時代の後半に発生した大規模な災害であったため、発生地の島原だけでなく日本全国に多くの文書や絵図が残されています。現地調査に基づき、災害の状況を詳しく描いた島原藩の公式記録に加え、民間でも様々な関心から多彩な記録が作成されました。中には写しが重ねられて、広く流布された絵図などもあります。前者は雲仙・普賢岳の噴火や眉山崩壊・津波の研究資料として、後者は人々と災害との関りをうかがうことができます。この中には、災害の実情を必ずしも正確に伝えていないものもありますが、マスコミの発達していない当時、人々の災害イメージを作ったものとして注目されます(小林,2001)。
図1 絵図の所在地にみる災害情報の広がり(国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所,2003)に示されているように、多くの機関に関連する絵図や文書が残されています。長野市の真田博物館に所蔵されている4枚の絵図もその一つと考えられます。
図1 絵図の所在地にみる災害情報の広がり
(国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所,2003)
(雲仙砂防管理センターWeb図書館のサイトで公開されています)
3.佐久市五郎兵衛記念館で所蔵されている絵図
図1には多くの絵図の所蔵先が示されており、各地の図書館・資料館で閲覧できると思います。国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所(2003,雲仙砂防管理センターWeb図書館のサイトで公開されています)や井上(2014)にも多くの絵図が紹介されています。
土木・環境しなの技術支援センターの山浦直人様(2025年5月に砂防学会終了後、一緒に真田宝物館に行き、島原大変の絵図を閲覧しました)に佐久市五郎兵衛記念館に行って頂き、絵図や古文書を閲覧して頂きました。
市川五郎兵衛真親は、江戸時代初期に私財を投じて五郎兵衛用水を開削し、五郎兵衛新田を開発しました。市川五郎兵衛翁の開拓の偉業を顕彰し、関係資料を整理保管するとともに、学術研究に寄与することを目的として、昭和48年(1973)に佐久市五郎兵衛記念館は開館しました。開館当時は北佐久郡浅科村でしたが、平成17年(2005)4月1日に佐久市と合併しました。
図2は、五郎兵衛記念館で所蔵している島原大変関係の絵図と文書の表紙と袋です。
図2 寛政四年肥前国嶋原焼山御届出書写 佐久市五郎兵衛記念館蔵
(五郎兵衛新田古文書目録 第二集 D1357)
これから説明する絵図と説明に当たって、コラム102の表1(一部修正)を再録致します。
表1 寛政の普賢岳噴火の経緯(片山,1974に基づき編集,井上,1999,2014)
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4.寛政の普賢岳噴火の経緯
寛政の普賢岳と眉山の山体崩壊と津波による被害について、再整理してみました。
表1 寛政の普賢岳噴火の経緯(片山,1974に基づき編集,井上,1999,2014を修正)
図3 雲仙普賢岳・眉山周辺の地形分類図(井上,1999),コラム102,図1の拡大図
(A地点は小浜地方で図より西側,範囲外)
表1と図3をもとに、普賢岳の噴火と眉山の山体崩壊の経時変化を説明します。
第1段階 前駆地震(A地点:図3より西部の小浜地方)
寛政三年十月三日(1791.11.3)に始まり、以後毎日のように有感地震が続いた前駆地震の時期です。地震動は島原半島西部の小浜地方で最も強く、震度X〜Yに達しました。十一月十日(12.5)、鬢櫛(小浜)で番小屋にいた老夫婦が落石に打たれ、押しつぶされました。
第2段階 (B〜F地点)
新焼溶岩が噴出し続けた時期です。寛政四年正月(1792.2)には前駆地震はほぼ静まりましたが、次第に雲仙普賢岳付近で山鳴りが激しくなり、大きな地震・鳴動が起って、噴火の始まりを告げました。
普賢祠前の噴火(B地点):
寛政四年正月十八日(1792.2.10)に大きな地震と山鳴りが起って、普賢祠前の噴火が開始されました。正月十九日(2.11)には噴煙が上がりました。火山灰は四方に散り、数里四方の草木は雪霜をかぶったようになりました。正月二十一日(2.13)には噴煙は衰えましたが、鳴動は往日の倍となりました。湯気が噴出した所は沼のようになり、五・六尺ずつ湧き上がりました。
穴迫の噴火(C地点):
琵琶の首、穴迫谷の谷頭で二月六日(2.27)午前10時、かなりの積雪の中、噴火が始まりました。二月八日(2.29)の夜中以降、溶岩がゆっくりと流下し始めました。この様子は櫓木山(路木山)より安全に見ることができました。穴迫谷の溶岩流は「焼け」・「焼け岩」と呼ばれていました。
蜂の窪の噴火(D地点):
二月二十九日(3.21)に蜂の窪(飯祠岩の下の窪み)より始まった噴火から1ヶ月程して、琵琶の首から溶岩が穴迫谷を静かに流れました。
古焼頭の噴火(E地点):
閏二月二日(3.24)に古焼(鳩の穴の少し上から噴出したような小規模溶岩流)の頭で硫黄の煙が噴き出ました(スコリアや溶岩の噴出はない)。
新焼溶岩の流下(F地点):
閏二月三日(3.25)に新焼溶岩がゆっくりと流下し、三月朔日(4.21)にはF地点で停止しました。三会村の礫石原で酸味の強い炭酸泉が湧出しました(寛文三年(1663)の古焼溶岩噴出のときも同地点から湧出がありました)。
第3段階 (G,H地点)
眉山−島原地方を中心として、寛政四年三月朔日(1792.4.21)の新月の時期に三月朔地震が発生しました。この地震群は次第に回数が減っていきましたが、三月二十四日(5.14)でもまだ1日に20回ほどの有感地震がありました。眉山(天狗山)で山鳴りが激しく、強い地震時には天狗山からの崩壊や落石による土煙で山が一時的に見えなくなるほどでした。
三月九日(4.29)に天狗山の東麓にあった楠平では、大規模な地すべり(南北720m、東西1080m、滑落崖90m)が起りました。この地すべりは1ヶ月後の山体崩壊の前兆だった可能性が強く、楠平では地下水の異常な上昇に気付いて、山体崩壊前に避難して助かった者もいました。
三月朔地震(G地点,島原城下):
三月朔日(4.21)夕刻より地震がありました。山鳴りが頻発し、島原城下の最大震度はX〜Y、島原半島北側の守山で震度W〜Xになりました。眉山から巨大な岩石が土煙をあげて崩れ落ち、木々が次々となぎ倒されました。島原で震度W〜Xの地震が8回程度繰返し起きました。今村集落(四月朔地震時の眉山の山体崩壊で埋没)で地割れが多く発生しました。安徳村南名で地割れがあったほか、島原場内で地下水脈に変動がありました。
楠平の地すべり(H地点):
三月九日(4.29)深夜0時過ぎの強い地震をきっかけとして南北720m、東西1080mの楠平が東方向に滑り落ちました。滑落崖は90mもあるかのように見えました。山裾より滑り始め、2段に分かれて地すべりを起こした様でした。
今村の地下水位上昇:
三月中旬頃、楠平前面(東側)の今村地区の六助がふいごを吹いていたが、温度が上がらないため、中をのぞくと割れ目があり、水が逆流しているのが見えたようです。
第4段階 四月朔地震・眉山山体崩壊(T地点)
四月朔日(5.21)20時過ぎにM=6.4±0.2の地震が発生し、眉山の南側(天狗山)が山体崩壊を起こし、島原城下町の南側を飲み込みました。崩壊土砂が有明海に突入したため、有明海沿岸に大津波(半島北部では3波との記録がある)が押し寄せました。津波の水温は平時より高く、島原城下では「あつき」程度、守山方面では「温み」程度でした。上の原の者がいた菜種の刈り置きの番屋がそのまま1500〜1600mもの距離を移動し、海中に押し出されました。立ち木を載せたまま山が滑りました。楠木平の上、南の方が崩れ、安徳村の過半は土石の下になり、中木場村も北の方が同じような被害を受けました。松島と茸山の間の「小深り」は埋め立てられ、地続きになりました。眉山の東側の海岸線は約1kmも前へ出ました。
第5段階
第4段階の眉山(天狗山)崩壊と有明海の津波を指して「島原大変肥後迷惑」といいますが、大災害の後も、地震・火山活動や湧水噴出など地変が止みませんでした。
その後も天狗山は地震のたびに二次崩落を引き起こしました。現在よりも大きな白土湖が形成されたほか、各地で湧水が絶えませんでした。眉山(天狗山)には6筋の縦割れ(谷)ができ、数箇所の穴から泥土が噴出し、煮えるような音がしました。六月以降、普賢岳山頂で再噴火が起こりました。冷えて固まりかけた新焼溶岩も少しずつ崩れました。
島原大変以降続く地震と湧水変化:
四月五日(5.25)、島原城下から半島北部にかけて強い地震があり、海鳴りがしました。四月十日(5.30)、上の原で自噴井を生じ、現在よりも大きな白土湖ができたほか、上の原・万町の湧水は絶えず、数万人の用水に足りました。四月二十八日(6.17)、眉山には六筋の堅割れ(谷)ができ、急崖の中ほどにある数ヶ所の穴から泥土が噴き出し、煮えるような音がしました。
普賢岳再噴火と冷え固まった溶岩の崩壊、眉山二次崩壊:
六月〜七月中旬(1792.8)には、地震の度に眉山が二次崩壊を起こしました。冷えて固まりかけた溶岩も少しずつ崩れました。
5.佐久市五郎兵衛記念館に所蔵されている島原大変関連の絵図と文書
佐久市五郎兵衛記念館に所蔵されている島原大変関連の文書は、島原藩主・松平主殿頭忠恕が島原の噴火の様子をその時々に幕府老中(御用番)に報告したものの写しと思われます。土屋雅憲(1992)に詳しく説明されていますので、土屋雅憲様の了解を得て紹介したいと思います。土屋様は現在長野県文化財保護指導委員、佐久市文化財保護審議会委員を務められています。
土屋雅憲(1992):寛政四年の島原噴火史料―五郎兵衛新田古文書より発見した―,
五郎兵衛新田古文書目録 第二集 D1357
昨年(平成3年(1991))の6月3日に大火砕流を起こして、地元島原地方に大きな被害をもたらし、その後も不気味な活動を続けている島原普賢岳が、今からちょうど200年前の寛政四年(1792)にも大噴火して、地元に大被害をもたらしただけでなく、それから派生した津波によって、有明海の対岸の肥後地方や天草諸島にまで大被害(肥後だけで約5000人の溺死者)をもたらしたことは、「島原大変肥後迷惑」という言葉でよく知られていると思います。
この寛政四年の島原噴火に関する1枚の絵図と1冊(五通)の古文書が、五郎兵衛新田古文書の中から発見されましたので紹介したいと思います(1992年1月20日信濃毎日新聞記事「普賢岳 寛政の古文書 浅科で発見」)。
絵図は、普賢山(岳)の噴火の様子を描いたもので、絵図に書き込まれている説明によれば、閏二月二十一日(3月13日)に島原におもむいた合羽屋五郎兵衛という人からきいた話と、肥後熊本藩の飛脚である松川庄助という人が、三月四日(4月24日)に「高瀬脇の石貫」という場所から「見渡シ」て描いた絵図をもとにして描かれたものと思われます。噴火の様子が朱で示されていて、噴火の激しさを伝えています。
図2「寛政四年肥前国嶋原焼山御届出書写」として示しましたが、土屋雅憲様が絵図の中の文字を翻刻し、絵図の同じ位置に示してあります。図4は元の絵図(カラー図)、図5は土屋様の翻刻結果(翻刻した文字をほぼ同じ位置に配置)を示したものです。噴火の状況がかなり詳しく説明されています。
普賢山(奥山)と眉山(前山・城下町)を同一の絵として入れてありますが、2枚の絵図を入れてあると思います。上の図は三月五日(4月25日)、下の図は三月四日(4月24日)の日付が書かれています。右下に「嶋原御城」が描かれています。
図4 寛政四年肥前国嶋原焼山御届出書写 佐久市五郎兵衛記念館蔵
図5 寛政四年肥前国嶋原焼山御届出書写絵図の翻刻図(土屋雅憲作成)
古文書(図6)は、時の島原藩主松平主殿頭忠恕が、島原の噴火の様子を、その時々に幕府老中(御用番)に報告したものの写しで、二月九日(3月2日)、閏二月六日(3月28日)、三月三日(4月23日)、四月二日(5月22日)、四月付けの五通からなっています。このような報告書を、五郎兵衛新田村の農民(筆跡からみておそらく名主の所左衛門)がどうして写すことができたのかは、いまはわかりません。
表紙には、次のように記されています。
寛政四年
肥前国嶋原焼山御届書写
六月廿四日
これによると、写したのは六月二十四日(8月11日)だったと思われます。
図6 寛政四年肥前国嶋原焼山御届出書写の文書(一部)
5.1 一通目の二月九日(3月2日)付けの報告
寛政四子年正月十八日より松平主殿頭様御在所肥前国嶋原山焼ニ付届、
私在所肥前国嶋原城下より三里程隔り、西之方小浜村と申所ニ高山有之、西裏地低之場所有之、往古より温泉有、右場所を一円温泉寺と唱申候、尤寺院・民家少々御座候、湯治場も建置申候、右場所より壱里程頂上ニ普賢安置仕有之、普賢山と唱申候、右之山去月十八日夜中より鳴動仕、城下迄も響申候、右普賢之祠御座候近辺、少々平成野方ニ御座候、右祠前鳥居際ニ凡差渡し三拾間程之地窪之内、差渡シ三・四間程之穴弐ツ明キ、夫より泥土夥敷吹出申候、泥土野方弐拾歩程之所江流溜穴出申候、湯焼ニ連吹上空ニ登り雲か峯と相見へ申候、同廿日同様之事御座候、次第勢気和相成候得共、右普賢山麓迄兎角鳴動不相止折々地震仕候、然ル所又候城下より弐里隔り普賢山続山三会村之内、穴迫と申唱来候谷有之、右場所去四日より地震致、石砂谷間崩落、同六日巳刻比頻ニ鳴動強焼吹出シ候、普賢程ニてハ無御座候、右湯煙吹出シ場所、最初吹出し所より東ニ当り壱里程隔り候山ニ而、至而嶮岨ニ有之難近寄遠見仕候処、吹出シ近所岩山崩候場所三拾歩程之間と相見え申候、湯気吹出し穴之様子何程之義ニ候哉、相知不申候、田畑・民家無別条、人馬怪我等無御座候、異変之義ニ付此段御届ケ申上候、以上、
一通目の二月九日(3月2日)付けの報告では、正月十八日(2月10日)夜に普賢山が噴火し、島原城下まで響いたこと、差し渡し三〜四間(5.4〜7.2m)ほどの噴火口が二つ開いて、そこからおびただしい泥土が吹き出したこと、普賢山続きの「穴迫」という場所でも、二月六日(2月27日)に噴火があったこと、しかし、田畑や民家には別条のないこと、などが報告されています。
5.2 二通目の閏二月六日(3月28日)付けの報告
弐度目御届ケ二月廿九日御用番 丹波守様江、
口上之覚
一、
先達而御届申上候私在所肥前国嶋原普賢山続山之穴迫と申処、湯気去月九日頃より、夜分火気相見へ候得共、至而嶮岨成所ニ而、殊ニ震地強難近寄遠見仕候処、谷之中焦石砂等段々崩落、下より焼岩顕出、竪百間余、幅ハ八拾間程ニ相見へ申候、右岩少々ツ丶崩、谷底転落候ヘハ、半途大木・大石ニ当り砕散芝等へ焼付申候、大石ニ尤一旦ハ勢気鎮り候様子ニ御座候処、兎角焼留り不申、又々火気強相成り、谷下江焼下り申随ひ谷底より焼岩次第高ク相成、遠方見渡候得ハ、小山吹出し候様相見へ申候、当時様子ニ而ハ何方迄焼広り可申哉難計御座候、
一、
最初吹出候普賢山之義ハ次第ニ鎮り、湯気吹出候跡沼之様ニ相成五・六尺ツ丶涌上候迄御座候、然ル処右場所より拾丁程隔り艮ニ当り蜂窪と申所、去月廿九日頻ニ震動強ク未ノ下刻比焼出し、又々三日同所より弐町程隔り、西之方右同様焼出し申候、両所共ニ嶮岨成場所ニ而難近寄候故、委ハ相分り不申候、其外ニ而も所々少々ツ丶湯煙立候様ニ相見ヘ申候、最初之御届申上候所も湯煙少々ツ丶吹出上ニ而、大造相成候義ニ御座候、此段何程ニ可相成哉難計奉存候、猶又此段御届申上候、
二通目の閏二月六日(3月28日)付けの報告では、二月九日(3月1日)頃から「穴迫」に「夜分火気」が見えるようになったこと、また、いまいう「溶岩ドーム」ができていることが報告されています。すなわち「谷の中、焦げ石など段々崩れ落ち、下より焼け岩顕われ出、堅百間(約180m)余り、幅は八十間(約144m)ほどにも相見え、右岩少々ずつ崩れ、谷そこへ転げ落ち候えば」云々という記述、また「遠方見渡し候えば、小山吹き出し候よう相見え」云々という記述は、溶岩ドームのことを指していると思われます。
さらに、最初に噴火した普賢山は次第に鎮まったが、そこから十町(約1km)ほど隔たった「蜂窪」という場所が二月二十九日(3月21日)に噴火し、閏二月三日(4月23日)には、そこから二町(約218m)ほど隔たった西方からも噴火したこと、などが報告されています。
5.3 三通目の三月三日(4月23日)付けの報告
三月九日御用番 和泉守様ヘ御届、
口上之覚
一、
此間御届申上候私在所肥前国嶋原温泉山普賢山、最初吹出し候所々差而相替り候義も無御座候処、二月九日吹出し蜂之窪至而勢気烈敷、岩崩落強右之近辺山悉崩込、以前より夜分火気相見へ鳴動強ク御座候、且又穴迫吹出し之義、兎角火気強次第ニ谷下へ焼下り、民家程近ク相成申候、然ル所一昨朔日申ノ刻頃より折々地震仕、次第ニ強相成山鳴繁く及深更ニ震動強ク、其度毎ニ頻地震、度毎岩石・砂利等夥敷崩落申候、同夜子ノ刻頃より翌二日卯ノ刻過迄地震烈敷、城内外迄住居・建具等も別レ候程御座候、夜中迄無絶間時々強震申候処、今朝より少々軽ク相成地震も間遠ニ御座候、就右城内外平地幅壱寸ツ丶ひゝれ候所有之、破損所・怪我人等御座候得共、未委細之義相分不申候、先此段御届申上候、
三通目の三月三日(4月23日)付けの報告では、「蜂之窪」と「穴迫」の活動が活発になったこと、三月一日(4月21日)・二日には大規模な地震があって、島原城の内外の住宅や建具がゆれたこと、また、平地に幅一寸(約3cm)の地割れができたこと、しかし、破損や怪我人はないこと、などが報告されています。
5.4 四通目の四月二日(5月22日)付けの報告
四月十一日御用番 伊豆守様江御届ケ、
一、
私在所肥前国嶋原、先達而御届申上候通三月朔日より之地震鳴動追日相鎮り居候処、昨朔日酉ノ刻過至而強地震仕、城郭江近付、前山と申高山頂上より根方迄一時ニ割崩、山水押出し、城下海より高波打上一ツニ成、城下町家悉く并近在共ニ暫時に押流、潰家・大木・大石等流懸り、死人・怪我人数相知レ不申、城下住居之者過半即死仕候様子ニ御座候、山崩等は海中へ押出、小山所々ニ致出来候、只今迄ハ城内先別条無御座候、此段懸御届申上候、
四通目の四月二日(5月22日)付けの報告では、四月一日(5月21日)午後6時過ぎに、これまで以上に強い地震があって、前(眉)山という山が「頂上より根方まで一時に割崩れ」て「山水」を押出し、また海からは「高水」(津波)が打ち上げて、島原城下ならびに近在を「暫時に押し流し」、死人・怪我人の数は知れないこと、城下居住の者は「過半即死」したらしいこと、城内には別条のないこと、などが報告されています。
5.5 五通目の四月付けの報告
一、去ル朔日酉刻過至而強地震両度仕、城郭後之方高山頂上より根方迄一時ニ割崩、水押出し、城下海より右同様高波打上、山水と一ツニ相成、城下町家悉く暫時ニ押流、泥砂利海中江押出し、所々ニ小山出来城中より南十丁程之高サ拾間程土手様ニ相成、海中迄押出し、長サ凡壱里余ニ相見へ申候、南北ニ而拾七ヶ村程浜付人家之分ハ悉く流失仕候、右潮ニ当り候立木、壱丈余も廻り候程之大木等、中程より捻切レ、或ハ根抜ニ相成、町在流失家住居仕候男女惣人数凡弐万七千人余之内、五分通り程も存命之者も怪我人ニ而、養生可相成哉戚難計御座候、且又城下海辺ニ有之小嶋三ヶ所押流シ、右之内東照宮御宮并鎮守社、其外御宮別当和光院、且市中ニ有之候寺院九ヶ寺程流失仕候、出家五・六人存命仕候、将又家城浜手ニ有之候番所役人共流失、且船家押流、舟不残相見へ不申候、船手之者妻子共三百人余、居宅共流失行衛相知レ不申候、右之内五・六人も外江出候而存命、其外小役人妻子共ニ五拾人程、所用有之町方へ出候もの流失仕候、大変後右高山不絶鳴動強ク泥砂流レ候跡、地面難相分程洗流崩、潮入ニ成候場所、又ハ小山之様ニ所々築上人家之跡形一向無御座候、追而門際迄地形押崩レ、地低之処波之様相成申候、右ニ付大手通路相成不申候、未委細之義ハ相分不申候、追而御届之節増減可有御座候と奉存候、以上、
(『五郎兵衛新田古文書目録』第2集 1357-1)
五通目の四月付けの報告では、この四月一日の被害状況をさらに詳しく報告しています。すなわち、山から流れ出した泥砂利が海中へ押し出して所々に小山ができたこと、十七か村行ほどの浜つきの人家はことごとく流出したこと、周りが一丈(約3m)余りもあるような大木などが、途中から捻じ切れたり、根元から抜けたりしていること、およそ二万七千人のうち半数は死亡し、残った半数も怪我をしていて、回復するかどうかわからないこと、寺院や、浜の番所・船なども流出したこと、島原城の追手門ぎわまで押し崩されたこと、などが報告されています。
このようにこの報告書は、地元にあって実際に普賢岳の噴火を体験した島原藩主の筆になるものですから、非常に臨場感あふれるものとなっています。噴火の恐ろしさを、まざまざと伝えるものといえましょう。ちなみに、この筆者である松平忠恕は、四月二十三日(6月12日)に幕府からとりあえず二千両を貸し与えられて復興にあたっていましたが、それから1か月もたたない五月十四日(7月2日)に五十三歳で亡くなっています(『寛政重修諸家譜』第1巻,163p.)。この死には、おそらくこの噴火が影響しているものと思われます。
この古文書自体は、島原藩主から幕府の老中へあてた報告書ですから、内容的にはよく知られているものと思われますが、その写しが信州の一農村にあったということが意味深く思われましたので紹介してみました。
(翻刻および文章:土屋雅憲)
6.むすび
コラム102を公表してから、多く方から問い合わせを頂きました。このことについては、真田宝物館と島原市教育委員会文化財課に確認を行い、1項でコラム102の修正を行いました。
その後、佐久市五郎兵衛記念館に「島原大変」の絵図と古文書があることを知り、土木・環境しなの技術支援センターの山浦直人様と一緒に2025年11月1日に記念館に行き、山浦修一館長と土屋雅憲様とお会いし、絵図や古文書を閲覧させて頂きました。その結果をもとに記念館と土屋雅憲様の許可を頂き、5項でかなり詳しく説明しました。
5通の古文書は、島原藩主・松平主殿頭忠恕が、島原の噴火の様子を、その時々に幕府老中(御用番)に報告したものの写しとみられます。二月九日(3月2日)、閏二月六日(3月28日)、三月三日(4月23日)、四月二日(5月22日)、四月付けの5通からなっています。
このような報告を、五郎兵衛新田村の農民(筆跡からみておそらく名主の所左衛門)がどうして写すことができたのかはわかりません。寛政四年(1792)の「島原大変」が天明三年(1783)の浅間山噴火から9年後であり、浅間山南麓の佐久の住民は大災害に関心が高かったと推測されます。江戸時代も後半の時期で、このような古文書を広められるほど、背景となる社会が充実してきたためでしょうか。
引用・参考文献
- 井上公夫(1999):1792年の島原四月朔地震と島原大変後の地形変化,砂防学会誌,52巻4号,
p.45-54.
- 井上公夫(2014):第2章 寛政の雲仙普賢岳噴火の災害伝承―島原大変肥後迷惑―,
高橋和雄編著:災害伝承―命を守る地域の知恵―,古今書院,口絵,p.3-5.,本文,p.25-52.
- 井上公夫・今村隆正(1997):島原四月朔地震(1792)と島原大変,歴史地震,13号,p.99-112.
- 井上公夫・小林茂(2003):2.2 雲仙普賢岳の寛政噴火と島原大変肥後迷惑,ドキュメント災害史
1703〜2003〜地震・噴火・津波,そして復興〜,国立歴史民俗博物館,p.9-11.
- 井上公夫・松尾卓次・北原糸子・杉本伸一・平尾明(2007):現地見学会 A08,1792年の島原大変に
よる地形変化と被災状況,災害復興の経緯を見学する,現地見学会配布資料,26p.
City on Volcano in Shimabara
- 雲仙岳災害記念館(2003):雲仙普賢岳平成噴火,88p.
- 太田一也(1984):雲仙火山−地形・地質と火山現象−,長崎県,96p.
- 太田一也(2002):寛政四年肥前国島原焼図,予報時報,210号,口絵と解説
- 太田一也(2024):雲仙火山―地形・地質と火山現象―,自費出版,ゆるり,141p.
- 片山信夫(1974):島原大変に関する自然現象の古記録,九大理学部島原火山観測所研報,9号,
p.1-45.
- 国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所(2003):島原大変―日本の歴史上最大の火山災害−,
制作/砂防フロンティア整備推進機構,42p.(雲仙砂防管理センターWeb図書館のサイトで公開
されています)
- 小林茂(2001):島原大変絵図の展示案,国立歴史民俗博物館企画展 歴史資料と災害像展示プロ
ジェクト配布資料
- 国文学研究資料館編(1998):松代藩庁と記録:松代藩日記繰出,史料叢書 2,名著出版,450p.
- 国立歴史民俗博物館(2003):図録『ドキュメント災害史1703-2003』−地震・噴火・津波,
そして復興,167p.
- 小林茂・小野菊雄・関原祐一(1986):島原大変関係図の検討,野口喜久雄・小野菊雄編:九州
地方における近世自然災害の歴史地理学的研究,九州大学教養部,p.4-28.
- 信濃毎日新聞(1992.1.20):普賢岳寛政の古文書 浅科で発見 『島原大変』小山が吹き出した
- 信濃毎日新聞(2002.7.2):江戸時代の普賢岳噴火、克明に 長野・真田宝物館 絵図4枚初公開
- 島原仏教会(1992):たいへん―島原大変2百回忌記念誌―,662p.
- 白石一郎(1985):島原大変,文芸春秋,文春文庫(1989),p.9-105.
- 関原祐一・小野菊雄・小林茂(1986):島原大変時における島原藩の幕府報告図について,野口喜久
雄・小野菊雄編:九州地方における近世自然災害の歴史地理学的研究,九州大学教養部,p.29-35.
- 都司嘉宣・日野貴之(1993):寛政四年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海の熊本県側の津波
浸透高,歴史地震,13号,p.135-173.
- 土屋雅憲(1992):寛政四年の島原噴火史料―五郎兵衛新田古文書より発見した―,五郎兵衛新田古文
書目録 第二集 D1357.
- 東京大学地震研究所(1984):新収日本地震史料,第4巻別館,自4巻別館,自寛政元年(1789)
至天保十四年
- 松尾卓次(1997):島原街道を歩く,葦書房,224p.
- 松尾卓次(1998):島原大変の跡を探して,島原新聞,1998年2月18日〜10月21日(全49回)
- 松尾卓次(2001):大嶽地獄物語,国見町史談会,9p.
- 松尾卓次(2004):新島原街道を歩く,出島文庫,290p.
- 宮地六美・小林茂・関原祐一・小野菊雄・赤木祥彦(1987):島原大変に関する徳川時代の古絵
地図の地質学的解釈,九州大学胸部地学研究報告,25号,p.39-52.
- 歴史地理学会(2000a):2000年度歴史地理学会島原大会発表資料集,84p.
- 歴史地理学会(2000b):島原大変絵図資料集,42p.
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