4.寛文二年(1662)の日光大災害
日光大谷川流域の土砂災害状況を把握するために、集落毎に区長や老人等から過去の土砂・洪水災害について、聞き込み調査と現地調査を行いました(建設省日光砂防事務所,1988)。そして、日光市教育委員会の資料や沼尾(1975)、栃木県立博物館(1984)などをもとに、図7の大谷川流域の災害状況図を作成しました。
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図7を見ると、土砂・洪水災害の分布は、コラム10で述べた大谷川流域の地形・地質特性を反映していることがわかります。特に、当流域で大きな災害は、明治35年(1902)、明治43年(1910)の災害です。
さらに寛文二年(1662)の災害が、当流域ではもっとも激甚であったことがわかりました。前回の図3に示したように、稲荷川上流部の女峰・赤薙火山のカルデラ内部には多くの崩壊地が存在し、土砂流出は極めて活発です。その中でも赤薙山西方の崩壊地は規模が大きく、大鹿落し(崩壊土砂量400万m3)と呼ばれています。
日光・山内の入り口には、日本三奇橋の一つと言われる『神橋』が大谷川に架かっています。沼尾(1975)によれば、橋の長さ28m、幅7mの赤い美しい橋です。この橋の起源は日光開山の祖と言われる勝道上人(732〜817)が貞観九年(767)に架橋した『山菅橋』とか『山菅の蛇橋』と呼ばれる橋と言われています。勝道上人が10人の弟子とともに、この地点で大谷川を渡ろうとしましたが、この地点は非常に急峻で難儀していると、深砂大王が現れて、赤・青2匹の蛇を渡し、そこに山菅を生やして橋とし、勝道上人一行を渡してくれたと言います。
この時期は,前回のコラムで説明した1400年前の二ツ岳降下軽石FPの堆積時期とほぼ同じです。現在の神橋付近の地形を見ると、山岳宗教の修験者達が渡れないような深い渓谷であるとは思えません。当時の大谷川は現在よりも河床が低く、山菅橋がなければ渡れないような急峻な渓谷だったと思われます。まさに、1400年前頃は大谷川の下刻が最も進んでいた時期と考えられます。
従って、FPを載せない低位面Lは、その後の土砂氾濫・堆積によって形成された(現在も形成されつつある)地形面であるということになります。当時すでに、東照宮付近には先住民(アイヌ民族)による宗教施設(二荒山神社など)が存在し、重要な宗教的意味があったと考えられます。二荒(フタラ)はアイヌ語の『熊笹=フトラ』が語源という説があります(『栃木県の地名』,1988)。勝道上人はどうしても日光の山岳地域に入りたかったのでしょう。上人は15年かけて、最初に男体山の山頂に登ったと伝えられています。
大谷川流域で災害記録が最初に現れるのは、1532〜54年に発生した白髭水洪水からで、寛文二年(1662)の災害が最も大きく、天和三年九月一日(1683.10.20)の日光大地震を初めとして、享保八年(1723)頃まで、土砂流出や洪水氾濫が多発しました。
江戸幕府は家康(1543〜1616)の死の翌年、元和三年(1617)の東照宮や輪王寺を造営しました。これらの敷地に住んでいた寺院や人家を強制的に立ち退かせ、鉢石宿より下流の大谷川右岸地域に御幸町(有り難い名前を幕府から頂いた)を造って住まわせました。東照宮完成に伴う宿場町の拡大に伴って、稲荷川と大谷川の合流点付近に徐々に集落が形成されました。図8は承応二年(1653)に発行された『下野日光山之図』(栃木県立博物館蔵)で、山内の道路や寺院の配置と上記の集落の様子が描かれています。1653年以前の稲荷川は輪王寺の載るM2面の崖線に沿った小さな川でした。そして、稲荷川の東側の河川敷には、いなり川一町目から四丁目といなり川うら町通りの二筋の町並みがありました。その下流には『ひのはん(番)屋敷』が描かれています。
稲荷川の中流部の天狗沢との合流点付近には、滝尾神社と呼ばれる大きな神社があり、稲荷町はその門前町として栄えていました。
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図9は寛文二年災害直後の寛文三年(1663)に描かれた『日光山大絵図』(栃木県立博物館蔵)です。千田(1984)によれば、寛文二年六月の災害後、徳川将軍・家綱の社参(10ヶ月後の寛文三年四月)の準備のために作成されたもので、非常に大きかった災害の状況が克明に描かれています。図10は図8と図9の稲荷川から大谷川合流点付近を比較できるように、並べて示したものです。
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稲荷川の河床に存在した人家や道路は不自然な形で消され、北側に10戸、南側の山裾に26戸の人家が残されているに過ぎません。日光地域では、寛文二年六月八日(1662.7.23)より十三日まで大風雨があり、山水押し出し、石垣などの崩れが多く発生しました(『光嶺秘鑑』,『堂社建立記』,『徳川実紀』など)。特に、六月十三日からの大雨で十四日寅刻(午前4時頃)、満山震動して激流押し出し、稲荷川下流部にあった稲荷町四丁目の内、上下40軒を残して、稲荷町二丁目から萩垣町・鍛治町まで300戸を押し流しました。太田南畝の『竹橋余筆』によれば、目付代・田中三左衛門(彼自身も溺死)の邸宅や火の番屋敷も流出しました。
図11は、日光市の1/5000の地形図上に被害状況を示したものです。これらの絵図や地図を持って、山内の東照宮や輪王寺付近を歩くと、当時の石垣や道路がそのままの形で残されており(写真2)、当時の測量技術の確かさに驚かされます。
山内から稲荷川へ抜ける中央の道の石垣は、稲荷川に面した段丘崖まで続き、現在はそこで突然断ち切られたままで残っています(写真3)。つまり、この道は寛文二年災害によって、通行不能となり、放棄された道です。石垣道は現在でも残っていますので、神橋から開山堂を通り滝尾神社まで続く遊歩道を歩いて確認して下さい。
東部日光駅の近くにある
『稲荷町』(前回の図5の上部)は、稲荷川下流地域が災害後に砂礫層が厚く堆積したため、現在地に移転したと伝えられています。このため、別名
『出町』と呼ばれています。日光市石屋町の龍蔵寺には、市街地の南側を流れる志度淵川対岸に宇津野墓地(図5の墓地記号)があります。この墓地には災害直後に建てられた
『稲荷川水難供養塔』(写真4)がありますので、ぜひお参りして下さい。
5.大谷川流域の土砂流出の発生源
図12は稲荷川上流部の最新の1/2.5万地形図(2015年3月調製,7月発行)で,写真5は国土地理院1976年撮影の立体視写真です。前回の図3でも示したように、稲荷川で最も大規模な崩壊地は、最上流部で『大鹿落し』(長さ500m,幅250m,比高さ400m,崩壊土量,数百万m3)と呼ばれる崩壊地です。この大規模崩壊地が寛文二年災害の発生源でしょうか。江戸時代の史料に「大鹿落し」は出てきません。大正時代から使われ始めたようです(日光山岳会の会員であった律院・中川住職の話)。
『光嶺秘鑑』によれば、「古く稲荷川の源頭部・七滝付近に湖水が湛えられていましたが、東側の峻崖が崩れて、天然ダムが決壊し、土砂と洪水が一度に押し出したため」と記されています。大鹿落しは崩壊形状が非常に新鮮なことから、1663年以降、特に明治35年(1902)と43年(1910)の災害で拡大したと判断されます。
日光・今市間の紡錘形扇状地は、図13に示したように1400年前のFPを載せないL面となっています。つまり、最も河床が低かった1400年前以降の土砂・氾濫によって形成された非常に若い沖積扇状地です。
この沖積扇状地の堆積構造を明らかにするため、図13の観測井と示した位置で、テストピット(直径2.5m,深度11m)を掘削し、詳細な地質観察を行いました。その結果を図13に示しました。
第1堆積層(深度0.0〜0.8m)は、最大径15〜20cmで、最下位の埋没土壌の
14C年代は240±90年B.P.(TH-1241)でした。このことから、この堆積層は江戸時代後期以降、特に明治35年(1902)災害時などに・氾濫堆積した土砂と考えられます。
第2堆積層(深度0.8〜1.6m)は、上層より礫径が大きく、最大径30〜40cmで、マトリックスは粗〜細砂でした。下位の埋没土壌の
14C年代は760±120年B.P.(TH-1237)でした。このことから、この堆積層は寛文二年(1662)災害を中心とする時期の堆積土砂と判断しました。
第3堆積層(深度1.6〜8.5m)は、最大径50〜180cmの巨礫を多く含む角礫層からなっており、2回以上の非常に大規模な土砂氾濫・堆積が認められました。
第4堆積層(深度8.5〜11.0m)は、最大径20cm以下で、マトリクスには1.2万年前のIP・SPの塊や水付きロームなどが二次堆積物の中に含まれていました。
第3層と第4層の間の8.5〜9.0mには、多少波打ったローム質シルト層が存在します。従って、これらの層の間にはかなりの時間間隔が存在し、土砂流出の少ない比較的安定していた時期と考えられます。
以上の調査結果などから判断して、日光・今市間の扇状地は大谷川からの土砂流出は少なく、主に左支・稲荷川からの土砂流出によって形成されたことが判りました。特に、寛文二年災害のような土砂流出が数百年毎に繰り返されて、次第に形成されたと考えられます。しかも、1000〜2000年前頃には、現在よりも土砂流出が活発な時期がありました。
図14は、大谷川流域の河床変動模式図を示しています(大石ほか,1986)。土砂流出量の変化に応じて川床レベルが変化し(削平衡作用と積平衡作用)。谷の埋積と侵食(下流への土砂流出)を繰り返しました(M
1とM
2面の形成)。大谷川流域の稲荷川・田母沢・荒沢・深沢などの支流の地形は、背後の地形条件や火山活動によって、また、土砂の流出状況によって大きく異なっています。
6.明治〜昭和の大谷川流域の災害状況
図7は、現地調査と写真判読、アンケート調査や聞き込み調査などによって得られた大谷川流域の災害状況図です(日光砂防工事事務所,1985)。明治以降では、明治35年(1902)、40年(1907)、43年(1910)、大正8年(1919)、昭和21年(1946)、22年(1947)、34年(1959)、41年(1966)に大きな土砂・洪水氾濫がありました。
特に、明治35年(1902)の災害は大きく、神橋も流されてしまいました。当時、神橋の修復のために足場が架けられていましたが、それに流木が塞き止められて、水位が上昇し、決壊洪水が流下したことが原因とも言われています。そして、死者・行方不明者219人、流出家屋801戸の激甚な災害となりました。
9月28日の台風(後に『足尾台風』と呼ばれた)は、日光連山を中心に豪雨をもたらし、鬼怒川を初めとして渡良瀬川(足尾鉱毒事件の始まり)、思川流域で大洪水となりました。さらに、もう一つの熱帯低気圧がほとんど同時に上陸したこともあって、被害は非常に大きく、関東から東北地方まで拡がりました。
中禅寺湖に面した中宮祠の男体山・観音薙では土石流が発生し、中宮祠拝殿が破壊されました。拝殿の中にあった立木観音も中禅寺湖対岸まで流されてしまいました。土石流は日光小学校の中宮祠分教場にも襲いかかり、校舎とともに教師1名とその妻子が生き埋めとなりました。
中禅寺湖直下の細尾地区(図7の左上地区)では、古河鉱業の足尾鉱山から鉱砕を運んでいた鉄索が破壊されました。大谷川南側の含満淵に存在する並び地蔵尊・化(ばけ)地蔵約百体のうち、かなりの地蔵尊が流されてしまいました。
稲荷川と大谷川の合流点より下流の日光・今市間には、見事な紡錘形扇状地が発達しています。明治35年の災害時には、紡錘形扇状地のほとんどの地区が土砂・洪水氾濫地域となりました。今市より下流では、北東方向の古大谷川方向に洪水流の大半は流出しました。江戸時代前半までは、大谷川は今市から古大谷川方向に流れていましたが、徐々に東方向に流下する現在の流路に人工改変されました。明治35年(1902)の大洪水は、人間の営みを無視するかのように、元の古大谷川方向に流れ下りました。
日光杉並木街道は東照宮造営事業の一環として、松平正綱によって寛永二年(1625)から20年間かけて20万本の杉が植えられて整備されたものです。日光杉並木街道を詳しく見ると、会津に向かう街道で古大谷川を横断する箇所では、洪水氾濫被害の激しかった地区の杉並木は流失してしまい、今では存在しません(災害が江戸時代であれば、杉並木が災害復旧されたでしょう)。
稲荷川中流部の標高1100m付近には、高さ46.0m、貯水容量128万m3の日向砂防ダムが日光砂防事務所によって、昭和57年(1982)に完成しました。日向砂防ダム完成から30年以上経過しましたが、ほぼ満砂に近いほど土砂が堆積しました。日向砂防ダムが完成していなければ、100万m3以上の土砂が稲荷川の下流に流出し、日光市街地に大きな被害を与えた可能性が高いことが判ります。
前回の図5に示したように、日光小学校・日光砂防事務所・栃木県日光土木事務所も氾濫原(L面)に移転するなど、日光・今市間の扇状地は、さらに土地利用の高度化が進んでいます。稲荷川流域には多くの砂防ダムが形成され、大谷川流路工が整備されましたが、土地利用の高度化が進んでいるので、より安全度の高い砂防計画(ハード・ソフト対策を含めて)を進める必要があります。