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シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く コラム110 宝永の砂降り以降の酒匂川氾濫と農民たちの対応(1)

1.はじめに

宝永の富士山噴火(1707)とその後の酒匂川の氾濫は、近世を通じて足柄平野では未曾有の大災害となりました。足柄平野の恵みの川である酒匂川が、かつては暴れ川であったということを地元の人達は忘れずに語り伝えています(関口,1993;富士山宝永噴火300年史調査研究会,2007;足柄の歴史再発見クラブ,2024,2025)。酒匂川が最も暴れた近世中期の災害の原因分析や惨状、支配者や農民たちの災害への対応と、被災地の動向についての研究が各方面で進められ、多くの業績が蓄積されています。

富士山の噴火(1707)を契機とした宝永期から享保期(1707〜1736)にかけての酒匂川の氾濫では、足柄平野の農民は『世間類茂御座有間敷き大困窮』(明治大学博物館蔵,瀬戸家資料,享保三年(1718)四月)と記されるほどの暮らしぶりとなりました。「大口水下水損家立六ヶ村(班目(まだらめ)村、岡野村、千津島(せんづしま)村、壗下(まました)村、竹松村、和田河原村)」を中心として、その被害状況や災害復旧・復興の経緯などについて、新しく閲覧した絵図や文章などをもとに、コラム108,109に引き続き、110,111で整理してみました。

本コラムの作成にあたっては、足柄の歴史再発見クラブの関口康弘様に現地案内して頂くとともに、南足柄市郷土資料館、明治大学博物館、平凡社などに資料・絵図の提供を受けました(平凡社,1986;関口,1993;南足柄市,1999;明治大学博物館,2007)。感謝致します。

2.足柄平野の地形特性

写真1は、足柄平野の扇頂部の地形特性を把握するため、国土地理院が昭和52年(1977)9月20日に撮影したカラー写真(CKT-77-2,C8-8〜10)を裸眼立体視が出来るように加工したものです。画面を大きくし、目の間隔の6cmに合わせるため、横向きにしてあります。立体視するには90度回転させて下さい。立体視すると、酒匂川の足柄平野扇頂部の地形状況が良く判ります。ぜひ裸眼立体視の練習をして下さい。裸眼立体視が出来ない方は簡易実体鏡などを使用して下さい。右上にコラム109の図11 酒匂川扇状地の3堤(足柄平野を守る堤防,井上,2007b)を入れました。

明治大学博物館(2007)によれば、近世初期の酒匂川は、足柄平野に入ると乱流状態で、流路も定まらない一方で、平野部の東側は用水に乏しい状態でした。小田原藩の大久保忠世・忠隣(ただちか)政権は、慶長十四年(1609)までに岩流瀬提(がらぜてい)(土手)、大口堤(おおぐちてい)(土手)などを完成させ、酒匂川本流を東遷させたので、旧流路が用水堰となるとともに新堰が建設され、足柄平野の水田化と新田開発が進みました。しかし、酒匂川は安定せず、富士山が噴火する前の寛文十年・十一年(1670・1671)に岩流瀬提(土手)・大口提(土手)が切れて氾濫するなど、甚大な土砂・洪水氾濫がたびたび発生しました。

写真1
写真1 足柄平野扇頂部の立体視写真(国土地理院1977年9月20日撮影,元縮尺1/15000)
CKT-77-2,C8-8~10立体視写真,裸眼立体視用(裸眼で見えない方は簡易実体鏡で見て下さい)
写真2
写真2 春日森堤からみた酒匂川と釜淵
写真3
写真3 新大口橋から見た酒匂川と千貫岩
2026年5月 井上撮影

酒匂川は元々河床勾配が急で、土砂・洪水氾濫を繰り返している河川でした。足柄平野に出る地点の標高は80mで、その地点から見事な扇状地が発達していました。この足柄平野を穀倉地帯とするため、小田原藩が江戸時代の初期から春日森堤(かすがもりてい)(土手)、岩流瀬提(がらせてい)(土手)、大口堤(おおぐちてい)(土手)を構築して、酒匂川扇状地(足柄平野)に田畑を切り開いてきました。酒匂川は洪水流が激しいため、春日森堤で流向を北方向に変えて、釜淵にぶつけて流速を弱めます。さらに岩流瀬提で南方向に流向を変え、南側の千貫岩にぶつけて流速を弱めます。千貫岩は箱根火山から6.6万年前に噴出した火砕流堆積物(溶結して硬岩)の露頭からなります。千貫岩にぶつかって弱められた酒匂川の流れは、大口堤に沿って円を描くようにゆったりと東方向に流れるように計画されました。これらの堤防の完成によって、大口堤より下流の足柄平野は開発が進み、穀倉地帯に変わりました。

図1は、相模国足柄上郡西筋班目(まだらめ)村絵図(近世前期,明治大学博物館蔵)で、図2は南足柄市(1999)に挿入されている図1の解説図です。図1の絵図は、表題が「足柄上郡西筋班目村」とあることや、珠明寺、村の鎮守井ノ宮が班目村内にあること、大口堤上に文命宮の祠や文命東堤碑が描かれていないことから、宝永五年(1708)の噴火以前の図と考えられます。

班目村の北側には酒匂川が流れており、小田原藩の治水工事による大口堤(堤防上には土手を守る林が並ぶ)が描かれています。穴水門の岩盤(千貫岩)から東方へ延びる堤防の様子が良く判ります。宅地は黄色で描かれ、周囲はほとんどが「田・田地」となっています。酒匂川からは大口堤を抜けて、多くの用水路が建設されています。

図1
図1 相模国足柄上郡西筋班目絵図(近世前期,109cm×75cm,明治大学博物館)
図2
図2 相模国足柄上郡西筋班目村絵図解説図(南足柄市,1999)
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3.噴火直後の百姓たちの行動と藩の対応

噴火直後から名主たちを中心として、何回かの寄合を持った百姓たちは、どのような行動をとったのでしょうか。これに対して藩側はどのような対応をしたのでしょうか。

3.1 被災した百姓たちは江戸へ押し掛ける

「先年大口大破旧記之写し」(『南足柄市史』3,No.93)には、南足柄市内に現存する記録類で、砂降り後の農民や藩の動向を最も詳細に記してあるので、この記録類に沿って農民たちと藩の動向を追ってみます。

農民たちの要求は2つありました。

1つは、穀物の援助である扶持(ふち)米(夫食(ふじき))の給付を藩主に訴えること、
富士山噴火のため、宝永四年(1707)の秋に植え付けた麦は砂降りで全滅したためです。
2つは、田畑に積もった砂を取り除くために、幕府からの公費支出を求めました。

この2つの要求実現のため、被災農民たちは江戸に向かうことを決めました。藩主の大久保忠増は当時幕府老中職にあったので、江戸屋敷(藩邸)におり、小田原在勤の藩役人たちの指導力が弱かったことを見極めていたのでしょう。

宝永五年(1708)一月七日、百姓たちは小田原の藩役人たちに江戸行きを通告し、訴願のため藩主のもとに向かいました。ところが途中まで進んだところで、藩の役人に騙されて戻されてしまいました。そこで、同月十一日今度は日程を決めた上で再度江戸へ出発しました。各村々の名主・組頭とその他の百姓合わせて数千人が連れ立ったようです。慌てたのは小田原藩の藩役人たちでした。彼らは訴願に上ぼる一行をどうにか押しとどめようとして、国府津・前川(小田原市)まで追いかけ、何とか説得しようと試みましたが、百姓たちは聞かず、一行は相模川を渡りました。

茅ケ崎の南湖の先で、江戸屋敷から駆け付けた江戸御用人の高筑(高槻)勘助、小田原御用人の広中(広仲)伊右衛門・伊藤文内らと出会いました。高槻は殿様(忠増)の御意の書を携えていました。まず、彼らは百姓たち一行に「とにかく小田原へ戻ること。御達しは途中では公表しない。小田原へ帰れば御用所にて詳しく申し渡しを行う。」と告げたが、一行は納得しませんでした。百姓たちは「何も自分たちの要求が認められないままでは、とうてい引き返すことはできない。」と高槻たちの説得を突っぱねました。しかたがなく高槻たちは妥協し、一行をどうにか押しとどめようとして、申し渡しを行うことにし、百姓たちを南湖宿茶屋裏の砂浜へ集めました。

そこで、殿様すなわち藩側の趣意書が読み下されました。「このたびの砂降りによる田畑の埋まりは百姓たちには難渋のことと思う。しかれば、砂の取り除きに精を出し田畑の開発を行い、皆が難渋にならぬようにいたすべきである。まず当分の間の夫食(食料)として、米2万俵を相模・御厨(みくりや)の村々へ与えよう。であるから江戸への訴願参上は中止し、小田原にすぐに戻るように心得よ。」というものでした。

しかし、一行は、「米2万俵を村々へ頂戴しても、田畑地の復興はできません。私たちは江戸にいる殿様に直接お会いして、藩主導の砂除け開発を御願い申しあげるのです。」と回答し、高槻らが出した藩側の提示を拒否しました。一行は東進し、十一日の夜には藤沢宿に入りました。

3.2 約束をひるがえした藩役人

投宿した後、江戸から加納郷助がやってきて一行を集め、次のように申し渡しました。「先に勘助(高槻)殿から申し渡された通り、米2万俵は夫食として与える。さらに加えて田地復興開発のために金2万7000両を下賜する。復興開発資金の進み如何によっては追加も有り得る。であるからこれから小田原に戻り、復興開発に一生懸命取り組むこと。」との言葉を得た一行は「夫食と開発資金を下賜して頂くとは有り難いことだ。これで江戸へ出て殿様に直接会う必要はなくなった。」とし、小田原に帰ることを承認しました。百姓たちの実力行使の結果、2つの要求が共に認められました。

ところが、翌十二日の晩加納は村々の代表者を小田原の御用所に召し寄せて、次のように発言しました。「このたびは我々の説得を聞き入れ、皆が小田原へ帰ってきたことは大変喜ばしいことだ。しかし、殿さまには御金がないので、2万7000両は出せない。追々金子が調達でき次第、開発金を渡すことができるだろう。以上のことを心得よ。」と言い放った。これに対し名主たち村の代表者は、「これは先般、藤沢宿で申し渡された御趣旨とははなはだしく違っている。私たちは2万7000両の開発援助金が下賜されるというので戻ってきたのです。偽りを申すとは、御侍にあるまじきことであります。」と加納に厳しく迫ったが、彼の発言は撤回されませんでした。

3.3 被災した百姓たちは再度江戸へ

百姓たちは翌十三日、またまた江戸へ押し出しました。一行はその晩は戸塚宿に泊まり、翌十四日品川宿に入りました。加納や郡代衆も小田原を発ち、先回りをして江戸藩邸に一行の動向を知らせました。そこで藩邸では一行を江戸藩邸に入れまいとし、品川にて彼らの宿舎や敷物・鍋・釜に至るまでを用意し、彼らをここにとどめようとしました。十四日の夜、加納は郡代表を伴って品川のある寺へ一行を呼び寄せました。ここで加納は一行に対して、「皆々共、我らの方へ直ちにやってきたのは難儀のことであり、一同の願いの件は至極もっともである。しかし当分金子の目途は立たなく、すぐに援助金は出せない。殿様の御趣意としては、金子を調達して段々と復興開発ができるようにし、百姓を御救いあそばされるので、小田原へ帰るようにとのことである。」と述べました。さらに加納は殿様の直筆の書を一向に示し、「百姓たちが江戸表へ押し掛けることは小田原藩のためにならず、藩のために悪いことは百姓たちにさらに悪いことである。今度の一件については、以後どのようにも悪くは罰しないので小田原へ帰るように」と読み揚げました。これに対して一行は、「この度の砂降りは天災なので殿様を恨むことはありません。しかし、田地が砂に深く埋まり、自力では復興開発ができませんので生活が立ちゆきません。ことに全く耕作ができない者は飢え、段々餓死する者もでてくるでしょう。何とぞ格別の御慈悲をもって、御助け・御救いを御願いします。」と藩側に伝えました。

3.4 藩の態度軟化

百姓たちの必死の請願が実ったのか、ここにきて藩側はようやく態度を変え、「百姓皆が飢え死にしないように段々と御救いを施し、復興開発の件も百姓たちが困り苦しまないようにする。」との回答を示しました。藩側の態度の軟化の裏には、小田原藩領被災地が幕府領に上知(領地替え)されることを(正式決定は翌閏一月三日)既に織り込んで、財政的な責任を幕府に肩代わりをして貰えるとの想定があったようです。藩側の対応の変化には、百姓たちの請願行動によるところもあったと思われますが、このような支配者側の思惑が主な要因と考えられます。また百姓たちも、自分たちが江戸屋敷まで押し掛けることは殿様や藩のためには良くないことであり、それは百姓のためにもならないことであるという藩主の言葉にある程度の理解を示したようです。さらに藩主忠増の「田地の復興開発を進め、百姓たちの苦境を救う」という申し渡しを得たことにより藩と妥協し、一行はようやく鉾先を納め、小田原へ帰ることを承知しました。

3.5 小田原藩領から幕府領へ

その後、相州領・御厨領の村々も名主が小田原へ召し出され、去年の田方・畑方の年貢未進分の免除(噴火が十一月なので、田方年貢はあらかた収納済み)と、高槻が約束した夫食米の2万俵の分配方法として、高100石で砂の深さ1尺に付き31俵5分4厘ずつとする旨が申し渡された。これにより壗下村への割り当ては116俵となりました。このうち58俵は現物の米を支給し、残る58俵は代金にて下賜する旨の書面が藩より出されました。しかし、村は58俵の現物支給を受けただけで、残りの代金分は下賜されませんでした。それは被災した藩領の村々が翌月の閏一月三日付で幕府領となり、小田原藩領ではなくなったためで、藩と百姓たちとの約束は白紙となりました。百姓からみれば支配者が代わっただけで、約束が反故にされたことになりました。

3.6 幕府代官よりの触れ

このように南足柄市域の村々は宝永五年(1708)閏一月三日にすべて幕府領となり、伊奈半左衛門忠順(いなはんざえもんただのぶ)が支配する地域となりました。この上知に際して、幕府の勘定奉行萩原重秀と萩原配下の代官伊奈忠順より上知となった村々へ両人から触書(『南足柄市史』3号,No.70)が出ています。

勘定奉行萩原重秀の村々への申し渡しは、

  1. 噴火による砂は村中の百姓が精を出して取り除くこと、その砂は田畑以外のところに捨てること。
  2. 村中の百姓は勿論のこと、女・子供に至るまで村中総出で一刻も早く砂除けをすること。
  3. 砂の捨て場所がない村は田畑・屋敷に片づけるか、穴を掘って埋めよ。
  4. 降り砂が少なくて耕作に影響がない村は、地主たちの主導で耕作してよい。
  5. 砂の量が多くて、村の百姓たちだけでは取り除きが出来ない場合でも、とにかく砂除けをせよ。そのうちに被害状況の調査をする。
  6. 麦はどうにか収穫できるようにせよ。枯れてしまった場合にはどれくらいの量が枯れてしまったか報告せよ。
  7. 麦が収穫できなければ、他の食料を蓄えて飢えることがないようにせよ。調査の上緊急食糧として夫食に与える。
  8. 村役人はよく村内を巡回せよ。百姓たちに不届きがあれば処罰せよ。
  9. 砂除けの際、隣村との口論や隣村への砂捨てをしてはならない。

という内容でした。

また、幕府代官伊奈半左衛門忠順の村々への申し渡しは、

  1. 被災した小田原藩領はしばらくの間は幕府領となるが、復興開発が済んだら小田原藩領へ戻すので、統治や法は小田原藩領の時のようにし、しっかりと守ること。
  2. 砂除けは、勘定奉行の申し渡し通り油断なく行うこと。今年の田植えができるところは可能の限り田植えをせよ。
  3. 人足徴発など小田原藩の役人から急に命ぜられたら、今までの通り勤めよ。
  4. 木材・薪の調達が小田原藩より命ぜられたら、今まで通り納めること。
  5. 村々の竹木は勝手に伐ってはならない。
  6. 生類憐れみについては、藩領時代と同様に堅く守ること
  7. 火の用心に重々心懸けよ。もし出火したら近隣の村々も消火にあたれ。
  8. 各村の名主が所持している検地帳は紛失せぬようにせよ。

という通達でした。

この内容からすると、幕府は小田原藩領の被災村をしばらくの間幕府領とし、復興開発にめどが立てば直ちに旧領に服すという考えであったようです。砂除けさえ終われば藩領に戻す予定でした。しかし、こののち酒匂川をはじめとする足柄平野の河川は、噴火による砂が大量に流入したため、大洪水を引き起こしたことは幕府にとって大誤算でした。なかでも酒匂川は流路が大きく変化してしまい、流域に住む人々の生活・産業基盤は壊滅状態となってしまいました。

こうして被災した小田原藩の村々は幕府領に編入され、復旧は幕府の手に委ねられてゆくようになります。

4.繰返し続いた酒匂川の大氾濫

しかしながら、富士山の宝永噴火(1707)によって、酒匂川の上流や支渓流、谷壁斜面から降下堆積物が酒匂川の河谷に流入し、酒匂川の河床を上昇させて河積断面を小さくしました。このため、噴火から半年後の宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の豪雨時に、岩流瀬堤と大口堤は決壊し、「大口水下水損家立六ヶ村」を中心として大氾濫し、酒匂川新川と呼ばれる河道を南流しました。

図3-1は享保五年(1720)十月に描かれた『相州酒匂川本川通川除御普請御願絵図』の模写図で、明治大学に寄託される前の昭和27年(1952)頃に福沢村(現南足柄市の一部)教育委員会が模写したものです。南足柄市千津島の瀬戸家(名主を務めていた)には、江戸時代の初期から明治時代にかけて、先祖代々が残して来た多くの絵図や文書が残されていました。このうち千津島村・瀬戸家の大部分の絵図や文書が明治大学博物館に寄宅されました。図3-1,3-2,4は福沢村教育委員会が寄託される前に模写したものですが、本物の絵図は行方不明となっています。このため、南足柄市郷土資料館に行き、郷土資料館にある絵図や古文書などの閲覧と写真撮影(関口氏撮影)をさせて頂きました。

図3-1は、享保五年(1720)十月に描かれた絵図の写しで、大口堤は大きく破壊され、酒匂川が北から南に酒匂川新川となって流れており、大口水下六ヶ村が洪水流の流下氾濫・堆積地であることが良く分かります。宝永噴火前の酒匂川は大口堤の導流によって足柄平野の東方を流れていました。酒匂川の足柄平野の西側半分は墨で塗られており、宝永噴火後に繰り返し発生した土砂・洪水氾濫・堆積域であることを示しています。

図3-2は、酒匂川の扇頂部付近の拡大図で、白文字は図5などをもとに、絵図に書かれた地名などを井上が読み取ったものです。

図4は図3-1の「かぶせ絵」となっており、北側と東側にある図3-1の絵図の部分を折り返したもので、村民の希望する酒匂川の計画図となっています。この計画は大口堤の締め切り工事を行い、酒匂川を元の流路に戻した時の路線計画図となっています。享保五年(1720)に提出された嘆願書と絵図で、それまでの酒匂川の決壊状況が克明に描かれています。

図3
図3-1 相州酒匂川本川通川除御普御願絵図(南足柄市郷土資料館蔵,千津島瀬戸家文書)よりトレース
(2026年6月 関口氏撮影)
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図3-2
図3-2 相州酒匂川本川通川除御普請御願絵図の扇頂部拡大図(2026年6月 関口氏撮影)
白文字地名は図4などをもとに井上追記
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図4
図4 相州酒匂川本川通川除御普請御願絵図のかぶせ絵(酒匂川の河道計画図)
(2026年6月 関口氏撮影)
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図5は、図3-1を関口(1993)が地名等を読めるようにトレースしたものです。分かりやすくするため、今回井上が着色しました。青色は酒匂川新川(東側から狩川が合流)、緑色は酒匂川本川通を示しています。橙色は「水損家立六ヶ村」、黄色△は水損一五ヶ村を示しています。以上の村が酒匂川の「西通」二一ヶ村です。ピンク色は「向通」一五ヶ村を示しています。酒匂川は富士山の宝永噴火以降、豪雨時に岩流瀬堤、大口堤が何度も決壊し、足柄平野の各村に大きな被害を与えてきました。

図3-1,3-2,4,5を比較すると、写真2,3で示した酒匂川と、釜淵、千貫岩の関係が良く分かります。酒匂川は千貫岩を通り過ぎたところで、大口堤を破壊し急に流向を南に変えて、酒匂川新川となって流下し、沼田村付近で狩川と合流し、太平洋に注いでいます。図5では、緑色の河川が酒匂川本川通で富士山宝永噴火以前の酒匂川の流路です。

千貫岩の背後にある小市村は少し標高の高い丘陵地に位置するため、ほとんと被害を受けませんでした。「大口水下水損家立六ヶ村(班目(まだらめ)村、岡野村、千津島(せんづしま)村、壗下(まました)村、竹松村、和田河原村)は大きな損害を受けました。西側の怒田村、炭焼所村などは丘陵地で標高が少し高く、酒匂川の氾濫を受けなかったため、六ヶ村の避難場所となり掘立小屋が立てられました。

図5
図5 新川通をはさんで東西で対立する村々(関口,1993;『南足柄市史』6,1999に着色)
(図3-1 相州酒匂川本川通川除御普請御願絵図(南足柄市郷土資料館蔵,千津島瀬戸家文書)よりトレース)
写真4
写真4 酒匂川扇状地(足柄平野)と酒匂川のジオラマ(南足柄市郷土資料館展示)
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写真4は酒匂川扇状地(足柄平野)と酒匂川のジオラマで、南足柄市郷土資料館に展示されていたものを、許可を頂いて写真撮影しました。足柄平野を守るために構築された春日森堤と釜淵、岩流瀬堤と千貫岩、岩流瀬堤(西堤)、大口堤(東堤)と酒匂川との関係が良く判ります。

引用・参考文献

  • 足柄の歴史再発見クラブ編著(2025):富士山と酒匂川増訂版,154p.
  • 足柄の歴史再発見クラブ(2024):関東大震災のあとをめぐる〜足柄・小田原・秦野〜,129p.
  • 監修小山真人(2003):富士山宝永噴火と土砂災害,企画・発行 国土交通省中部地方整備局富
     士砂防事務所,カラー,37p.,白黒,143p.
  • 関口康弘(1993):宝永の砂降以降の酒匂川氾濫について,市史研究あしがら,5号,p.37-47.
     南足柄市史編集員会
  • 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1707富士山宝永噴火報告書,190p.
  • 富士山宝永大噴火300年史調査研究会(2007):足柄歴史新聞 富士山と酒匂川,足柄の歴史再発見
     クラブ編集,108p.
  • 平凡社(1986):神奈川県アトラス,酒匂川の治水,p.64-65.
  • 明治大学博物館(2007):明治大学博物館2007年度秋季企画展 明治大学所蔵村絵図の世界 故郷
     の原風景を歩く,90p.
  • 南足柄市(1999):南足柄市史6,通史編T,自然・原始・古代・中世・近世,875p.
     第二章 災害と復興に励む人びと,p.425-493.

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