5.伊奈半左衛門支配下の酒匂川の氾濫と対策
富士山の噴火による砂降りにより、領地の多くが甚大な被害を受けた小田原藩は、宝永五年(1708)閏一月三日付で幕府から被災地を上知され、代替地を与えられました。上知が首尾よくいったのは、藩主の大久保忠増が幕府老中職であったことと関係があると思われます。
酒匂川流域の小田原藩領域は宝永五年(1708)閏一月、幕府代官伊奈半左衛門忠順の支配下に入りました。幕府代官所は酒匂村(小田原市,コラム109の写真3)の名主宅に置かれ、さっそくいくつかの救援統治策が施行されました。被災者に対しては夫食米と馬飼料が付与されましたが、各戸の所持面積(反別)に比例して給付されたので、零細農民には不利でした。「先年大口大破旧記之写」(『南足柄市史』3,No.93)で壗下村の様子を見てみると、砂掃料として村へ49両2分・銭1貫115文が給付されました。また、砂降り後の再開発が進み生産可能となった畑に対して麦代金1分・銭530文、馬飼料として2頭につき金3分・銭706文の支給がありました。これらの財源は、幕府が富士山噴火の被災地復興を名目として、全国の大名、幕府直轄領領、旗本領(寺社領を除く)に、高100石につき2両ずつ徴収した諸国高役金で賄われました。
5.1 川浚い御手伝普請
5.2 宝永五年(1708)六月・七月の大水害
5.3 富士山噴火後の被災状況の数値化
6.大口土手決壊と「六ヶ村」の被害
富士山噴火による降砂は、酒匂川上流部の鮎沢川、河内川流域に多く積もりました。降砂は降雨の度に酒匂川へと流下したため、酒匂川の河床は上昇し、足柄平野では度々の堤防決壊がおこり、被害が深まりました。特に岩流瀬堤(土手)と大口堤(土手)の決壊は、酒匂川右岸の「六ヶ村」をはじめとする20ヶ村余りの村々に多大な被害を与えました。
表3、4は宝永五年六月二十二日(1708年8月8日)の出水による岩流瀬堤・大口堤の決壊、及び七月二日の再度の出水後の九月に作成された大口土手水下「六ヶ村」の現況を示した史料から作成したものです。後欠文書なので宛先が不明ですが、支配代官であった伊奈半左衛門忠順宛だと思われます。この史料作成の目的は史料文中の言葉を使うと、昨年の砂降により「諸作退転二而困窮」したが「砂退之御金」を頂き、「百姓精出シ少々宛茂砂取退当秋作」の「仕付」をしました。ところが「此度水二而皆流れ」となり、田畑や住まいに水、砂が押し寄せ、「御林之内或ハ他村之御田地を借り小屋懸」の生活となり大変困っていました。百姓たちは当分の間の食糧もなく、「及飢命ニ迷惑」の極みとなりました。どうか「来四月麦作出来仕候迄御助之御救」い下さるよう代官所に訴えるために作られたものです。表3では村々の人口のうち生産年齢人口の占める割合を出し、表4では農耕生産や運輸、助郷役には欠かせない馬の数を示しています。馬数の激減は史料によると水害が原因とされていますが、降砂による飼料不足が主な原因と考えられます。また、流失耕地面積(宝永四年暮れから同五年五月までに砂退け田植えをした耕地面積)と、四年から五年にかけての田畑の砂退け復興率を算出しました。「六ヶ村」平均すると、わずか半年間で約6割もの耕地が復興されています。前節で検討した砂退けの人足見積帳の絶望的な数字からみると、生きてゆくための生産活動に対する農民たちの必死の姿が分かります。
この後、大口堤(土手)は宝永五年(1708)暮に修復されました。酒匂川上流域より流入した降砂で埋まってしまった「六ヶ村」の農民たちはまたどうにか立て直そうと同年五月、幕府に復興嘆願書を提出しました。それは「六ヶ村」全体の流失耕地面積の83%に置土(流入降り砂の上に客土をする)をし、降砂の流入の浅い耕地17%は砂退けによる復興開発をおこなうことを願い出たものです。また、置土をするための土は丘陵地からなる怒田村や下弘西寺村(向田)から運ぶこととしました。
しかし、大口土手はこの願書が提出された翌月の宝永六年(1709)六月にはまた決壊してしまいました。この決壊の原因は、大口堤(土手)を酒匂川の水勢から守るためにはなくてはならない岩流瀬堤(土手)を修復しなかったためと考えられます。
「六ヶ村」はまたもや降砂の洪水に押し流されてしまいました。
その後、宝永六年(1709)七月から翌七年四月にかけて、幕府は大口土手の締め切りと金井島村から吉田島村にかけての土手改修を行いましたが、翌正徳元年七月二十七日(1711.9.9)の大洪水で大口土手はまたもや決壊してしまいました。以後、酒匂川は享保十一年(1726)四月の江戸町奉行配下の田中休愚による岩流瀬・大口両土手締め切り工事が完成するまで15年間、西側の「六ヶ村」の中を流れて狩川と合流する流路(新川通りと呼ばれた)となりました。このため、近世初頭に固定化された東側の流路(ほぼ現在の流路)を流れなくなりました。
宝永の砂降直前より正徳元年(1711)七月の大口土手決壊後まで、「六ヶ村」の被害状況をまとめたのが表5です。人口減少はもとより馬数の減少がはなはだしく、砂降直前時の1割にもみたない数となっています。馬数の急減は前述しましたが、砂降と洪水の荒廃による飼料不足が主な原因と考えられます。すなわち、洪水により流失した馬もありますが、多くは飼育不能となって、他村、他領へ売却されたものと推測されます。また人口の減少ですが、「六ヶ村」の一つである竹松村で享保六年(1721)に作成された「村鏡」では、砂降前は577人いた人口が享保六年の時点で188人となり、392人も減少しています。この減少の内訳は奉公出稼ぎ183人、餓死184人、病死25人、出家3人となっています。合計等が合わないので検討する余地がありますが、これらの数から表5の人口減少要因がほぼ捉えられます。こうして「六ヶ村」は「郡中各別之大困窮村々」となり、「達者成男女ハ段々奉公ニ罷出、相残者老り・子供・病人・□厄介多ク御座候故、渡世可仕様無御座」、「餓死仕者数多御座候」という暮らしぶりになりました。
大口水下六ヶ村の被災状況(関口,1993)
7.避難所の小屋掛生活
「小屋掛」と呼ばれた避難所生活の様子はどうだったのでしょうか。「小屋掛」とは宝永五年(1708)六月の大口土手決壊後、六ヶ村の多くの人びとは村での生活が不可能となり、西側の丘陵地である内山村、怒田村、下弘西寺(向田)、駒形新宿に緊急避難として簡素な小屋を作って生活をしました(コラム110の図5参照)。
宝永七年(1710)「壗下村による御拝借地開発金交付願書」(『南足柄市史』3,No.74)が幕府代官所へ提出されています。被災民の緊急避難先としては、怒田村御林(小田原藩の直轄山林)、神宮御林(同じく怒田村)、府川村御林(小田原市)の3ヶ所が指定されました。しかし、富士山噴火より3年しか経ていないので、まだどこも降り砂が積もっていて、屋敷地にしたり畑地にしたりするのは大変な労力が必要となりました。表6は村からの距離、あてがわれた面積、人足賃など開発にかかる費用、それぞれの場所の事情などをまとめたものです。その中で府川御料林跡地については、何村かでくじ引きのうえ場所を決めています。壗下村はあまり条件の良くない土地を引いてしまったことや、村から遠いこともあって、ここの開発にあまり積極的でなかったようです。
この「願書」にはさらに引越金額が記載されているので、表7にまとめました。上層富裕農民の村役人クラスから、上通、中通、下通の下層貧農へと農民を4ランクに分け、基準となる1坪当たりの引越代金に差をつけています。6軒ある馬小屋にもその支給を願っています。さらに「願書」には注目すべき記載があります。それは「村内に残る11軒(52人の住人)の家のある付近は降り砂の浅い場所であり、ゆえに村に残っての復興作業が可能ゆえ、今回の引越金給付の訴願はいたしません。」と言っています。宝永五・六年(1708・1709)の大口堤決壊後、壗下村ではすべての家が流され、すべての村民が丘陵地に小屋掛したわけではありません。このことは他の「六ヶ村」でも同様な例があったと推察されます。しかし、翌正徳元年(1711)七月の大水害以降も、このような在村者の例があったのかはわかりません。
8.「六ヶ村」農民による村の立直し策と新川をめぐる東西対立
村内を酒匂川が貫流し大困窮となった「六ヶ村」農民たちは、何度も幕府へ大口土手の締め切りと酒匂川を本来の流路に戻す工事、及び生活扶助の訴願を執拗に繰り返しました。その訴願状のなかで、被災のため生産活動がままならない農民たちが、どうにか自分たちの生活基盤を生み出すために幕府に提出した史料があります。
「六ヶ村」農民たちは享保三年(1718)四月江戸へ召し出された際に、「酒匂川流路をもとに戻す御普請(幕府の行う工事)を御願いしました。この御普請を言い渡して下されば、「六ヶ村」の惣百姓や寺社は避難生活から本村へ戻ることができ、流失した田地も開発復興できます。御普請を行うならば、川の水量の少なくなる秋、冬の間がよいと思われます。私ども「六ヶ村」は大困窮で生業が成り立たないでいます。特に田地が全て流失し、自力での農耕が不可能となっています。」と説明した上で、四月に召し出されたときに訴願状及び絵図と、御普請の経費を3万両と見積もった農民たちの見積もり帳を別紙に記して提出しました。さらに、「この御普請を私共農民に請け負わせて頂けるならば、方々へ散った「六ヶ村」の百姓も村へ戻り、生産活動が再会され困窮から立直れます。また、今後土手の破損などがあれば大口土手水下の村々の農民が総出であたるので、そのときは御普請を続けて請け負わせて頂きたい」と述べています。すなわち「六ヶ村」農民たちは、農耕すらできない大困窮の村々をどうにか立て直そうと幕府に対して大口土手の締め切りはもとより、自ら土手の工事の見積もり帳を作成し、幕府よりこの工事を請け負うとしました。加えてこの工事により現金収入を得て、生活の浮上を図るとともに、この工事をてことして、村々の開発復興を進めようとした農民たちの動向は注目に値します。
しかしこの農民たちの目論見は実りませんでした。そればかりか大口土手締め切りの見通しが立たなくなってきました。災害によって生じた新川通と呼ばれる酒匂川の新流路より東側の村々が、川が西側へ遠のき氾濫の危険が去ったため、新流路の固定を主張し始めました。
享保五年(1720)九月、「相州足柄上郡水損家立六ヶ村惣百姓共」及び「相州足柄上下両郡水損十五ヶ村惣百姓共」の史料では、勘定吟味役の辻六郎左衛門守参に宛てた訴願状があります。「六ヶ村」と共にこれを差し出した「十五ヶ村」は、小市村、怒田村、炭焼所村、駒形新宿村、塚原村、岩原村、沼田村、北ノ窪村、小台村、柳新田村、新屋村、清水新田、府川村、穴部村、穴部新田村です。内容は新川をはさんで向通村々の「六ヶ村」と「十五ヶ村」を合わせた西通村々とが深く対立している様が記してあります。すなわち、土手内三十六か村(狩川下流と狩川・酒匂川右岸の土手の間に位置する村々)は宝永噴火災害以前、御普請などのお願いについては共同歩調をとってきましたが、宝永五年の大口堤決壊以後西通村々と、向通村々とに分かれて対立が起きました。向通は復興開発が進み「分限之者」も現れましたが、こちらの西通は困窮している状況です。また向通だけの治水工事だけを願い、西通の村々を潰して新川の固定をたくらんでいます。元の川筋には水は流れないと向通は偽りを言っていますが、向通の旧流路を利用した2本の用水には水が十分に上っているので、大口土手を締め切っても川は元の流路に戻る、向通は私欲のため私共西通の願いである大口土手を締め切りと、流路の復元を邪魔していると強く主張し訴えました。
この対立した村々の検討状況ですが、『神奈川県史』等で検討されているものの、具体的な村名については未だ十分とは言えません。絵図や他の史料含めて検討してみましょう(関口,1993)。コラム110の図3,図5は、享保五年(1720)十月作成の「相州酒匂川本川通川除御普請願絵図」をもとにして模写されたものです(南足柄市郷土資料館蔵)。これから酒匂川は「六ヶ村」の中を貫流し狩川へ合流している様子がわかります。図中で先ず「土手内三十六ヶ村」をあげてみると、大口土手下の班目村から、狩川下流の穴部新田、そして土手内最下流の蓮正寺村の村々までであると考えられます。その内「足柄上郡水損家立六ヶ村」と「足柄上下両郡水損十五ヶ村」が西通二十一か村であることが、前掲史料の差し出し状から明らかになります。対する向通は、三十六ヶ村のうち残る十五ヶ村となりますが、図中には金井島村から蓮正寺村まで十三ヶ村しか見えません。ところが図中の吉田村と牛島村は村を上下に分けて数える慣例があり、これを踏まえると十五ヶ村となります。以上が西通、向通の具体的村名です。
この対立は、幕府が流路を宝永以前に戻す決定を下し、前述したように享保十一年(1726)四月、田中休愚が大口堤を締め切ることで一応の決着をみました。しかし、激しく対立した禍根はすぐさま解消したとは考えられません。地方巧者と呼ばれた休愚は、大口・岩流瀬両土手の完成にあたり、文命東堤・西堤と名付けて文命碑をたて祭礼を行ったり、彼の指導のもとで新たな水防組織を編成したり、対立をまとめようと対策を工夫しました。
9.田中休愚の施策
9.1 田中休愚の略歴
田中休愚は寛文二年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(東京都あきる野市)の農家の次男として生まれました。農業のかたわら絹織物の行商をしながら見聞を広め、やがて武蔵国橘樹郡小向村(川崎市)田中源左衛門宅に出入りし、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子となります。宝永元年(1704)、家督を継ぎ当主となり、問屋・名主も兼帯するようになります。宝永六年(1709)川崎宿財政立て直しのため、六郷川(多摩川)の渡船権の取り扱いを関東郡代伊奈半左衛門忠順に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築きました。正徳元年(1711)問屋役を養子の太郎左衛門に譲り江戸に遊学し、儒学者の荻生徂徠や成島道筑に学びました。享保五年(1720)、西国を巡歴し、翌六年、自らの経験にもとづいた民政上の意見書である『民間省要』を完成させました。享保七年(1722)、師である成島道筑、さらに町奉行大岡忠相を通じ、八代将軍吉宗に本書は献上されました。これにより幕府から民政への期待がかけられ、同八年(1723)、幕府勘定役人で治水家の井澤弥惣兵衛の指揮下で、武蔵国荒川や多摩川の川除御普請、六郷・二ヶ領用水の御普請を命ぜられました。この工事を成しとげ、10人扶持を給されました。同十一年(1726)、富士山噴火後の洪水に悩む酒匂川の治水工事を行いました。堤防の保護を祈念して岩流瀬堤(土手)に文命西堤碑(写真5)、大口堤(土手)に文命東堤碑(写真6)を建立しました。
享保十四年(1729)七月、新田開発・用水管理や運営の功により大岡忠相配下の支配勘定格に任ぜられ、30人扶持を給され、3万石を管轄しましたが、5ヶ月後の十二月二十二日江戸浜町(東京都中央区日本橋)の役宅で病死しました。享年68歳でした。
左が文命西堤記碑、右の笠石があるのは、文命西堤碑(碑の説明は関口氏)
碑像左から、奉再建文命社御宝前碑、石灯篭、堤記碑、文命東宮、石灯篭、文命東堤碑、
頭だけ見えているのが、文命大明神御宝前碑、手前の亀のような石は不明(碑の説明は関口氏)
9.2 休愚の酒匂川治水登場
田中休愚は酒匂川治水に何時頃からかかわったのでしょうか。享保八年(1723)七月十一日、61歳の休愚が「川通御用」として千津島村に来村し、昼に休憩したとあり、酒匂川流域の村々がいったん幕府領から小田原藩領へ戻されようとしていた頃、すでに休愚は被災地の状況見分に来ていたことがわかります。この後、幕府の指示を受けた小田原藩が、土手締め切りと流路復旧の御普請を行いますが、失敗に終わりました。代わって休愚が本格的に酒匂川治水に登場してきます。
田中休愚が酒匂川治水に取り組む契機となったのは大岡越前守忠相に見いだされ、彼の配下となったためです。大岡は享保の改革を進めた将軍吉宗のもとで、享保二年(1717)町奉行となりました。江戸における活躍は現在では虚像が混じったりしているものの、つとに広く知れわたっています。大岡は享保七年(1722)から延享二年(1745)まで24年間も「地方御用」の役職をも務め、武蔵野新田の開発や酒匂川流域の復興などを手がけた農政・建設官僚としての側面も持ち合わせていました。これは彼が江戸の町ばかりでなく、関東南部の地域を担当したものであり、将軍吉宗の意向が強く働いていたと考えられます。この大岡に休愚が目をかけられたのは、『民間省要』によってです。『民間省要』とは休愚が川崎宿の名主を養子に譲って隠居した後の享保五年(1720)から著したもので、自らの経験や見分にもとづいて民政上の意見が述べられています。休愚はこの著書を書き上げた後、学芸を通じて深い知遇を得た奥坊主で儒者の成島道筑(錦江)に著書を献じ、その後町奉行の大岡忠相を通じて将軍吉宗に献上されたと思われます。そしてこの著書が認められて大岡の配下となり、享保八年(1723)から紀州流治水で有名な井澤弥惣兵衛のもとで荒川の御普請にたずさわっています。
享保十年(1725)二月大岡邸において、田中休愚が大岡の配下として来年から酒匂川治水にあたること、それにかかる経費は町奉行所から支給されることとなったこと、などの発言が大岡からありました。これは休愚が大岡の指揮監督のもとで、直ちに酒匂川治水に取り組むことが決定されたことを示しています。しかし休愚はこの時点では正式には町奉行の配下ではなく、享保十四年(1729)七月に大岡配下の支配勘定格になるまでは、関東郡代伊奈半左衛門支配であったようです。
9.3 休愚の大口土手締め切り
田中休愚は伊奈半左衛門配下でしたが、「相州酒匂川両堤御普請所掛り」となったので、享保十一年(1726)普請を開始しました。「酒匂川両堤」とは大口堤(土手)と岩流瀬堤(土手)のことで、普請は正徳元年(1711)の大洪水で流失した2つの土手を再構築しつつ、酒匂川流路を富士山宝永噴火以前の状態に戻すことでした。享保十一年(1726)一月二十七日、休愚が現地宿舎としていた川村向原(山北町)の花蔵院にて土手締切りのための構造物である枠製作の入札を行い、川村大工が落札しました。「先年大口大破旧記之写」(『南足柄市史』3,No.93)には、二月二十二日より普請が始まったと記されています。地元川村大工による落札は、民政を重視する休愚の采配が早くも当地で発揮されたためです。酒匂川の流路が富士山噴火以前に戻されたため、「大口水下六ヶ村」などは、小田原藩領から再び幕府領となりました。支配代官は勘定奉行配下の日野小左衛門でした。ここに治水は町奉行の実質的配下の者が担当し、支配は勘定奉行が行う特別な支配関係となりました。しかし、これは一時的なもので、翌年の享保十二年(1727)には支配代官が日野から町奉行支配下の代官岩手藤左衛門信猶となり、治水・支配ともに町奉行配下となりました。特別な支配関係は改められ、支配の一体化が行われたのは、幕府による酒匂川普請体制の強化策でした。
大口土手の締め切り工法ですが、休愚は立枠や弁慶枠と呼ばれる枠(護岸水制の構造物)を使用しました。これらの枠工を食い違いに並べ、水勢のあたる土手の表に設置し、大口堤(土手)の締め切りに成功しました。弁慶枠とは、写真7に示したように、丸太等の木材を組み上げて中に石を詰めて設置したもので、仕上げに大口堤の周囲に蛇篭を括り付けました。これにより弁慶枠の強度を補強しつつ、水勢にも堪えられるようにしたものです。また、休愚は、千代村(小田原市)蓮華寺の僧に読経させた陀羅尼経一巻を蛇籠一本ごとに仕込ませました。その数は1000巻にも及んだと言われています。そのため、大口堤を陀羅尼堤とか法華堤とも呼んだという伝承も残っています(『新編相模国風土記稿』)。とにかく、休愚は信仰の力まで活用した短期間集中工法で土手締切り工事を完成させました。「先年大口大破旧記之写」(『南足柄市史』3,No.93)には、土手締切りは四月中には済んだと記されています。大口堤(土手)とこれに付随連続する土手修築工事は六月二十九日に終了しました。酒匂川は国役普請の指定河川ではありませんが、特例として認められたようです。この特認に関しては将軍吉宗が関与しており、酒匂川普請は一定の便宜が図られたようです。
9.4 休愚による文命宮の創設と祭礼の開始
休愚は土手締切り工事の完成後、大口・岩流瀬堤上に治水の神である古代中国の伝説の王、禹王を祀りました。禹王は別名文命と言いますが、休愚はそれぞれの堤に文命社を創設しました。ここから岩流瀬堰(土手)の上にある碑を文命西堤碑、大口堤(土手)の上にある碑を文命東堤碑と呼ぶようになりました。休愚は両文命社を建てた後、その境内に治水の心構えや文命の由来を格調高い漢文体で刻んだ石碑を建てました。現存する文命西堤碑(写真5)、文命東堤碑(写真6)です。しかし、大口堤(土手)上にある文命東堤碑は2碑あり、現在は文命東堤前碑、同後碑と呼んでいます。後碑についてはその碑文や成立過程等に不明な点がありましたが、瀬戸(1994)はその解明を試みています。東西の碑文の撰文は荻生徂徠の逸話を集めた「蘐園雑話」によれば、休愚が起案した文章が大岡忠相から将軍吉宗に届けられ、吉宗がこの件については徂徠に相談せよと命じたので、碑文は大岡から徂徠に渡りました。ここで徂徠が大幅に書き直して大岡を通じて、休愚に戻されました。休愚の直接の上司である大岡忠相が中心となっており、大岡忠相が酒匂川治水において総括的な働きをしたことが分かります。大河川とは言えない酒匂川の堤防上に碑文を刻むにあたって、将軍に申し立てを行っているのは、将軍自らこの普請に強い関心を示していたためでしょう。酒匂川の下流には重要な交通路線東海道が通っていることが大きな要因と思われます。
文命東堤の碑文の後半部に「すべてこの事がお上[将軍]のお耳にも達し、金百両を賜って祭祀の資金とせよ」と仰せ付けられたと記されています。そこで幕府は休愚を通して、堤防改修工事にかかわった農民たちに金100両を下賜し、永く文命を敬い、祭祀を怠らないようにさせ、さらに「堤の上に桃・李・梨・栗を植えて、神への供え物とした」とあり、現在でも形を変えて存続する文命宮祭礼の創始が示されています。この祭礼の創始にあたっても、田中休愚が主体的にかかわっていました。文命宮の建立と祭礼の創始は、地域民衆に自らが水防を行うことを意識させるものでした。
毎年4月朔日、人びとが堤防に集まり、土手に石を積むという作業は、地域民衆が主体となって治水を行うころを象徴する重要な儀礼となっていたと指摘されています。
この祭礼は、班目村・千津島村・岡野村(開成町)・壗下村・竹松村・和田河原村の大口水下六ヶ村と延沢村・宮台村・中之宮村・牛島村・円通寺村(以上開成町)・小市村・怒田村の13か村で運営されていました(コラム110の図5参照)。祭祀は千津島宝生院が勤めていましたが、後にこの寺が無住となってからは、宮台村浄蓮院が別当を勤めることとなりました。祭礼の開始は享保十二年(1727)四月朔日と伝えられています。以後毎年4月1日に祭礼をとり行うことになりました。写真8は文命西社の祭礼、写真9は文命東社の祭礼(東奥は福沢神社本殿)の写真で、関口氏に提供して頂きました。
田中休愚は享保十一年(1726)、大口堤(土手)の締め切りと岩流瀬堤(土手)の修築を行っています。次に大口土手より下流の土手も修築の御普請を行っています。しかし、休愚が普請中の享保十一年(1726)五月二日・二十日・二十四日に出水があり、普請をした箇所(大口堤(土手)より下流)が流出しました。これらの破堤箇所も、六月までに修復しました。
大岡の命により、その後の川除御普請も休愚の担当となりました。ところが、七月中に洪水が起こり、吉田島村(開成町)・曽比村(小田原市)境の土手が流失してしまいました。このため、吉田島村の1056間(1922m)の土手を修復しなければなりませんでした。この七月の水害は酒匂川東岸も被害を受けたので、これ以降休愚は西岸(右岸)の土手普請を行いました。翌十二年(1727)も吉田嶋村などの西岸(右岸)の土手の普請は行いました。酒匂川の東岸(左岸)はこの時は小田原藩領で田中休愚の担当範囲外でした。
10.まとめ
以上、コラム108~111で説明してきましたが、富士山の宝永噴火(1707)によって、富士山の東麓から神奈川県全域(一部東京都・千葉県)まで激甚な災害を受けました。
- 元禄十六年十一月二十三日(1703.12.31)の元禄地震(M7.9〜8.2)
- 宝永四年十月四日(1707.10.28)の宝永地震(M8.4〜8.9)
- 宝永四年十一月二十三日(1707.12.16)富士山宝永噴火による砂降り
- 宝永五年六月二十日日(1708.8.8)豪雨による酒匂川などの土砂・洪水氾濫
- 以後豪雨の度に、堤防(岩流瀬堤・大口堤など)の決壊・氾濫が何度も発生
酒匂川流域はまさに繰り返し災害が続く複合災害でした。しかし、被災民は負けてはいませんでした。
- 皆瀬川の瀬替えによる山北町の復興(コラム108の5項)
- 天地返しによる復興(コラム108の6項)
- 酒匂川の大氾濫と岩流瀬堤・大口堤の修復(コラム110の4項)
- 文命宮の創設と祭礼の開始(コラム111の9項)
- 平塚市金目川流域の砂浚いと瀬替え工事(コラム109の8.3項)
今後予想される富士山噴火や海溝型巨大地震による被害を考える際には、単一の災害ではなく、地震・噴火・豪雨による複合災害となる可能性の高いことを考慮する必要があります。
コラム110、111の原稿執筆に当たっては、足柄の歴史再発見クラブ会長の関口康弘氏を始めとして、南足柄市立郷土資料館、明治大学博物館の関係各位に大変お世話になりました。熱く御礼申し上げます。
なお、2025年11月21日(金)に神奈川県足柄上合同庁舎5階大会議場で、「かながわの砂防事業100周年記念講演会〜地域を守る次の100年に向けて〜」が開催され、井上は「関東地方の歴史的大規模土砂災害」と題して講演しました。新松田駅から合同庁舎に向かう途中の酒匂川の十文字橋からみた雪をかぶった富士山がとても美しかったので撮影したのが写真10です。
引用・参考文献
- 足柄の歴史再発見クラブ(2024):関東大震災のあとをめぐる〜足柄・小田原・秦野〜,129p.
- 足柄の歴史再発見クラブ編著(2025):富士山と酒匂川増訂版,154p.
-
井上公夫(2005):元禄地震(1703)と富士山宝永噴火(1707)による土砂災害と復興過程
―山北町における最近の史料学・考古学的成果による再検討―,歴史地震,20号,p.247-255. -
井上公夫(2006):第5章 長期化する二次災害への対応,第1節 頻発する土砂災害と対応,
中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1707富士山宝永噴火」,p.124-146. -
井上公夫(2007):富士山宝永噴火(1707)後の長期間に及んだ土砂災害,富士山,
荒牧茂雄・藤井敏嗣・中田節也・宮地直道編集,火山学会,p.427-439. -
井上公夫(2014):富士山宝永噴火後の土砂災害,特集 火山災害は噴火だけじゃない,地理,59巻5号,
口絵,p.2-3.,本文,p.42-50. - 井上公夫(2025):関東地方の歴史的大規模土砂災害,かながわの砂防事業100周年記念講演会,p.35-75.
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岩崎清美(1996):近世後期における儀礼の変容と地域―相模国足柄上郡文命宮さいれいを中心にして―,
市史研究あしがら,8号,p.1-22. 南足柄市史編集委員会 -
神奈川県砂防課・神奈川県治水砂防協会共催(2025):かながわの砂防事業100周年記念講演会
〜地域を守る次の100年に向けて〜,86p. -
監修小山真人(2003):富士山宝永噴火と土砂災害,企画・発行 国土交通省中部地方整備局富
士砂防事務所,カラー,37p.,白黒,143p. -
関口康弘(1993):宝永の砂降以降の酒匂川氾濫について,市史研究あしがら,5号,p.37-47.
南足柄市史編集員会 - 瀬戸崎雄(1972):金井島の研究,日本図書文化協会,180p.
- 瀬戸長治(1994):文命碑を考える,市史研究あしがら,6号,p.13-34. 南足柄市史編集委員会
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1707富士山宝永噴火報告書,190p.
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富士山宝永大噴火300年史調査研究会(2007):足柄歴史新聞 富士山と酒匂川,足柄の歴史再発見
クラブ編集,108p. - 平凡社(1986):神奈川県アトラス,酒匂川の治水,p.64-65.
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南足柄市(1999):南足柄市史6,通史編T,自然・原始・古代・中世・近世,875p.
第二章 災害と復興に励む人びと,p.425-493.
