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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム12: 1707年の宝永地震による仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム
 

1.宝永地震(1707)による土砂災害
 宝永四年十月四日(1707年10月28日)に発生した宝永南海・東南海地震は、日本列島周辺で最大規模の地震で、震動の範囲は北海道を除く日本全国に及びました。震源は遠州灘と紀伊半島沖で、東南海と南海地震の2つの地震(いずれもM8.4程度)がほぼ同時に発生しました(飯田,1979,宇佐美,2003)。
 図1は、4つの海溝型地震(1707年の宝永地震,1854年の安政地震,1923年の関東地震,2011年の東北地方太平洋沖地震)による土砂災害地点を示しています(井上,2013)。現在までに、宝永地震によって18箇所の土砂災害地点が特定できていますが、この中から主な3箇所について、どのような土砂災害だったのか紹介したいと思います。

図1 4つの海溝型地震による土砂災害地点の分布図(井上,2013,一部追記)防災科学技術研究所客員研究員(現消防庁消防研究センター研究官)土志田正二作成
図1 4つの海溝型地震による土砂災害地点の分布図(井上,2013,一部追記)
防災科学技術研究所客員研究員(現消防庁消防研究センター研究官)土志田正二作成

2.宝永南海地震(1707)による仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム
2.1 仁淀川の天然ダム形成地点の地形地質状況
 四国山地砂防ボランティア協会は、平成20年度土砂災害防止講習会を2008年6月30日に高知県長岡郡本山町のプラチナセンターで開催し、井上は「大規模地震と土砂災害」と題して講演しました。講演終了後、高知県越知町の山本武美氏から宝永四年十月四日未刻(1707年10月28日)の宝永南海地震によって、高知県高岡郡越知町鎌井田の舞ヶ鼻地先において、仁淀川に天然ダムが形成されという石碑と史料があると紹介して頂きました。このため、山本武美氏に現地案内して頂き、2008年10月3日と12月2日に現地調査を実施しました。現地調査前に、越知町の吉岡珍正町長からも関連資料を頂き、現地に残る貴重な石碑を調査しました。
 越知町(1984)の『越知町史』巻末の越知町史年表によれば、1707年の項に、「大地震で舞ヶ鼻崩壊し、仁淀川を堰き止め洪水を起こす」と記されています。越知町柴尾部落の長老・山本佐久實氏によれば、「4日間湛水し、満水となって決壊し、仁淀川下流の高知県いの町に被害をもたらした」と話されました。写真1は、天然ダムを形成したと考えられる崩壊地の跡地形です。崩壊発生から300年以上経っているため、植生が繁茂して崩壊地形は分かりにくくなっていますが、地すべり地形の形状は分ります。写真2、3に示したように、仁淀川の対岸には角礫状の巨礫が多く分布する台地状地形が存在し、河道閉塞地点であることが分りました。この付近は、仁淀川の中流域に位置し、河床は砂礫が堆積しており、このような大転石の密集地は他に存在しません。

写真1 天然ダムを形成した仁淀川左岸の崩壊地形(鎌井田の林道から望む,2008年10月井上撮影)
写真1 天然ダムを形成した仁淀川左岸の崩壊地形(鎌井田の林道から望む,2008年10月井上撮影)

写真2 仁淀川右岸の巨礫岩塊が多く存在する台地(対岸の県道から望む,2008年12月井上撮影) 写真3 対岸に厚く堆積する巨大な角礫層(対岸の県道から望む,2008年12月井上撮影)
写真2 仁淀川右岸の巨礫岩塊が多く存在する台地 写真3 対岸に厚く堆積する巨大な角礫層
(対岸の県道から望む,2008年12月井上撮影)

写真4 対岸から見た地すべり性崩壊(2008年12月井上撮影,対岸に舟で渡る) 写真5 巨大な硬質角礫が密集する台地(2008年12月井上撮影,対岸に舟で渡る)
写真4 対岸から見た地すべり性崩壊 写真5 巨大な硬質角礫が密集する台地
(2008年12月井上撮影,対岸に舟で渡る)

 地質調査総合センター(2007)の地質図によれば、秩父累帯北帯の勝ヶ瀬ユニット(中生代ジュラ紀前期)の硬質な泥質混在岩・塊状砂岩・チャートなどからなります。仁淀川は越知盆地からこの地域に入ると、急峻な谷地形をなして、かん入蛇行しながら流れています(岡林ほか1978 a,b)。写真1と4に示したように、河道閉塞地点は地すべり性崩壊の痕跡地形であることが分ります。
 2008年12月2日に山本氏の案内で、元高知県防災砂防課長の斉藤楠一氏と一緒に、舟で対岸に渡り、現地調査を行いました。対岸はイノシシの棲みかで、多くの足跡がありました。斉藤氏は少し下流の鎌井田出身で子供の頃に仁淀川で良く遊んでいたと話されました。その当時、対岸の台地はもっと高く、多くの岩塊が存在したと言われました。このため、河積断面が不足し、上流の越知盆地がしばしば氾濫する一要因となりました。その後、昭和21〜22年(1946〜47)に地域の人達は多くの岩塊を撤去し、河積断面を拡幅する工事をしたそうです。
 図2は天然ダムの河道閉塞地点と湛水範囲、石碑の位置を示したものです。図3は高知県砂防指定地区域図(縮尺1/5000、越知土木越知町17-4、17-5、1999年1月現在)を基に作成した河道閉塞地点の横断面図です。

図2 仁淀川越知町の天然ダムの河道閉塞地点と湛水範囲,石碑の位置(井上・桜井2009)
図2 仁淀川越知町の天然ダムの河道閉塞地点と湛水範囲,石碑の位置(井上・桜井2009)
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図3 河道閉塞地点の横断面図(井上・桜井2009)
図3 河道閉塞地点の横断面図(井上・桜井2009)

 高知県砂防指定地区域図(10mコンター)をもとに、河道閉塞を起こした知すべり性崩壊地の面積を求めると、面積12.5万m2、移動岩塊量442万m3、河道閉塞岩塊240万m3程度となります。
 この天然ダムの湛水面積と湛水量を1/2.5万地形図をもとに計測すると、湛水面積は480万m2(4.8km2)、水深18m(=最高水位61m−河床標高43m)であるので、湛水量はV=1/3×S×Hとして、2880万m3となります。決壊までの時間が4日(R=96時間=35万秒)であるので、この時の仁淀川の平均流入量は、Q=V/Rで、83.3m3/Sとなります。

2.2 湛水範囲を示す石碑
 この地点から上流の越知盆地周辺には、標高が61mとほぼ同じ高さの5ヶ所に宝永の天然ダムのことを記録した石碑が現存しています。これらの石碑を山本武美氏に案内して頂き、図2に天然ダムの石碑の位置を記入しました。そして、天然ダムの湛水高を標高60mの等高線として、湛水範囲を示しました。その結果、河道閉塞地点の崩壊地形は比較的規模は小さいですが、かなり規模の大きな天然ダムであることが分りました。
 石碑の写真を写真6〜8に示しました。屋外に置いてある石碑の文字はほとんど読むことができませんが、女川の石碑(写真8)のみ阿弥陀堂の中にあり、「南無大師扁照金剛 宝永七 尾名川村 惣中」と読むことができ、これらの石碑は宝永四年の災害から3年後の宝永七年(1710)に建立されたことがわかります。他の石碑は風化が進み、文字が読みにくくなっていますが、祈願文と年次の文字は同じで、地名だけが建立地点の地域名になっています。山本佐久實氏によれば、女川(尾名川村)の阿弥陀堂は、湛水標高(61m)付近にあったのですが、現在地の高台に少し移設されたということでした。残念ながら、今成(イマナリ)の石碑は見つかっていません。

写真6 柴尾の観音堂と石碑(左側は吉岡町長) 写真7 柴尾の石碑(越知町柴尾地先)
写真6 柴尾の観音堂と石碑(左側は吉岡町長) 写真7 柴尾の石碑(越知町柴尾地先)

写真8 女川の石碑(越知町女川地先)(2008年10月井上撮影) 写真9 洗浄され読みやすくなった石碑と説明看板(2011年9月1日、山本武美氏撮影)
写真8 女川の石碑(越知町女川地先)
(2008年10月井上撮影)
写真9 洗浄され読みやすくなった石碑と説明看板
(2011年9月1日、山本武美氏撮影)

 越知盆地の出口では、仁淀川と支流の柳瀬川の洪水流が合流して北方向の狭窄部に流入するため、何度も激甚な湛水被害を受けてきました。特に、平成16年(2004)の台風23号(氾濫水位、 標高60.83m)と平成17年(2005)の台風14号(同標高61.10m)によって、激甚な洪水氾濫被害を蒙りました。このため、高知県中央西土木事務所越知事務所では、柳瀬川の氾濫地域の電信柱数十本に標高61.0mの高さに、柳瀬川の増水注意(写真10,11)の看板を設置し、洪水氾濫に対する注意喚起を行っています。

写真10 越知盆地の電信柱の洪水水位標識(2008年10月井上撮影) 写真11 柳瀬川の洪水水位標識(標高61m)(2008年10月井上撮影)
写真10 越知盆地の電信柱の洪水水位標識 写真11 柳瀬川の洪水水位標識(標高61m)
(2008年10月井上撮影)

 宝永南海地震で形成された天然ダムの湛水標高は61mで、上記の洪水氾濫水位とほぼ同じです。図2に示されているように、現在の越知町の集落はこの湛水標高より上部の河成段丘上に大部分が位置しています。地元では、「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っており、61mより低い地域は人家がなく、現在でも大部分が水田となっています。吉岡町長はこれらの石碑を見ながら、「平成16(2004)、17年(2005)の柳瀬川の洪水氾濫では、激甚な被害を受けましたが、300年前の天然ダムの湛水標高がほぼ同じ標高61mであることに驚いた。湛水位を示す石碑を大切に保存して、言い伝えを含めて『貴重な防災教訓』として、越知町民に伝えて行きたい」と話されました。

3 白鳳地震(684)による仁淀川左岸の崩壊と天然ダム
 図4に示したように、「舞ヶ鼻よりも1km上流の横畠東には大規模地すべり地形が存在し,白鳳地震(684)によって大規模な地すべりが発生し、仁淀川を塞き止めて天然ダムが形成された」という伝承を山本武美氏から教えて頂きました。
 このため、平成23年(2011)10月に高知大学の横山先生や山本氏などと現地調査を行いました。図5に示したように、横畑東の滑落崖付近には,ジュラ紀のチャートの巨礫が集中するが,チャートの連続した地層は存在しません。滑落崖直下にはチャートブロックが点在し,地すべり移動体中にも点在します。地すべり移動体は「砂岩>泥質岩」となっていました。チャート巨礫は滑落崖に露出していたチャートブロックの崩壊で発生したものと考えられます。

図4 横畠東の河道閉塞地点と湛水範囲 図5 横畠東の地すべり地形と河道閉塞状況
図4 横畠東の河道閉塞地点と湛水範囲 図5 横畠東の地すべり地形と河道閉塞状況
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 仁淀川対岸の宮地地区には,チャートの巨礫を含む堆積物が存在しました。この地域の基岩は物部川層群からなり,チャート巨礫は異地性であり,対岸の横畠東のチャート巨礫と同サイズ です。したがって,横畠東から大規模で急激な地すべり変動によって仁淀川を河道閉塞し,滑落崖の幅とほぼ同じ範囲に堆積したと判断しました。現在は仁淀川の河床にチャート礫は1か所しか存在しませんが(人為的に撤去?),決壊時に流出したか,河床に埋まっている可能性があります。
 仁淀川の堰止高の推定は困難ですが,宮地では標高80mまでチャート礫は存在するので,湛水標高70m程度の天然ダムが形成されたと判断しました。標高70m(湛水高25m)とすると,湛水面積710万m2,湛水量5900万m3となります。舞ヶ鼻の天然ダムの湛水標高は61m(湛水高18m)であるので,さらに湛水範囲は大きく,越知町の市街地も大部分が水没してしまったことになります。
 この天然ダムは何時頃形成されたのでしょうか。
 宮地字宮ノ奥にある小村神社は,「祭神は國常立尊で,神亀元年(724)甲子九月十五日勘請し,當村の総鎮守とする。・・・神様は洪水により杉ノ端に漂着した神様を日下の神主鈴木忠重が日下の小村神社として勘請した。」と記されています。724年に建立された神社は集落よりも仁淀川よりにありましたが,現在地に移設された(時期は不明)と言われています。従って,小村神社は724年前後に建立されたと考えられます。
 白鳳地震は、静岡大学防災センター,古代・中世地震史料データベース(事象番号:06841129)〔日本書紀〕)によれば、
 天武十三年十月十四日(684.11.29グレゴリオ暦)冬十月己卯朔、逮于人定、大地震。
擧國男女叫唱、不知東西。則山崩河涌。諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔神社、破壞之類、不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時伊豫湯泉、沒而不出。土左國田苑五十餘萬頃沒為海。古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如皷、聞干東方。
 口語訳によれば,「684年11月29日20-22時頃に大地震があり,国を挙げて人々が叫び逃げ惑った。山が崩れて河が涌き,諸国の官舎・一般倉屋・寺社の破壊したものは数知れず,人畜が多数死傷した。伊予の(道後)温泉が出なくなり,土佐の田地50余万頃(しろ)(約12km2)が海水に没した(地震に伴う地殻の沈降か)。」と記されているので,この地震により天然ダムが形成された可能性があります。
 横畠東の天然ダムについては、さらに調査を進めて行きたいと思います。

写真12 横畠東の地すべり地形(2011年10月井上撮影) 図5 対岸の宮地下にあるチャートの大転石(2011年10月井上撮影)
写真12 横畠東の地すべり地形 図5 対岸の宮地下にあるチャートの大転石
(2011年10月井上撮影)

引用・参考文献
・飯田汲事(1979):明応地震・天正地震・宝永地震・安政地震の震害と震度分布,愛知県防災会議地震部会,109p.
・井上公夫(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
・井上公夫・桜井亘(2009):宝永南海地震(1707)で形成された仁淀川中流(高知県越知町)の天然ダム,砂防と治水,187号,p.71-75.
・井上公夫・山本武美(2012):宝永南海地震(1707)で形成された仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム石碑と説明看板,砂防と治水,205号,p.113-115.
・宇佐美龍夫(2003):新編日本地震被害総覧416-2001,東京大学出版会,605p.
・岡林直英・栃木省二・鈴木堯士・中村三郎・井上公夫(1978):高知県中央部の地形,地質条件と土砂災害との関係,@A,地すべり,15巻2号,p.3-10,3号,p.30-37.
・越知町(1984):越知町史,1244p.
・高知県立図書館(2005):土佐国資料集成,土佐国群書類従,第七巻,巻七十四 災異部,谷陵記(奥宮正明記),p.2-11.
・都司嘉宣(2008.8.25):続歴史地震の話 18,19,崩落による新湖出現,高知新聞記事
・都司嘉宣(2012):歴史地震の話,〜語り継がれた南海地震〜,高知新聞社,307p.
・地質調査総合センター(2007):伊野地域の地質,地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),140p.

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