1.はじめに
コラム12でも説明しましたように、宝永四年十月四日(1707.12.24)に発生した宝永地震(M8.4〜8.6)は、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が生じた海溝型巨大地震です。この地震の激震によって、人家の潰滅、津波、などの激甚な被害が発生しました(小山内・井上,2014)。
高知県東洋町名留川(なるかわ)の山頂部には、宝永地震の前には大きな池と池山寺という寺院がありましたが、宝永地震によって大きく建物は破損しました。その半年後の宝永五年六月の豪雨によって、寺院の建物ごと大規模崩壊を起こし、土石流が名留川を流下して、下流にあった成川(なるかわ)集落を埋没させたようです。
地震学への利用を目的として、棟札を研究していた中西一郎は、2013年の第 30 回歴史地震研究会で、「『谷陵記』に書かれなかった高知県東洋町野根の宝永地震被害」と題して発表しました(中西,2013)。宝永地震による大規模土砂災害の事例を調査するため、井上と中西、村上仁士(徳島大学名誉教授)、松尾裕治(香川大学)、山本武美(越知町・地元研究家)、泉山寛明(土木研究所)は、東洋町の郷土史研究家の原田英祐氏に案内して頂き、2014年4月に現地調査を行いました。その結果、名留川の大規模崩壊・土石流の発生は確実であるとして、井上・中西(2014)は第 31 回歴史地震研究会で報告しました。
2014年4月の現地調査では、池山寺のあったとされる尾根部にはいけなかったため、2015年4月に再度現地調査を計画し、井上・中西・松尾・山本・原田と横山俊治(高知大)、藤平大(土木研究所)、光永健男(高知県防災砂防課)、井口隆(防災科学技術研究所)、島田徹(国際航業)、秋山晋二(砂防フロンティア)、勝倉まなみ(同上)、和田直樹(東洋町地域協力隊)で行いました。本報告は史料調査の結果と2 回の現地調査の結果をまとめたものです。
2.野根山街道付近の大崩壊地
図1に示しましたように、江戸時代に高知から江戸・大阪に向かう重要な街道として、高知県東部の奈半利(なはり)高札場から野根高札場に向かう野根山街道(全長9里、34.3km)がありました。この道は古代には南海道の官道として、藩政時代には参勤交代の道として利用されました。また、最近では環境省ルート「四国のみち」として、徒歩道の整備が進んでいます。
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図1 野根山街道と主な大規模崩壊(1/20万地勢図「室戸」に追記,井上,2015) |
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ところが、このルートは、高低差1000mにも達する難路で、途中には宿泊施設はなく、奈半利―野根間を1日で通行しなければなりませんでした。途中には
岩佐の関所があり、きびしい通行規制がなされていました。また、このルートには、
カナギの崩(つ)え、五代の崩(つ)え、押野ドヲギリ崩壊の大崩壊地がありました。原田氏によれば、
池山・五代・ドヲギリを野根の三大崩壊といいます。これらの地区では大規模崩壊が何回も発生して、街道筋のルートを変更せざるを得ませんでした。野根からの街道の登り口として「八島千軒」(写真1)と呼ばれる宿場町・交易市場があり、繁栄していました。しかし、八島千軒は五代とドヲギリの大崩壊による土砂流出で埋もれてしまったといいます。今は「八島千軒」という地名のみで、昔の姿はありませんが、地下からは住居跡や耕地跡が発掘されました。池山寺はこの街道からは少し北に離れた位置に存在する有名な大寺院でした。
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写真1 八島千軒の看板 秋山撮影 |
3.金峯山池山寺観音の由来と移転
中西(2013)は、原田(1999)を引用して金峯山(金宝山)池山寺観音の由来と移転に関した史料を説明しています。原田(1999)を要約すると、
「城福寺縁起によれば、天平勝宝年間(749-757)、聖武天皇の勅願により、行基(668-749)が諸国に寺堂建立の節、観世音仏堂を堂ヶ尾に建立した。ところが仏堂はその地になじまず、一夜にして池山の地に飛来して鎮座し、金峯山池山寺となった。現在堂ヶ尾という名の山はないが、東洋町・北川村・海陽町の境界付近の躑躅尾(つつじお)山(標高916m)が当時の堂ヶ尾と推定される。池山寺の位置は梶尾杉(かんじょうすぎ)東側の尾根部の平坦地(標高 500〜550m)で、当時舟で渡るほどの大きな池があり、その付近に寺堂や道場が建立されていた。延宝二年(1674)の池山寺再建奉賀目録版によれば、「野根池山寺堂殿 奉再建覚 于時延寶貮季甲寅十一月吉日 別當和泉 本願主成川名本京左衛門 野根浦志茂勘左衛門 海部屋太兵衛 大工 野根浦仁左衛門」と記されています。
その後、池山寺は栄枯盛衰を繰り返しましたが、元禄六年(1693)に土佐藩四代藩主・山内豊昌公(1641-1700)の援助により、池山寺が再興されたという棟札が現存します。宝永四年(1707)十月四日、宝永大地震が発生し、池山の地盤が緩み、翌年の宝永五年(1708)六月の豪雨で、尾根部の平坦地にあった池山の大池が崩壊しました。そして、多量の土砂が流下し、樫地川の下流にあった成川村は土石流の厚い堆積層に埋もれてしまいました。名留川集落は土石流堆積物の上を開墾して再興された集落であり、時々地下から生活用具が見つかるといいます(図2,図3参照)。
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図2 名留川地区平面図(1/2.5 万「名留川」,2007年修正測図) |
この豪雨の後、池山観音別当の和泉(いずみ)が尾根部の平坦地に行くと、観音堂の4本柱のうち、3本までが浮き上がり、1本の柱で辛うじて支える状態でした。別当の和泉は、このままでは観音堂はまもなく倒潰すると判断し、山道に白布を敷きつめて、うやうやしく御本尊などを降ろし、片山(名留川集落内の小丘)の阿弥陀堂の脇に遷座させました(写真2)。
宝永七年(1710)一月十八日、六代目藩主・山内豊降公の援助により、片山の地に観音堂が造立されました。写真3に示した片山の観音堂の棟札には、「宝永(四年)丁亥(ひのとい)十月初四未刻の大地震によって、池山は破裂した。同五歳夏大雨があり、堂宇仁祠(観音堂と若一王子祠と池山権現祠のことか)共に崩倒した。これにより、この地に安置した。寶永庚寅(かのえとら)歳(1710)正月十八日」と記されています。
宝永八年(1711)の観音堂所蔵の棟札(写真3)には、
「・・・宝永五年戌子六月洪水湧出而山崩谷埋而池山之霊場既危雖然仏光新而何煩矣因茲野根郷浦諸民悲危而移於成川堂山也建立三間四間之堂宇佛威日々新 寶永八年辛卯正月十八日別当和泉」と記されています。堂名から池山がなくなり、観音堂となりました。この時に尾根部の池山から、若一王子や池山権現も片山に移転したと伝わっています。
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写真2 片山の観音堂(松尾撮影) |
写真3 観音堂の棟札(中西撮影) |
4.名留川地区の現地調査(第 1 回、2014年4月)
以上の史料などをもとに、第1回の調査では名留川集落から樫地川流域を現地調査しました。1979年の1/2.5万地形図では、名留川集落から樫地川に沿って、土石流扇状地の上に何段も続く棚田が耕作されていました。しかし、図2に示したように、2007年の修正測図では、すべて杉の植林地になっていました。現地調査によれば、石積による何段もの棚田地形が残っており、その上に杉が植林されていました(写真4,5)。図2の1/2.5万地形図には樫地と尾根部の梶尾杉(かんじょうすぎ)には数軒の人家記号が残っていますが、すでに居住者はすべて移転し、無人となっています。2014年4月の現地調査では、樫地から梶尾杉に向かう徒歩道は、雑木・草に覆われて位置がわからず、尾根部の平坦地までは行くことはできませんでした。
池山寺や大きな池が存在した平坦地は、宝永地震と翌年の豪雨によって大規模崩壊が発生して消滅しました。図3の下図によれば、小字名で「上大ツエ」と記され、その下には土石流扇状地が形成されています。現地調査によれば、大転石を含む砂礫が厚く堆積していました。土石流扇状地の堆積物は、樫地川を南側の山裾に押し付け、上流部に小規模な天然ダムが形成されたと想定される平坦地が存在します(図2参照)。上流部には、高知県が平成11年度(1999)に鋼製の樫地川砂防ダム(H=14.0m、L=78.0m)を建設しています。
その後、河内神社(写真6,7)や下流部の名留川地区(旧成川村があった)の片山の観音堂や春日神社などの現地調査を行いました。
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写真4 堅地集落跡地から梶尾杉, 池山寺跡地を望む(松尾撮影) |
写真5 杉が植林されている棚田跡地(松尾撮影) |
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写真6 河内神社の参道,井上撮影 |
写真7 河内神社,井上撮影 |
5.尾根部の現地調査(第2回、2015年4月17〜18日)
第 2 回の現地調査をするにあたって、当地域の詳細地形を把握し、樫地から梶尾杉に向かって登る徒歩道を確認するため、四国山地砂防事務所からLPデータの提供を受け、図3のエルザマップ(Color-coded Elevation and Slope Angle composite Map, 5mと1mのコンターマップ)を作成しました。この図には、東洋町税務課の切り図をもとに、名留川地区の小字名を追記しました。
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図3 名留川地区のエルザマップ(上図:5mコンター,下図:1mコンター) LPデータは四国山地砂防事務所提供 上図には名留川地区の小字名を追記) |
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小字名を丹念に読むと、廣野、樫地、丸石など、地形状況を知ることができます。上大ツエの東側には、下大ツエが存在し、頭部の崩壊地形は前者より明瞭で、土石流扇状地の規模は小さいが勾配は急で、土砂流出防止施設が数段建設されています。従って、比較的新しい時期に崩壊したと考えられます。
第 2 回の現地調査(図3下図に黒点線でルートを示す)では、尾根部の梶尾杉(かんじょうすぎ)のある平坦部や巨大崩壊地(旧池山寺のあった)まで行くことを主目的としました。初日は図2の1/2.5万地形図に示されている2本の徒歩道を探して樫地地区の果樹園や樫地川砂防ダム付近を調査しました。現地で果樹園を経営している樫山様とお会いし、色々と話を聞くことができました。40年ほど前までは樫地に住んでおられましたが、現在は神戸市に住んでおり、果樹園や杉林(写真4,5)の手入れと自宅、独居の母の看病のために時々訪れているとのことでした。この敷地の中で平家の落人と思われる「平家・中納言」と書かれた墓石を教えて頂きました。写真6,7は河内神社で、平家一門を祀っていると言われました。
井口隆の操縦で、無人ヘリ(ドローン)を飛ばし、果樹園などから登山ルートを探しましたが、樹木が繁茂し、良くわかりませんでした。島田徹と秋山晋二には、国道493号線から黒ヶ谷林道を回ってもらい、梶尾杉まで行けることを確認しました(図2)。黒ヶ谷林道を通って、梶尾杉まで行けることが確認できたため、翌日は国道493号線から黒ヶ谷林道を通って、梶尾杉から旧池山寺のあった大規模崩壊地へ向かいました。井口隆は、途中の黒ヶ谷林道の峠部で無人ヘリを飛ばして撮影し、樫地川方向の地形状況を確認しました(写真8)。
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写真8 黒ヶ谷林道の峠上空から樫地川方向を望む(井口がドローンで撮影) |
図4に示しましたように、大規模崩壊地周辺の地質は四万十帯南帯に属する奈半利川層と室戸層にあたり、主に新生代古第三紀の砂岩・泥岩互層(一部礫岩が狭在)が分布しています。大規模崩壊地は奈半利川層と室戸層の地質境界や断層付近に分布しています。梶尾杉の平坦な尾根部から大規模崩壊地に至る黒ヶ谷林道沿いの切土斜面には、節理の発達した層状砂岩、及びリズミカルな砂岩優勢の砂岩泥岩互層の露頭が連続して確認できます。地質構造はWNW―ESEからE―W走向で、20〜90度の南傾斜と北傾斜を繰り返しており、褶曲構造を呈しています。また、大規模崩壊地の末端部付近の西側延長線上には、断層により泥岩部分が破砕され、粘土化した露頭も確認できました(写真9)。これらの地質構造が大規模崩壊発生に関与している可能性が高いと考えられます。これについては、今後の詳細な地質調査によって、考察して行きたいと思います。
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図4 高知県東部の地質 (地質調査所発行1/20万地質図「剣山」1969に追記) |
写真9 林道沿いの露頭,秋山撮影 |
梶尾杉付近の平坦な尾根部には、WNW―ESE方向の凹凸地が存在します。平坦部は数段に分かれていました。梶尾杉集落の生活用水を得るための溜池跡地(石積の堰があった)が存在しました。宝永地震以前は、池山寺付近にこのような凹地(規模はもっと大きい)があり、舟を浮かべられるような大きな池があったと言われています。
この溜池跡地から少し下に降りると、何段もの平坦地があり、ほとんどの部分に杉が植林されていましたが、石積が多く構築され、人家跡や墓地も残存しており、数十年前まで人家があったことが伺えます。また、尾根部の平坦部には、杉などの手入れのため、作業が行われている形跡が多く認められました。
横山によれば、この山頂平坦面は東西に配列する2列の線状凹地の発生・成長に伴って形成された変動地形と考えられます。現在も北側の線状凹地の西部は完全に閉じていて湿地になっていました。その凹地の北側の壁は層理面に規制されたやせ尾根になっていることから、凹地内部はもちろん陥没しており、凹地側が陥没したものと推察されます。その凹地の北側の壁は層理面に規制されたやせ尾根になっていることから、凹地内部が層理面に沿って陥没したのは明らかであり、山頂平坦面の全体も南に向かって階段状に陥没したものと推察されます。そして、南側の線状凹地を含む領域が最も陥没し、エルザマップの等高線の乱れから見ると,山体の解体もかなり進んでいるように思えます(写真10)。現在は崩壊で失われてしまった東側の山頂平坦面に、かつては複数箇所に池があったということは、線状凹地の中に複数の凹地が存在し、閉じていたものと推察されます。しかし、現在は2列の線状凹地ともに東端は凹地の底が深く抉られ、東に傾斜した谷となり、上大ツエ谷方向に流下しています。これは宝永地震による大規模崩壊発生後、凹地を閉じていた高まりが失われ、一般的な谷と同様に、流水による侵食が進行したためと思われます。地質は四万十帯の砂岩・泥岩からなりますが、砂岩が圧倒的に優勢で、層理面は高角度の部分が多くなっています。砂岩の割合と層厚からみて、山頂平坦面に岩盤クリープ性傾動構造が発達している可能性は低く、地震動による裂け目が深層緩み岩盤(横山,2013)として発達しているものと推察されます。
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写真10 尾根部の溜池跡地と東西に走る凹地 |
写真11 現地見学の参加者 |
(ドローンを用いて上空から井口撮影) |
尾根部の平坦地は数段に分かれており、東西方向に広がっていました。この平坦地をさらに東方向に行くと、突然急崖が現れました。参加者の数人は、地形・地質状況を確認するため、この急崖から下の小段まで降りました。その結果、この急崖は巨大崩壊地形(上大ツエ)の側方崖であると意見が一致しました(写真12,13)。
この大規模崩壊の発生が300年前ですので、急崖部から上大ツエの沢地形の部分にも、樹木が繁茂しており、大規模崩壊地形の全体像は確認できませんでした。下流部の梶地川付近からは、土石流地形は認められたものの、大規模崩壊地形は確認できませんでした。
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写真12,13 梶尾杉東方の上大ツエ谷の急崖部(秋山撮影) |
6.秋山による補足調査(2015年6月20〜21日)
その後、大規模崩壊地に池山寺や大きな池が存在したのであれば、その周辺に遺物などの痕跡が見つかるのではないかと考え、秋山晋二は6月20〜21日に山頂平坦面を東西に配列する2列の線状凹地の内、第2回の現地調査で確認できなかった北側の線状凹地の溜池跡地から東側の部分と南側の線状凹地の東端部および大規模崩壊地下方の土石流扇状地について補足調査(ルートは図3の下図に青点線で示す)を行いました。
第 2 回の現地調査で確認した北側の線状凹地の溜池跡地まで行くと、凹地に水が溜まっていました(写真14)。溜池は今でも雨が降れば十分機能するようです。
溜池跡地の東側には2つの平坦な凹地があり、その間は人が一人通るのがやっとの東へ傾斜した狭い溝で繋がっています(写真15)。西側の凹地より東側の凹地の方が広く、西側の凹地内は杉が植林されていましたが、何故か東側の凹地内は植林されていませんでした(写真16)。
西側の凹地内にはお寺などの痕跡は見つかりませんでしたが、東側の凹地内には瓦の破片が散乱しており、2箇所で白磁の器の破片が見つかりました(写真17)。
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写真14 水の溜まった溜池跡地 (写真14〜19秋山撮影) |
写真15 凹地を繋ぐ狭い溝 |
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写真16 東側の凹地 |
写真17 散乱する瓦の破片(左)と白磁の器の破片(右) |
東側の凹地東端部は大規模崩壊発生後に拡大したと思われる崩壊跡地となっているため(写真18)、詳細は不明のままですが、この周辺か南側のどこかに池山寺や大きな池が存在したのでしょう。南側の線状凹地の東端部では、凹地内に田畑跡と思われる石積は確認できましたが、お寺の建物などの痕跡は見つかりませんでした(写真19)。また、大規模崩壊地下方の土石流扇状地も調査しましたが、遺物などは見つかりませんでした。
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写真18 凹地東端部の崩壊跡地 |
写真19 凹地内の石積 |
7.むすび
以上の史料調査と現地調査の結果によれば、尾根部の平坦地にかなり大きな池と池山観音堂などの堂宇があり、宝永地震によって地山が緩み、半年後の豪雨によって、大池と池山寺を巻き込んで、大規模な深層崩壊を起こしたと考えられます。
崩壊地の規模は、東西500m、南北250mで、面積12万m2、平均崩壊深50mとすると、崩壊土砂量は5000〜6000万m3にも達すると推定しました。しかし、宝永地震と翌年の豪雨で上大ツエ谷のすべてが崩壊したのではなく、以前から何回も大規模崩壊を繰り返していたと考えられます。崩壊土砂は樫地川の河谷を2.5kmも流下して、幅200mの埋積谷を形成するとともに、成川村の集落をほぼ完全に埋めてしまったと想定されます。
図1と図4に示したように、この地域には、室戸市の加奈木崩れなどのように、宝永地震(1707)によって、大規模な深層崩壊が発生した地区も数ヶ所存在します。
第 2 回の現地調査では、地元の郷土史研究家の原田英祐氏の史料提供と現地案内もあって、参加者同士で活発な議論ができました。また、6月の秋山晋二の補足調査によって、山頂部の変形地形や池山寺の痕跡もかなり明確になってきました。
今後もこのような現地調査を行って行きたいと思います。
海溝型地震による大規模土砂災害の事例を収集し、今後発生が危惧されている南海・東南海地震に備えるためのデータを蓄積して行きたいと思います。
引用・参考文献
・井上公夫(2015):宝永地震と半年後の激甚災害,〜高知県東洋町の大規模崩壊地を歩く〜,地理,60巻10号,口絵,p.6-8.,本文,p.66-73.
・井上公夫・桜井亘(2009):宝永南海地震(1707)で形成された仁淀川中流(高知県越知町)の天然ダム,砂防と治水,187号、p.71-75.
・井上公夫・中西一郎(2014):宝永地震(1707)による高知県東洋町名留川の大規模土砂災害,第32回歴史地震研究会予稿集,p.40.
・井上公夫・山本武美(2012):宝永南海地震(1707)で形成された仁淀川中流の天然ダムと説明看板,砂防と治水,205号,p.111-113.
・宇佐美龍夫(2003):新編日本地震総覧,416-2001,東京大学出版会,605p.
・奥宮正明(1965):谷陵記,谷陵記刊行会,38p.
・小山内信智・井上公夫(2014):第4章 地震と土砂災害,内閣府(防災担当),『1707宝永地震』報告書,p.187-205.
・長谷川修一・菅原大介(2002):1707年宝永地震による讃岐五剣山の山体崩壊,豪雨と地震による土砂災害論文集,土木学会四国支部、p.21-28.
・千木良雅弘・長谷川修一・村田明広(1998):四国の四万十帯にある加奈木崩れの地質・地形特性,日本応用地質学会講演論文集,p.61-64.
・中西一郎(2013):『谷陵記』に書かれなかった高知県野根の宝永地震被害,第31回歴史地震研究会予稿集,p.8.
・原田英祐(1999):片山の観音堂について,高知県文化財調査・活用事業,高知県安芸郡東洋町の文化財,p.113-124.
・横山俊治(2013):なぜ,西南日本外帯で降雨時あるいは地震時に深層崩壊が多発するか?,日本地すべり学会誌,Vol.50,No.1,pp.1-6.