1.史料調査
図1に示しましたように、富士川流域には深層崩壊が多く発生していることが分ります。宝永東南海地震(1707)では、安倍川上流の大谷崩れや富士川流域の白鳥山,右支早川・雨畑川の八潮崩れなどが知られています(中村ほか2000)が,下部(しもべ)温泉上流の富士川左支・下部川でも天然ダムが形成されました(井上,2011)。
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図1 富士川流域の深層崩壊(富士川砂防事務所の資料などをもとに作成,井上,2011) |
写真1は市川大門町の一宮浅間神社です。ウィキペディアの「一宮浅間神社」(2015年10月6日確認)によれば、
『日本三代実録』に「貞観六年(864)の富士山の大噴火を受けて、その神の神意を慰めるため、貞観七年(865)に勅命によって、甲斐国八代郡に創建され、官社に列せられ、甲斐国の一宮とされたことに因む。」と書かれています。市川大門町教育委員会(2000)の
『市川大門町一宮浅間宮帳』(市川大門町郷土資料集,6号)によれば,宝永四年十月四日未(ひつじ)刻(1707年10月28日13時半頃)の大地震の記事があります。
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写真1 市川大門町 一宮浅間神社(2010年2月井上撮影) |
図2 天然ダムと下部温泉との関係(井上,2011) |
「十月大己卯朔日、壬午四日の未の刻ばかりに、にわかに地二つ震い大地震。震天地鳴動してはためき渡るかと思う所に東西を知らず震い、諸人庭に出て立たんとするに足立たず、盆に入れたる大豆のごとく所にたまらず、四方の山より黒白の煙天をかためて立ちのぼる。地は裂けて水湧き上る。その水の湧くこと水はじきのごとし。後また五日の朝辰(10月29日8時)の頃に大地震あり。四日に残りたる家、この時に崩る(後略)。湯奥と言う村、山崩れ谷を埋め、湯川(下部川)を押しとどめて水海をなす。この水を切りほすとて川内筋の人夫二千八百人にて切りたれども、少し沢を立たるばかりにて切りほす事かなわず。川鳥市をなすと云々。俗に言う長さ三里横一里の水海と言う。この川下、下部その他の村、この水を恐れて山に上がり、小屋に住む。」
2.現地調査と聞き込み調査
この史料をたよりに、2010年10月に現地調査を行い、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長、小松美鈴学芸員、下部温泉の石部典夫氏などから聞き込み調査を行いました(図2)。湯之奥金山は武田の金山として、天文年間(1540年頃)に採掘が始まりました。写真2は現在の湯之奥集落で、慶安四年(1651)には家数13戸、人数43人、文化初年(1804)には家数18戸、人数73人でした。この集落の上流部に湯之奥金山の採掘場があり、山中に鉱山従事者が多数集住していました。谷口(2007)によれば、湯之奥集落の上に湯之奥千軒と呼ばれる鉱山村伝承があり、金の精錬所や宮屋敷・寺屋敷などもあったようです。しかし、資源枯渇による金山の衰退で、元禄年間(1688~1704)には閉山してしまい、宝永地震の頃には金山はあまり稼働していませんでした。
写真3は集落内にある門西(もんざい)家住宅で、大きな茅葺き屋根を持ち、国の重要文化財となっています。門西家は江戸時代を通じて、湯之奥金山や山林などを管理するほか、関守や名主役を役を務めた家柄です。
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写真2 湯之奥集落(上流に金山集落があった) |
写真3 門在家住宅 |
2009年10月井上撮影 |
宝永四年十月四日(1707年10月28日)13時頃、大地震が2回あり、翌日の十月五日(10月29日)8時頃にも、大地震(余震)が1回ありました。
湯之奥村では地震による山崩れで湯川の谷を埋積し、湯川を押しとどめて水海をなしました。川筋の人夫2800人にて開削工事を始めましたが、小さな開削水路を造っただけで、天然ダムの湛水を排水することはできませんでした。俗に言う長さ三里(12km)、横一里(4km)の水海となったようです(大きさはかなり誇張されています)。
1/2.5万地形図をもとに簡易計測すると、湛水標高450m、湛水高70m、長さ900m、幅250m、湛水面積16万m
2、湛水量370万m
3となりました。
下部川(湯川)の川下にある下部村(下部温泉)などの村は、天然ダムの決壊・洪水を恐れて、一時的に山に上がり、小屋に住みました。当時の技術力では、ほとんど掘削できず、排水することはできなかったようです。天然ダムは急激な決壊をせず、徐々に水位が低下したため、下流の温泉街には大きな被害を与えなかったと想定されます。このような出来事が下部村の区有文書などに記録されていれば良いのですが,湯之奥金山は1707年当時すでに衰退していたようです。
天然ダムの湛水域には、その後の土砂流出で多量の土砂が流出し、かなり広い河原が形成されました。石部典夫様の話によれば、この付近は
「海河原」と呼ばれています。
図3は、湯之奥金山博物館所有の
『湯之奥村絵図』(天保九年四月,1838年5月)で、河道閉塞地点が紺色で示されていますが、海河原地点には湛水は描かれていません。 宝永地震から131年後の絵図であるため、河道閉塞地点より上流の湛水は土砂の堆積によって消滅しています。1975年に国土地理院が撮影した航空写真(写真4)を判読するとともに、富士川砂防事務所が作成した図4レーザープロファイラーによる微地形強調図などを持って、現地調査を行いました。下部川の対岸には,林道がかなり高い標高まで続いており、河道閉塞した地形状況が良く分かります。
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図3 湯之奥村絵図、天保九年四月(1838年5月)湯之奥金山博物館蔵 |
写真5に示しましたように、2009年に対岸の林道からみた時には、崩壊地形は森林に覆われ、良く分かりませんでした。河道閉塞地点より上流は、硬質な巨礫を含む砂礫に埋もれて、広い氾濫堆積域「海河原」となっています(写真6)。図5の微地形強調図や写真4の航空写真では、下部川(湯川)右岸側には明瞭な地すべり性崩壊地形が存在し、明らかに巨礫を大量に含む移動岩塊が河道閉塞していた状況が分かります。
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写真4 下部川の航空写真による判読図(井上,2011) (国土地理院 1975年撮影,CCB75-17,C14-3) |
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図4 レーザープロファイラーによる天然ダム地点の微地形強調図 (富士川砂防事務所,2010年作成,井上,2011) |
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写真5 対岸の林道から見た崩壊地形 (森林に覆われ崩壊地形は良く分からない) |
写真6 天然ダムの堆砂敷(2009年10月井上撮影) |
河道閉塞地点の直上流部には、山梨県が高さ5mの砂防ダム(写真7,計画貯砂量7200m
3)を建設しており、上流部に大量に堆積した砂礫の流出を防いでいます。砂防ダム直下には、人が渡れる吊り橋(写真8,現在は通行できません)があり、土石流感知のためのワイヤーセンサーが2本設置されていました。宝永地震による天然ダムは、対岸に残る堆積地形から、現在の砂防ダムの天端より30m程高いと想定されます(写真9,10)。
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写真7 下部川の砂防ダム(1961年完成) 高さ5.0m,幅37m,計画貯砂量7200m3 |
写真8 砂防ダム下流にあった吊り橋(2009年10月井上撮影) |
石部典夫様の話によれば、JR身延線は昭和2年(1927)に開通していますが、建設工事により多くの木材が下部川上流から集められました。このため、湯之奥までの林道が開通しました(この林道は現在県道となっています)。昭和20年(1945)の台風による土砂流出で、湯之奥集落下部の人家は土砂で埋まってしまいました。湯之奥集落の下には数軒の人家がありましたが、この時に押し流されたと言われました。河原付近に石積擁壁がありましたが、現在は土砂に埋もれているそうです。
この県道の河道閉塞地点を通過する区間は、道路線形が前に出ており、擁壁にオープン亀裂が存在し、明らかに地すべり変動の兆候が現れています。 道路擁壁は修復作業を何回も行っていました。
2011年9月3日〜4日に、台風12号が四国・紀伊半島を襲い、紀伊半島で激甚な土砂災害を引き起こしました。9月21日に台風15号が静岡県浜松市に上陸し、東日本の広い範囲で大きな被害がでました。山梨県では死者が出ませんでしたが、JR身延線では路線が流出したため、2012年の3月16日まで不通となりました。
湯之奥の河道閉塞地点でも、道路下部斜面が大きく崩壊しました。写真11に示しましたように、2011年の被災後、山梨県は護岸工事を行いました。河道閉塞地点では樹木が倒され流出したため、巨礫が多く見えるようになりました。対岸の林道から見ると(写真12)、宝永地震時に大規模崩壊をした区間は、道路補修工事や護岸工事が施工されていることがわかります。今後とも、当地区の変状を監視していく必要があると思います。
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写真9 河道閉塞地点の状況 |
写真10 河床には巨礫が堆積している |
(2009年10月井上撮影) |
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写真11 2011年台風15号による変状 |
写真12 道路擁壁や河側護岸も変状している |
(2014年2月井上撮影) |
2015年12月に、大規模土砂災害緊急調査研修の現地案内で現地を再度訪れました(写真13,14)。河床の巨礫の堆積状況が良くわかりました。河側の護岸工事は完成していましたが、今後も地すべり変動状況の監視は必要だと思います。
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写真13 河床に堆積している巨礫 |
写真14 復旧工事で完成した河側護岸擁壁 |
(2015年12月井上撮影) |
引用・参考文献
・市川大門町教育委員会(2000):市川大門一宮浅間宮帳,市川大門郷土資料集,6号,228p.
・井上公夫(2011):宝永東南海地震(1707)による富士川・下部湯之奥の天然ダム,水山高久ほか:日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.49-52.
・小山内信智・井上公夫(2014):第4章 地震と土砂災害,内閣府(防災担当):1707宝永地震報告書,p.187-205.
・国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所(2007):富士山周辺の地震と土砂災害,72p.
・谷口一夫(2007):武田軍団を支えた甲州金,湯之奥金山,シリーズ「遺跡を学ぶ」−039,新泉社,96p.
・中村浩之・土屋智・井上公夫・石川芳治(2000):地震砂防,古今書院,口絵,16p.,本文,191p.
・水山高久・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,口絵,4p.,本文,187p.