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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム15: 1502年の姫川流域・真那板山の大崩壊と天然ダム
 

1.姫川流域の天然ダム
 長野県白馬村から小谷村を通って新潟県糸魚川市に北流する姫川流域は、フォッサマグナ西縁の糸魚川静岡構造線に位置しています。姫川は南北に連なる北アルプスの東側を並行して流れる川で、流域面積722km2、本川延長50kmです。西側山地は大起伏山地で、中古生層や第四紀の火山砕屑岩類からなるのに対し、東側山地は新第三紀の砂岩や泥岩などが分布します。これらの地域の地質は、構造線沿いの広い範囲で地殻変動の影響を受け、亀裂が多く脆弱化しています。これに加えて、姫川の侵食速度は大きく、河谷は急斜面の区間が多く、地すべりや崩壊地形が多数認められます。
 このため、姫川は天然ダムの発生・決壊事例の最も多い河川です。図1は、姫川と支流の河床縦断面図で、7箇所の天然ダムの位置を示しています。文亀元年十二月十日(1502年1月28日)の越後南西部地震で、姫川本川の右岸・真那板山(No.7-1)と姫川右支・中谷川の清水山(N0.7-2)で天然ダムが形成されました。岩戸山の天然ダム(No.10)は正徳四年三月十五日(1714年4月28日)の信州小谷地震によって、姫川の右岸斜面が崩壊して形成されました(鈴木ほか,2009)。
 稗田山(No.18)は、明治44年(1911)8月8日に数日前の豪雨によって、巨大な稗田山崩れが発生し、崩壊土砂が姫川左支川の浦川を岩屑なだれとなって流下し、姫川との合流点付近で、天然ダムが形成されました(横山,1912,町田,1964,稗田山崩れ100年実行委員会,2011)。

図1 姫川と支流の河床縦断面図と天然ダム(稗田山崩れ100年実行委員会,2011)
図1 姫川と支流の河床縦断面図と天然ダム(稗田山崩れ100年実行委員会,2011)
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2.真那板山の大規模崩壊と天然ダム
 図2は姫川流域の地形分類図(井上,1997,田畑ほか,2002)で、社団法人地盤工学会の蒲原沢災害(1996年12月6日)の調査団員として現地を訪れ、航空写真判読を行って作成した地形分類図です。この図には真那板山(1502)と稗田山(1911)の大規模崩壊によって形成された天然ダムの湛水範囲が示してあります。また、蒲原沢の上流部には、蒲原沢災害の土石流の原因となった崩壊地が示されています。
 図3は真那板山の崩壊地形と天然ダムの湛水範囲を示したものです。真那板山の西斜面は標高1123mの標高点を頂点とする南西向きの急斜面です。対岸には直角三角形の台地状の高まり(葛葉峠)が存在します(写真1)。平成7年(1995)の姫川災害以前の国道148号線は、この葛葉峠を多くのヘアピンカーブ(途中に白馬の大仏があります)で登りました。1936年に国界橋(長野県と新潟県の県境)が建設されましたが、全長48.2m、最大支間長31mのトラス橋で、日本の近代土木遺産に指定されています。1953年に二級国道大町・糸魚川線として指定され、1965年に一般国道148号となりました。この交通の難所を解消するために、1994年に新国界橋と長大トンネル(湯原トンネルと大所トンネル)が完成しました(旧道は新潟県道375号となりました)。蒲原沢を通過する箇所には新国界橋が建設されましたが、平成7年(1995)7月11日の姫川災害により新国界橋も流失してしまいました。旧国界橋は被災しなかったため、1998年に災害復旧で新々国界橋が完成するまでは、新潟県道375号が国道148号の迂回道路となりました。

写真1 真那板山の大規模崩壊とその堆積物(撮影井口隆,井上,2012)
写真1 真那板山の大規模崩壊とその堆積物(撮影井口隆,井上,2012)

図2 姫川流域の地形分類図(井上,1997,2006,田畑ほか,2002)
図2 姫川流域の地形分類図(井上,1997,2006,田畑ほか,2002)
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図3 真那板山の崩壊地形と天然ダム(1/5万地形図「小滝」(1992年測図))
図3 真那板山の崩壊地形と天然ダム(1/5万地形図「小滝」(1992年測図))

 写真2によれば、この高まりの急崖部には大きな珪質岩塊が多く露出していて、全体が複雑に砕かれた乱雑な堆積物であることが分りました。現在は写真3に示したように、表層部の崩壊防止対策として、法面保護工が施工されているため、堆積状況は分からなくなっています。県道(旧国道148号線)の葛葉峠から東方向に通る林道に入ると、今でも巨大な転石が多く存在します。
 この崩壊地の規模は、幅1200m、奥行き1200m、落差820mで、5000万m3の堆積土砂が現在も残されています。天然ダムの最高水位を崩壊土砂の堆積面高度と同じ450mとすれば、最高水位時の湛水高140m、湛水面積270万m2、湛水量1.2億m3となります。湛水範囲の上流部の来馬(くるま)河原は稗田山(1911)の大規模崩壊時の土砂流出によって(町田,1964,67),姫川の河床が20〜30mも上昇しているので、実際の湛水量はもっと多い筈です。

写真2 真那板山大崩壊による河道閉塞堆積物 新国界橋は流失している(1997年井上撮影)
写真2 真那板山大崩壊による河道閉塞堆積物
新国界橋は流失している(1997年井上撮影)

写真3 対策工事がほぼ完成した河道閉塞堆積物 新々国界橋は1998年に再建された(2003年井上撮影)
写真3 対策工事がほぼ完成した河道閉塞堆積物
新々国界橋は1998年に再建された(2003年井上撮影)

3.天然ダムの形成時期
 真那板山の大規模崩壊は何時頃発生したのでしょうか。小疇・石井(1996,98)は図4に示したように、詳細な地形・地質調査を行い、蒲原沢左岸に存在する湖成堆積物の粘土層内の木片の14C年代から510±90年B.P.(Gak-18963)の値を得ています。この湖成層の存在から、この天然ダムは数十年間続いたと判断されます。

図4 蒲原沢左岸の湖成層堆積物のスケッチ(小疇・石井,1996,98)
図4 蒲原沢左岸の湖成層堆積物のスケッチ(小疇・石井,1996,98)

 古谷(1996)は、越佐史料から文亀元年十二月十日(1502年1月28日)の越後南西部地震(M6.5〜7.0,宇佐美,1996)を誘因に挙げています。信濃教育会北安曇支部(1930)によれば、図2と写真4に示した来馬の常法寺は当時上寺(カミデラ)と呼ばれており、この寺付近まで水が上がったという言い伝えがあります。この天然ダムが満々と水を湛えていた頃、常法寺(少し上に移転して現在位置,図2,3参照)の上には杉の大木があり、穴をあけて舟を繋いでいました。その杉は舟繋杉と呼ばれ、写真5に示すように、現在は根株を残すのみですが、石塔が現在でも残っています。
 さらに、下寺(しもでら)の集落には常誓寺がありましたが、根知川の仁王堂に移転しました。その後、写真6に示すように、常誓寺は現在糸魚川市街地新鉄一丁目に移転しています。この寺の檀家は現在でも来馬と下寺集落に残っており、常誓寺との交流が今も続いています。

写真4 来馬の常法寺(手前は蒲原災害の慰霊碑)2012年井上撮影 写真5 舟繋杉と石塔 1999年井上撮影
写真4 来馬の常法寺(手前は蒲原災害の慰霊碑)
2012年井上撮影
写真5 舟繋杉と石塔 1999年井上撮影

写真6 糸魚川市新鉄一丁目の常誓寺(2012年井上撮影)
写真6 糸魚川市新鉄一丁目の常誓寺(2012年井上撮影)

 その後、この地区では表層崩壊防止対策のための詳細なボーリング調査などが行われ、写真3に示したような法面対策工事が行われました。図5は真那板山崩壊と葛葉峠台地の地形形成過程模式図(松本砂防事務所,2003)です。

図5 真那板山崩壊と葛葉峠台地の地形形成過程模式図(建設省松本砂防工事事務所,1999,国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所,2003)
図5 真那板山崩壊と葛葉峠台地の地形形成過程模式図
(建設省松本砂防工事事務所,1999,国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所,2003)

引用文献・参考文献
・井上公夫(1997):流域の地形特性と土砂災害,「1996年12月6日蒲原沢土石流調査報告書」,地盤工学会蒲原沢土石流調査団,p.2-11.
・井上公夫(2006):事例3 1502年?の姫川流域・真那板山の大崩壊と天然ダム,建設技術者のための土砂災害の地形判読実例問題 中・上級編,古今書院,p.21-23.
・井上公夫(2012):越後南西部地震(カルテNo.4-1),日本地すべり学会編:地震地すべり,―地震地すべりプロジェクト特別委員会の総括編―,付属資料1 歴史地震による大規模土砂移動カルテ表
・宇佐美龍夫(2003):新編日本被害地震総覧 [増補改訂版],416-2001,東京大学出版会,493p.
・尾沢建造・杉本好文・高橋忠治(1975):北アルプス小谷ものがたり、信濃路,243p.
・建設省松本砂防工事事務所(1999):葛葉山腹工検討業務報告書,1,2(日本工営株式会社)
・小谷村梅雨前線豪雨災害記録編集委員会(1997):小谷村梅雨前線豪雨災害の記録,信濃新聞社,110p.
・小疇尚・石井正樹(1996):真那板山の崩壊と姫川の堰止め,日本地理学会予稿集,49号,p.192-193.
・小疇尚・石井正樹(1998):長野県北部真那板山の崩壊と姫川の堰止め,駿台史学,105号,p.1-18.
・国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所(2003):松本砂防管内とその周辺の土砂災害,48p.
・信濃教育会北安曇支部編(1930):北安曇郷土誌稿,第1〜3集
・12.6蒲原沢土石流災害調査委員会(1997):12.6蒲原沢土石流災害調査委員会調査委員会報告書(要約),砂防学会ホームページ,p.1-9.
・田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,口絵,8p.,本文,206p.
・古谷尊彦(1997):地すべりと地形形成,―姫川流域の地形を例として―,地すべり学会新潟支部シンポジウム,p.1-11.
・町田洋(1964):姫川流域の一渓流の荒廃とその下流に与える影響,地理学評論,37巻,p.477-487.
・町田洋(1967):荒廃山地における崩壊の規模と反復性についての一考察,−姫川・浦川における過去50年間の浸食史と1964〜65年の崩壊・土石流−,水利科学,55巻,p.30-53.
・稗田山崩れ100年実行委員会(2011):稗田山崩れ100年シンポジウム,40p.
・望月巧一(1971):小土山地すべりについて,地すべり学会誌,8巻2号,p.44-48.
・建設省土木研究所新潟試験所(1992):大所川巨礫調査報告書,土木研究所資料,62p.
・横山又次郎(1912):長野県下南小谷村山崩視察報告,地学雑誌,24巻,p.608-620.

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