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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム17: 豪雨(1757)による梓川上流・トバタ崩れと天然ダム
 

1.長野県北信地域の天然ダム
 長野県北信地域における天然ダムを調査してみますと、図1に示すように、19事例(@の青木湖を除くと過去500年間)も発生しています(中村ほか,2000,田畑ほか,2002)。弘化四年(1847)の善光寺地震に伴う天然ダムが7事例(E〜K)ありますが、それ以外に12事例も存在します。
 @の青木湖(水深68m,湛水量2000万m3)は,3万年前頃西側の河谷斜面で大規模な地すべり性大規模崩壊が発生し,流出土砂が東側の河谷(姫川の源流部)を閉塞して形成されました(山下ほか,1985,多ほか,2000)。他の地域と比較するとかなり多発していますが、フォッサマグナ西縁地帯であるという地質的背景があるためでしょうか。

図1 長野県北部の天然ダムの分布(森ほか,2007)
図1 長野県北部の天然ダムの分布(森ほか,2007)

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2.トバタ崩れの概要
 宝暦七年(1757)に、信濃川水系梓川の左岸で発生したトバタ崩れについては、いくつかの文献(大塚・根本,2003,松本市安曇資料館,2006)があるのみでした。このため、森ほか(2007a,b)では、史料に基づき、旧版地形図と航空写真の判読、現地調査を行いました。その結果、260年前のトバタ崩れによる天然ダムの形成と決壊後の伝達・警戒・避難状況がかなり判明したので紹介したいと思います。
 信濃川上流の梓川では、東京電力株式会社が奈川渡・水殿・稲核の3ダムを1969年に完成させ、水力発電を行っています。図2に示したように,奈川渡ダムは高さ155mのアーチ式ダムで、背後に総貯水容量1.23億m3の梓湖が存在します。このため、斜面下部はダム湛水により、現在はほとんど確認することができません。湛水以前の斜面状況を把握するため、林野庁の山−100(1958年10月17日撮影)、山−535(1968年9月20日撮影、写真1)や旧版地形図(1/5万,1912年測図)を入手しました。また、松本砂防事務所の航空写真(1999年10月25日撮影)などをもとに、航空写真の比較判読を実施しました。写真1に示した山−535の航空写真は、ダム完成直前の写真であり、ダム建設工事と付け替え国道(R158号)の建設状況や地形状況が良くわかります(森ほか,2007a,b)。

図2 梓川上流の奈川度ダムとトバタ崩れ・天然ダムの位置図(1/2.5万地形図「梓湖」,2001年修正測量)(森ほか,2007)
図2 梓川上流の奈川度ダムとトバタ崩れ・天然ダムの位置図(1/2.5万地形図「梓湖」,2001年修正測量)(森ほか,2007)

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写真1 梓湖湛水前のトバタ崩れ付近の航空写真(山−535,C25−11,12,13,1968.9.20)(森ほか,2007)
写真1 梓湖湛水前のトバタ崩れ付近の航空写真(山−535,C25−11,12,13,1968.9.20)(森ほか,2007)

 梓湖付近は、硬質な堆積岩類(チャート・砂岩・頁岩)からなりますが、現在までに様々な圧力を受けて、複雑に褶曲し、断層が多く走っています(大塚・木船2003、目代2006、2007)。梓川渓谷の地層の走向は北東−南西方向で、トバタ付近では梓川の流下方向と直交しています。写真2は、奈川右岸の入山地区からトバタ崩れの全景を撮影したものです。図2には、ダム湛水前の航空写真(写真1)から判読したトバタ崩れの崩壊地形を示しています。
 送電線の巡視路を通り、トバタ崩れの崩壊地を通過することができます。写真2,写真3に示したように、標高1020m付近にかなり明瞭な地形変換線が存在します。ダム湛水前の航空写真(1958,68)によれば、トバタの緩斜面の下部は崩壊の激しい急斜面となっており、梓湖完成前の国道158号は梓川の右岸側を通っていました。奈川渡ダム建設時に国道158号は、左岸側の中腹にルート選定され、トバタ崩れ付近に親子滝トンネルが建設されました(図2)。

写真2 梓湖右岸入山地区から見たトバタ崩れ(井上2006年11月撮影)
写真2 梓湖右岸入山地区から見たトバタ崩れ(井上2006年11月撮影)

写真3 送電線巡視路からみたトバタ崩れ(井上2006年11月撮影)
写真3 送電線巡視路からみたトバタ崩れ(井上2006年11月撮影)

 親子滝トンネルの坑口付近から東京電力の送電線の巡視路を通って、トバタ崩れの斜面中腹部を踏査しました。トバタの緩斜面には大転石が多く散在し、灌木林となっているものの、260年しか経過していないため、森林土壌はほとんど存在しません。恐らく、緩斜面全体が1757年に発生した巨大な移動岩塊からなると判断されます。斜面下部の崩壊は現在でも少しずつ発生しており、梓湖の湖岸線付近を通過していた送電線巡視路は表層崩壊に巻き込まれて崩れ落ち、通行不能となりました。現在の巡視路は中腹ルートに変更されています。
 このため、地形状況と緩斜面先端の標高から、1757年の河道閉塞によって、標高1020mまで湛水したと判断しました。トバタ崩れの規模は、幅(W)400m、長さ(L)900m、最大崩壊深(D)50mで、崩壊土量は1/2・W・L・Dで求めると、900万m3程度となります。大部分の崩壊土砂は梓川の河谷に流入し、河道を閉塞したと想定されます。図2には、奈川渡ダムの貯水池とトバタ崩れの湛水面標高を1020mと推定した場合の湛水範囲を示しました。
 ダム工事着手前の旧版地形図や航空写真の簡易測量等をもとに、現在の1/2.5万地形図と組み合わせて、梓川の河床縦断面図(図3)を作成しました。
 図3によれば、トバタ山付近の谷底の標高は890m程度ですので、奈川渡ダムとほぼ同じ高さ(H)130mの天然ダムが形成されたと判断しました。湛水面標高1020mの等高線の範囲から湛水面積(S)を求めると196万m2となり、湛水量は1/3・H・Sで求めると8500万m3となります。
 大塚・根本(2003)はトバタ崩れの崩壊範囲を三角柱で近似し、崩壊土量150万m3、湛水標高980m、湛水高さ75m、湛水量640万m3と推定しています。現時点では、斜面下部が梓湖の貯水地内であるため、現地調査は困難 な状態です。

図3 梓川流域の河床縦断面図とトバタ崩れ・天然ダム,発電ダム・貯水池の位置関係(森ほか,2007)
図3 梓川流域の河床縦断面図とトバタ崩れ・天然ダム,発電ダム・貯水池の位置関係(森ほか,2007)

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3.史料の記載
 『梓川大満水記』(松本市島内小宮・高山元衛文書)の現代語訳(松本市安曇資料館2006))から抄約すると、「宝暦七年(1757)四月下旬から霖雨がうち続き、五月八日(新暦6月24日)夜明けに大野川村鳥羽田(トバタ)で山崩れがあり、梓川をせき止めた。3日間流れは止まり、溜まった水は上流2里(8km)余とも見えた。下流の住民は家財をまとめて山へ引き上げ、小屋掛けして仮り住まいし、満水(洪水)を今や遅しと待ち受けた。トバタの築地(天然ダム)の破れることは時間の問題なので、破水を見届けたらただちに鉄砲をならして、奥から里まで合図をすることに決め、要所に鉄砲を持った者を配置し、かたときも油断なく見守っていた。そうした中、十日巳ノ上刻(10時頃)に築地が一時に破れ、走る大水は矢のごとくであった。たちまち、奥から合図の鉄砲が次々にうち鳴らされ、即時に里まで破水を知らせた。満水の出鼻は、橋場(島々谷川合流点直上流)より2、3丁(2〜300m)上流で流木ともみ合い、しばらく止まったが、たちまち押し破れて、流れる水は山の如くであった。このとき、橋場の御番所と人家が危うく見え、老若男女、手を引いて山へ登った。名橋・雑師橋(雑司橋、現在の雑炊橋)も即時に流出し、竜宮宮も流失した。黒川の3丁(300m)川上にある橋もたちまちに落ちた。それから島々村へ押し下し、民家5、6軒が流され、島々谷川の橋も上流へ押し流された。大野田村(河成段丘の上)は別条なかった。」と記載されています。260年前の現象ですが、下流住民に対する情報伝達・警戒・避難対策などが詳細に解ります。
 決壊までの時間が2日6時間(54時間、1.94×105秒)程度ですので、天然ダムへの平均流入量は438m3/sとなります。大塚・根本(2003)は1989〜2002年までの6月の平均日流入量の最大値から2日分の平均流入量を98.8m3/sと推定しています。森ほか(2007b)は古文書の記載などから、トバタ崩れは梅雨期の稀にみる豪雨時に発生したとしていますので、流入量はもっと大きいと判断しました。
 松本平に出ると、洪水段波は梓川に沿って広範囲に氾濫し、各地の人家を押し流し、残りの家々も砂が入り大破・流出も同然でした。「田畑は浸水箇所がおびただしく、立毛(生育中の作物)が残らず流出し、河原となって田地に戻せない地区もあった。下流の小宮・高松には3つの神社があるが、大きな流木や雑師橋を構築した材木も流れてきた。木曽川(奈良井川)の新橋では一時に松本方向に逃げる者もあった。御家中、町々の老若男女は放光寺山(城山)へ満水見物に集まり、雲霞の如くであった。一ノ谷の合戦はこのようなものであったと、諸人のあいだで評判であった。大水は奈良井川と一緒になって、水の勢いはいよいよ強くなり、熊倉橋も即時に流出した。前代未聞の大水であったが、水辺では死者は一人もなかった。にわかのことではなかったので、諸人の用心が堅固であったためである。」

4.天然ダム決壊による洪水のピーク流量の推定
 図4に示したように、島々谷川との合流点では、梓川本川の雑司橋(現・雑炊橋)や黒川・島々谷川に架かっていた橋は流されました。
 安曇村誌編纂委員会(1997)によれば、雑司橋は梓川の島々と対岸の橋場を結ぶ江戸時代より前から架けられていた橋です。この橋の創架の年代は不明ですが、天正十年(1582)の『岩岡家記』「ぞうし橋」と書かれています。

図4 トバタ崩れより12km下流付近の決壊洪水の推定(1/2.5万地形図「波田」,2001年修正測図)(森ほか,2007)
図4 トバタ崩れより12km下流付近の決壊洪水の推定
(1/2.5万地形図「波田」,2001年修正測図)(森ほか,2007)

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 この付近は両岸に岩壁がそそり立つ峡谷のため、橋脚が立てられず、両岸から刎木を突き出して結ぶ刎橋(はねばし)でした。長さは19間(34.2m)、水面までの高さは8間(14.4m)で、江戸時代中期以降12年に一度,寅年に架け替えられていました。この橋は松本と飛騨を結ぶ野麦街道(飛騨街道)の要衝にあたり、橋場には番所が設けられていました。この橋の創建にまつわり、島々と橋場に分かれて住む恋仲のお節と清兵衛が架橋の誓願を立てて橋を架けたという伝説があります(岸川ほか,2004)。
 「大野田村は別状なかった」(『梓川大満水記』)と記されていることから、大野田村の位置する河成段丘は被災していないと判断しました。このため、図4に示したような天然ダム決壊洪水の流下範囲を想定しました。現地調査と1/5000の地形図などから、洪水の高さは水深20m程度であると判断しました。
 マニングの公式によって、天然ダム決壊によるピーク流量を求めると、
 流速:V=1/n×R2/3×I1/2
     =1/0.05×(10.5)2/3×(0.016)1/2
     =12.1m/s
 流量:Q=A×V=2200×12.1=26600m3/s
  *1 流下断面(A)、潤辺(L)、径深(R=A/L)、勾配(I)は1/2.5万地形図から求めました。
  *2 粗度係数は、自然河道で洪水流が巨大な岩塊や流木を含んでいるため、
     n=0.05と仮定しました。
 つまり、2.7万m3/sの洪水段波となって流下したと考えられます。

引用文献・参考文献
・安曇村誌編纂委員会編(1997):安曇村誌,第二巻,歴史,上,安曇村,724p.
・安曇村誌編纂委員会編(1998a):安曇村誌,第三巻,歴史,下,安曇村,849p.
・安曇村誌編纂委員会編(1998b):安曇村誌,第四巻,民族,安曇村,863p.
・多里英・公文富士夫・小林舞子・酒井潤一(2000):長野県北西部,青木湖の成因と周辺の最上部第四紀層,第四紀研究,39巻1号,p.1-13.
・大塚勉・木船清(1999):安曇村地質図,安曇村教育委員会
・大塚勉・根本淳(2003):長野県安曇村梓川流域において一七五七年に生じた「トバタ」の崩壊と天然ダム,信州大学環境科学論集,25号,p.81-89.
・岸川たかあき,絵・浜野安則,文写真(2004):雑炊橋,安曇野の昔話F,湯浅範人・細田明子編集,22p.
・国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所(2003):松本砂防事務所とその周辺の土砂災害,49p.
・田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,207p.
・中村浩之・土屋智・井上公夫・石川芳治編(2000):地震砂防,古今書院,190p.
・目代邦康(2006):トバタの災害の地形・地質学的背景,松本市安曇資料館:『トバタの山崩れと大水,江戸時代の天然ダムによる災害』,p.5-16.
・目代邦康(2007):梓川上流トバタの山崩れの地質と地形,日本地球惑星科学連合1007年大会,Y162-0001
・松本市安曇資料館(2006):梓川大満水記(松本市島内小宮・高山元衛文書),『トバタの山崩れと大水,江戸時代の天然ダムによる災害』,p.54-58.
・森俊勇・井上公夫・水山高久(2007a):梓川上流・トバタ崩れ(1757)に伴う天然ダムの形成と決壊対策,平成19年度砂防学会研究発表会概要集,p.76-77.
・森俊勇・井上公夫・水山高久・植野利康(2007b):梓川上流・トバタ崩れ(1757)に伴う天然ダムの形成と決壊対策,60巻3号,p.44-49.
・山下昇・小坂共栄・矢野賢治(1985):長野県青木湖北岸の佐野坂山の崩壊堆積物,信州大学理学部紀要,20巻5号,p.199-210.

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