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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム18: 天明三年(1783)の浅間山天明噴火と鎌原土石なだれ
 

1.国立歴史民俗博物館の企画展示「ドキュメント災害史1703-2003」
 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、開館20周年記念展示として、2003年7月8日〜9月21日に、「ドキュメント災害史1703-2003,−地震・噴火・津波、そして復興−」という企画展示が開催されました。この企画展示は、災害史研究者の北原糸子氏が、災害史に関心のある自然科学者と歴史科学者を集めて共同研究を組織し、応募・採用されたものです。2001年度には共同研究(22名)、2002年度には展示プロジェクト委員会(27名)を組織して、展示予定の災害地を現地調査しながら、展示内容を議論し決めていきました。筆者は、それらの委員として、@富士山宝永噴火(コラム6で説明)、A雲仙普賢岳の寛政噴火と島原大変肥後迷惑(コラム7)、B浅間山の天明噴火を共同担当しました。歴博の企画展示を御覧になった方も多いと思いますが、この展示で説明した浅間山の天明噴火の問題点について、2回に分けて詳しく説明したいと思います。

2.浅間山天明噴火の概要
 浅間山(標高2568m)の天明三年(1783)の大噴火は、古文書や絵図に噴火や被害の状況が詳しく記載されています。萩原進先生(1913〜1997)は、浅間山の天明噴火に関する史料を60年間にわたり収集・整理して『浅間山天明噴火史料集成』(T〜X,1985,1986,1989,1993,1995)を発行されました。史料集成の各文献の後にはわかりやすい解説が付いており、文献の形成過程や前後関係が説明されています。筆者は、萩原先生のご自宅(前橋市)に何度も訪ね、史料の内容をお聞きしました。史料の解釈にあたっては、書かれた日付と作者の居住地が明確な史料を重要視し、居住地付近の記載は信憑性が高いと判断しました。
 表1に示しましたように、天明噴火の最後の七月八日(8月5日)に生起した火山現象の解釈や名称は研究者によってまちまちで、混乱したままになっています。筆者らは、堆積物に本質岩塊が10%以下しかなく(松島,1991)、浅間山北部の火山体を構成していた土砂が大部分を占めるため、従来言われていた高温の火砕流や二次紛体流・岩屑流ではなく、比較的低温と考えられるため、鎌原(かんばら)土石なだれと呼ぶことにしました(井上ほか,1994,井上,2004,2009)。
 天明三年(1783)の噴火は、四月八日(5月8日)に始まり、連日のように多量の降下軽石(浅間A軽石,Minakami,1942)を噴出し、関東地方に重大な社会的混乱を引き起こしました(荒牧,1968,1981)。噴火の最末期の七月七日(8月4日)に吾妻(あがつま)火砕流、七月八日(8月5日)には鎌原土石なだれと鬼押出し溶岩流が噴出しました(図1,図2)。鎌原土石なだれは、浅間山北麓の鎌原村(高台にあった観音堂を除いて)を埋没させた後、吾妻川に流入して、天明泥流となり、吾妻川や利根川沿いに激甚な災害を引き起こしました。これらの一連の土砂移動現象は、100km以上も下流まで流下しており、浅間山で発生した他の噴火現象とはかなり異なっています。天明泥流は吾妻川・利根川を流下し、利根川河口(銚子)と江戸川河口まで達しました。
 図1は天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と災害の分布を示したものです。円で示した死者・行方不明数は、群馬県立歴史博物館(1995)の第52回企画展『天明の浅間焼け』で古澤勝幸学芸員(1997)が取りまとめた1523人という数値を当時の村毎(現在のほぼ大字毎)に分布図としたものです。この死者数は、気象庁要覧(1991,2005)の1151人よりもかなり多くなっています。

表1 鎌原土石なだれの名称の変遷(井上,2004,2009に追記)
著者 浅間山の山頂→山腹 吾妻川→利根川
Aramaki(1956,63),
荒牧重雄(1968)
鎌原火砕流(鎌原熱雲)
Kambara Pf.(Nuee ardente)
 
荒牧重雄(1981) 鎌原火砕流(熱雲)→二次(乾燥粉対流)
Kambara Pf.(Nuee ardente)→Dry avalanche
二次洪水
Secondery flood
荒牧重雄・早川由紀夫・鎌田桂子・
松島榮治(1986)
高温火砕流→岩屑流
Kambara Pf.(Nuee ardente)→Debris avalanche
洪水
Flood
澤口宏(1983,86) 鎌原火砕流→泥流
Kambara Pf.→Mudflow
異常洪水
Flood
石川芳治・山田孝・井上公夫・
山川克巳(1991,92)
鎌原火砕流/土石なだれ
Kambara Pf/ Debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
山田孝・石川芳治・矢島茂美・
井上公夫・山川(1992,1993a,b)
鎌原火砕流/土石なだれ
Kambara Pf/ Debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
井上公夫・石川芳治・山田孝・
矢島重美・山川克巳(1994)
鎌原土石なだれ
Kambara debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
早川由紀夫(1995)
田村智栄子・早川由紀夫(1995a,b)
鎌原岩なだれ
Kambara debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
群馬県立歴史博物館(1995) 鎌原土石なだれ 天明泥流
群馬県埋蔵文化財調査事業団
(1997a)
鎌原土石なだれ 天明泥流
群馬県中之条土木事務所(1997a)
長野県佐久建設事務所(1999)
鎌原土石なだれ 天明泥流
浅間山火山ハザードマップ
検討委員会(2003)
鎌原土石なだれ 天明泥流
国立歴史民俗博物館(2003) 鎌原土石なだれ
Kambara debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
国土交通省・群馬県埋蔵文化財
調査事業団(2003,05)
鎌原土石なだれ(岩屑なだれ) 天明泥流
堤 隆・浅間縄文ミュージアム(2004) 鎌原土石なだれ 天明泥流
国土交通省利根川水系砂防
事務所(2004)
鎌原土石なだれ 天明泥流
井上公夫(2004,06a,b) 鎌原土石なだれ
Kambara debris avalanche
天明泥流
Tenmei mudflow
気象庁(2005) 鎌原土石なだれ  
中央防災会議災害教訓の継承に
関する専門調査会(2006)
鎌原火砕流/岩屑なだれ 天明泥流
早川由紀夫(2007a,b) 鎌原土石なだれ
Kambara debris avalanche
 
かみつけの里博物館(2007) 鎌原土石なだれ 天明泥流
関俊明(2006a,2007b) 鎌原岩屑なだれ 天明泥流
文献名は巻末の引用・参考文献一覧表を参照のこと

図1 天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と被害の分布(古澤,1997,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004をもとに作成)
図1 天明三年浅間山噴火に伴う堆積物と被害の分布
(古澤,1997,国土交通省利根川水系砂防事務所,2004をもとに作成)
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図2 天明三年(1783)浅間山の噴火状況 を示す立体地形図(井上,2009)
図2 天明三年(1783)浅間山の噴火状況 を示す立体地形図(井上,2009)

3.鎌原土石なだれの分布状態
 鎌原土石なだれは、天明噴火の最後に山頂から噴出した鬼押出し溶岩流に覆われ、上流部の分布範囲は良くわかりません。鬼押出し溶岩流が広く分布する長野原町立浅間火山博物館の鬼押出し遊歩道付近には直径700mの半円形の凹地が存在します(遊歩道は半円形の斜面に沿って降りて行きます)。図1や図2に示したように、鎌原土石なだれはこの凹地から下流30度の扇形の範囲にしか分布していません。このような分布は山頂噴火では考えにくく、凹地からの噴出を想定させます。土石なだれの中には高温のマグマが冷えて固まった巨大な本質岩塊(史料では火石・真っ黒な溶岩で、通称浅間石と呼ばれている)が数多く存在します。
 1978年より行われた鎌原観音堂(写真1)などの発掘調査(嬬恋村教育委員会,1981)によれば、鎌原観音堂下の階段は、地上部分が15段(2.5m)、その下に35段(5.9m)の埋没階段(全50段,8.4m)があり、土石なだれの堆積物で覆われていました。埋没階段の一番下から2人の女性の死体が見つかりました。2人の遺体は原型をとどめており、この地点に到達した鎌原土石なだれは台地状の尾根部を回り込んで、流速がほぼ0m/秒だったと思われます。鎌原観音堂を襲った土石なだれが雲仙(1991)のような火砕流だったとしたら、観音堂に集まって祈祷していた住民も全員死亡していたでしょう。
 図3は、浅間山北麓の鎌原土石なだれ分布範囲の調査地点図で、荒牧ほか(1986)や井上ほか(1994)で実施されたテストピットや調査ボーリングなどの位置を示しています。また、井上ほかで実施した径5m以上の本質岩塊の分布を示しています。

図3 浅間山北麓の調査地点図 (井上ほか,1994,井上,1995,2004,2009)
図3 浅間山北麓の調査地点図 (井上ほか,1994,井上,1995,2004,2009)
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 観音堂のすぐ北側にある延命寺の発掘調査(嬬恋村教育委員会,1994)を見学させて頂きましたが、延命寺(写真2)の建屋の木材や生活用品はほとんど炭化していませんでした。堆積物の中には高温だった本質岩塊(浅間石)は少なく、埋蔵物はあまり焼けていませんでした。
 鎌原土石なだれの分布範囲(18.1km2)には、巨大な本質岩塊(高温のマグマが噴出したもの)が点在します。高温の溶岩は磁性がばらついていますが、流下して停止した地点で次第に温度が下がるとその地点の磁北方向に磁性がそろって固定されます。この温度をキューリー温度(400〜500度C)と呼びます。流されてきた岩塊の磁性を測定(山田ほか,1993a,1993b,井上,2009)することによって、高温の状態で流れてきたか否かがわかります。古地磁気の測定結果によれば、山頂から70km離れた利根川の合流点付近までキューリー温度以上の高温状態で流下・堆積したことがわかりました。
 浅間山北麓の鎌原土石なだれの分布範囲には、長径5m以上の本質岩塊が194万m3存在しました(山田ほか,1993a,井上,2009)。天明泥流となって流下した分を含めると、720〜1060万m3の本質岩塊が地下から噴出しました。鎌原土石なだれ堆積物は、浅間山北麓に平均層厚2.2m、総堆積4700万m3、天明泥流になって流下した分を含めると、1億m3以上と推定されます。

写真1 鎌原観音堂(正面の石段は15段,その下に35段が埋もれている) 写真2 延命寺の発掘調査(1990)(延命寺の建屋の木材・生活用品は炭化していない)
写真1 鎌原観音堂
(正面の石段は15段,その下に35段が埋もれている)
写真2 延命寺の発掘調査(1990)
(延命寺の建屋の木材・生活用品は炭化していない)
1990年10月井上撮影

4.鎌原土石なだれの発生噴出場所
 図4は、萩原進先生のご自宅にお邪魔してお話を聞いている時に頂いた絵図で、美濃部明夫氏所蔵の『浅間山嶺吾妻川村々絵図』を萩原先生が模写したものです。浅間山の噴火絵図ですが、中腹に柳井と書かれた青色の沼が描かれいます。この沼は現存しておらず、鬼押出し溶岩流の流下によって埋没したと考えられます。
 図5は、飯島栄一郎氏所蔵の『吾妻川被害絵図』で、柳井沼があったと想定される浅間山の中腹から水蒸気爆発を起こして、土石なだれとなって浅間山北麓を襲い、吾妻川を天明泥流となって中之条から渋川付近まで流下した状況を示しています。
 『鎌原村復興絵図』(嬬恋村佐藤次熙氏所有、嬬恋郷土資料館蔵)によれば、天明噴火前の浅間山北麓の半円形凹地付近には、柳井沼と呼ばれる湖沼が当時あって、周辺にはかつら井戸・用水などと呼ばれる湧水池や沼地が存在しました。現在でも鬼押出しの末端部には、湧水が多く湿地状となっています。また、鎌原付近の地質調査では、ボーリング調査だけでなく、堆積状況をテストピットを掘って調査しました(荒牧,1981,山田ほか,1993a,井上ほか,1994,安井・荒牧,2007)。
 図6に示したように、浅間山の北麓の浅間火山博物館の付近は、鬼押出し溶岩流で覆われていますが、直径700mの半円形の凹地が存在します。このため、山田ほか(1993a)では、凹地の中心付近で調査ボーリング(深さ72.8m,掘進直後の水位30m)を実施しました。この付近では地表から64.8mもの厚さで鬼押出し溶岩が存在しました(図7)。この溶岩を取り除くと、深い凹地となるので、噴火前に存在した柳井沼はこの付近にあったと判断されます。

図4 浅間山嶺吾妻川村々絵図(美濃部明夫氏所蔵:萩原進氏模写)
図4 浅間山嶺吾妻川村々絵図(美濃部明夫氏所蔵:萩原進氏模写)
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図5 吾妻川筋被害絵図(群馬県伊勢崎市・飯島栄一郎氏蔵)
図5 吾妻川筋被害絵図(群馬県伊勢崎市・飯島栄一郎氏蔵)
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図6 浅間山北麓のボーリング地点 図7 浅間山北麓の地質推定断面図(井上,2004)
図6 浅間山北麓のボーリング地点( 図7 浅間山北麓の地質推定断面図(井上,2004)
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写真3 サンランド発掘断面(西面),図3のD地点 高温の本質岩塊は10%以下 写真4 鎌原土石なだれ中のパイプ構造写真の下に本質岩塊が存在し、水蒸気の抜け後が認められた
写真3 サンランド発掘断面(西面),図3のD地点
高温の本質岩塊は10%以下
写真4 鎌原土石なだれ中のパイプ構造写真の下に
本質岩塊が存在し、水蒸気の抜け後が認められた
1992年井上撮影

 鎌原土石なだれ発生の1〜2週間前から、柳井沼付近では泥の吹き出しがあったようです。噴火直後に江戸幕府は、幕府勘定吟味役の根岸九郎左衛門(1737〜1815)に被害調査を命じています。根岸は噴火から50日後の八月二十八日(9月24日)に江戸を立って、詳細に現地調査を行い、村毎の被害記録をまとめ、『浅間山に付見聞覚書』(萩原,1986,U,p.332-348.)を幕府に報告しています。根岸はこの中で、「此度浅間山焼けにて、右の通泥石等吾妻川利根川え押開候儀何れより涌出候哉の段、右越立の儀承糺候得共、浅間絶頂有之俗御鉢と唱へ候所より涌こほれ候儀も可有御座、又は中ふくより吹破候とも申し候。何れとも取メり候儀も無之、浅間最寄の者承り候ても聢と仕候儀も不相分、其砌は命を失ひ不申様取急候て逃退候を専一存、悉見留不申段申之候多く、此段全実事と相聞候。」と記しています(表2のNo.14)。幕府直轄領激甚地域での幕府直轄工事は十月(11月)から始められ、根岸は工事の総支配役として現地で直接指揮しました。
 当時から山頂噴火と中腹噴火を示す絵図(図4,図5)や史料が多く存在しました。このため、図8に示したように、山田ほか(1993a),井上ほか(1994)や国立歴史民俗博物館(2003)で、
 @山頂からの噴出物質が柳井沼に流入し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した。
 A中腹の凹地(柳井沼)から側噴火し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した。
という2通りの考えを提案しました。

図8 鎌原土石なだれ発生の概念(山田ほか,1993a,井上ほか,1994)を修正 国立歴史民俗博物館(2003)の展示パネルより
図8 鎌原土石なだれ発生の概念(山田ほか,1993a,井上ほか,1994)を修正
国立歴史民俗博物館(2003)の展示パネルより

 その後、田村・早川(1995),早川(2007),早川(2010)は、「鎌原」は前日から流れ始めていた鬼押し出し溶岩流が、柳井沼付近に達した時に、火山性地震によって岩なだれを越こし、急激な減圧を生じて「熱雲」を発生させたとしました。
 井上素子(1996,2002,2006)は、鬼押出し溶岩流について、詳細な地形・地質調査を行いました。その結果、溶岩流の表層十数mは観察しうる限り火砕物であり、溶岩流の表層部には、赤色に酸化した部分と黒色の酸化していない部分、多孔質と緻密部からなる不明瞭な成層構造が認められました。そして、上部ほど多孔質で、下部に行くにつれて溶結度が増して緻密になって行くとしました。緻密な部分にも赤色酸化部と非酸化部の成層構造が認められることから、この部分はスパター(粘性の低いマグマが爆発的噴火時に放出した可能性を持つ溶岩片)が圧密により溶結したもの、つまりアグルチネイトであると考えました。なお、このような状態で溶岩のように流下したものは、火砕成溶岩(高橋,2003)と呼ばれています。安井・小屋口(1998a,b)は、鬼押出し溶岩流は、釜山の主体部と連結しており、火砕丘が何回も崩壊して、斜面を流動した形態だと判断しました。
 このような火砕成溶岩は、天明噴火のプリニー式噴火最盛期に形成されたもので、8月4日には吾妻火砕流が噴出しています。また、鬼押出し溶岩流はフローユニット1〜3に分けられます(井上素子,1996,2002)。フローユニット1の上にユニット2が存在し、最後にユニット3が北東方向に流出しました。鎌原土石なだれの上には、ユニット2しか存在しません。

5.鎌原土石なだれの噴火・流下・堆積機構
 表2は、萩原(1985,86,89,93,95)の『浅間山天明噴火史料集成』(T〜X)などをもとに、鎌原土石なだれに関する史料・絵図の記載とその解釈(井上,2004,2009)をまとめたものです。No.6によれば、「仰信州浅間が嶽は、持統天皇九年(695)四月役行者始めて当山(浅間山)を開き給ふ・・・東北の方に柳の葉に似たる井有。即柳の井と号(なずけ)給ふ。」(V,p.269)と記されています。役行者(えんのぎょうじゃ,634〜701)は最初に浅間山に登ったとされています。また、No.7では、「・・・東北の山中柳の井有り。是に毒蛇水を吐く、是毒水なり」(V,p.61)と記されています。このことから、柳井沼は、天仁元年(1108)の噴火前から存在し、追分火砕流の噴出でも埋積されなかったことになります。硫黄や温泉の噴き出しがあったことから、爆裂火口であった可能性を示唆します。

表2 鎌原土石なだれに関する絵図・史料の記載とその解釈(井上,2004,2009に追記)
番号 参考文献・古文書等 記述内容
1 浅間山嶺吾妻川村々絵図(美濃部氏蔵)
(萩原進氏移写)−図4
萩原氏が安中町の美濃部氏所有の絵図を書き写したもの。
絵図に柳井沼が青く描かれている。
2 吾妻川筋被害絵図
(群馬県境町,飯島栄一郎氏蔵)-図5
山頂からの噴煙と同時に、中腹からも噴煙が描かれ、
鎌原土石なだれ・天明泥流がそこから流出している。
3 泥流被害絵図(町田武彦氏所有)
中之条町歴史民俗資料館蔵 
山頂北側の峰の茶屋と大笹を結ぶ大笹街道の南に柳井沼が
描かれている。
4 文化十年(1813) 鎌原復興絵図
(嬬恋村鎌原の佐藤燕氏所有)
嬬恋郷土資料館蔵
浅間山北麓には、柳井沼(柳井戸)の他,袖井戸・かつら井戸・
井戸休み場、用水等の沼地や湧水の地名が記載されている。
(現在でも標高1100〜1300m付近に湿地・沼地が多い)
5 浅間山焼出上州火石流満水絵図
兵庫県姫路市,熊谷次郎氏蔵
中腹での噴火と泥流の発生を描いている。
6 浅間山焼大変記,V,P.269
上野国碓氷郡人見村・彦兵衛
「・・・・持統天皇九年四月(695年)役行者始めて当山を開き給ふ
…東北の方に柳の葉に似たる井有則柳の井と号絡ふ・・・・」
7 浅間山大変実記,V,p.61
上野国那波郡上今村・須田久左衛門
「・・・・東北の山中柳の井有り。是に毒蛇水を吐く、是毒水なり」(695)
〜柳の井は天仁元年(1108)年追分火砕流噴出前に存在していた。・・・・」
硫黄や温泉の噴き出し口が存在し、爆発火口の可能性を示唆する。
8 浅間焼出大変記,U,p.231
大武山義珍
「・・・・浅間山麓に昔ハ鬼神堂有。慶長元申年(1596)焼失スと云ふ
・・・・柳之井より一丁程東に女人堂有。貞享年中(1684-88)ニ
武州江戸神田之者三人にて比堂に休み、----」
9 天明三年七月砂降候以後之記録
V,p.141,毛呂義卿
「・・・・七月始め、瀧原ノ者草刈ニ出テ谷地ヲ見候へは
谷地之泥二間斗涌きあかり候・・・・」
10 浅間山大変実記,U,p.201
蓉藤庵
浅間の麓から引いている鎌原の用水が七月七日の晩から
枯れてしまい、村の長が不思議に思い八日の未明に行ったところ、
泥が山のように湧き出ていた。
11 浅間焼出大変記,U,p.230
大武山義珍
「・・・・七月八日四ツ半時分・・・
一番目の流れの先頭には黒鬼と見えるようなものが大地を動かし、
二番目の流れは火石を300m程度噴き上げ、青龍くれないの舌をまき、
両眼は日月のようであった。」
12 浅間大変覚書,U,p.48
無量院住職
「・・・・八日昼四ツ半時分少鳴音静なり。
直ちに熱湯一度に水勢百丈余り山より湧出し原一面に押出し、
・・・大方の様子は浅間涌出時々山の根頻りにひっしほひっしほと鳴り
わちわちと言より黒煙一さんに鎌原の方へおしだし・・・」
13 天明三年七月砂降候以降之記録,V,
p.141 毛呂義卿
「・・・・泥三筋に分れ、北西の方へ西窪を押し抜け、
中の筋は羽尾村へ押しかけ、北東の方は小宿を押し抜け・・・」
14 浅間山焼に付見聞覚書,V,p.333
幕府勘定吟味役 根岸九郎左衛門
「・・・・住民からの聴取によれば、山頂から吹き出したと言う者
もあれば、中腹から吹き出したと言う者もあり、どちらか断定でき
なかった。・・・・」
15 浅間山焼出記事(全)
著者不明(幕閣の役人か?)
「・・・・フシキ成事ト見候モノ申候。
其節北上州ノ方へ硫黄吹、中途ヨリフキ出し、・・・・」
※出典は萩原進(1986,87,88,93,95)『浅間山天明噴火史料集成』から収録した。
  引用史料の出典は萩原の巻数(T〜X)と頁数を付記した。

 No.9では、「・・・七月初瀧原ノ者草刈谷地を見候ヘハ谷地之泥二間斗(3.6m)湧きあがり候。是ヲ見テ畏レ早速家財ヲ被仕廻立退候。瀧原ト鎌原之内て谷地近キ東ノ方なり。十四五軒も有ル所也。然ル所七月八日昼四前夥敷焼上リ火石を吹飛し谷地落入谷地之泥涌上リ松林ヲ抜キ鎌原へ押懸町中二百軒斗一軒モ不残押抜候。横町ノ者後ノ山へ六十人斗リ逃上り候へ共竪町ノ者ハ僅五人助り候由。」(V,p.141)、No.10では、「神原の用水ハ浅間の腰より来ル。七月七日晩流一円来す。村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日(8月5日)の未明見に趣しに泥湧出つる事山の如し。見と斉しく飛鳥の如く立帰り村へ来ルと大音に、大変有家財も捨て逃げよ逃げよ(と)呼りて我家へ帰、取る者もとりあえずあたり(近)辺を引連て高き山へに遁れて命恙なし。」(U,p.201)と記されています。
 『浅間山焼荒之日并其外家并名前帳』(U,p.201)では、鎌原村では死者477人、助かったのは93人と書かれていますが、狭い鎌原観音堂にはそんなに入れません。このように1週間ほど前から柳井沼付近では泥が二間(3.6m)ほど湧き上がっていました。七月八日(8月5日)未明には、すでにかなりの水蒸気爆発があったことになります。七月八日朝には、鬼押出し溶岩流のフローユニットの先端が柳井沼近くに到達していたと判断されます。
 そして、運命の七月八日四ッ半(8月5日10時頃)の鎌原土石なだれの噴出となります。田村・早川(1995)は、鬼押出しの先端部が柳井沼に到達した時に、火山性地震が起こり、鬼押出しの先端が崩れて、鎌原岩なだれが噴出したと考えました。しかし、地震による崩壊だけで、大きな水平方向の駆動力が得られるとは考えにくいと思います。筆者は、島原の眉山(1792,コラム7で説明)や磐梯山(1888)、セントヘレンズ火山(1981)の噴火のように、かなり大規模な水蒸気噴火が中腹から北方向に発生したと考えました。その時に火山性地震もあった可能性があります。
 ほぼ同じころ、鬼押出しの本質岩塊(1000万m3)は柳井沼に到達し、柳井沼で水蒸気爆発を起こし、一気に北方向へ流下しました。そして、中腹の凹地(山頂から4.6km)から6km区間(山頂から11km)は北麓を構成していた土石を侵食して、次第に体積を増大させ、ピーク時には1億m3にも達しました。それより下流では、鎌原土石なだれは侵食できなくなり、しだいに堆積するようになりました(浅間山北麓での堆積土量4700万m3)。そして、群馬県嬬恋村教育委員会(1981)のボーリング調査によれば、土石なだれは鎌原観音堂を残して、延命寺と鎌原集落を襲い、ほとんど埋めてしまいました(堆積厚さ2.0〜5.9m)。今まで説明した諸説の共通点は、当時存在したとされる浅間山中腹部の半円形凹地部(柳井沼)で、特異な現象が発生したということです。この点を踏まえて、小菅・井上(2007)は以下の問題提起を行いました(井上,2009)。

@なぜ柳井沼は存在したか
 今まで柳井沼の存在を調査した研究はほとんどありません。表2のNo.6,No.7で記されていることから、天仁噴火(1108)よりも前から柳井沼が存在し、追分火砕流の流下・堆積によっても埋めつくされずに残っていたと判断されます。天仁噴火以前の噴火時には南側の石尊山と同じような凸部が北側山腹に存在したとすれば、追分火砕流や吾妻火砕流(1783)が枝分かれして流下していることが理解できます。小菅・井上(2007)は、柳井沼の存在する凹地は地すべり地冠頭部の陥没態に形成された沼地であったと想定しました。すなわち、大地震か噴火時に地すべりが発生し、地すべり地頭部に陥没地帯ができ、そこに柳井沼が形成されたと考えました。  

Aなぜシャープな半円形の凹地形が形成されたか。
 柳井沼が地すべり冠頭部の陥没部に形成された沼だとすれば、半円形凹地形が形成され、以前からの中腹噴火の火口(浅間山の南側にも血の池があります)だった可能性もあります。

B浅間山南麓で中腹噴火はあったのか?
 天明噴火による長野県側の被害は噴石・降灰と沓掛泥流のみで、それ以外はほとんど知られていません。しかし、萩原先生が一番悩んでおられたのは、金沼村の「陥没」現象でした(井上,2009b)。有名な『浅間山夜焼昇之記』(長野県小諸市・美斉津洋夫氏蔵,W,p.89-102)にも、図9に示した「佐久郡金沼村」と題する絵図が存在します。『浅間山夜焼昇之記』の8枚の絵図は引用されることが多いのですが、「金沼村」の絵図だけはほとんど引用されていません。
 金沼村の正確な位置は不明ですが、御代田町塩野集落・真楽寺周辺の可能性があります。真楽寺は浅間山の南麓に位置する大寺で、北麓の鎌原・延命寺と並んで、浅間山を司る寺でした。真楽寺には多くの史料がありますが、ほとんど公表されていません。絵図の解説には、「表三番街伊丹雅(楽)之助知行所 私領地信知行所金沼より追分之方へ壱里半(6km)横幅二十八丁余(2800m)去ル四日朝五時(8月5日)鳴響震動仕、家居立木田畑共落入申候。其穴より黒雲り立登り如闇夜羅成候。落入候場所村数三十村人馬数相知不申候。其近村廿三四村立退申候。」と掲載されています。このような記載は他の史料にも多くあります。真楽寺の東方には水田が発達していますが、圃場整備前の米軍写真などによれば、かなり明瞭な直径数百mの凹地が認められます。南麓にも中腹噴火があったのか、沓掛泥流の発生源となった血の池付近を含めて調査する必要があります。

図9 佐久郡金沼村の陥没の図(浅間山焼昇之記)(長野県小諸市八満 美斉津洋夫氏所蔵)
図9 佐久郡金沼村の陥没の図(浅間山焼昇之記)(長野県小諸市八満 美斉津洋夫氏所蔵)

C短時間で鎌原土石なだれが流出・流下した原動力は何か。
 井上素子(1996,2002,2006),荒牧・安井(1997),Yasui & Koyaguchi(2004),田中・安井・荒牧(2012)は、鬼押出し溶岩流は火砕成溶岩であるとし、「鎌原」が発生する前に山頂火口から流れ出し、半円形凹地の急崖部から柳井沼に流入して「鎌原」が発生したと考えました。
 小菅・井上(2007)は、図10に示したような仮説を考えました。すなわち、小規模な水蒸気爆発では地すべりは再活動せず、火砕成溶岩(鬼押出し溶岩流)が柳井沼に流入して、柳井沼を覆い尽くした時に、地すべり地頭部に上載荷重が付加したことにより、地すべりが再活動を始めたと考えました。そしてこれを契機に高温の溶岩と沼の水との間で生成された水蒸気の高温高圧部が水蒸気爆発を起こし、地すべり土塊に強力な運動エネルギーが付加されて、鎌原土石なだれとなって、北方向に高速で流下したと考えました。
 表2のNo.11によれば、「七月八日四ッ半時分(10時30分頃)・・・第壱番目の水崎(先)くろ鬼と見得し物大地をうこかし、家の囲ひ、森其外何百年共なく年をへたる老木みな押くじき、砂音つなみ土を掃立、しんとふ雷電し、第弐の泥火石を百丈余(300m)高く打あけ、青竜くれないの舌をまき、両眼日月のことし。一時斗闇夜して火石之光りいかづち百万ひゞき、天地崩るゝことく、火焔之ほのふそらをつきぬくはかり。田畑高面之場所不残たゞ一面之泥海之如し。何れの畑境(さかえ)か是をしらんや。老若男女流死。・・・」(U,230)と記されています。
 1番目の流れは地すべり移動土塊を主体とする土石なだれ、2番目の流れは柳井沼に流入した高温の鬼押出し溶岩流の巨大な岩塊を含む土石なだれと考えられます。

図10 鎌原土石なだれの発生機構の想定(小菅・井上,2007)
図10 鎌原土石なだれの発生機構の想定(小菅・井上,2007)

D土石なだれや天明泥流に含まれる水の起源
 柳井沼が地すべり地冠頭部に形成された沼であるとすると、その陥没帯付近は地下水で十分飽和していたと判断できます(鬼押出し溶岩流の先端部付近は現在でも湧水が多く、嬬恋村の水源地となっています)。従って、浅間山北麓の地すべり地周辺には、鎌原土石なだれ、天明泥流となるに十分な水量が確保されていたとと考えられます。

6.むすび
 大規模土砂災害地を歩き、古文書や絵図などを調べて行くと、従来の学説とは異なる土砂移動現象に出会うことがあります。将来の火山噴火時の減災に少しでも役立たせるためには、より実際に近い土砂移動の発生・流下・堆積機構を解明するとともに、地域住民がこのような土砂移動に対し、どう対応(被災から災害復興まで)したかを調査する必要があります。
 本稿で述べたように鎌原土石なだれの噴出・流下・堆積、天明泥流への移行については、未解決の問題が多く残されています。このためには、鬼押出し付近でボーリングなどを追加実施することにより、柳井沼の形態や鬼押出し溶岩流下面の地形をはっきりさせる必要があります。また、土砂水理学的な検討も必要だと思います。
 浅間山天明噴火の土砂移動の実態を調査する段階で、平成9年(1997)に他界された萩原進先生に大変お世話になりました。前橋市のご自宅に何度もお邪魔し、先生が収集・整理された古文書の内容を教えて頂きました。また、荒牧重雄先生とは北海道大学(1991年頃)の研究室にお邪魔して以来、柳井沼と中腹噴火の可能性について、何度も議論させて頂きました。また、引用・参考文献に挙げさせて頂いた方々とも多くの議論をさせて頂きました。本稿は多くの討論やアドバイスの結果をもとに、井上個人の考えをまとめたものです。少しでも鎌原土石なだれの土砂移動の実態に近づくことができれば、幸いです。

引用文献・参考文献
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・井上公夫(2009a):噴火の土砂洪水災害,―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―,古今書院,シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ,第5巻,204p.
・井上公夫(2009b):コラム7 南麓における中腹噴火?(金沼村の陥没現象),噴火の土砂洪水災害,―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―,古今書院,p.136-137.
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