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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム20: 善光寺地震(1847)による土砂災害
   ―当時の絵図と古文書から土砂災害の状況を探る―
 
1.1847年の善光寺地震による土砂災害の分布
 善光寺地震は、弘化四年三月二十四日(1847年5月8日)に発生したM7.4の直下型地震で、震源地は地震断層や被災状況から判断して、長野市浅川地区と推定されています(宇佐美,2003)。この地震によって,長野県北部では非常に多数の山崩れを起こし,松代藩領で4万2000箇所,松本藩領で1900箇所に及びました(善光寺地震災害研究グループ,1994,井上,2008)。この災害の中心となった犀川丘陵は,新第三紀層の比較的軟弱な地層からなり,もともと地すべり地形の発達している地区です。当時の史料では,「抜け」という言葉が多く使われていました。
図1 長野県北部の接峰面と善光寺地震の土砂災害地点(井上,2007)   
青色の部分は岩倉山天然ダムの湛水範囲,青の斜線は、決壊後の洪水段波の氾濫範囲
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図2 信州地震大絵図(長野市立真田宝物館蔵)
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 図1は、長野県北部の接峰面と善光寺地震の土砂災害地点(赤羽・井上,2007)で、青色の部分は岩倉山天然ダムの湛水範囲,青の斜線は、決壊後の洪水段波の氾濫範囲を示しています。一般に、河川侵食の速度は速く、多くの谷地形が形成され、地盤変動や地質構造を反映した地形はわかりにくくなっています。1/2.5万の地形図などの等高線は複雑に曲がりくねっており、現地形を立体的に把握することが困難です。接峰面は、ある地域の山頂に接する仮想的な曲面で、本図では1km以下の谷埋め法(1km以下の等高線を無視して引き直した等高線)で作成しました。このような等高線は、複雑な現在の地形に風呂敷を被せた感じとなり、地形の概要を把握し、河川侵食される前の地形構造の復元などを目的として作成します。谷埋め幅を大きくすると、より大きな地形構造を把握しやすくなります、なお、多くの曲線は接峰面の等高線(主曲線)で、赤線は500m毎の等高線(計曲線)です。
 善光寺地震の土砂災害の中心となった犀川(さいかわ)丘陵は、新第三紀層の比較的軟質な岩層からなり、元々地すべり地形の発達した地区でした。善光寺地震時には小出(1980)の言う「急性地すべり」が多く発生しました。この地域には、平成11年(1999)に農林水産大臣が認定した「日本の棚田百選」に選ばれた水田が多く存在します。特に、中条村の栃倉・大西・田沢沖などは、善光寺地震時の地すべり性崩壊によって、崩積土が谷埋めした傾斜地に再建された棚田地区です。
 善光寺地震災害の特徴の一つは、土砂災害が非常に大きかったことです(図1に主な土砂災害地点を示しました)。土砂災害とは大地を構成する土砂・礫・岩塊などの移動によって生じる災害の総称です。この土砂災害には、一般的には山地で発生する地すべり、崩壊、土石流、天然ダムの形成・決壊などによる現象が複雑に絡み合って発生します。一方、土砂堆積の場である平野部では、洪水流による土砂の運搬に伴う河床の上昇、洪水氾濫、これらに伴う利水・排水施設の障害、舟運などの機能障害が生じます。また、地震災害では液状化や噴砂が生じることがあります。
 図2の信州地震大絵図(長野市立真田宝物館蔵)は、地震後に松代藩が作成した災害絵図で、縦1.9m、横4.2mの大絵図です。この大絵図は、松代藩領を中心に隣接諸藩(松代藩・飯山藩・須坂藩・善光寺領及び幕府天領)の範囲まで、主な山地・河川・村落・城下町・寺社の位置を記した絵地図の上に、地すべり・崩壊の発生地、河川の閉塞状況(天然ダム)、洪水の氾濫区域を詳細に示しています(赤羽・原田,2003)。松代藩が詳細に被害状況を調査して作成したもので、集落と河川との位置関係から主要な地すべり・崩壊の位置や形態を推定できます。この大絵図は松代藩主・真田幸貫(ゆきつら)公が参勤交代を3〜4か月遅らせてもらい、被災処置が一段落した弘化四年八月二十八日(1847.10.7)に江戸へ出立した際に、江戸幕府に提出するため、持参したものと言われています。

2.松代封内測量図と藩主・真田幸貫(感応公)の巡視ルート
 松代藩では地震から3年経った嘉永三年(1850)から安政二年(1855)にかけて、領内全域の測量図である『松代封内(まつしろほうない)測量図』を作成しました(降旗,2007)。山寺常山の『松代封内測量図記』によれば、測量者は東福寺昌保(泰作)、絵事は田中敬行(月耕)に従事させました。図には、山林・川澤・村落・田園・舟梁・堤防・人家粗密・道路の迂直・神祠・仏刹・名勝・古跡・墳墓の所在を明確に記しています。測量を担当した東福寺昌保(1831〜1901)は、松代藩士・池田定見について最上流算術を修め、善光寺地震前年の弘化三年(1846)に清水流測量の皆伝者となっています。絵師の田中敬行は文化六年(1809)生まれで、代々松代藩士として、撃剣・砲術を学び、山寺常山(1807~1878)や佐久間象山(1811~1864)と親交がありました。主として2人の協業で測量図は完成しました。
 松代封内測量図は、現在2組が存在します。京都大学総合博物館に収蔵されているのは『松代封内測量図稿』で、大正14年(1925)11月30日付け京都大学の蔵書印が押されており(購入経緯は不明)、現在8幅が存在します(8枚の図の範囲はコラム17の図1に示しました)。信濃教育会館に所蔵されている図は、東福寺昌保の子孫の方から昭和16年(1941)9月に寄贈されたもので、7幅の測量図と『松代封内測量図記』が現存します(京都大学の図と一部異なります)。恐らく原本は松代藩に提出されており、2組の測量図は丁寧に描かれた提出直前の控えの絵図と思われます。以下に、京都大学博物館の測量図の題名と大きさを示します。縮尺1/6000の非常に大きな絵図で、善光寺地震後の松代藩内の地形・土地利用状況や土砂移動の状況が克明に描かれています。
   第壱為 千曲川南東諸村    296×237cm
   第二為 上郷諸村       180×288cm
   第三為 大岡及犀川東南諸村  286×266cm
   第四為 新町及犀川西北諸村  222×316cm
   第五為 口鬼無里日陰諸村     198×260cm
   第六為 飯縄山麓諸村       160×240cm
   第七為 飯縄山麓諸村       180×224cm
   第八為 口封内極北諸村      128×260cm  

 善光寺地震当時、松代藩の藩主は真田幸貫(ゆきつら,1791〜1852)でした。「寛政の改革」の立役者である白河藩主・松平定信の次男として生まれ、文政八年(1825)に真田家に養子入りしています。松代藩政史における真田幸貫(感応公)の業績は多大でした。善光寺地震の際、幸貫は松代城にいて、藩主自らが罹災しました。地震後、松代城の南にある「桜の馬場」に避難所を設置し、ここでの生活が始まりました。このことが、震災復興に大きな影響を与え、幸貫の的確な判断のもとに、陣頭指揮が行われました。震災前に行っていた「備蓄米の制度」が功を奏し、各地に「御救い小屋」が設置され、被災民に施米(せまい)されました。
 藩主・幸貫は、激甚な土砂災害の被災地を3回にわたって巡視しています。第1回目は震災から2年後の嘉永二年三月二十九日(1849.4.21)で行程41.8km、2回目は四月二十六日〜二十七日(5.18〜19)で行程71.5km、3回目は同年閏四月十四日〜十六日(6.4〜6.6)で行程83.7kmを巡視しました(仁科,1995)。図3は『松代封内測量絵図』の第三図「 大岡及犀川東南諸村」(犀川の南側)と第四図「新町及犀川西北諸村」(犀川の北側)を貼り合わせた図の上に、幸貫の巡視ルートを書きこんだものです。この巡視には、青木雪卿(せっけい)という藩のお抱え絵師を随行し、『感応公丁未震災後封内御巡視之図』(67点)としてまとめられています。災害が最も激甚であった犀川丘陵を回っており、御巡視之図には感応公一行の状況や藩内の様子、特に、地震時に発生した大規模な地すべりや崩壊の状況が克明に描かれています。現在でもその場所を訪ね,現在の地形・土地利用との差異を確認できますが、現在は森林の繁茂で見えなくなった箇所も多くあります。

 図3 松代封内測量図の第三図(下図)と第四図(上図)の貼り合せ図(京都大学総合博物館収蔵)
岩倉山天然ダムの湛水域と感応公巡視路を追記(井上,2007c)

図4は、防衛大学校の中村三郎名誉教授に描いて頂いた土砂災害地点のスケッチ図で、犀川と土尻川の丘陵地(東松之木)の尾根部から北方を見た陣馬平山山麓の眺望です(井上,2007)。この付近は新第三紀小川累層の高府泥岩層からなり、元々地すべりの多発地帯でした。上位の荒倉山火砕岩層の部分が陣馬平山などの残丘地形を形成しています。善光寺地震時には、この火砕岩層地帯周辺で大規模な崩壊・地すべりが多発しました。

 図4 善光寺地震(1847)土砂災害地点スケッチ図(防衛大学校・中村三郎教授作)
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3.虫倉山周辺の土砂災害  
 望月功一氏らの善光寺地震災害研究グループは、青木雪卿の絵図と現況の対比調査を初めて行い、『善光寺地震と山崩れ』(1994)を出版し、絵図の分析は地震による地すべり形態研究に大きく貢献しました(斎藤ほか,1990-1993)。その後、長野県砂防課(2009)では『長野県のちすべり』を発行しており、青木雪卿絵図67枚すべてと小熊友和氏による対比写真が挿入されています。
 虫倉山(標高1378m)の南側の丘陵地では、大規模な地すべり性崩壊が多発しました。現在でも多くの地すべりが存在し、善光寺地震の被害地域では明治以降、多くの砂防事業・地すべり対策 事業が実施されています(国土交通省松本砂防事務所,2016)。図5は信州地震大絵図、図6は松代封内測量図の第四図(図3の上図)の虫倉山付近の拡大図を示しています。

 図5 信州地震大絵図の虫倉山付近拡大図(長野市立真田宝物館蔵)
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 図6 松代封内測量図の第四図為の虫倉山付近の拡大図(図3の上図,新町及犀川西北諸村)
(京都大学総合博物館収蔵)
 
 
善光寺地震の被害状況は各藩で調査され、被害報告が逐次幕府に報告されていました。その中でも、松代藩の家老・河原綱徳(1792-1868,地震時55歳)の『むし倉日記』は、筆者が見聞した事項を詳しく記録しています。信濃史料刊行会(1973)の三巻利によれば、「水内郡大姥山虫倉山崩壊して、山麓なる念仏寺村の内平沢組・臥雲組、梅木組の内城の越組・親沢組、地京原村の内藤沢組・横道組、伊折村の内太田組・高福寺組・横内組・荒木組、和佐尾村の内栗本組等、都合五ヶ村十一組の人家七十軒、男女百九十九人、馬三十頭跡形もなく埋没したるが、その夜、松代藩代官の手代鈴木藤太といえるが、松代候の不日村里を迂回して、念仏寺臥雲院の止宿あるべき筈にて、其下検分として臥雲院に出張止宿の折柄、図らず、其山抜けに遭ひ、自ら其夜の事共を詳しく記し置けるものあり、因にみ曰く、念仏寺村は当時総戸数五十八戸、此変災にて潰屋二十四戸、半潰十八戸、死人六人、屍馬六頭なり」と記されています。
 図7は、青木雪卿絵図-36(於念仏寺桐窪組眺望臥雲院及近辺震災山崩跡の図)で、臥雲院を含む念仏寺村の斜面を対岸の桐窪から描いたものです。臥雲院の戸谷顕光住職によれば、この寺は元々現在地より数百m高い位置にありましたが、寺域全体が大きく地すべりを起こし、山門(総門)を除いて、倒壊・全焼しました(眠月山臥雲院,1997)。善光寺地震から3年後に描かれた青木絵図-36には、地すべりによる大きな滑落崖が数本認められ、斜めに倒れて現在も生えている三本杉を除いて、寺の建物は描かれていません。
図7 青木雪卿絵図-36(於念仏寺桐窪組眺望臥雲院及近辺震災山崩跡の図),長野市立真田宝物館蔵 
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写真1 対岸から見た臥雲院(2000年12月,井上撮影)
虫倉山は寺山の背後に隠れて見えない,絵図では臥雲院はまだ再建されていない
写真2 善光寺地震によって数百m移動し、傾いた三本杉(2006年12月,井上撮影)

臥雲院の本殿と客殿は5年後の嘉永五年(1852)に再建されました。 写真1は、対岸から見た現在の臥雲院(雪卿の絵図より少し左手から,井上2006年12月撮影)です。手代・鈴木藤太は、三月二十四日(5月8日)の夜、臥雲院に泊まり、庫裡の上の間で読書していましたが、地震動に驚き庭に出たところ、庫裡は潰れ、数百mも斜面下方へ移動しました。その後、数箇所から出火して、臥雲院は全焼しました。  
 『むし倉日記』の2巻亨によれば、「三月二十四日の夜、御代官の手代鈴木藤太、山中念仏寺村臥雲院に止宿し、庫裡の方、上の間に居て灯火に書物してありしに、西北の方より怖ろしき響きすると思ふ間に、震動甚敷に打驚き、東の方の庭へかけ出づる程に、庫裡ははや潰れぬ。・・・其中に取付きたる木動き出し、暫時に一丈(3m)許り土共に抜け下り、足も止まらざる故に其処を駈出し、不図、山門の辺に名高き三本ある事に心付、此木こそいかなる抜覆りにても危うき事あるまじと、彼の杉を訪ねて行き見るに、外の木共多く倒れ重なり、右の杉は見えず、さらば、此杉もはや押倒したるかと思ひ、常は右の杉に並びおりし観音堂を尋ねるに、堂は見上る程高き処にある、扨はいつしか、地につれて下りたるなれと驚き、堂を志して上りぬ、人声聞こゆれば、弥々力を得て堂に上り見れば、此処は抜覆りなく、堂庭平かなり。寺の和尚を始め、居合せたるもの共は、庫裡の潰れたる下より危難を遁れ来るなり。
 村中の男女も、道々に来たれり、藤太思うに、地震に家潰るれば、大事あるよしと見る中にまづ此寺の庫裡の方より火燃え出でぬ。其中、遠近数ヶ所火気は見えたり、扨は地震なりけりと初めて知りぬ。寺は見えるが中に焼けながら山抜け下がり、遥か麓に下りたり。また、夜すがら、虫倉、 萩か城辺に当たり、岩石抜崩るる音幾千万の雷落かかるが如く鳴動し、怯ろしき事いふ許りなし。 爰に集り居たる老若男女、何も生きた心地なし。」

と、地震による寺の倒壊と地すべりによる斜面下方への移動、その後の出火の状況を詳しく述べています。写真2は、善光寺地震によって数百m下方に移動し、傾いた三本杉と細長い凹地状の地形(地すべりによって抜けた跡であろう)を示しています。
 最後に、絵図などの転載を許可して頂いた京都大学総合博物館、長野市教育委員会、松代文化施設管理事務所、真田宝物館、眠月山臥雲院・戸谷顕光住職、並びに山浦直人氏に御礼申し上げます。



引用・参考文献

・赤羽貞幸・原田和彦(2003):1.1 善光寺地震,ドキュメント災害史1703〜2003,―地震・噴火・津波,そして復興―,国立歴史民俗博物館,p.25-34.
・赤羽貞幸・井上公夫(2007):第1章2〜3節,災害の状況,土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会「1947善光寺地震報告書」,p.22-60.
・井上公夫(2004):V2 地震,日本地すべり学会編「地すべり Landslides,地形地質的認識と用語」,p.216-239.
・井上公夫(2006):建設技術者のための土砂災害の地形判読実例問題 中・上級編,古今書院,143p.
・井上公夫(2007a):第4節 天然ダムの形成と決壊洪水,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会「1947善光寺地震報告書」,p.61-66.
・井上公夫(2007b):土砂災害防止の立場から,―長野県西部・虫倉山周辺の土砂災害とその後の対応―,内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会,1847善光寺地震報告会シンポジウム「善光寺地震に学ぶ 地震による土砂災害の教訓を継承し現在に活かす,―善光寺地震から160年―」,p.8-9.
・井上公夫(2007c):善光寺地震による虫倉山周辺,特に臥雲院付近の土砂災害,第24回歴史地震研究会発表PPT資料
・井上公夫(2008):善光寺地震による虫倉山周辺,特に臥雲院付近の地すべり災害,―当時の絵図と古文書から土砂災害の状況を探る―,歴史地震,23号,p.101-109.
・井上誠(2011):傾斜量図とは,脇田浩二・井上誠共著,地質と地形でみる日本のジオサイト,― 傾斜量図がひらく世界―,オーム社,p.154-157.
・井上誠(2012):Digital Elevation Model から判読できる三次元地形・地質情報,日本地質情報学会2012年度シンポジウム,―地形・地質・地球物理情報の三次元モデリング―,p.1-4.
・宇佐美龍夫(2003):新編日本地震総覧,416-2001,東京大学出版会,605p.
・NPO法人長野県図書館等共同機構 信州地域史料アーカイブ 1.震災と災害の記録 むし倉日記で原文と現代訳をみることができます。
・小熊友和(2009):青木雪卿が描いた善光寺地震絵図,―現在との対比―,長野県建設部砂防課「長野県の地すべり」,pp.73-138.
・国土交通省松本砂防事務所(2003):松本砂防管内とその周辺の土砂災害,48p.
・国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所(2016):明治以降の信濃川上流の砂防事業,116p.
・斎藤豊・赤羽貞幸・中村三郎・望月巧一・長尾勲・山浦直人(1990-1993):善光寺地震により発生した地すべり・崩壊,(1)〜(8),地すべり学会研究発表講演集,29回,p.50-53,p.54-57,p.318-321,30回,p.183-186,p.273-276,31回,p.103-106,p.107-110,32回,p.427-430.
・信濃史料刊行会(1973):むし倉日記,新編信濃史料叢書,9巻,p.301-408.
・善光寺地震災害研究グループ・斎藤豊・赤羽貞幸・中村三郎・望月巧一・長尾勲・山浦直人(1994):善光寺地震と山崩れ,長野県地質ボーリング協会,130p.
・田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,口絵8p.,本文205p.
・長野県地質図活用復旧事業研究会(2015):長野県デジタル地質図2015,NPO法人長野県GIS協会
・中村浩之・土屋智・井上公夫・石川芳治(2000):地震砂防,古今書院,口絵16p.,191p.
・仁科淑子(1995):松代藩主の西山中巡覧記,松代,8号,
・降旗浩樹(2007):コラム『松代封内測量図』の成り立ちと特徴,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会「1947善光寺地震報告書」,p.101-104.
・宮下秀樹・山浦直人・井上公夫(2013):弘化四年善光寺地震における煤花(裾花)川の土砂災害とその後の対応,土木史研究,33巻,p.41-51.
・眠月山臥雲院(1997):眠月山臥雲院,晋山・落慶記念誌,147p.
・山浦直人(2014):善光寺地震による水害を伝える資料について,平成25年度冬季展「山国の水害」の展示資料,長野県立歴史館研究紀要,20号,p.58-68.
・山浦直人・久保田周一・宮澤洋介(2007):善光寺地震による犀川砂防事務所管内の土砂災害,斜面防災技術,34巻2号,口絵,p.39-47.
・涌池史跡公園記録誌編集委員会(2011):善光寺地震と虚空蔵山の崩壊,―弘化四年その時涌池になにが起きた―,長野市信更町涌池区,190p.
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