6.鳶崩れ天然ダムの発生と天然ダムの形成
写真4は、桑崎山上空から見た立山カルデラの状況を示しています(国土交通省立山砂防工事事務所,2002)。飛越地震は、跡津川断層の東端では
鳶崩れと呼ばれる大規模崩壊を発生させ、大量の崩壊土砂は岩屑なだれとなって、カルデラ内の湯川から常願寺川を流下・堆積しました。その後も、しばらくは不気味な鳴動が続き、刈込池付近など数箇所から噴煙が上がったと言われ、富山城からも噴煙が望見されました。図8は、滑川市立博物館蔵(岩城家文書,12-12-1)の
安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(山方図)で、図9は図8の絵図や現地調査・航空写真判読・古文書の整理結果をもとに作成した常願寺川上流域の安政五年(1858)災害の土砂災害状況図(国土交通省立山砂防工事事務所,2002,田畑ほか,2002)です。湯川と真川の合流点付近では、高さ150mの尾根の鞍部を乗り越えて堆積し、湯川と真川の両河川を堰止め、大きな天然ダムが形成されました。図5や表1に示されているように、常願寺川の河谷では、鳶崩れだけでなく、多くの地点で崩壊が起こり、大小の天然ダムが形成されました。その後、14日後の三月十日(4月23日)と59日後の四月二十六日(6月7日)に天然ダムは決壊し、下流の常願寺川扇状地に多大の被害を与えました。湯川の天然ダムの名残が多枝原池と泥鰌池です。
鳶崩れに関する絵図や記録は非常に多く残っており、特に
『越中安政大地震見聞録』(富山県郷土史会,1976)や立山町(1984)、富山県[立山博物館](1993)、立山カルデラ砂防博物館(1998)などにまとめられています。大山町立歴史民俗資料館の
『立山温泉の図』によれば、鳶崩れ以前の立山温泉の背後には、小鳶からの尾根が大鳶の下部を隠すように伸びています。名称から判断して、小鳶・大鳶は立
写真4 桑崎山から見た立山カルデラ(国土交通省立山砂防工事事務所,2002)
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図8 安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(山方図)
(滑川市立博物館蔵,岩城家文書,12-12-1)
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図9 常願寺川上流域の安政五年(1858)災害の土砂災害状況図(田畑ほか,2000)
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山温泉から見上げた時に、頂上付近の切り立った大小2つのピークでした。立山温泉は、当時
「出シ原(だしはら)温泉」(土砂が押出してできた平地の意味か)とも呼ばれていました。鳶崩れ時以外にも、切り立ったピーク(急峻な斜面)から発生する大小の崩壊や落石による被害を立山温泉の建物は何度も受けていたと考えられます。
『安政五年戌年二月大地震記』の岩峅寺(コラム22の図2参照)衆徒の報告には、「出シ原温泉背後の大鳶・小鳶山の両山が大きく崩壊し、出シ原温泉に崩壊土砂が崩れ落ち、この温泉場は跡形もなくなっている様に見受けました」(富山県郷土史会,1976)と記されています。また、富山県立図書館蔵の
『安政大地震大鳶山小鳶山々崩大水淀見取絵図』(杉木文書)は、松尾峠辺りから描いたもので(現在の展望台からの景色とほぼ一致)で、鳶崩れ後も大鳶・小鳶山は立山温泉の南側に描かれています。したがって、鳶崩れでは大きな山体が一度にすべて消失したのではなく、1858年以前の地形も現在の地形と大きくは変わっていないと判断されます。1回目の天然ダム決壊直後に、松尾峠付近から観察した芦峅寺村の仁右衛門らは、「大鳶山は頭から二、三分崩れ落ち、小鳶
山は半分以上崩れた」(富山県郷土史会,1976)と
図10 鳶崩れに関する地形面分布と崩壊土砂の流下経路平面図
(Ouchi & Mizuyama, 1989を修正,田畑ほか,2002)
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図11 常願寺川の河床縦断図と鳶崩れ崩壊土砂の推定流下縦断面図
(Ouchi&Mizuyama,1989を修正,田畑ほか,2000)
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報告しています。
常願寺川南側の尾根部にある鍬崎山へは、立山温泉付近の状況を把握するため、多くの調査隊が派遣されましたが、雪深い時期の登山は多くの犠牲者を出したようです。調査隊の報告や絵図が多く残されています。
7.鳶崩れ崩壊土砂の運動
現地調査によれば、鳶崩れの崩壊土砂は破砕された岩石ブロックが特徴的で、1984年長野県西部地震(M6.9)時の御嶽山の御嶽崩れ(伝上崩れ)と同じような岩屑なだれが発生したことを示しています。この岩屑なだれ堆積物からなる地形面は、図10と図11に示されているように、
多枝原(だしはら)から
水谷平、湯川・真川合流点、
樺平(かんばだいら)を経て
鬼ヶ城付近まで、点々と12km下流まで追跡できます(Ouchi & Mizuyama,1989)。水谷の段丘面を構成する堆積物は、厚さ150mで、下部の岩屑なだれ堆積物から上部に向うに従って、泥質の物質や木片の多い土石流堆積物に移行し、最上部の10〜20mは礫の淘汰が若干見られる洪水流に近い堆積物となります。下流に向かっても同様の傾向が認められ、岩屑なだれを先頭に土石流が後を追う形で波状に数回に分かれて流下したと考えられます。最上部は鳶崩れから14日後(4月23日)と59日後(6月7日)に起こった天然ダムの決壊に伴う土石流・洪水流の堆積物と考えられます。表2は現地踏査時に採取した木片の
14C年代測定値(井上ほか,1986,Ouchi & Mizuyama,1989)です。
表2 鳶泥堆積物中の木片の14C年代測定結果一覧 (井上ほか,1986,Ouchi&Mizuyama,1989)
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データにはかなりのばらつきがありますが、数百年前の値を示していますので、採取した木片は鳶崩れ時(1858)に堆積したと判断しました。しかし、年代測定値の720〜940年は、鳶崩れ以前の大規模土砂移動を示している可能性もあります。上記の年代測定値は27年前の測定結果であり、常願寺川の河谷の堆積物中にはまだ木片が散見されるので、再度試料を採取し、高精度
14C年代測定や年輪年代を測定する必要があります。
現地調査結果によれば、大鳶付近の急崖部は硫化変質のため、黄褐色の色調を示しますが、小鳶付近は新鮮な安山岩からなります(図10)。多枝原−湯川右岸には主に大鳶からの堆積物が、多枝原口―水谷より下流には小鳶からの崩壊物が多く見られます。また、多枝原谷出口付近には、大鳶からの崩壊堆積物の上に小鳶からと思われる安山岩の岩塊が載っています。飛越地震時には、大鳶と小鳶それぞれの山頂から北西に延びる尾根部を中心に崩壊し(小鳶の方が若干遅かった)、多枝原平付近に崩れ落ちたと考えられます。以上の考察結果から、図10には鳶崩れ崩壊土砂の運動方向(小鳶は太い→,大鳶は細い→)が矢印で示されています。大鳶からの崩壊物は多枝原に広がり、湯川谷を堰き止めました。泥鰌谷下流の台地状の高まりから判断すると、一部は多枝原西部の斜面(熊倒レ)に突き当たって方向を転じ、湯川谷右岸に乗り上げ逆流しました。泥鰌池下流の台地状地形の下流側の有峰三の谷の崩壊地のかなり高い所まで、基盤の花崗閃緑岩の上に大鳶崩れの崩壊堆積物が存在します。小鳶の堆積物は、ほぼ直進して水谷を埋め(水谷平を形成)、湯川谷右岸斜面に突き当たって真川方向に流れを変えました。そして、真川と湯川を隔てる小さな尾根(現河床からの比高150m)を乗り越えて真川側へと直進し、1.5km上流の左岸側の段丘面まで達したと判断されます。崩壊物は小さな尾根を乗り越えた段階で、運動エネルギーの大部分を失い、後続流と混じり合って、真川・湯川の合流点から12km下流の鬼ヶ城付近まで、常願寺川の河谷をほぼ完全に埋没させて、天然ダムが形成されたと考えられます。
8.鳶崩れの崩壊範囲と規模の推定
町田(1962)は、詳細な現地調査を行い、鳶崩れの崩壊土砂量について、
A地区(鳶崩れ〜白岩堰堤):2.7億m
3
B地区(白岩〜常願寺の河谷):1.0億m
3
C地区(常願寺川扇頂部):3600 万m
3
の堆積があったとし、全崩壊土砂量を4.1億m
3と推定しました。
その後、町田(1986)は、上記の数字は飛越地震時と2回の天然ダムの決壊時の3回の土砂移動量の総和、中・下流の堆積物は天然ダムの決壊時に二次移動したものであり、全崩壊土砂量はA地区に堆積した2.7億m
3となると、前説を修正しています。なお、建設省立山砂防工事事務所(1974)では、全崩壊土砂量を3.3億m
3との試算を行っています。しかしながら、2.7〜4.1億m
3というような大きな土砂量を考えるためには、多枝原(だしはら)の上にかなり大きな山体が存在し、大部分の山体が崩壊して消滅したと考えねばなりません。これまでの崩壊土砂量の推定は、すべて堆積物から推定していますが、鳶崩れの堆積物を正確に認定することは非常に難しいと思います。鳶崩れの堆積物は、2回の天然ダムの決壊により大部分の土砂が流出し、常願寺川の河谷には点在しているのみです。御嶽山の御嶽崩れでも流下痕跡は、河谷のかなり高い位置まで存在しますが、ほとんどの崩壊土砂は下流に流下しています。このため、流下痕跡や堆積痕跡の最高点を結んでしまうと、左右岸でも位置が異なり、堆積土砂量が過大となってしまいます。
西側の多枝原池周辺には、鳶崩れ起源の安山岩角礫が堆積しているので、鳶崩れの崩壊土砂はこの付近にも乗り上げたと考えられます。しかし、崩壊土砂の分布する湯川の対岸・泥鰌池下流側の丘や水谷の堆積段丘には、基盤岩の上には火砕流堆積物が認められますので、町田(1962)の推定より、鳶崩れの堆積土砂は、かなり薄いと判断されます(水山ほか,1987,Ouchi & Mizuyama,1989)。多枝原上流部において鳶崩れ堆積物とされていたブロック状の丘は基盤岩の丘と判断されます。多枝原の谷底や谷壁にも基盤岩が露出しており、鳶崩れ堆積物はごく薄く基盤岩を覆っているだけであるため、大部分は下流に流下したと判断しました。ブロック状の丘は、面積25万m
2で、堆積物の厚さを20mとすると、体積は500万m
3となります。また、湯川右岸泥鰌池下流側の丘には古い火砕流堆積物が存在しますので、この地区の堆積物は町田(1962)より薄いと判断しました。多枝原は面積160万m
2で、堆積物の厚さを30mとすると、体積は4800万m
3となります。したがって、A地区(白岩堰堤より上流部)の全堆積土砂量は5400万m
3となります。
町田(1962)は、水谷段丘をすべて鳶崩れの堆積物と推定しましたが、現河床より30mまでは基盤の花崗閃緑岩が露頭しており、その上に20〜30mの厚さで火砕流堆積物が認められるので、鳶崩れ堆積物の厚さは100m程度と判断されます。逆に湯川・真川合流点から1.5km上流の真川左岸の段丘は、真川を遡った鳶崩れ堆積物からなるので、町田(1962)よりも多いと判断されます。
B地区(水谷〜横江)では、
@ 水谷平付近に600万m
3
A 樺谷平付近に200万m
3
B 真川筋に1100万m
3(堆積厚さ50mと想定)
C 真川・湯川合流点から鬼ヶ城までに3000万m
3(堆積厚さ50mと想定)
D 鬼ヶ城から空谷までに1500万m
3(堆積厚さ20mと想定)
E 空谷から横江までに900万m
3(堆積厚さ20mと想定)
堆積したと推定しました。
したがって、B地区全体では、7300万m
3の鳶崩れ堆積物が堆積したことになります。以上の推定結果から、鳶崩れの全崩壊堆積土砂量は、A地区とB地区の合計値1.27億m
3と考えられます。
次に、絵図や現地調査の結果をもとに、鳶崩れ前後の地形を推定して、鳶崩れ(1858)前後の鳥瞰図(水山ほか,1987)を作成しました(図11)。上図が崩壊前、下図が鳶崩れ後の地形で、土砂移動の範囲を網点で示しています。元の画像は、立山砂防事務所が撮影された斜め航空写真をもとに作成したものです。この図の作成に当たっては、立山カルデラ付近の地形情報をメッシュデータとして読み取り、鳶崩れ以前の等高線図を出力しました。そして、現在の地形図と比較して地形変化量を読み取ると、鳶崩れの崩壊土量は、大鳶から4800万m
3、小鳶から6600万m
3で、合計1.14億m
3(最大崩壊深240m)となり、堆積土砂量から推定した値とほぼ同じとなりました。
以上の結果を整理すると、表3のようになります。
表3 鳶崩れ土砂量の比較(Inoue,et. al.,2010)
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図11 鳶崩れ(1858)前後の鳥瞰図(水山ほか,1987,田畑ほか,2002)
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9.天然ダムの決壊と土石流・洪水流の発生
安政五年二月二十六日(1858年4月9日)の飛越地震時には、常願寺川上流部は厚い積雪に覆われ、表流水はまだわずかでした。春になり、気温が上昇するにつれて、雪解け水は次第に増加し、天然ダムの背後に貯留されるようになりました。背後の集水面積や天然ダムの形状から判断して、14日後の三月十日(4月23日)は真川筋、59日後の四月二十六日(6月7日)は湯川筋の天然ダムが決壊したと推定しました。
『越中立山変事禄』(前田文書,富山県立図書館蔵)によれば、真川筋の天然ダムは、「真川大橋(ハネ橋のこと)から上流は双方の山から岩が崩落し・・・」と記されていることなどから、上流斜面からの崩壊土砂も加わって、天然ダムが形成されたと考えられます。標高1000m付近の段丘面の縁にも鳶崩れ堆積物が存在するので、堰止め高150m,湛水面積75万m
2(集水面積79km
2)で、湛水量3750万m
3と推定されています。
湯川筋の天然ダムは、堆積土砂が多いため、堰止め高や湛水量はよく分りません。
『立山大破損届聞取書』(金沢市立玉川図書館蔵)によれば、「松尾水谷山も所々崩れ、湯川の形は見えず」、
『芦峅仁右衛門報告書』(富山県立図書館蔵)によれば、「水は落石の下を滞りなく流れ、水が溜まっている所はない。従って出水の心配はない。温泉の湯小屋付近に百間(180m)四方の泥水溜りが見える」、『越中立山変事禄』によれば、「900×550mの大きな池とその他に7つの池が出来ている」などと記載されていることから、湯川の水は大部分が堆積物の下に伏流し、地表部での湛水は僅かであったと判断されます。縮尺1/2.5万の地形図から地形状況を読み取ると、湛水標高1350m、堰止め高20m,湛水面積64万m
2(集水面積10km
2)となり、湛水量410万m
3と推定されます。
『酒井家文書』によれば、「淀水へ道古洞という山崩れ落ち」、
『越中立山変事禄』によれば、「ドウコウイワというところが崩れたとき、水が七分程抜けた」などの記載から判断して、雪解けによる天然ダムの満水と真川の道古洞付近の崩壊土砂の流入によって、大量の湛水が越流したため、三月十日(4月23日)に1回目の真川の決壊が起こったと判断されます。同日には信濃大町付近でM5.7の地震が発生しており、このことが斜面崩壊と天然ダム決壊の引き金になった可能性が指摘されています(宇佐美,1985)。前述の
『安政大地震大鳶山小鳶山々崩大水淀見取絵図』には、地震から45日後の四月十二日(5月24日)の大水溜りにより水没した立山温泉の家並が描かれています。
『立山大鳶山抜図』(富山県立図書館蔵)には、59日後の四月二十六日(6月7日)の天然ダム決壊後の土砂の上に残った池の状況が描かれています。したがって、2回目の決壊にもかかわらず、多枝原付近には鳶崩れによる崩壊土砂が残っており、その上にはいくつかの池が残っていました。
『越中立山変事禄』によれば、1回目の真川の天然ダムの決壊は、水分の少ない粥状のものであったと記載されています。このため、真川から常願寺川を埋積していた土砂・流木を巻き込んで、一気に流下したと考えられます。2回目の湯川の決壊は、多量の雪解け洪水が鳶崩れの崩壊土砂に加わり、決壊したと判断しました。下流の記録では、水分の多い流れであったと記されているので、1回目の決壊で常願寺川中流部の土砂がかなり流出していたことや、丁度融雪時期のピークで真川や称名川などの大量の融雪水も加わって流下したためと考えられます。
常願寺川と称名川合流点の千寿ヶ原から岡田の中流域では、
『地水見聞録』(富山県立図書館蔵)などに、以下のような記録が残されています。
「千寿ヶ原では観音堂が残ったものの、植林されていた杉の7〜8割は土砂に押し倒され埋没した。」、「小見の藤橋(小見村と千垣村の間にあった吊橋)の両詰には、高さ3間(5.4m)の鳥居があったが埋まってしまい、藤橋の本体も不明である。」、「立山温泉から岡田村までの河筋は大石・泥・流木で埋まった。」
10.常願寺川扇状地での2回の大氾濫
図12は、滑川市立博物館蔵の
安政五年常願寺川非常洪水山里変地之模様見取図(里方図)です。2回の天然ダム決壊による土石流・洪水流は、非常に規模が大きく常願寺川扇状地に広く氾濫・堆積しました
図12 安政五年常願寺川洪水山里変地の模様見取図の里方図(滑川市立博物館蔵)
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図13 常願寺川扇状地の安政五年(1958)の土砂災害状況図
(田畑ほか,2000,田畑ほか,2002)
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(被災状況は(近藤,2014)に詳述されています)。堆積土砂は、「鳶泥」と呼ばれる転石混じりの土砂で、耕作地を復旧するのに大変苦労したと言われていますが、現在ではほとんど見つけることができません。図13は常願寺川扇状地の1858年土砂災害状況図(田畑ほか,2000,田畑ほか,2002)で、1回目(4月23日)の土石流・洪水流は、鳶泥を含む粥状の流れで、土砂濃度が高かったため、常願寺川の河道に沿って氾濫・堆積しました。2回目(6月7日)は1回目の堆積土砂を乗り越え、扇面一杯に氾濫・堆積しました。扇状地の末端部では流れも緩やかとなったため、砂丘地の微高地上を走る北国街道から下流は、氾濫を免れました。常願寺川流域全体の被害の数値は、資料によって相違し、一致しません。図13には、1/2.5万地形図上に1回目と2回目に分けて発生した天然ダム決壊による土砂氾濫・被害状況を示してあります。
加賀藩十村役であった杉木有一の記述によれば(立山カルデラ砂防博物館,1998)、1回目の泥洪水では常願寺川東側流域を中心として、耕地潰滅不毛石高5236石余、被害町村66箇所、流出・潰滅家屋250余戸、土蔵・納屋78棟、溺死者5人の被害が発生しました。2回目の泥洪水では常願寺川西側流域を中心として、耕地潰滅不毛石高2万560石余、被害町村74箇所、流出・潰滅家屋1360余戸、土蔵・納屋808棟、溺死者135人、被災者7350人となっています。2回目の泥洪水によって、富山藩領では耕地潰滅・不毛となった石高7340石余となっています。
11.数値シミュレーションによる比較検証
11.1 作業フローと計算条件
以上の考察結果をもとに、鳶崩れで形成された天然ダムの決壊による二次土砂移動の状況と比較検証するため、数値シミュレーションを行いました(田畑ほか,2000,2002)。作業手順を図14に示します。
図14 シミュレーションの作業手順
(田畑ほか,2000,田畑ほか,2002)
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計算の範囲は、天然ダムの発生した湯川と真川合流点から常願寺川扇状地の常盤橋(河口から7km)の範囲とし、砂防基準点(扇頂部・岩峅寺付近)を境に、計算結果を上流域と下流域に分割しました。地形データは、国土地理院の50mメッシュデータを利用しました。
現況施設時は、流れを規制する構造物として、縮尺1/2.5万の地形図から河川堤防・北陸自動車道・瀬戸蔵砂防堰堤・横江砂防堰堤・本宮砂防堰堤の位置を読み取り、所定のデータ内に配置しました。前項までの考察結果から、1858年の鳶崩れによる湯川と真川合流点から下流の一次土砂の堆積地形を以下のように設定しました。
合流点付近 堆積厚さ 100〜150m
合流点から鬼ヶ城 30〜50m
鬼ヶ城から空谷 15〜30m
千垣の埋積谷 5〜9m
空谷から横江 2〜3m
この間の総堆積土砂量 5000万m
3
この堆積土砂量の推定は、真川・湯川合流点より下流だけを考えれば、8章で説明したB地区の土砂量とほぼ同じです。このような堆積土砂が常願寺川の河床にあるとして、天然ダム決壊後の二次土砂移動の計算を行いました。上記の地形条件をもとに、混合粒径の2次元河床変動モデルを用いて、シミュレーションを行いました。天然ダム決壊時の土石流のハイドログラフは、Costa(1989)のダム決壊事例分類を用いてピーク流量を推定し、先頭ピーク型の三角形ハイドロを仮定して、湛水量からハイドロ継続時間を算出しました(石川ほか,1992)。砂礫密度σは、一般的な砂礫密度2.65g/cm
3を用いました。泥水密度ρは、細粒土砂の巻き上がりを考慮して、1.3g/cm
3としました(泥水中の細粒土砂の割合を20%と仮定)。Manningの粗度係数は、自然河道であることから。0.04を用いました。堆積層中に占める土砂の割合は(空隙率を0.4として)、0.6を用いました。
流砂量式は、掃流〜掃流状集合流動を対象に、林・尾崎(1981)の式を用いました。また浮遊砂に関しては、Itakura&Kishi(1980)の式を用いました。
11.2 計算結果の考察
常願寺川下流部(扇状地部)の数値シミュレーションの結果のうち、無施設時の最大流動深を図15に、現況施設時(左岸側決壊)を図16に示しました。
2回の天然ダム決壊時には、貯留されている水と雪解け水が加わって、河道閉塞した土塊を破壊して、洪水段波が常願寺川を流下しました。決壊時の雪解け水量は分りませんが、1回目(4月23日)より2回目(6月7日)の方が洪水量は大きくなったようです。
表4に示されているように、今回の計算では無施設時には天然ダムの湛水と雪解け水が加わって、5000万m
3の湛水が2回(2300万m
3と2700万m
3)に分かれて流下したと仮定しました。現況施設時には、5000万m
3の湛水が一度に決壊して流下したと仮定しました。常願寺川扇状地では、左岸側が決壊したとして示してあります。
無施設時には、1回目(ピーク流量5000m
3/s,洪水継続時間2.6h)と2回目(ピーク流量5200m
3/s,洪水継続時間2.9h)の土砂流出・洪水は、300〜750mの流路幅で流下し、立山砂防事務所のある千寿ヶ原へは20分で、砂防基準点のある扇頂部には75分で到達しました。砂防基準点における洪水通過時間は
図15 常願寺川扇状地の1858年災害土砂氾濫計算結果図(無施設時,田畑ほか,2000,2002)
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図16 常願寺川扇状地の1858年災害土砂氾濫計算結果図(現況施設時,田畑ほか,2000,2002)
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約3時間、ピーク流量4500 m
3/s となりました。洪水氾濫・堆積は、図13に示されている災害実績図とほぼ同じとなりました。また、流れの強い水深2m以上の範囲は、常願寺川沿いの狭い範囲に限られており、鳶泥や大転石の分布範囲とほぼ一致しています。
現況施設時では、一度に天然ダムが決壊したと仮定しているので、ピーク流量が8000 m
3/s、洪水通過時間は3.5時間で、千寿ヶ原へは15分で、砂防基準点には75分で到達しました。左岸側で決壊した場合には、常願寺川左岸側から神通川まで扇面一杯に広がりますが、北陸自動車道が盛土で建設されているため、それより下流には一部しか流下・氾濫しないようです。
表4 想定した天然ダムの高さとハイドロ諸元(田畑ほか,2000,2002)
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12.まとめと今後の問題
以上詳述してきましたように、鳶崩れの崩壊土砂量は町田(1962)の4.1億m
3ではなく、1.1〜1.3億m
3が妥当であるとしました。また、土砂・洪水氾濫の平面分布でみる限り、古文書・絵図などの記載と天然ダム決壊シミュレーションの結果はほぼ一致しました。しかしながら、立山カルデラ内には鳶崩れの残存物(5400万m
3)以外にも、図10に示しましたように、松尾平などに多くの不安定堆積物(すべてを合せると2.0億m
3程度)が残っていることは間違いありません。野崎・菊川(2012)は、この地域の堆積物を国見泥と呼び、巨大深層崩壊(国見地すべり)によって、形成されたと判断しました。その堆積土砂量を7〜8億m
3と推定しています。
常願寺川流域では、大規模崩壊の痕跡地形がほかにも存在し、鳶崩れのような大規模崩壊も繰り返し発生したと考えられます。地形発達史的な長期的観点にたてば、現在の常願寺川の河道は安政五年(1858)の鳶崩れと、それに引き続いた天然ダムの決壊によって、生産された土砂の残りの部分がその後の集中豪雨時に鳶崩れ以外の堆積土砂とともに、運搬されて下流(特に常願寺川扇状地)に堆積し、安定化して行く過程にあると考えらます。
白岩堰堤など、現在までに施工されてきた多くの砂防施設は、常願寺川流域の河道の安定化傾向を早めたことは間違いないと思います。扇状地河道での砂利採取の禁止と河道施設の建設も加わって、現在では常願寺川はかなり落ち着いた河川になりつつあります。
しかし、今後とも、地震や集中豪雨などを起因として、鳶崩れ規模の大規模崩壊が発生し、天然ダムの形成・決壊による洪水・土砂氾濫が発生する可能性は残されています。このような現象が発生すれば、現在整備が進められている砂防施設や河川施設が有ったとしても、図16で示したような大規模な洪水・土砂氾濫が発生する危険性は残されています。このような土砂移動が発生した場合、鳶崩れ(1858)当時と比較すると、土地利用が著しく高度化していますので、激甚な被害が発生する可能性が想定されます。
このような大規模土砂移動をハード対策のみで、防止・減災することは不可能ですので、警戒・避難対策や土地利用計画など、総合的なソフト対策を検討する必要があります。
コラム22,23をまとめるにあたり、種々のご協力を頂いた政策研究大学院大学の水山高久特任教授、中央大学理工学部の大内俊二教授、富山県立山カルデラ砂防博物館、富山県[立山博物館]、滑川市立博物館、並びに、国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所の関係各位に厚く御礼申し上げます。