1.常にかたちを変えている富士山
火山(富士山)は噴火しないと安全でしょうか。噴火が終了すれば安全でしょうか(早川,2014,石丸,2014,岩松,2014,小山・鈴木,2014,井上,2014)。富士山は噴火していない時期でも地震・豪雨などによって侵食され、下流に大量の土砂を流出し、大きな被害を与えてきました。このため、国土交通省中部地方整備局・富士砂防事務所では、富士山西側斜面の大沢崩れなどで砂防事業を鋭意行っています。
写真1は、旧東海道の三度橋(富士市)から見た富士山山頂部の写真です(井上,2009a,b)。右側に宝永噴火(1707)によって形成された宝永火口と宝永山が認められます(コラム6)。中央部の赤点線は天保谷と呼ばれ、天保五年(1834)のスラッシュ雪崩(富士山周辺では雪代とも呼ばれています:大量の水を含んだ雪が山の斜面を下る雪崩)が発生して形成された谷です。
富士山は一見すると、美しい姿のまま変化しないようですが、大沢崩れだけでなく、四方八方の沢で崩壊や土石流が発生し、絶え間なく地形変化は起きています。
写真1 旧東海道の三度橋から見た富士山と天保谷(井上,2009)
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2.天保五年四月八日(1834年5月16日)の雪代災害
天保五年四月八日(1834年5月16日)に富士山頂付近で大規模な雪代災害が発生しました。新暦の5月16日は、現在では5月の連休後であり、非常に多くの観光客が5合目付近の駐車場付近に集まっています。安間(2007)の「天保雪代による被害範囲図」(図1)によれば、天保五年の雪代は2007年に発生したスラッシュ雪崩(諸橋ほか,2008,石井ほか,2008)よりもはるかに規模が大きかったようです。
天保五年のような大規模雪代が5月の連休後に発生したらどうなるでしょうか。
図2は、国文学研究資料館(東京都品川区)に所蔵されている岩本村文書の
『富士山焼砂押流荒地絵図』(災害発生から2年後の天保七年(1836)に描かれた)に、国土交通省富士砂防工事事務所(2001)で地名を追記したものです。図3は、富士砂防工事事務所が作成した鳥瞰図の上に、
図1 天保五年四月八日(1834年5月16日)の大規模雪代災害(安間,2007)
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天保五年(1834)の大雪代の通過経路を示したものです。富士山南西部を流下した大規模雪代の氾濫状況が鮮明に描かれており、大変貴重な史料です。図4は1/5万地形図に大規模雪代の分布状況を整理したもので、津屋(1968)の溶岩流の分布を追記したものです(国土交通省富士砂防事務所,2001を修正)。これらの図を見ると、大規模雪代が富士宮市や富士市の市街地まで到達していることが分ります。この雪代は富士山の山麓を流れる渓流から潤井川の伝法用水まで流入し、大被害を発生させました。
図2 富士山焼砂押流荒地絵図(岩本村文書・国文学研究資料館所蔵)に地名を追記
(国土交通省富士砂防工事事務所, 2001, 井上, 2009a,b)
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図3 天保五年四月八日(1884年5月16日)の雪代災害(富士砂防工事事務所,2001に追記, 井上, 2009a,b)
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図4 「富士山焼砂荒地絵図」をもとに推定した大雪代の流下経路
(国土交通省富士砂防工事事務所,2001に追記,井上,2009a,b)
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3.天保五年四月八日の天候状態と雪代の発生
江戸時代末期、天保五年(1834)に北麓の富士吉田市と西麓の富士宮市付近で雪代による大災害が発生しました(富士吉田市史 資料編2,1992,同資料集3,1994)。富士吉田市大明見の中村屋敷茂左衛門書
『午年雪代出水五カ年違作次第之事』(富士吉田市教育委員会資料)によれば、
「天保五年午四月八日富士山押出候覚書 同年午之四月八日は、大あめニ而南風はげしく、富士山おびただしく山なりし、すなわち同日の九ッ時(12時頃)、雪代成黒けむり立て押出、そのおそろしき事小山のごとくにくずれ出、大木大石砂包成て、居村にいっさんに押しかけ・・・」「・・・明けがた雪代水引き、人々村内へ立ち帰り見届け候処、家七十軒五・六尺ほど砂にうずめ、戸・障子は石砂にてふちむき、諸道具不残押しながし・・・」と書かれています。
上記の記載から、天保五年四月八日(1834年5月16日)には、発達した南岸低気圧が通過して、豪雨と気温上昇により、富士山麓に発達した放射谷のほぼ全域で雪代が発生したと判断されます(図1)。富士山の北麓や南麓では、雪代が土石流となって放射谷を流下し、下流域では甚大な被害が発生しました。特に、南東側の潤井川流域では、大量の土砂を含んだ雪代洪水が流出・氾濫・堆積しました。
4.大規模雪代の流下状況
この時発生した大規模雪代は、
『慊堂日暦四』や
『ささのやまんひつ』(小倉藩士大阪留守居役)など、多くの史料に記載されています。富士山の山頂部付近では、東海道筋などの遠方からでも確認できるほど大規模な崩壊(天保谷)が発生しました。
『慊堂日暦四』の天保五年四月二十九日(1934年6月6日)の条によれば、
「四月八日4ツ時(5月16日10時)、富士山崩れて沙石を出す。遠眺すれば、新凹処あり、地は震動し、北口七八合辺より噴出し、大岩大木を押流し、明見村の人家凡そ七八十戸は残らず埋没し、内のもっとも大いなる家は棟を残す。吉田村の五十七戸は埋れ尽す。人を損せず牛馬みな埋る。」と記されています。
『ささのやまんひつ』によれば、
「四月二十三日(5月31日)飛脚到来、定七といふ。此者のものがたりに、今度東海道を通る処、元市場と吉原との間に三斗橋といふあり、其橋落て、其川に三囲計りなる木流れ落ちけるが、根もなく梢も折れ、皮は皆むけたり。土人のものがたりに、四月八日、不二山の裾吹出し洪水夥し、甲州の方殊に烈く、民舎若干流亡す。駿河の方は、其崩れ口に大なる岩ありて、夫にて水をささへ、格別のことなし。されど此河筋などへ流れ出て、人家五十軒も流失す。此木は彼崩し穴の辺にありしが、つき流されて、数里の間水勢にもまれて、かくはすりこ木の如くはなりたるなりとぞ。其他一囲ほどの木は、いくらも路辺に流れ出たりといふ。さて定七、不二山を仰ぎ見るに、左のかた糸をはへたる如く平かなりしが、中ほど三日月の如くに欠けて、甚見苦しとて、考るに、石のかたなる宝永山を削て、左の凹を埋めば、無疵なる山になるべくを、こは天狗力ならでは能はじ。上古は烟立しが、それもたえ、又宝永山出来、此度天保谷の名出来ること、一山につけて変態さまざまなり。雖然宝永に満ちて天保に欠く、因て完全の姿となるか」と記されています(国立防災科学技術センター,1983)。
図4に天保谷の崩壊地と大雪代の流下経路の推定位置を示しました。江戸時代の東海道は、三度橋(富安橋)で潤井川を渡っていました。写真1は、三度橋付近から撮影した富士山です。中央の雪で白く覆われた谷が「天保谷」です。この付近で大規模崩壊が発生し、東海道筋からでもこの地形はくっきりと見え
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図6 赤色立体図による天保谷の地形 DEMは富士砂防事務所提供,アジア航測轄成)
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図5 天保谷の地形図上の位置(井上,2009)
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たのでしょう。1834年の災害直後は真白い富士山の上部に茶色の崩壊地形・天保谷がくっきりと見えたと思います。
この大雪代は天保谷の崩壊地から弓沢川を流下し、途中の山宮工業団地上流部に存在する溶岩流を乗り越え、半分以上が風祭川方向に分流したと考えられます。図6は津屋(1968)の富士山地質図の上に大雪代が風祭川方向に分流した状況を示しました。SW3は旧期の北山(外山)溶岩流U、Aは新期の青根溶岩流です。
写真2は、大雪代が分流した地点(山宮工業団地の直上流部)の弓沢川の河道状況です。この周辺では、露出した北山溶岩が下刻作用を妨げており、谷地形が浅くなっています。このため、1834年の大雪代が流下した時に、弓沢川から溢れて、風祭川方向にも流下したと考えられます。
第2図と第4図に示したように、風祭川を流下した大雪代は、潤井川と合流した地域(外神・宮原付近)で、大きく氾濫しました。1887年測量の旧版地形図(1/2万正式図)によれば、この氾濫域には集落がほとんどありませんでしたが、現在ではかなりの集落が存在します。『ささのやまんひつ』に記載されている「すりこぎ」状になった大木は2000年11月21日に大沢で発生した土石流でも認められました。
弓沢川を流下したスラッシュ雪崩は、栗倉・阿幸地付近で氾濫しました。この地域は、現在の地名で「押出し」といわれる地区(若林,1996a, b)で、繰り返し雪代や土石流災害を受けていたようです。弓沢川を流下した大雪代は、潤井川本川との合流点付近の天間・山本付近で、風祭川から回り込んできた
図7 溶岩流の分布とスラッシュ雪崩が風祭川方向に分 流した地点(津屋,1968に加筆,井上,2009)
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図8 1834年の大雪代の氾濫範囲と入山瀬溶岩流の分 布(津屋,1968に加筆,井上,2009)
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写真2 山宮工業団地上流の弓沢川の河床 (井上,2009)
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写真3 入山瀬溶岩流上の潤井川の河床 (井上,2009)
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雪代も加わり、再び大きく氾濫しました。図8に示したように、この雪代は旧溶岩
流からなる狭窄部を通過した後、滝戸・松本付近でさらに大きく氾濫しました。この溶岩流は津屋(1986)の地質図では入山瀬溶岩流(SSW9)と呼ばれています。写真3は下流域で氾濫した潤井川の入山瀬付近の溶岩流と河道状況を示しています。
富士山からの溶岩流の箇所を通過する地区では侵食が規制され、河道が狭窄となり、河床が高い状態となっています。その上・下流部では、氾濫しやすいトラブルスポットの地点となっていますので、今後も留意する必要があります。
富士宮浅間神社(大宮)では、湧玉池から発する神田川が潤井川に流入しています。図9「潤井
図9 「潤井川浚絵図(島崎家文書)の解析図,国土交通省富士砂防工事事務所,2001,井上,2009」
(原図は富士山かぐや姫ミュージアム所蔵)
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川浚絵図」(島崎家文書)の解析図(国土交通省富士砂防工事事務所,2001)に示したように、潤井川は南側の流れで、北側の流れは「厚原伝法用水」(二本樋)です。この用水は富士宮市山本に潤井川からの取水口があり、天馬・入山瀬・久沢・厚原を通り、富士市伝法樋詰で伝法川と交わっています。水量が多い時期には、この地点で伝法沢川に水を落し、伝法樋詰から約1kmの地点で、小潤井川(元は用水)に流入していました。図2には、厚原伝法用水や伝法沢川に土砂氾濫の形跡は描かれていないので、これらの用水や河川への土砂流入は少なかったものと判断されます。
図9に示したように、この付近には加島平野の灌漑用水(上堀・中堀・下掘に枝別れする)の取水口があり、以前から用水の砂浚いをした「砂揚場」がいくつも存在しました。潤井川にはさらに、五味島・本市場・蓼原を通り、田子の浦(現在の田子の浦港付近)で駿河湾に流入しています。潤井川本川に流入した土砂は、各用水に被害を与えただけでなく、本川沿岸各地で氾濫・堆積し、田子の浦へ流入したと考えられます。
5.むすび
天保五年(1834)の大雪代は、富士山のほぼ全域で発生しただけでなく、南西方向の雪代は富士山の山頂部付近で大規模な崩壊(天保谷)が発生し、大量の土砂と一緒に雪代が流下・氾濫したものと考えられます。
危機管理の観点からは、単なる雪代災害だけでなく、山頂部付近の大規模崩壊を伴った大規模雪代も考慮すべきだと思います。大沢崩れや大沢扇状地など、富士山麓の渓流や扇状地は、このような土砂移動を繰り返し発生して形成されたと考えられます。しかし、大規模崩壊の発生時期やその位置を事前に予測することは困難です。
富士山周辺には、気象庁・東京大学地震研究所・防災科学技術研究所などで、多くの地震計が設置されており、大規模土砂移動の発生による震動も確実に把握できるようになりました。
本コラムは、2007年10月11日〜12日に国立極地研究所河口湖大石研修施設で行われた「2007富士山スラッシュ雪崩に関するフォーラム」と2008年10月17日に日本大学文理学部で行われた富士学会シンポジウム「高山地域の災害と環境―富士山を中心に―」の討論結果を参考に、2009年の砂防学会誌,62巻2号に投稿した「研究ノート」などを再整理したものです。
貴重な報告書や資料を提供して頂いた国土交通省富士砂防事務所や関係各位に感謝致します。
引用・参考文献
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