1.石内丸山スキー場付近の地形
上越新幹線で東京から大清水トンネルを抜けると越後湯沢の駅に着きます。図1に示したように、駅の西側は有名な温泉街・スキー場となっています。東側は魚野川の沖積低地で湯沢の町が広がっています。この付近は東京と新潟を結ぶ交通の要衝で、JR上越新幹線、上越線、関越自動車道、国道17号が通過しています。国道17号を魚野川に沿って下って行くと、ガーラ湯沢駅を過ぎたところから国道は登攀車線を持つ長い登り坂になります。
石打丸山スキー場に向かうオーバーブリッジ手前で峠となり、JR上越線・石打駅付近まで長い下り坂(東京方面へは登攀車線が設置されている)となります。JR上越線は、右にカーブしながら、魚野川に沿って線路が敷設されています。関越自動車道は魚野川の対岸に渡り、石打トンネルでこの付近を通過しています。
図1に示したように、石打丸山スキー場のホテルやゲレンデのある緩斜面は西側の急傾斜部にある地すべり頭部からの大規模土砂移動によって形成された地形であることが判ります。石打集落から下流は魚野川の広い谷底平野が拡がります。このような地形はどうして形成されたのでしょうか。
図1
石打の大規模地すべりと天然ダムの湛水範囲(1/2.5万「越後湯沢」図幅)
(国土交通省 湯沢砂防工事事務所,2001をもとに作成)
赤○は湯沢砂防事務所,赤・は宝珠庵
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写真1 石打丸山スキー場付近の大規模地すべり地形(2000年井上撮影)
国土交通省 湯沢砂防工事事務所,2001)
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2.湯沢町史などの記載
湯沢町史編さん室(2005)『湯沢町史,通史編上巻』の第一編 原始・古代,第5章 都が造られた時代の湯沢びと,第二節 律令体制下のムラづくり,3 魚野川を堰止めた大地すべり に「
戸内山(とないやま)の大地すべり」(p.105〜106)の記載があります。「魚沼丘陵から滑り落ちた土砂が塩沢町と湯沢町の境界付近で、魚野川を堰き止め、上流側は湯沢町の愛宕付近まで水没して、大きな湖になった。それは平安時代の安元二年(1176)のことらしい。というのは後世の伝えしか残っていないからである。」と記されています。湯沢町誌編集委員会(1978)『湯沢町史』によれば、「安元二年(1176)十月十日、湯沢戸内山が地すべりで崩壊し、魚野川を堰止め、神立立石付近(宝珠庵の門前)まで湛水した。」という記載があります。
大正9年(1920)の『南魚沼郡誌』によれば、「安元二年十月、湯沢村の戸内山が崩壊して魚野川を堰止め、堀切(湯沢町)以南は一面の湛水地となったが、湛水が一時に潰流し、下流の村落を襲ったため、人畜に甚だしい被害が出た。」と記されています。
南魚沼郡誌編集委員会(1971)の『南魚沼郡誌 続編上巻』によれば、承保三年(1076)、湯沢町の戸内山が崩れ、神立部落まで湛水し池となる。その後決壊し、泉田集落等を両断した。
写真3 ハツカ石スーパーリフトから地すべり地下部斜面と湯沢町市街地を望む
2016年9月16日井上撮影
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資料によって少しずつ記載内容が異なりますが、安元二年十月十日(1176年11月12日・ユリウス暦)に、地すべり地の源頭部は湯沢町と南魚沼市(旧塩沢町)の境界付近の魚沼川左岸の石打丸山スキー場の上部斜面であると想定されます。この付近の斜面は、石打断層などの活断層が走り、ガーラ湯沢スキー場付近を含めて、複雑な地形をしています。図1に示したように、斜面上部の地すべり性崩壊地形から、大きく土砂移動を起こし、石打丸山スキー場付近の緩斜面を形成し、魚野川を堰き止めたと判断されます。
天然ダムはその後満水となって決壊し、魚野川を洪水流が流下して、11km下流の南魚沼市(六日町)の「泉田集落」を両断しました。泉田集落は、現在魚野川の東側の東泉田と西側の西泉田地区に分かれています。1176年以前の魚野川は泉田集落の西側を流れていましたが、天然ダムの決壊洪水によって、泉田集落の中央部を魚野川が流下するようになり、泉田集落は魚野川の左右岸に分かれたものと判断されます。
湯沢町の神立291番地の「宝珠庵」(写真4)の門前付近まで湛水したとすると、湯沢町の1/2500地形図から、最大の湛水標高は358mとなります。水山ほか(2011)は、発生源面積71万m
2,移動土塊量2100万m
3,湛水高80m,湛水面積340万m
2,湛水量9200万m
3と広大な天然ダムが形成されたと算出しています。
写真4 宝珠庵の門前(新潟県湯沢町神立291番地),2016年9月16日井上撮影
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3.十日町市(旧松之山町)の湯本地すべりの地形特性と地すべり変動
図4は、新潟県十日町市(旧松之山町)の湯本地すべり周辺の1/2.5万地形図『松之山温泉』図幅を示しています。写真5は湯本地すべりの航空立体写真で、私の卒論のフィールドです(井上,1971,1996,2006,大石,1985)。この地域は、新潟県の南部、東頸城丘陵に位置しています。大松山から△737.9mを通り、南北に延びる尾根は松之山ドームと呼ばれるドーム構造で、周辺には多くの地すべり地形が認められます。湯本地すべりは、松之山ドームの南側に発生した典型的な地すべり地形を示しています。
図4 湯本地すべりと西側の地すべり地形(1/2.5万「松之山温泉図幅」)
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写真5 湯本地すべりの立体航空写真(CB-89-2X,C9-29,30
(1989年5月31日国土地理院撮影)
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松之山地すべりは、日本で発生した最大規模の地すべり地で、昭和37年(1962)〜38年(1963)にもっとも激しい地すべり変動を起こした地区です(幸田,1991)。南西・北東に伸びる松之山ドーム構造の背斜軸の周辺には多くの地すべり地形が認められます。大松山(標高670m)の麓から越道川までの長さ4km,幅2km,面積850haもの広大な範囲が活動しました。その被害は、人家371戸・農地428ha・道路20kmに達し、多くの対策工事が実施されました。
写真5は,林野庁が1965年9月23日に撮影した湯本地すべり地区の立体航空写真で、図5の地すべり地形判読図は、国立防災技術センター(現防災科学技術研究所)のステレオマイクロメーター(4級図化機)を使用して、地すべり地形を判読したものです。判読図の下に、A-C-Bを通る断面図を挿入してあります。
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図5 湯本地すべりの判読図と縦断面図(井上.1971)
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湯本地すべりは典型的な地すべり地形です。頭部に何本も平行して走る尾根地形と、中央部の人家や水田の載る平坦地があり、舌端部は越道川を閉塞しています。本地すべり地の直下には、700年前に発見された松之山温泉の温泉街が存在しますが、地すべり変動が活発化すれば、温泉街はどうなるでしょうか。
写真5の立体航空写真に示したように、湯本地すべり地の西にもほぼ同規模の地すべり跡地地形が認められます。しかし、地すべり土塊はほとんど流出しており、上部の地すべり地形のみ残されています。湯本地すべりも自然状態のまま放置されれば、越道川の侵食によって次第に地すべり土塊は下流に流出し、地すべり跡地地形に変わって行くと思われます。
新潟県治山課(1960)によれば、湯本地区の江戸時代の集落は、温泉街の上流側、湯本地すべり地の舌端部に立地していましたが、明治20年(1887)に地すべり変動が活発化しました。このため、集落の一部は地すべり地中央部の平坦地に、一部は温泉街に移転しました。その後も、明治30年(1897)と大正4年(1915)に大きな地すべり変動が生じたため、住民は舌端部に瀬替工や丸太による砂留堰堤を構築しました。
古老の話によれば、「幼時、馬で耕した田が今では深さ2mの沼になり、子供が入れなかった亀裂が4mにも拡がった」といいます。当地区は、日本でも有数の豪雪地帯(最大積雪深4〜6m)ですので、融雪期には宅地や道路に亀裂が入り、これに馬の足が落ち込むことが多くありました。このような現象を地元では、「
馬の足を取られる」と表現しています。
写真6 越道川上流部(排水隧道がなければ湛水している)(2007年4月01日井上撮影) |
4.湯本地すべりの地すべり防止対策の実施
本格的な地すべり防止対策は、大正12年(1923)から県営荒廃林地復旧事業として開始され、昭和5年(1930)までに堰堤工と地下水排除工が施工されました。しかし、地すべり地の末端部では地下水の湧出が続き、融雪期にはきまって地すべり変動が発生しました。このため、越道川の河道閉塞の進行を防ぐ目的で、戦争中の昭和18年(1943)から3ヶ年で排水トンネルを舌端部南側の岸壁に掘削・完成させました。この工事の完成によって、越道川の侵食はなくなり、地すべり変動は小さくなりました。
写真7 湯本地すべりの末端部(越道川が流れていれば、地すべり変動は激化する)
(2007年4月01日井上撮影)
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写真8 湯本地すべり下流の松之山温泉の源泉(赤い屋根)
(排水隧道の出口が滝となっている)(2007年4月01日井上撮影)
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しかし、昭和26,27年(1951,52)の融雪期には、再び地すべり変動が再発し、5000m
3の土砂が流出して、地すべり地末端部の堰堤を越えて押し出しました。その後、昭和33年(1958)の地すべり等防止法の制定などもあって、集水井戸等の近代的な地すべり防止工が施工されるようになりました。現在では地すべり変動は徐々に少なくなっています。
松之山温泉は山奥の秘湯として、有名な温泉地です。温泉でくつろいだら、ぜひ大松山大池から大松山まで登り、地すべり地形の全体像を掴んで下さい。
引用・参考文献
井上公夫(1971):東頸城丘陵東部松之山町の地すべり地形,昭和45年度東京都立大学卒論
井上公夫(1995):応用地形学と防災調査,門村浩教授退職記念出版事業会編:自然環境の窓から、
p.111-130.
井上公夫(2006):事例1 新潟県松之山町・湯本の地すべり地形,建設技術者のため
の土砂災害の地形
判読 実例問題 中・上級編,古今書院,p.11-12.
大石道夫(1985):目でみる山地防災のための微地形判読,鹿島出版会,のうち筆者執筆分:写真24新
潟県松之山町湯本地すべり,p.62-64.
幸田文(1991):崩れ,講談社
国土交通省湯沢砂防工事事務所(2001):湯沢砂防館内とその周辺の土砂災害,44p.
新潟県治山課(1960):地すべり調査報告書,東頸城郡松之山町湯本地すべり地
南魚沼郡誌編集委員会(1971):南魚沼郡誌,続編上巻,756p.
水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫(2011):日本の天然ダムと対応策,口絵,8p.,本文,
187p.,古今書院
湯沢町誌編集委員会(1978):湯沢町誌,1165p.