1.宝永地震(1707)と安政地震(1854)による土砂災害の分布
図1は、宝永四年十月四日(1707年10月28日)に発生した宝永地震(M=8.6)と嘉永六年(安政元年)十一月四日(1854年12月23日)の安政東海地震(M=8.4)、32時間後の安政南海地震(M=8.4-8.5)による土砂災害分布です(井上ほか,2012)。宝永地震では18箇所(
●)、安政地震では35箇所(
▲)の地点を特定できましたが、各事例についても、土砂移動の規模など不明な点も多いので、他の災害事例含めて、史料などをご存知の方は井上まで連絡願います。
表1は図1の元になった宝永・安政地震による土砂災害一覧表です。宝永地震(1707)については、コラム12(仁淀川中流・舞ヶ鼻),コラム13(高知県東洋町名留川),コラム14(富士川・下部湯之奥)で主な災害事例を説明しました。ここでは、安政地震(1854)による主な土砂災害について、説明致します。
図1 宝永地震(1707)・安政地震(1854)による土砂災害分布
(井上ほか,2012などをもとに、消防研究センター 土志田正二作成)
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表1 宝永地震(1707)・安政地震(1854)による土砂災害一覧表
(井上ほか,2012などをもとに作成)
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2.三重県名張市の名居神社
安政地震の5ヶ月前に発生した伊賀上野地震(1854.7.5,M7 1/4±1/4)関連の土砂災害調査を実施していて、三重県名張市下比奈知に名居神社があることを知りました(井上・今村,1999)。伊賀ではこの神社のようで、写真1に示したように、「山神社」と額に示され、詳しい説明看板があります。推古七年四月二十七日(599.5.28,M7.0)に発生した日本最古の史料のある地震を祭る神社のようです。『日本書紀』によれば、推古七年に大和地方を襲った大地震があって、地震の神を祭った神社が造営されました。江戸時代には、国津大明神と称し、比奈知川上流に散在した国津神社のひとつだったようです。「ナイ」は地震の古語で、公益社団法人地震学会の広報誌「なゐふる」の語源ともなっています。 この付近に行かれる際には、ぜひ名居神社に参拝して下さい。
図2 伊賀上野地震(1854)による土砂災害分布(井上・今村,1999)
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写真1 三重県名張市の名居神社(2011年,井上撮影)
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3.白鳥山崩壊
3.1 崩壊地の概要
図3に示したように、白鳥山(標高568m)は、富士川河口から15kmほど上流の右岸(東側)斜面に聳える比高500mの急峻な山です(土屋,2000c,国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007,井口・八木,2013)。この地域は山梨県の白鳥山森林公園となっており、山頂部からは富士山と富士川の眺望が最高に良い場所です。
現在の崩壊地は白鳥山の東斜面にあり、安政東海地震により崩壊した残土がその後の降雨による小崩壊や侵食を受け、形成されたものと判断されます。崩壊地内は白鳥山起源とされる崖錐堆積物で厚く覆われています。中央部は緩斜面を呈しますが、末端部は崖錐堆積物が薄く、基盤が急崖をなしています。従って、崩壊地内の谷形状は、上流から中流にかけて谷幅は広くU字谷状ですが、中流から下流にかけては急崖を有するV字峡谷となっています。崩壊地上流部の横断形状は図3に示したように、高さ60m、傾斜勾配70〜80度を有し、ここでの崖錐堆積物は、礫径100〜200cmの角礫(ひん岩とみられる)や30cmほどの角礫を多量に含むが、土質形状はシルト質砂礫であり、ほぼ垂直に近い傾斜で自立できるほどの締りを持っています。また、図4に白鳥山から平衡面、崩壊部を通り富士川対岸までの断面形も対比できるように示しました。
図3 白鳥山崩壊の災害状況図(国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)
(1/2.5万地形図「富士宮」図幅に追記)
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周辺の基盤地質は新第三系の富士川層群身延類層で、礫岩・砂岩を主体に泥岩を挟んでいます。身延類層中にはひん岩が所々に貫入していますが、これは白鳥山上部東斜面から北北東に向けてサンドイッチ状に分布しています。現在の崩壊地は白鳥山の東斜面にあり、安政東海地震により崩壊した残土がその後の降雨による小崩壊や侵食を受け、形成されたものと判断されます。崩壊地内は白鳥山起源とされる崖錐堆積物で厚く覆われています。中央部は緩斜面を呈しますが、末端部は崖錐堆積物が薄く、基盤が急崖をなしています。従って、崩壊地内の谷形状は、上流から中流にかけて谷幅は広くU字谷状ですが、中流から下流にかけては急崖を有するV字峡谷となっています。
崩壊地上流部の横断形状は図4に示したように、高さ60m、傾斜勾配70〜80度を有し、ここでの崖錐堆積物は、礫径100〜200cmの角礫(ひん岩とみられる)や30cmほどの角礫を多量に含むが、土質形状はシルト質砂礫であり、ほぼ垂直に近い傾斜で自立できるほどの締りを持っています。また、図5に白鳥山から平坦面、崩壊部を通り、富士川対岸までの断面形も対比できるように示しました。
図4 白鳥山崩壊地上流部の堆積構造(土屋,2000c)
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図5 白鳥山から富士川に至る縦断面図(土屋,2000c)
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写真2 白鳥山崩壊の空撮写真(セスナから撮影:防災科学技術研究所 井口隆)
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写真2は、防災科学技術研究所 井口隆氏がセスナから白鳥山を撮影したものです。現在、富士川対岸から見えるガリー状崩壊地の規模は、平均幅で80〜100m、斜面長300m、崩壊深は50〜70mの規模であることから、富士川に流出した土砂量は100〜120万m
3と推定されます(安間,1987)。崩壊地内には、下流出口付近に設置された鋼製堰堤をはじめとする治山堰堤が設置されており、これを破壊するような大規模崩壊は発生していません。しかしながら、現在も降雨時には崩壊急崖面から湧水があり、その下流末端部は露岩状態となっています。このことから落石や小崩壊が日常的に発生し、崩壊は徐々に上流部拡大している様子がうかがえます。
3.2 崩壊の履歴
図3に示したように、白鳥山は宝永地震(1707)により大崩壊を起こし、崩壊土砂が富士川を堰き止めるとともに、対岸の長貫村を襲い、22名(上流の橋上部落の8名を含む)を死亡させました。この時の崩壊土砂は、富士川を3日間堰き止めた後決壊し、下流で土砂氾濫を起こしました(芝川町編さん委員会,1973,静岡県,1996,静岡県防災情報研究所,1998,国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所,2007)。
さらに、ここでは安政地震(1854)の際にも50万m
3の土砂を流出し、上流の橋上部落でも6名を死亡させています。この時も富士川を堰き止め、翌日決壊し、下流の富士川でも被害がでたようです。
宝永地震の2年前の宝永二年六月十六日(1705.8.5)の豪雨により、白鳥山南側の前衛山北向き斜面で崩壊が発生しました。この時に境川を堰き止めて天然ダムが形成されました。塩出の集落7,8戸が浸水し、36名が死亡しました。これ以降、現在の塩出村は境川上流500mの位置に移転し、慰霊碑が建立されています。
4.静岡県島田市川根町遠見山の崩壊と天然ダム
静岡県島田市川根町(川根町は2008年4月1日に合併)では、石上集落対岸の山が崩れて、笠間川を堰き止め、天然ダムを形成しました。国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所(2007)と水山ほか(2011)によれば、崩壊地は長さ1200m,幅220m,比高250m,面積8.5万m
2,平均崩壊深さ5mとして、崩壊土量43万m
3と推定されています。図5は遠見山の崩壊地と天然ダムの湛水標高を300mとして示しました。天然ダムの堰止高30m,堰止幅180m,堰止長220mで、堰止土量は28万m
3となりました。湛水高30m,湛水面積17万m
2で、湛水量は170万m
3と推定されます。写真3は遠見山の立体航空写真で、崩壊地の地形状況が読み取れます。
この天然ダムは2ヶ月間湛水し、崩壊地から上流4kmの栗原まで、一面湖水となりました。その後、1855年2月末?に決壊しましたが、下流の被害状況はほとんどわかっていません。
図6 遠見山の崩壊と天然ダムの湛水範囲(1/2.5万地形図「石上」,2005年更新)
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写真3 遠見山周辺の立体写真 国土地理院1976年11月3日撮影,
(CCBC-76-21, C9-15,16, 縮尺1/15,000)
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5.高知県土佐清水市三崎地区の天然ダム
図1に示したように,東南海・南海地震では,四国地方で11ヶ所の土砂災害地点を抽出できました。元東大地震研究所の都司嘉宣准教授の高知新聞記事「続歴史地震の話19」(2008.8.25)によれば,幡多郡三崎村(現土佐清水市)と幡多郡佐賀町伊与喜(現
黒潮町),香北町史の「天地の間の事覚附」で大峰谷水などに,安政南海地震時の土砂移動によって天然ダムが形成されたことが紹介されています(都司,2012)。このため,2013年に井上・横山・山本で現地調査を行うとともに,地元の教育委員会や関係者にヒヤリングを行いました。
三崎村の矢野川正保の手記『大変記』によれば,本震の2日後の十一月七日に大きな余震がありました。「七日,巳上刻(10時)一震にて半潰の家は本潰となり,五日のゆり程にはなけれどもなかなか歩行なども思もよらず。人気(ひとけ)何となく騒々しく誰云となく山潮来ると大に驚きしばらく鳴り止まざるが,不思議なるかな枯川へ水五六合俄に出,渡り難き程なり」と記されています。
つまり,本震の揺れにより三崎川の上流で大規模斜面崩壊が発生し,河道閉塞によって天然ダムが形成された。そして,2日後の余震によって天然ダムは決壊し,洪水段波が襲ったと考えられます。現地調査をもとに地形条件から判断して,深層崩壊の発生地点は図7に示した西川流域で,河口から3km上流の押出し地形の地区と推定しました。天然ダムの湛水標高は100m(湛水高50m)で,湛水面積14万m
2,湛水量240万m
3と計測しました。さらに史料調査と現地調査,聞き込み(言い伝え)などを行い,土砂移動と天然ダムの形態を把握し,海溝型地震との関連を検討して行きたいと思います。
図7 土佐清水市三崎地区の想定天然ダムの湛水範囲
(1/2.5万地形図「土佐清水」「下川口」)
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6.有間大崩壊(地震と豪雨によって繰り返される土砂移動)
高知県土佐郡土佐町有間は、吉野川支流平石川上流部に位置し、安政地震時に大崩壊(推定土砂量570万m
3)が発生しました(国土交通省四国地方整備局四国山地砂防事務所,2004)。その後、明治26年(1893)の豪雨で再び崩壊しました。さらに、昭和21年(1946)12月21日の昭和南海地震(M8.0)でも、西側斜面が再び崩壊しました。
上野(1992)、小松ほか(2003)によれば、昭和51年(1976)の台風17号により、以前からの崩壊地が拡大し、以来地すべり活動が拡大していました。標高600m付近の狭窄部から下流は扇型を呈していますが、縦断面は30度と急斜面を形成しています。地質帯は三波川帯(結晶片岩)に位置し、東西方向、北落ち傾斜の単斜構造で、崩壊斜面は受け盤となっています。岩質は、斜面下部より黒色片岩優勢層、黒色片岩・緑色片岩互層、黒色片岩、緑色片岩に区分され、すべり面以下の基岩はしっかりした岩体をなしています。
昭和51年の台風17号時には、大規模な崩壊や土石流が発生し、昭和53-54年(1978-79)には、崩壊斜面の末端部で湧水量が多くなり、小規模な土石流が繰り返し発生しました。このため、下流への土砂流出が激しくなり、濁流が発生し、大きな問題となりました(上野,1992,小松ほか,2003)。高知県では下流への土砂流出防止を優先し、渓間工を昭和53年度より着手し、63年度(1988)までに治山ダム工9基を施工しました。現在までに、地すべり・崩壊対策として、渓間工・排水トンネル工・集水井工(集排水ボーリング)・暗渠工などが施工されました。また、山腹対策として土留め工・伏工が施工されています。
なお、図8では高知県農林水産部 森林土木課となっていますが、現在の高知県の組織では林業振興環境部 治山林道課となっています。
図8 有間大崩壊周辺の写真判読による崩壊推移図(1/2.5万地形図「西石原」)
(国土交通省四国地方整備局四国山地砂防事務所,2004)
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写真4 有間大崩壊の立体写真 国土地理院1975年11月1日撮影,
(CSI-75-12, C15-19〜21, 縮尺1/15,000)
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写真4は、国土地理院が1975年11月1日に撮影した航空写真の立体写真です。昭和51年(1976)の台風17号による大規模崩壊・土石流は表示されていませんが、昭和47年(1972)の大規模崩壊が白く写っています。図8と比較すると、安政南海地震(1854)
と昭和南海地震(1946)による大規模崩壊の位置が判読できます。
引用・参考文献
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古今書院
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水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,口絵4p.,本文187p.