1.瀬戸内海で3番目に大きな周防大島
三方を海に面する山口県には、大小約 240 の島があり、このうち最も大きな島は、面積 128km
2 の周防大島(すおうおおしま(島名:屋代島))です。瀬戸内海の島としては、淡路島、小豆島に次ぐ3番目の広さを有しています。平成16年(2008)に久賀町・大島町・東和町・橘町が合併して、周防大島町となりました。周防大島町の面積は138km
2で、平成27年(2015)10月の人口は17,199人、本土側の柳井市とは全長約 1km の大島大橋により結ばれています。
周防大島は、古い時代から近代に至るまで、大規模な土砂災害が繰り返し発生した履歴を持つ島です。地元の周防大島町の町誌(周防大島町誌,1959,復刻版,1994)には、これらの災害の史実が記載され、民間出版物にもこの災害についてまとめた資料(山口銀行,1994,藤谷,1999)が存在し、慰霊のための石碑(写真3)も数ヵ所に残されています。また、平成 17 年(2005)の国の水資源作文コンクールで、地元の女子中学生・藤井絢子さん(2005)が、石碑を題材にした作品で受賞しています。
一方、山口県内の有史以降の既往の自然災害を収集・整理した『山口県災異誌』(1953)に、後述する「郷之坪大水害」をはじめとする周防大島の土砂災害についての記述はありませんでした。
図1 周防大島(周防大島町)の位置
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平成28年12月9日に山口大学工学部で「時間防災学+山口学研究プロジェクト」の第2回ミーティングが開催されました。この中で私は「歴史的な大規模土砂災害に関する調査研究−特に,中国地方と四国地方の事例紹介−」と題して話をする機会を頂きました。翌日、山口大学の鈴木素之教授やNPO法人山口県砂防ボランティア協会の会員などの7名と一緒に周防大島の現地調査を行いましたので、井上ほか(2008)の内容に追加して報告致します。
2.周防大島の土砂災害
周防大島町誌(1959,復刻版,1994)などをもとに、周防大島西部の土砂災害を表1と図2に整理しました。
表1 周防大島の主な土砂災害(大島町史,1994を整理)
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このうち、明治 19 年(1886)の郷之坪大水害は、大雨で生じた大規模崩壊・土石流による天然ダムの形成・決壊で 110 人の地元民が一度に亡くなったものです。1 箇所の土石流災害としては、日本の災害史の中で最大規模のものです。なお、近年においては38年前の昭和54年(1979)6月の梅雨前線豪雨により、周防大島では土石流・地すべり・崖崩れが多発し、島内で死者 3 名、住家全壊 6 棟、半壊 17 棟などの大きな被害を受けています(NPO 法人山口県砂防・防災ボランティア協会,2007)。
図2 周防大島西部の土砂災害発生推定箇所(1/2.5万「大畠」「阿月」
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3.周防大島の地形特性と災害発生場所
周防大島は、標高600m 以上の山を 4 峰も数え、低くて小さな島の多い瀬戸内海の中で、特筆すべき高さを持っています。島は花崗岩を基盤として、山頂に火山岩を乗せた高い山々と深い谷から構成されています。河川が運んだ土砂で谷部に沖積平野が一部あるほかは、海岸部は断崖、絶壁をなすところが多く、平坦地はごく限られています。
史実に残る土砂災害は、何れも、島内で最大の河川である 2 級河川の屋代川の流域界を形成する山地の内側と外側で発生しています。図2は、資料の記述と地形図・航空写真の判読結果を突き合わせ、主要な各土砂災害について、それらの発生位置を推定し、1/2.5万地形図上にプロットしました)。また、図3は、国土地理院の10mメッシュデータを用いてアジア航測株式会社が作成した赤色立体図で、地形特性と土砂災害の発生位置との関係が良く判ります。
図3 土砂災害発生推定箇所付近の赤色立体図(アジア航測株式会社作成)
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4.郷之坪大水害(GF,明治19年(1886)9月24日,A,正慶二年(1333))
写真1は国土地理院が1976年に撮影したカラー航空写真で、立体視可能です。
郷之坪大水害について、「周防大島町誌復刻版」(1994)より、抜粋しました。
『
この年は一体に雨が多かった。9 月 20 日ごろから毎日豪雨が降りつづいた。23 日になると屋代川にはとうとうと濁水があふれた。堤防の決潰が憂慮された。24 日になっても豪雨は止まない。支流久保川は急傾斜であるので白馬が走るような奔流に人々は胆を寒くして、早くも志度石神杜の御旅所の高所や西蓮寺に難をさける人が多くなった。久保川は、一名鳴滝川ともいう、全長約 4 キロ、郷の坪、銅(あかがね)両部落の境を流れている。その源は谷川に発していて極めて急勾配を流れ、その両岸は険阻な崖になっている。特に字石満から上流では、両岸がけわしくそそり立っていて、深く切り下げられたその形が漢方医の使う「薬研(やげん)」に似ているので、薬研谷の名がある。
水源地である谷山の地盤がゆるみ、その櫟ヶ迫(くぬぎがさこ)という部分が崩れ落ちて、狭い鳴滝川の水路を埋めたので、薬研谷の両岸の間に水をたたえ、降りしきる雨に漸次その水量が増していって遂に支えきれず、両岸が崩壊して土砂を押し流したので、そのあたり一面の水となり字登々六(どどろく)では、窪地をあげて海のような水溜りとなり、たちまちに炸裂し湖水をうつしたほどの水量が土砂、岩石と共に一大音響を立てて郷の坪におしよせた。それは、その日の午後5時頃であった。
郷の坪は、その頃人家が密集して、大工、木挽、石工、鍛冶屋等の職人をはじめ木綿商、紙製造、紺屋等の手工業者から、酒、豆腐その他農民相手の小売商もあり、郡長、郡長代理などの住宅もあって東屋代では最も繁華な部落であった。
天地もさけるかと思われる大音響と共に、百千の奔馬のような濁流が、ものすごい水煙を立てて押しよせてきたのだ。見る間に家を倒し、人を呑んだ。郷の坪は眼の前から消えて、ただ水と砂礫とに代ってしまった。
写真1 坪之郷地区の立体航空写真
(国土地理院1981年10月04日撮影,CCG81-3, C30B-6〜8)
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写真2 郷の坪大洪水(周防大島町役場(1994):周防大島町誌,復刻版) @ 神領部落 A 西蓮寺(被災者はここに多く収容した)B 永田繁治宅
C 久保川(鳴滝川ともいう)大つえのため川の流れが二つに流れ、郷の坪に新川ができた。
D 荒神社 大松がある。ここで川は二つに分かれ、その下の3,4戸は助かった。
E 島家 同家はKの大きなせんだんの木で助かった。郡役所書記永田幸一は帰途我が家を目前に見ながら危険で進めず、島家で難をさけた。F 決潰場所
G 藤本政之助宅 居宅流失、残りの土蔵に逃げて助かる。H 吉兼部落 I 文殊山
J 徳神部落 Kせんだんの木 L 砂礫と化した郷の坪部落
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上郷の坪に志度石神杜の一の鳥居がある。そこから100坪(330m2)くらいが、一段高くなっていて通称鳥居が壇といっている。そこには、まわり1丈7尺(5m)もある栴檀(せんだん)の大樹があった(地点K)。ここで水勢が二分されたため、ここだけが小島のように洪水から取りのこされた。しゃにむに逃げおおせた 20人ばかりがこの栴檀の根元にしがみついて、水禍から一命を守った。鳥居が壇のすぐ下の島家その他郷の坪で残存したのはたった2、3軒に過ぎなかった。
河内倉之進は濁流にもまれて上になり下になって、押し流されること 2 キロばかり、片山の川岸で救われたことは、奇蹟的だといわれた。
地獄の絵巻物をくりひろげたような騒ぎの中に日が暮れかかった。その時再び一大轟音が聞えた。第二回目(19時頃)の洪水の襲来だ。しかし、この時は用心していたので命を失うものはなかった。こうして夜に入った。施す術もなく人々は西蓮寺、浄福寺などに集まって炊き出し飯を食い、不安な一夜を明かした。
25日の夜は明けた。さしもの猛威をたくましくした豪雨もけろりと止み、風も静まった。見渡すかぎり大石、礫、土砂の平原と化している。いたるところ着のみ着のままで親や子の死体をさがしているのもあわれであった。やがて太陽がキラキラと輝きはじめた。我にかえった人々は手分けして死体の捜査にあたって、屋代川の沿岸はいうまでもなく、小松海岸、蒲野、沖浦海岸、遠くは大畠、笠佐、神代、伊保庄など各方面をさがし求めた。しかし、遂に7人の死体は見つからなかった。死者110人であった。
それから毎日のように棺桶を作る槌の音が晴れた空に物悲しくひびき、葬式が毎日のようにとり行われた。』
以上の記事から、郷之坪大水害は、崩壊→天然ダム形成→決壊→土石流流下・堆積による災害であることが分かります。また、天然ダムの規模は、集水面積が小さいこと、河川勾配が急峻であることや、現地を歩いた限りでの地形状況から判断して、あまり大規模なものではなかったものと思われます。
明治19年(1886) 9月 28日付けの防長新聞は、この災害発生の第1報を次のように伝え、
「山潮が破裂」と表現しています。西本(2011)は、日本の新聞紙上で土石流現象を最初に報じた事例と説明しています。
『
大島郡の惨報:
我輩は一昨日来最も驚く可き惨報を聞得たり。曰く大島郡東屋代村に於ては、本月廿三日の午前三時頃より東風徐(おもむ)ろに吹き起こり、正午頃より小雨を添え、午後六時頃に至りて風雨共に烈しくなり、翌二十四日の拂暁より暴風雨いよいよ猛烈を極め加ふるに、俄然背面の山腹より山潮が破裂して、同村字郷之坪と云ふ所に於ては、同日人家を倒すこと四十余戸之に圧殺せられ、或は溺死したるもの百有余名に上り、目下久賀警察署に於ては、其圧死者乃死骸及び財産等を発掘中なり、と云ひ又或る説には、大島郡長田門慶一氏の居宅の如きも、実は此災に罹り、衆家一族悉く非命斃れ独り郡長のみ其時他を巡行中にて不在なりしを以て、危災を免かれたり。又同郡役所書記某も非命の死を遂げ去たり。云く、此報未だ確報には非らざれども、取敢へず記して確報乃至を待つ。』
この災害から 3 年経った明治 22 年(1889)に、押し流されてきた巨大な自然石を碑材として、写真3に示したように、「千人塚」と称する洪水記念碑が屋代川河畔の郷之坪バス亭近くに建立されました。
写真3 郷之坪の千人塚(2016年12月井上撮影)
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藤山康一(1938)資料「大島発祥の地 屋代村の史蹟」によれば、この郷之坪災害が島の社会経済に重大な影響を与えたこととして、
『
砂原と化した此回復に十数年を要したが、砂田の復舊に困り切って布哇(ハワイ)、亜米利加(アメリカ)に出稼ぐ者多く、遂に今日の全國有名な移民村の源となった。』
と記しています。日本・ハワイ両国間の合意による第1回ハワイ官約移民は、明治18年(1885)年1月、944人が渡航しました。その内訳は成人男性682人、成人女性164人、子供98人でした。当時、農村は全国的に凶作であったため、全国から多くの応募があったようです。その中から渡航を許された者を出身県別に見ると、山口県420人、広島県222人というように、この両県出身者だけで64%を占め、特に山口県は1県だけで44%を占めていました。また、山口県の中でも、大島郡、いわゆる周防大島からは約300人が参加しています。この島からは以後、約10年間で3900人が官約移民でハワイに移住、後に周防大島は「ハワイ移民の島」とさえ言われるようになります。郷之坪近くの周防大島町西屋代には、日本ハワイ移民資料館があります。中の展示を見学させて頂くとともに、色々な話を聞かせて頂きました。
さらに、684年前に発生した大規模な災害が伝承として残っていることを次のように解説し、大災害が当地で繰り返されたことに警鐘を鳴らしています。
「千人塚」の記念碑文によると、『
六百年の昔正慶二年(1333)に此地に大洪水があったとある。そして其際、鳴瀧川の位置が現在の如く變って、西連寺の下には後川と云ふ地名が残り、崩(つえ)の尻(しり)と云ふ地名は山崩れの最下點を示し、砂田と化して砂田部落の名が残ってゐる。又郷之坪なども可なり低地だったと見えて、井戸を掘れば一丈位(3m)も底に田泥が出たりするのも此際の洪水の為めと云はれてゐる。これ等の點を合わせ考ふれば正慶二年の洪水も可なり大きなものであったと思われる。』
この史料を読むと、坪之郷地区は2度の大規模土砂災害が発生したことが判ります。井戸を掘ると3m下に水田が出てくることから、坪之郷地区が大規模土砂災害の上に再建された地域であることがわかります。
5.戸田(へた)・久保庄(F 天保二年六月五日四つ時(1831年7月13日10時)
周防大島町誌(1994)によれば、『
六月五日四つ時(午前10時)周防大島の南側の戸田(へた)・久保庄では、山の七合目あたりから凡そ四十間(72m)四方位山が抜け出て、音響は雷の如く地震の如く暫時にして久保村二十二軒を圧し埋め、そのため68人の死亡者を出した。
(梅雨時で)連日の雨はやまず、翌朝六ツ半頃(7時)洪水はひどく泥土をおし流し、永否(えいぶ,永久に植付の出来ぬ)当否(さしあたり不能)の田畠二百石に及んだ、大島郡の三大つえといわれる大惨事をひきおこした。代官大庄屋の命令が飛び、各村から多くの救援者がおくられ、死骸の発見されたものは三十有余残りは行方不明に終った(照林寺過去帳による)。
この大災害に対し直ちに復旧工事が進められたが、何分にも鍬ともっこで人力のみにたよる作業であったからたいへんであった。
埋没の田畠は七町六反一畝(76,000m2)、高にして百四十石、そのうち永久に駄目になった田一町七反(17,000m2)、畠三畝(300 m2)、土砂のために土地の高低ができ、水が引かれぬために田を畠にきりかえた土地が一町四反一畝(14,100m2)、畠開き六反五畝(6,500m2)以上四件を差引いて三町八反(38,000m2)が復旧水田であった。
この作業に要した労力は、12,963人の多きに達した。庄屋原文左エ門はこれに要した費用として、1人1日1升の割合で、百二十九石六斗の御貸米を願い出ている』(天保六年(1835)、大島郡宰判本撰)と記されています。
6.あとがき
郷之坪大水害の儀牲者を悼むための第50回忌前年の昭和 9 年(1934)には、災害の悲惨さを後世に伝えるための災害記録として、藤谷(1999)『屋代村郷之坪明治19年大洪水実録』が編纂されています。その最後の締めくくりとして、当時の関係者が後世に託した次のメッセージを、我々も重く受けとめるべきだと思います。
『
鳴滝川の水源地たる谷山地方の山崩れは、幾度か繰り返された事は事実である。従って、将来と雖もかなり警戒を要する事は大いに考慮しなければならない点である。即ちその土質を地質学的に調査したり、或いは地盤を固める為に植林を研究する等の仕事は、後人の重要な役目である。この事を強調するのは、我々老人の老婆心であると同時に、この小冊子編纂の一半の目的である。』
現地調査は、2008年6月11日(水)と2016年12月10日(土)の2日のみでしたので、さらに詳細な調査・地元での聞き込みなどを行い、土砂災害の実態を把握すべきだと思います。
引用・参考文献
井上公夫・判野充昌・大平米司・橋透(2008):110 名の儀牲者を出した明治時代の天然ダム災害(山口県),砂防と治水,185号,p.67-71.
NPO 法人山口県砂防・防災ボランティア協会(2015):平成21年7月土石流災害の記録[防府・山口地区],76p.
大島町役場(1959):周防大島町誌
大島町役場(1994):周防大島町誌 復刻版,p.592〜609.
永田繁治・中原右衛門・森岡栄吉編(1934):屋代村郷之坪 明治十九年大洪水実録
西本晴男(2011)土砂移動現象の呼称変遷について,河川レビュー,152号,p.32-43.
防長新聞社(1886):防長新聞縮刷版(1886年9月〜12月)
藤井絢子(2005):「命の水」全日本中学生水の作文コンクール受賞作品(山口県優秀作品)
藤谷和彦(1999):屋代村郷之坪 明治十九年大洪水実録 復刻版,76p.
藤山康一(1939):大島発祥の地 屋代村の史蹟
山口銀行(1994):防長歴史探訪(五),p.313〜315.
山口県(1953):山口県災異誌