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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム28 明治22年(1889)紀伊半島豪雨による土砂災害
 
1.はじめに
 紀伊半島では、明治22年(1889年)に平成23年(2011年)以上の激甚な土砂災害が発生し、大規模な天然ダム(当時「新湖」と呼ばれた)が数多く形成されました(宇智吉野郡役所,1891,芦田,1987,平野ほか,1984)。平成23年災害以前から、現地踏査や詳細な資料調査などにより様々な報告がされています(田畑ほか,2002,蒲田・小林,2006,水山ほか,2011,井上,2012a,b,c,井上・土志田,2012,井上ほか,2013)。本コラムではこれらの研究を整理することにより、1889年豪雨による天然ダムの形成・決壊事例の再検討結果を紹介します。また、田畑ほか(2002)で最大の天然ダムとされていた林新湖は、宇智吉野郡役所(1891)を再検討した結果、さらに大規模な天然ダムであることが判明したため、そのことを含めて報告致します。

2. 1889年災害による和歌山・奈良県の被害状況
 図1は,明治22年(1889年)大水害の和歌山・奈良県における死者数を市町村別に示したもので,明治水害誌編集委員会(1989)と関係市町村誌などをもとに集計したものです(水山ほか,2011)。
図1 1889年紀伊半島災害による和歌山・奈良県における死者数(水山ほか,2011)
図1 1889年紀伊半島災害による和歌山・奈良県における死者数(水山ほか,2011)
(関係市町村誌及び明治大水害誌編集委員会,1989をもとに作成)
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表1 吉野郡水災誌による市町村別被害
表1 吉野郡水災誌による市町村別被害
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表1に示したように、明治22年8月19〜20日の台風襲来によって、奈良県十津川流域(吉野郡)の9箇村では、大規模な崩壊・地すべり(50間(91m)以上)が 1128箇所、天然ダムが 50箇所発生し、240名の死者・行方不明者が報告されています(田畑ほか,2002)。1889年の十津川流域9箇村の人口は 2万 0020人であったことからも、被害の大きさが想定されます。この十津川流域は幕末時に勤皇志士を多く輩出したこともあって、明治天皇の計らいもあって、現十津川村(北十津川・十津川花園・中十津川・西十津川・南十津川・東十津川の6箇村,人口1万2852人)の被災家屋 641戸、2667人(全人口の20%にも達する)が北海道に移住し、新十津川村を建設しました(川村,1977〜78,1981,森,1984,蒲田・小林,2006)。これらのことから本災害は「十津川水害」と呼称されることが多いのですが、1889年の豪雨時に和歌山県内で死者1225人,家屋流失3446戸、家屋全壊 1351戸,半壊 2344戸,床上・床下浸水 2万 9340戸もの被害が出ていたことはあまり知られていません。このような和歌山県側の災害状況は、明治大水害誌編集委員会(1989)などに詳しく記載されています。
 
3.和歌山県田辺市周辺の土砂災害
 明治22年(1889)の豪雨は、紀伊半島でも和歌山県中部(西牟婁郡,日高郡)から奈良県中部(吉野郡)にかけて激しく、上記の 3郡を中心として極めて多くの山崩れが発生し、急峻な河谷が閉塞され、各地に多くの天然ダムが形成されました。これらの天然ダムのほとんどは、豪雨時、または数日〜数か月後
図2 秋津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数
図2 秋津川・富田川流域の水害激甚地の町村別犠牲者数
(明治大水害誌編集委員会,1989)

に決壊して洪水段波が発生し、下流域を襲いました。これらの土砂移動・洪水によって、1000人以上が犠牲者となる事態となりました。図2に示したように、西牟婁郡の中でも、犠牲者は会津川(旧田辺町)と富田川(旧上富田町)流域に集中しています。会津川では、中流部の 2箇所(右会津川・高尾山と左会津川・槇山)で、天然ダムが形成・決壊し、下流部の田辺市の市街地を土石流・洪水が襲い、死者300人にも達する激甚な被害が発生しました。富田川流域では、非常に多くの崩壊が発生し(天然ダムの位置は不明)、500人以上(上富田町で394人)の死者となりました。
 田辺町・湊町(現田辺市)は、会津川の下流部に発達した市街地で、図3に示したように、右会津川と左会津川上流に形成された天然ダムの形成・決壊によって、激甚な被害を受けました(水山ほか,2011)。明治大水害誌編集委員会(1989)によれば、8月17日の午前中は晴れていたが、午後6時頃から小雨がバラつき出し、18日は午前中から雨がきつくなりました。午後に入ると大雨が強くなり、まさに傾盆の水のようでした。新築なった三栖小学校の校舎がその夜倒壊しました。19日になっても相変わらず暴風雨が続き、大雨は一向に衰えを見せませんでした。正午頃、特に豪雨はひどかったようですが、
図3 秋津川上流・高尾山と槇山の大規模崩壊と天然ダム(水山ほか,2011)
図3 秋津川上流・高尾山と槇山の大規模崩壊と天然ダム(水山ほか,2011)
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14時頃から雨量が減り、15〜16時には雨も止みました。その頃八幡堤が360mにわたって決壊し、泥流が田辺町・湊町の家々を襲い、多大な被害をもたらしました。しかし、退潮時でもあったため、洪水の大きさの割には人的被害は少なかったようです。17時頃にはかなり減水したため、高所に避難していた人々は帰宅しましたが、家や道路には泥土が積り、沼田のようでした。災害は去ったと思って安心して眠りについていたためか、次の天然ダム決壊洪水によって、かえって人的被害を大きくしたようです。 再び降りだした大雨は激しく、翌20日の1時頃には「雨声砂礫を打つが如く」大粒の激しい雨が降り、田辺町・湊町は大浸水を受け、人命も多く奪われました。
 20日0〜6時頃の大洪水は、満潮時と重なり、増幅され被害を大きくしました。表2 に示したように、19日の日雨量は902mm、最大時間雨量168mmにも達しました。この最大時間雨量は、昭和62年(1987)の長崎災害まで日本最大の値でした。これらの激甚な災害を受けて、写真1に示したように、田辺市民総合センター前に、「明治大水害記念碑」が建立されました。
写真1 明治大水害記念碑(田辺市民総合センター前)
写真1 明治大水害記念碑(田辺市民総合センター前)  
(2004年10月井上撮影)

 田辺市の大洪水の主原因は、豪雨時に生じた右会津川・高尾地区と会津川・槇山の天然ダムの形成と決壊です。田辺市上秋津の高尾山の山麓斜面において、8月19日18時頃、右会津川の左岸斜面で長さ720m、幅540mの範囲が大規模な地すべり性崩壊を起こしました。右会津川の右岸側斜面もかなり大規模に崩壊し、挟み撃ちとなって、天然ダム(高さ15m、湛水量19万m3程度)が形成されました。この天然ダムは3時間後の21時頃に決壊し、多量の土砂を巻き込んで、田辺町の市街地付近まで流下し、田畑・道路・人家を埋没させ、多数の犠牲者を出しました。左会津川の槇山では、20日4時頃、左岸側斜面で長さ900m、幅540mの範囲が大規模な地すべり性崩壊を引き起こし、天然ダム(高さ20m、湛水量40万m3程度)が形成されました。この天然ダムは5時間後の20日9時に決壊し、多量の土砂を巻き込んで下流に流下しました。
 上記2箇所の天然ダムの決壊で、上秋津の川上神社境内には3m余、下三栖地区では1.5mもの土砂が堆積しました。会津川河口にあった田辺港も上流からの土砂堆積で、水深が浅くなり、移転を余技なくされました。
 図4に示したように、日高川上流の田辺市竜神では、背戸山で崩壊し、民家数戸を埋没させました(死者 15名)。崩壊土砂は日高川を河道閉塞し、湛水高40m、湛水量1300万m3の天然ダムを形成させました(90余戸を埋没・水没)。その後、この天然ダムは決壊し、下流域の70戸を流出させました。
図4 田辺市龍神・下柳瀬の天然ダムの湛水状況
    図4 田辺市龍神・下柳瀬の天然ダムの湛水状況
    (水山ほか,2011)

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   写真2 下簗瀬の慰霊碑
 (2004年10月今村隆正撮影)

 

 以上のことから、この災害は今まで十津川水害と呼ばれることが多かったのですが、本来は「1889年紀伊半島災害」と呼ぶべきでしょう。

4.1889年の十津川流域の経時変化
 図5は、十津川流域の傾斜量図(ネガ表示)で、1889年(印)と2011年(印)に形成された天然ダムの位置を示しています(井上ほか,2013)。傾斜量図は国土地理院が公開している基盤地図情報数値標高モデル( 10mDEM)を用いて、一定の格子間隔で傾斜量を計算し表示した ものです。傾斜量図は、明度で傾斜量を示し、地形をエッジ強調しています(井上誠,2011,2012)。
図5.紀伊半島中央部・十津川流域の1889年と2011年災害における
図5.紀伊半島中央部・十津川流域の1889年と2011年災害における
天然ダムの分布(井上ほか, 2013)

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 田畑ほか(2001,02)によれば、図 5の範囲には1889年に28箇所(図5の印)の天然ダムが確認され、移動土砂量の合計は 2.0億m3と見積もられています。2011年には 16箇所の天然ダム(図5の印,河道閉塞,部分閉塞を含む)が発生しました。このうち、高さ 20m以上の 4箇所(地点3,4,6,8)については、土砂災害防止法(2011年5月改正)に基づき、国土交通省(近畿地方整備局)が緊急調査・対策工事を実施し、 他の天然ダムは奈良県等が対応しました(奈良県深層崩壊対策室HP)。16箇所の天然ダムの移動土砂量の合計は3800万m3と見積もられています(森山ほか,2011)。このことから、2011年災害よりも1889年災害の方が激甚な土砂災害であったことが判ります。
 表2は、1889年紀伊半島災害の天然ダムの経時変化を示したものです(井上,2012a)。表中に記す奈良県十津川流域の天然ダムの位置は、図5に印と番号で示しました。
 水山ほか(2011)によれば、1889年に発生した和歌山・奈良県の 33箇所の天然ダムのうち、半分近くの 16箇所が 1日以内、4箇所が1日〜7日、4箇所が7日〜1ヶ月、1箇所が4年後に決壊し、現存している天然ダム(大畑瀞,地点26)は 1箇所のみです、決壊時期不明の天然ダムが 7箇所あります。下記に代表的な天然ダムの経時変化を紹介します。
 十津川上流部の塩野新湖(地点1,堰止高80m,湛水量1700万m3)は、20日の8時に形成され、7時間後に決壊しました。その後も堰止高 20mの天然ダムが残っていたが、11日後の31日に決壊しました。
表2 明治22年(1889)災害の経時変化(井上,2012b)
表1 明治22年(1889)災害の経時変化(井上,2012b))
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 辻堂新湖(地点2,堰止高18m,湛水量78万m3)は、19日の22時に形成されたが、 1時間後には決壊しました。
 宇井新湖(地点3,10m,93万m3)は、20日10時に形成されたが、 5.5時間後に塩野新湖の決壊によって流下した洪水によって決壊しました。
 河(川)原樋新湖(地点 6,80m,3600万m3)は、十津川の右支・川原樋川に形成された大規模天然ダムで、豪雨が降りやんだ後の21日16時に形成されました。河原樋新湖は湛水量が大きかったため、すぐには満水にはなりませんでした。このため、野迫川村の林村長は大阪の第四師団に調査を依頼し、8月27日頃から発破作業が計画されましたが、実現はしませんでした。河原樋新湖は17日後に満水となり、晴天であった9月7日11時に決壊しました。この決壊によって、洪水が十津川本川に達し、合流地点付近に牛ノ鼻新湖(地点4,6m,26万m3)が形成されましたが、4日後の11日に決壊しました。
 小川新湖(地点19,190m,3800万m3)は、豪雨が降りやんだ後の 21日10時に形成されたが、記録にある限りにおいては、堰止高190mが日本で一番高い天然ダムです。小川新湖は 5日後の15時に決壊したが、なお堰止高110mの天然ダムとしてしばらく残りました(現在は21世紀の森・紀伊半島森林植物公園となっています)。
 大畑瀞(地点26,25m,11万m3)の堤体は決壊せず、120年間も残っていましたが、 2011年の台風12号時に湖水が満水となって越流して、堤体が洗掘され、土石流が流れ下るという深刻な事態が生じました。しかし、大畑瀞は現在も残っており、堤体の補強対策が実施され、地域の貴重な水源となっています。

5.十津川流域の河床変化
 図6は、1/2.5万地形図をもとに十津川の河床縦断面図を作成し、1889年の天然ダムを形成した崩壊地の規模(高さ)と湛水域を示したものです。林新湖と河原樋新湖、林新湖は決壊後も1/2の高さの天然ダムが残ったとして濃い色で表現しました。人造貯水池の風屋ダムと猿谷ダムの位置と湛水範囲も示しました。1889年以前の河床断面の想定に当たっては、当時の史料記載と横断面形状から判断しました。貯水ダムは岩着しているとして、河床断面を想定しました。
 1889年の災害では、十津川本川沿いで多くの天然ダムが形成され、その後ほとんどの天然ダムが決壊し、本川の河床が30mほど上昇して(図6の読み取りに基づく)、険しいV字谷から少し谷底の広い谷地形に変わりました。川村(1987)や蒲田・小林(2006)によれば、1889年災害以前の十津川は、杉丸太を渡した丸木橋で対岸に渡ることができるほど川幅が狭くて鋭いV字谷でした。しかし、1889年災害後、多数の山崩れや天然ダムの形成・決壊によって、石礫が堆積して広い河原を持つ荒廃河川に変わったと考えられます。
図6  十津川の河床断面図と天然ダムの湛水範囲(井上ほか,2013)
図6 十津川の河床断面図と天然ダムの湛水範囲(井上ほか,2013)
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6.林新湖湛水域の再検討
 林新湖(地点9)は、1889年災害で最大の天然ダムですが、宇智吉野郡役所(1891)を読み直し、再検討を行いました。図7は林新湖付近の1/5万旧版地形図(1908〜1911年測図)で、田畑ほか(2002)による林新湖の湛水範囲を示しています。田畑ほか(2002)の表5.1によれば、林新湖は1/5万地形図の読図から、湛水標高320m(湛水高63m)、湛水量4200万m3と推定しています。宇智吉野郡役所(1891)によれば、林新湖は8月20日午前7時、十津川左岸高津で中山(縦330m,横440m,深さ90m)が突然崩壊して、十津川を閉塞しました。十津川の濁流は逆流して上流の林・上野地・谷瀬・宇宮原の集落を次第に湛水していきました。崩壊の様子を宇智吉野郡役所(1891)は以下のように記しています。
 「・・・初め中山の崩墜するや爆然声あり、巨こうを発する者の如し、己にして怒涛澎湃逆流渦を為し、古松老杉或は林立する者或は横倒する者乍ち見はれ乍ち隠れしが、林の人家我然浸水住民或は溺死するあり或は負傷するあり。之に次いで上野地浸水し遂に谷瀬・宇宮原に及ぶ。湖中浮屋数十ありて戸々連棟々上人を載する者或は頻に救援を喚ぶあり、家屋転覆忽ち溺死する者あり、或は他人の救護に頼りて危難を免るる者あり、林及び高津に在て之を傍観する者空く寒心酸鼻する。・・・」
 河津神社は、川の東岸 110〜130mの高所にありましたが、遂に漂流し去り、社頭にあった高さ18mあまりの老樅樹は、先端を50cm残して水没したと伝えられています。
図7 田畑ほか(2002)による林新湖の湛水範囲
図7 田畑ほか(2002)による林新湖の湛水範囲  
基図は旧版地形図(1/5万,1908〜1911年測図)  
図8 新たに想定した林新湖の湛水範囲
図8 新たに想定した林新湖の湛水範囲
基図は図5の傾斜量図を拡大
(井上ほか,2013)

 図7,8に示したように、崩壊規模はそれほど大きくありません(移動岩塊量370万m3)が、天然ダムを形成した場所が十津川本川の狭窄部であったため、1889年紀伊半島水害で発生した中で、最も大きな天然ダムとなりました(田畑ほか,2002)。写真3は十津川東側の旧国道168号(現168号はトンネル区間となっている)から見た林新湖の崩壊斜面です。写真4は崩壊斜面の国道脇にある林新湖の記念碑で、対岸の小丘は残存している地すべり移動岩塊です。
写真3 林新湖形成地点の崩壊斜面
写真3 林新湖形成地点の崩壊斜面 
写真4 林新湖の記念碑と対岸の崩積土の小山
写真4 林新湖の記念碑と対岸の崩積土の小山
(2012年2月,井上公夫撮影,井上ほか,2013)

 田畑ほか(2002)では、図7のように湛水域が推定されていた林新湖ですが、宇智吉野郡役所(1891)巻末の統計表によると、
 高津(たこうづ):水位273尺(83m),1戸/39戸(3%)沈水
 林:水位 273尺(83m),27戸/30戸(90%) 沈水
 谷瀬:水位 220尺(67m),5戸/55戸(9%) 沈水
 上野地:水位 263尺(80m),34戸/42戸(81%) 沈水
 宇宮原(うぐはら):水位 211尺(63m),39戸/49戸(80%) 沈水
 長殿:水位155尺(47m),12戸/18戸(67%) 沈水
と記載されています。
 これらの記述をもとに林新湖の湛水範囲を再検討し、新たに想定した林新湖は湛水標高 360mとなりました。湛水範囲を図8と図9に示します。林新湖の湛水標高360mは、建設当初日本でもっとも長い人道橋である「谷瀬の吊り橋」(長さ 297m,高さ54m,1954年完成)と、ほぼ同じ標高です。図6に示したように、林新湖の河道閉塞地点では、1889年以前の十津川の河床は 30mほど低かった(河床標高 250m)と考えられることから湛水高は 110mとなります。図9をもとに天然ダムの湛水範囲を計測すると、十津川の流路延長は 16kmで、湛水面積は4.9km2となりました。
 湛水量は、田畑ほか(2002)に示した式(湛水量 =1/3×湛水面積×高さ)で求めると、1.8億m3と日本で3番目に湛水量が大きい天然ダムとなりました。
 林新湖は、17時間(6.1×104秒)後の8月20日夜12時に満水となって決壊して、洪水が下流域を襲いました。湛水池側で沈水していた人家の多くは流失しました。田畑ほか(2002)で示されている湛水範囲(図7)は,17時間後に決壊した後の湛水範囲(湛水高は 1/2程度の55m,湛水量3100万m3)と考えられます。この頃の湛水状況などを示す多くの写真が宇智吉野郡役所(1891)に掲載されています。林新湖は次第に上流からの土砂により埋積し、現在の十津川の河床は1889年の災害前より、30mほど上昇したと判断されます。
図6.14 林新湖と河原樋新湖の湛水範囲と集落毎の湛水高と人家の流失数/全戸数(吉野郡水災誌,1891をもとに作成)
図9 林新湖と河原樋新湖の湛水範囲と集落毎の湛水高と人家の流失数/全戸数(吉野郡水災誌,1891をもとに作成)
基図は1/2.5万「辻堂」「風屋」「上垣内」「伯母子岳」を使用

7.むすび
 2011年の紀伊半島災害に関しては、国土交通省水管理・国土保全局砂防部や近畿地方整備局、奈良県・和歌山県が総力を挙げて緊急対策等に取り組まれており、早期に被災地域が復興されることを期待致します。
 今まで言われていた以上に、「林新湖」が大規模であったことは,豪雨による天然ダムと形成・決壊にとって重要だと思います。今回の分析が天然ダムの形成・決壊により引き起こされる土砂災害の軽減に向けて、基礎的な情報提供の一助となれば幸いです。
 紀伊半島の山地部は百数十年おきに、東南海地震と南海地震による激震を受けています。近年のマスコミ報道などで、深層崩壊が問題となっており、地形・地質的に変形のあった場所(線状凹地など)で、多くの河道閉塞(天然ダム)が形成されたことが指摘されています(千木良編,2012,千木良ほか,2012,井口ほか,2012)。この地域は2011年災害以後、詳細な航空レーザー測量データ(1mメッシュデータ)が得られており、詳細な地形図や傾斜量図の作成により、変形地形の抽出も可能とると思います。
 私達は、宝永四年(1707)の東南海・南海地震と安政元年(1854)の東南海・南海地震などによる土砂災害の史料を調査していますが、明治 22年(1889)の災害によって多くの史料が散逸したためか、ほとんど見つかっていません。地震による土砂災害関連した史料をご存知の方は教えて下さい。
 本コラムを取りまとめるに当たって、京都大学防災研究所、国土交通省、近畿地方整備局、奈良県、和歌山県や田辺市、新宮市、五條市、十津川村、天川村、野迫川村などの関係機関には、史料の収集などで大変お世話になりました。深く感謝いたします.

引用・参考文献
芦田和男(1987):明治22年(1889)十津川水害について,社団法人全国防災協会,二次災害の予知と対策,No.2,河道埋没に関する事例研究,p.37-45.
井上公夫(2012a):紀伊半島における 1889年の天然ダム災害,砂防と治水,206号,p.56-61.
井上公夫(2012b):1889年と2011年に紀伊半島で発生した土砂災害の比較,砂防学会台風 12号による紀伊半島で発生した土砂災害中間報告会,キャンパスプラザ京都, 34p.
井上公夫(2012c):形成原因別(豪雨,地震・火山噴火)にみた天然ダムの比較,砂防と治水,207号,p.88-93.
井上公夫・土志田正二(2012):紀伊半島の1889年と2011年の災害分布の比較,砂防学会誌, 65巻3号,p.42-46.
井上公夫・土志田正二・井上誠(2013):1889年紀伊半島災害によって十津川流域で形成・決壊した天然ダム,歴史地震,28号,p.113-120.
井上公夫・今村隆正・島田徹(2015):旧版地形図による1889年と2011年の十津川上流域の土砂災害分布図作成,平成27年度砂防学会研究発表会概要集,A-142-143.
井上誠(2011):傾斜量図とは,脇田浩二・井上誠共著,地質と地形でみる日本のジオサイト,―傾斜量図がひらく世界―,オーム社,p.154-157.
井上誠(2012):Digital Elevation Modelから判読できる三次元地形・地質情報、日本地質情報学会2012年度シンポジウム,―地形・地質・地球物理情報の三次元モデリング―,p.1-4.
井口隆・土志田正二・清水文健・大八木規夫(2012):地すべり地形分布図で見る深層崩壊の実態,―2011年台風12号による紀伊半島の深層崩壊を対象として―,京都大学防災研究所研究集会「深層崩壊」,2012年2月,p.35-42.
宇智吉野郡役所(1891):十津川村1977-81復刻,吉野郡水災史,巻之壹〜巻之十一
蒲田文雄・小林芳正(2006):十津川水害と北海道移住,シリーズ日本の歴史災害 -2,古今書院,181p.
川村たかし(1977〜88):新十津川物語(全10巻),第1巻 北へ行く旅人たち,255p.,第2巻,荒野の旅人達,253p.,偕成社,1992年に偕成社文庫
川村たかし(1987)十津川出国記,北海道新聞社,道新新書,285p.
深層崩壊研究会(2013.2):平成23年紀伊半島水害深層崩壊のメカニズム解明に関する現状報告書,39p.
田畑茂清・井上公夫・早川智也・佐野史織(2001):降雨により群発した天然ダムの形成と決壊に関する事例研究,―十津川災害(1889)と有田川災害(1953)―,砂防学会誌,53巻6号,p.66−76.
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千木良雅弘編(2012):深層崩壊の実態,予測,対応,京都大学防災研究所研究集会「深層崩壊」,2012年2月,107p.
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水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,202p.
明治大水害誌編集委員会(1989):紀州田辺明治大水害,―100周年記念誌―,207p.
森秀太郎著・森巖編(1984):懐旧録 十津川移民,新宿書房,299p.
森山祐二・岡本敦・水野正樹・内田太郎・林真一郎・石塚忠範(2011):2011年台風12号による紀伊半島における土砂災害の速報,土木技術資料,p.4-7.
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