1.はじめに
明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨によって、四国東部・徳島県の那賀川中流右岸の高磯山と海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が発生しました。大量の崩壊土砂は河道を閉塞し,巨大な天然ダムを形成しました。そして、豪雨後の出水に伴い、2〜3日後に天然ダムは満杯となり、河道閉塞箇所からの溢水によって一気に決壊しました。段波状の洪水が那賀川と海部川を流下し、海岸近くの平野部まで大きな被害をもたらしました(井上ほか,2007)。
これらの河道閉塞箇所の地形変化と被災状況については、寺戸(1970)や各市町村史に詳細な記録が残されています。ここでは、これらの史料や現地調査の結果をもとに、河道閉塞の状況や洪水流の流下状況を説明します。
2.高磯山と保勢の天然ダム形成時の集中豪雨
明治25年(1892)夏は,6月頃から長雨が続いていました。その上に7月22日から台風が四国に接近し,激しい雨が25日まで降り続きました。
図1の天気図に示したように、7月23日6時には中心気圧977hPa、中心付近の最大風速34〜35m/秒の台風が高知市付近から四国中部を北上して山陰へ抜け、向きを東寄りに変えて日本海を北東進しました。25日付の徳島日日新聞によれば、
「23日の暴風雨は、近年の此の地方に稀なるものにして、16時間の長きに及び」と記しています。
寺戸(1970)は、那賀川沿岸の町村誌などの記録を詳細に分析すると共に、洪水氾濫区域の老人などに聞き取り調査を行なっています。本調査では、寺戸(1970)の調査結果を踏まえて(数回ご自宅で指導を受けました)、再度現地調査と関係市町村教育委員会の聞き込みなどを行いました。
なお、那賀川上流の木頭村・木沢村・上那賀町・相生町・鷲敷(ワジキ)町の5町村は、平成17年(2005)3月1日に町村合併して、那賀町が誕生しました。しかし、今回の現地調査時は合併前だったため、市町村史も別々に発行されていました。那賀川下流の阿南市・羽ノ浦町・那賀川町は平成18年(2006)3月31日に合併し、阿南市となりました。本コラムでは,地名を合併前の市町村名で記載しました。
3.那賀川・高磯山
3.1 崩壊の状況
図2に示したように、高磯山は徳島県那賀郡上那賀町大戸(被災時は海部郡下木頭村大字大戸村)に位置します(以下の記載は海南町史編さん委員会(1995)による)。図3は旧版地形図に主な地質構造線や天然ダムの湛水範囲などを示したものです
。
7月22日 徳島市で3.9mmの降雨、羽ノ浦町では微雨であるが、那賀川が増水しているので、那賀川の上流域ではすでにある程度の降雨があったと推定されます。
7月23日 台風は高知市に上陸し、徳島市では211.2mmの降雨がありました。
7月24日 県内は終日強風雨、徳島市では245.8mm、高磯山付近では400〜450mmの降雨でした。那賀川は増水し、鷲敷町和食(ワジキ)では平水より7.5m(2丈5尺)も水位が上昇し、羽ノ浦町では3.6m(1丈2尺)を記録しました。夜、高磯山南東の久米鍛冶の斜面が小規模に崩壊しました。
7月25日 久米鍛冶の救難のため、右岸荒谷部落の人が救援に向かいました。帰途高磯山北斜面に地割れがあり、崩壊寸前であるのを発見しました。大声で荒谷および対岸の春森部落に知らせたが、目的を達成できませんでした。午前11時または正午頃、大音響と共に大規模に崩壊しました。このため、荒谷および春森の人家10数戸、60余名を埋没させました。崩壊土砂は那賀川を堰止め、ダム高71m、湛水容量7250万m3の天然ダム(寺戸,1970)を形成しました。天然ダムの湛水は1時間に0.6m(2尺)の割合で上昇しました。上流では田畑が水没、家屋は浮上し、住民は高所へ避難して夜を明かしました。一方、下流では天然ダム形成により急激に減水しました。このような事態を宮浜村(現・上那賀町)役場は飛脚をもって急報しました。下流の町村は住民を高所へ避難させ、決壊の通達方法、見張りの配置などの対処方法を策定しました。
図1 明治25年(1892)7月23日午前6時の天気図(内務省地理局中央気象台)
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7月27日 52時間後の午後4時頃に天然ダムは決壊し、段波状の洪水は一気に下流へ押寄せました。天然ダム決壊の通報は鉄砲などで下流地域に知らせられたが、各地で大きな被害が発生しました。
この洪水を鷲敷町では「辰の水」・中野島村(現・阿南市)では「赤土水」と呼んでいます。寺戸(1970)は「荒谷出水」と名付けました。
3.2 高磯山崩壊と天然ダムの規模
寺戸(1970)は、高磯山の崩壊土量を2つの方法により求めています。地形図より崩壊地の長さ500m・幅300m・厚さ20mと読み取ると、崩壊土量は300万m
3となります。一方、後述の天然ダムの規模から崩壊直後の地形を復元し、その量を求めると約430万m
3となります。今回の現地調査結果から判断すると、後者に近いと判断されます。
図2 高磯山と保勢・杖追の天然ダムと決壊後の洪水範囲(井上ほか,2005)
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図3 高磯山の崩壊と天然ダムの災害状況図囲(国土交通省四国山地砂防事務所,2004)
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写真1は高磯山の崩壊斜面で、写真2は明治25年(1992)災害の慰霊之碑です。
図4は、寺戸(1970)の原図に塗色したものです。高磯山の崩壊土砂は那賀川を越えて対岸の春森にせり上がり、最高所は標高293mに達しました。これは現在の国道より57m、河床より113mも高くなります。寺戸(1970)はハンドレベルにより湛水面の最高水位を、@出合橋南のつづら峠253m、A下御所谷251m、B大殿252m、C御所谷251mと測定しました。最高水位を251mとすれば、春森の河床が180mなので、堰止め高H:71m,湛水長さL:10.2km,湛水量V:7250万m
3となります(長安口ダムの総貯水容量5428万m
3の1.3倍)。湛水時間が1.87×10
5秒(52時間)であるので、天然ダムへの平均流入量は388m
3/秒(湛水地点より上流の集水面積480km
2)となりました。
図4 高磯山崩壊地の平面形と断面形(寺戸,1970)
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3.3 天然ダムの決壊と下流への影響
決壊の時刻は27日午後2時〜5時半という種々の記録がありますが、
「午後2時頃から崩れはじめ、午後4時に決壊した」という崩壊地点から4km下流の谷口集落の口伝が事実に近いと判断されます。37.9km下流の鷲敷町和食のヒグレ峠では、27日午後5時に空砲で出水を知らせ、数十分ならずして濁流が押寄せました。49.3km下流の阿南市十八女(サカリ)では暗くなる1時間ほど前に、60km下流の同市大野町では
「日が暮れてから牛が流れるのを見た。避難先の山の上から屋根の火が見えた。」と記録され、那賀川下流の旧中野島村でも、夜中になって洪水が一気に押寄せました。
図5に那賀川の河床縦断面と洪水段波の最高水位を示しました。4km下流右支の古屋谷川では、合流点から1.5kmの古屋神社まで遡上しました。38km下流右支の中山川(鷲敷町)でも、1.6km逆流して高井まで達しました。
上記の寺戸(1970)の調査結果を参考に、各市町村の1/1万地形図を1/5000に拡大して、河床横断面図を作成し、洪水段波のピーク断面を推定しました(図6,表1)。
寺戸(1970)の調査によれば、天然ダム下流1kmの大戸では水位が41mにも達し、7km下流の小針でも31mに達しました。那賀川では、荒谷洪水以後、大正7年(1918)の洪水が最大です。この時の小浜(天然ダム下流6km)地点の水位は20.6mであり、荒谷出水の方が10mも高くなっています。全般的な傾向として、37.9km下流の和食(ワジキ)地点より上流では
荒谷出水の方が高く、狭窄部を通過した49.3kmより下流の那賀川の平野部では、
荒谷出水の方が低かったようです。
和食より下流で荒谷出水が低かった理由は、
@ 天然ダム決壊が降雨のピークより3日遅れていたこと、
A 上流では本流の水位が著しく高く支流へ逆流したこと、
B 和食盆地での遊水池化、
などが考えられます(寺戸,1970)。
3.4 天然ダム形成・決壊による被害
高磯山崩壊による直接被害は、荒谷・春森両集落の壊滅と上流の湛水による150余戸の浮上・流出と田畑の荒廃でした。決壊による洪水で最大の打撃を受けたのは、鷲敷町で流死3人、流失家屋81戸、潰家29戸、半潰家62戸、浸水32戸でした。家屋流失は、大戸の35戸の大半、上那賀町水崎6戸、相生町川口12戸、阿南市深瀬町の数戸が主なものです。下流の旧中野島村では100余戸が浸水しました。耕地の冠水、護岸石垣等の崩壊、道路の崩壊,橋の流失等は各地で発生しました。
ここで注目されるのは、ダム上流の湛水域や下流の鷲敷町以東で大きな被害を蒙ったのに対し、中間の上那賀町東部から相生町(No.1〜6地点)では人畜に被害がなく、流失家屋も少ないことです。これは、中流部では那賀川は深い渓谷を流れ、集落・耕地の多くは河床より30〜40mの比高を持つ段丘上にあるという地形的特性に起因します。段丘面の高度が低下する鷲敷町阿井(No.7地点付近)より下流では、相対的に段丘面高度が低くなっており、出水時には冠水しやすいようです。また、鷲敷町北方の古生界を通る横谷(河積断面の狭いV字谷,39〜50km)がネックとなっているため、それより上流では滞留して決壊時の水位を高め、被害を増大させたと考えられます。
図5 那賀川の河床縦断面と低位段丘面高度、高磯山決壊後の洪水範囲
(寺戸,1970を一部改変,井上ほか,2005)
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図6 那賀川の河谷横断と高磯山決壊後の洪水範囲(井上ほか,2005)
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3.5 高磯山崩壊の原因
崩壊の範囲が標高600mの山頂にまで及び、基盤に達していることは、残された山頂がナイフリッジ様を呈し、また春森側に押上げられた径5m内外の多数の岩塊より明らかです。現在の北斜面には崖錐が形成され、その頂部は500m付近であるが、330mで表流水が認められるので、上半部の崩積層は厚さ数m以内だと考えられます。転石の多くは頁岩・石灰岩・チャートで、高所ほど石灰岩が目立ちます。対岸へ押上げた土砂は、先端および基部に頁岩が多く、表層はチャートが多く認められます。
図3に示したように、1/7.5万地質図「甲浦」図幅(1931)によれば、山頂数百m南の鞍部を仏像構造線が通り、高磯山は三畳紀〜ジュラ紀の砂岩・頁岩互層の春森層群に属します。構造線は数km西の平谷までは明瞭な谷地形を形成しています。
寺戸(1970)は、高磯山崩壊は北に急斜する脆弱な頁岩優勢砂岩互層が構造線近くのため、擾乱破砕されて、層すべりに近い形で発生したと判断しています。崩壊地の末端は、那賀川の攻撃斜面にあたり、平均勾配は38°で、現在でも上半部には崩壊の余地が残っています。崩壊前には山腹に「ダマ」あるいは「クボ」と呼ばれる3段の緩斜面地がありました。肥沃で耕地化されていたという聞き込み結果から判断すると、明治25年(1892)以前にも、この斜面には崩壊跡地形が存在したと考えられます。それが那賀川の渓岸侵食により、斜面下部の崩壊土砂が除去され、下部の支持力が失われて、明治25年の豪雨時に大崩壊が発生したと判断されます。
寺戸(1970)は,崩壊の原因として、
@ 仏像構造線がすぐ南を通る、
A 破砕を受けやすい頁岩層が存在する、
B 那賀川の攻撃斜面に位置し、渓岸侵食により急斜した脚部が存在する、
C 山腹の平均勾配が38°以上である、
D 地すべり性崩壊による厚い堆積物が存在する、
E 台風が来襲し、長時間の豪雨を受けた、
ことを上げています。
高磯山の崩壊地は、以前から降雨があるごとに川辺から水が吹き出しており、崩壊3日前から付近の泉が白濁していたと言われています。従って、すでに緩慢な動きを開始していたものが最後に大崩壊を起こしたと考えられます。
3.6 洪水流の流量・速度・到達時間の推定
以上の考察結果をもとに、表1に示したように、マニングの公式によって、洪水流の流量・速度・到達時間を簡易推定しました。この計算では、土砂の混入や曲流による流速の変化などは考慮していません。
表1 高磯山の天然ダム決壊に伴う流速・流量・累加時間(井上ほか,2005)
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高磯山から8.9km下流の水崎(No.2)までは、河床勾配1/150〜1/200の河谷を水深が31〜41mで洪水流量2〜3万m
3/s、流速10〜12m/s(36〜43km/h)という激しい段波状の洪水として流下した(水崎まで13分)と判断されます。この付近の支流には1500mも洪水が遡ったという記録があります。49.3km下流の十八女(No.10)までは、河床勾配1/300〜1/1000の河谷を水深が10〜20mで洪水流量5000〜1万m
3/s,流速2〜9m/s(7〜32km/h)という段波状の洪水として流下しました(十八女まで3時間19分)。途中には鷲敷町和食(No.8,37.9km)の盆地部があり、ほとんどの集落を水没させました。39kmより下流には狭窄部があるため、一時的に貯留したようです。
那賀川の沖積平野では水深6〜9mの洪水となって流下したという記録があります(阿南町史,2001や現地での聞き込み)。阿南市中大野では、流されてきた人が摑まって助かったという大クスノキが存在します。これより下流については、洪水氾濫シミュレーションを実施しないと正確な洪水範囲・流量・流速は求められません。仮に流速が1.5m/sとすると、7.5時間程度で河口まで達したことになります。以上の洪水の到達時間は、寺戸(1970)の聞き込み結果とかなり良く合っています。なお、那賀川の基本高水流量(古庄地点)は、1万1200m
3/sです。戦後最大の洪水流量は、昭和25年(1950)9月3日の台風28号「ジェーン」時の9000m
3/s(古庄地点)です。
平成16年(2004)10月20日に襲来した台風23号によって、ピーク流量7000m
3/s(古庄地点)の洪水が発生して、大きな被害が発生しました。この洪水流量は那賀川河川事務所(2004)で計測されており、洪水痕跡もかなりよく残っています。今後、高磯山決壊の洪水想定水位と比較検証する必要があります。
4 海部川・保勢(保瀬)
明治25年(1892)7月25日、台風襲来に伴う集中豪雨によって、海部川中流右岸の保勢(保瀬)も大規模崩壊を起こし、大量の崩壊土砂が河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成しました。なお、崩壊地点の地名は1/2.5万地形図によれば、「保瀬」となっていますが、海南町史(1995)によれば、元々は保勢が正しく、明治25年の災害記事で徳島日日新聞が誤記したことにより、保瀬となってしまいました。河道閉塞(天然ダムの形成・決壊)による地形変化と被災状況については、海南町史や海部町史等に詳細な記録が残されています。ここでは、これらの史料や現地調査の結果をもとに、河道閉塞の状況や洪水流の流下状況を説明します。
4.1 降雨状況と決壊時間
豪雨から1〜2日後の出水に伴い、天然ダムは満杯となり、河道閉塞箇所からの溢水・決壊により、段波状の洪水が海部川を流下し、海岸近くの平野部まで大きな被害をもたらしたが、高潮による浸水被害と重なり、天然ダム決壊洪水による被害状況は明確となっていません。
7月24日付の徳島日日新聞は
「海嘯全市を浸す」と伝えています。23日午前5時前から浸水が始まり、午前7時30分が最高水位であり、
「暴風雨に伴う海嘯」でした。
7月23日午前5時は月齢十五(満月)の大潮で、6時前後が満潮であり,低気圧と重なって高潮の条件はそろっていました。当時の降雨と洪水の状況を池内徳蔵は、次のように書き残しています。
・出水 7月23日
前夜より暴風雨で終日風雨、尚翌24日へ降り越し、海部川出水九合水となる。同24日、前日の出水一時減少したるも、尚又大雨なり午後4時最も大雨となり増水の模様を呈す。
・大洪水 7月25日午前5時(水位)最高点
古老の咄に70余年の大洪水なりと称し、海部川筋は各堤防上水嵩むこと3尺(90cm)内外一円の水越しとなり故に、堤防は処々数多大破決壊となり、地廃は其の数を知らず残る所実に僅々大字村によりては皆無又潰家死人等多数あり(『諸経歴概要記』)。
最高潮位は徳島市9尺(2.7m)、海部郡では宍喰15尺(4.5m)、鞆浦24尺(7.2m)、川東10尺(3.0m)、浅川4尺(1.3m)であった。しかも、16時間にも及ぶ長期滞在型の暴風雨である。そのためか、川内村ではこの浸水潮水は数日間も居座った。」と記録されています。
当時の海部川河口は鞆浦にありましたが、鞆浦での24尺(7.2m)の異常な海面上昇は、海部川河口にそれだけの高さのダムができたことと同じです。増水した海部川が満潮と重なって堰止められて溢れ、「25日、午前5時最高水位」となり、上流の多良、吉野で堤防上を大きく越え、至る所で堤防を決壊して大洪水になりました。
保勢の崩壊時刻については、25日午後2時頃が定説となっており、目撃者も多くあったことで、疑問を挟む余地はありませんが、崩壊によってできた天然ダムがいつ決壊したかについては、十分な調査はできていません。
今までは保勢の供養碑(写真1)にある
「翌26日午後7時弱所を破りし激流は奔馬の如く水焔たてて流下し」から、水が溢れ出すとすぐに大決壊になり、
「すさまじい濁流は忽ち両岸の堤防を各地で寸断して両山峡いっぱいに奔騰した」(海南町史,1995)と伝えられてきました。
7月31日の徳島日日新聞は,保勢の決壊による大洪水を次のように伝えています。
「山又崩れ、死するもの50人(28日海部郡日和佐発)本郡川上村大字平井村字保瀬山の山嶽崩壊し平井川を堰き止め居たる所26日午後8時より深さ45丈(135m)の貯水俄然決壊すると共に字保瀬において凡そ50人の流死人あり,死体は一人も未だ発顕せず,その他の被害も詳らかならず目下取り調べ中なり。右決壊のために海部川俄に増水し,沿岸人家を浸し,堤防等を決壊せりと。」
天然ダムの決壊日時は、「26日午後8時」と記載されていますが、今回の調査で決壊日時はそれよりもさらに遅い27日の午後ではないかと思われます(海南町史,1995)。
4.2 杖追の崩壊
海南町史編さん委員会(1995)によれば、25日の午前3時頃川上村大字小川の杖追が崩壊し、海部川を堰き止めました(図2)。杖追の崩壊現場から下流の吉野まで約15kmの距離があります。吉野では雨が降り続いているのに、午前5時を最高水位として、水位の一時的な下降が記録されています。これは、午前3時の杖追の崩壊による堰き止めによって、下流に洪水が流れなくなったためと考えられます。
小川口では、この堰き止めによる湛水で、川沿いの低地にあった家々や小川簡易小学校の校舎が流失しました。川近くにあった二宮家では、祖母と妹の2人が家と共に流されて死にました。死体は小川谷上流1.5km辺りの榎の木にかかって発見されました。川向にあった深瀬家も水没、主人は牛を引き出す暇もなく、かろうじて身一つで山をよじ登って逃れて助かったと記されています。
杖追の崩壊地点は、一週間位前から、だらだらと崩れはじめていました。付近の住民は危険を感じて避難することをせず、油断しているうちに大崩壊となり、川を堰止めた湛水から逃げるのに精一杯であったと記されています。
皆ノ瀬の岡田弘(2003年当時85歳)の話によると、当時川縁の船着場にあった旅館浅川屋では、
「上から流れてくる水が減ったのに下から水が押し寄せてきて、川沿いにあった家が浸った。おかしいと思って見に行かせると、杖追と保勢の2箇所で天然ダム形成されていた。それが崩れて鉄砲水の危険があることが分かって、家族一同で高台の畑へ避難した。ちょうど下から高瀬舟が上って来て泊まっていたが,鉄砲水を恐れて、急遽下流へ下がって行った。大水の最中に無理をして下がったが、無事に着いたことだろうかと婆さん(当時13歳)が心配してよく話してくれた」と記録されています(海南町史,1995)。杖追崩壊の時に、皆ノ瀬までも水に浸かったと記されていますが、当時の舟宿は皆ノ瀬の川縁にありました。
また、杖追崩壊による堰止めが、割合に小規模で堰切れも案外に早かったという言伝えもあります。これで高瀬舟の川下りが強行できたのも理解できます。すなわち、杖追の崩壊による河道閉塞は徐々に起こったので、完全に河道が閉塞される前に高瀬舟はその地点を通過することができたのでしょう。この高瀬舟の通過により、保勢の崩壊と天然ダム決壊による鉄砲水の危機情報が下流域へ伝達されたと考えられます。
4.3 保勢の崩壊
海南町史編さん委員会(1995)によれば、6月20日頃から雨が続き、平井で山仕事に入っていた人々は、仕事ができないばかりでなく、食糧も無くなり、ついに食物と宿泊所を求めて、平井字保勢の民家に難を避けて逗留せざるを得なくなりました。
昭和10年(1935)11月に建立された
『保勢の災害碑』には
「明治25年7月25日午後2時前後、当所川南の山腹俄然たる一大音響を立てて崩壊し始め、忽ち谷を埋め、川をせき、巨岩を北岸はるか上方にはね上ぐ。北岸の山麓ありし井上幸太郎・井上喜太郎・桜井矢平,三家の家族11名及び同家に長雨を避け食を求めて投宿し居たる付近山稼ぎ36名、馬3頭は家屋と共に生き埋めにせられ、田畑4町余歩も亦埋没す。」とあります。
なお、『海部郡誌』(1927)によれば、「25日午前10時に崩壊」となっています。
この大崩壊にも前触れがありました。海南町史(1995)によれば、保勢川向かいにある井内のお爺さんが、崩壊地の上の山が(山の木が)ザワッと動いたのを見て、危険だからと避難するように勧めました。
「山が動くなんて事があるものか、この雨の中、逃げると却って危ない」と逃げなかった人達が生き埋めになり、先人の言い伝え
『山が動くような時は危ない、逃げよ』を守って避難した地元民達は助かっています。
海南町史(1995)によれば、
「20日頃から降り続いた豪雨で海部川は増水し、当時の不完全な堤防が危険に瀕しているとき、川上からさらに恐るべき連絡が入った。それは25日午前10時頃、川上村大字保瀬(保勢)の右岸山上が幅3町にわたって大崩壊して海部川の水を堰止め、洪水は逆流して寒ケ瀬一帯は濁流に没し、4戸流失、死者47名に及び、上流一里半(皆ノ瀬から)の所にある樫谷地区の大杉の梢が水に隠れ、更に上流の轟神社の扁額が半分水に浸るほどである。此の水がいつ下流に大氾濫を来すかもしれない。厳重に警戒せよ。」と記載されています。
「轟神社の扁額が半分水に浸かった…」は、轟ノ滝の轟神社ではなく、
「樫谷にあった轟神社の扁額」です。
4.4 保勢切れと鉄砲水
海部町史(1971)によれば、「驚いた沿岸各村落では、女子供や重要な家財を安全な場所へ退避させ、村中総出で堤防に土俵や古畳を積み上げて補強し、鉄砲持ちに緊急合図用の空砲を持たせて見張りを立てて、厳しい警戒態勢を敷きました。やがて、巨大な天然ダムの水圧は、崩壊璧の一角を押し破り、すさまじい濁流は忽ち両岸の堤防を各地で寸断して両山峡一杯に奔騰しました。農民幾十年の汗の結晶である青田を一瞬にして泥土・石ころの荒野に変え、特に下流大井・富田・吉田・高園・多良・四方原に甚大な被害を与えました。この大洪水のすさまじさを伝える古老の話を列挙すると、
『鉄砲が鳴り絶叫が聞こえ、川上から赤濁(アカニゴ)の水の巨大な壁が大地を揺るがせて迫ってきた。――草葺きの屋根の上に人が乗って助けを求めながら流れていくのを見た。』」と記されています。
しかしながら、この鉄砲水の発生日時は記録されていません。
地元、平井でも水位についてはよく伝えられているのに、水が引きはじめた日時は記録されていません。多良(22km下流)では、西端の字井口、現在の国道193号坂下にあった井口伊太郎が家もろとも流されています。伊太郎は出水のために一時は近所の高台の家に避難していたが、水が引いたので、
「米と漬物桶を調べようと夕方帰宅していたら,急にどっと水が来て家の裏の堤防が切れ、家もろとも押し流され、危ういところをようやく助けられた。震えながら一夜明けてみると、家も田畑もすべて流されてしまって何も無い。がっかりしてこれからどないしょうかとしょんぼりと空き腹を抱えているところへ、近所の人から炊きたてのご飯をふるまわれて、そのまあうまかったことは忘れられん」(伊太郎の子の鳶蔵,89歳)と記しています。川東村の記録では,村内の堤防の決壊は25日夜となっています。未曾有の大洪水による堤防の決壊と氾濫、その上に天然ダム決壊による鉄砲水で追い討ちをかけられ、海部川の流域各村は壊滅的な大被害を受けました。
保勢崩壊現場での47人の生き埋め、その他の流死人9名、吉野字前川原堤防、多良字井口の大里用水取り入れ口堤防、字前川原、字堤外、字上中須等の諸堤防決壊、田畑流失等の被害は非常に大きく、計り難いほどでした。加えて大里用水取り入れ口や用水路の破損は、その後の大里と多良の水争いの原因になりました。
明治25年(1892)7月29日,多良の人々38名が連署して,徳島県知事・関義臣に
『臨時堤防特別御修繕願』を提出しました。これによると、
「多良では字井口19間(34m)、字前川原115間(207m)、字堤外71間(128m)、字上中須55間(99m)、合計260間(468m)の堤防が決壊し、その他堤防根疼き30間(54m)、多良村に属する堤防480間(864m)の内の60%が破壊された。元の耕地が大川のようになり、海部川の本流となった。多良の中央部より大里村に貫流するようになり、元の海部川は本村より浅瀬となって、舟も筏も通さない状況になった」と報告されています。
4.5 洪水流の流下範囲の推定
海南町史(1995)や現地での聞き込み結果をもとに,図8を作成しました(井上ほか,2005)。
天然ダムの湛水位は標高195mで、上流7.0kmまで湛水し、湛水面積1.25km
2,水深80mとすると湛水量は3300万m
3となります。上記の資料だけでは、天然ダムの決壊日は26日か27日か良く分かりません。崩壊日時を7月25日午後2時、決壊時間を26日午後8時とすると、満水になるのに1.08× 10
5秒(30時間)で天然ダムへの流入量は306m
3/s、27日午後8時とすると、1.94×10
5秒(54時間)で170m
3/sとなります(湛水地点より上流の集水面積56km
2)。
図8 海部川の河床縦断面と保勢天然ダム決壊後の洪水範囲(井上ほか,2005)
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上述したように、保勢の天然ダム決壊に伴う洪水到達時間は不明な点が多いのですが、保勢から海部川の河口までの距離は23kmですので、洪水流は3〜4時間で河口まで達したものと考えられます。
5.高磯山と保勢の天然ダム形成・決壊に伴う被害
表2は、寺戸(1970)や各市町村史に記載された被害状況をまとめたものです(井上ほか,2005)。100年以上も前の被害記録であり、各記録にはいくつかの相違がありますが,天然ダム形成・湛水による被害と決壊・洪水に伴う被害を分離して表示することができました。
那賀川の高磯山では,天然ダムの形成をもたらした地すべり性崩壊によって、荒谷・春森の人家10数戸が埋没し、60余名が崩落土砂の下に埋没しました。湛水に伴う上流域の家屋流出は、150余戸にも達しました。決壊による段波性の洪水によって最も大きな被害を受けたのは、鷲敷町です。寺戸(1970)によれば、水死3名、流出家屋81戸、全壊家屋29戸などとなっています。那賀川下流の平野部でもかなりの被害がでていますが、実数はよくわかりません(中の島100余戸)。
海部川の保勢では、地すべり性崩壊によって4戸が埋没し、住民11名と山稼ぎ人36名が生き埋めとなりました。湛水によって8戸が流出し、9名が水死しました。決壊による段波性の洪水による被害は、7月23-25日の台風襲来による洪水・高潮被害と区別が困難なようです。
杖追では、2戸流出、1戸浸水して、2人が水死しました。杖追と保勢の天然ダムの決壊により、下流域で2戸流出、11戸半壊の被害がでています。しかし、高潮災害と重なり、天然ダム決壊による被害のみを分離することは難しいようです。
表2 高磯山と保勢の天然ダム形成・決壊に伴う被害(井上ほか,2005)
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6.むすび
平成16年(2004)10月23日の新潟県中越地震の河道閉塞・天然ダムの形成に対しては、徐々に水位が上昇したため、様々な対応策を実施することができました。しかし、2004年台風21号(9月28〜29日)と23号(10月19〜20日)の間に新潟県中越地震が起こったらどうなったでしょうか。
明治25年(1892)の徳島の2事例は集中豪雨時に河道閉塞と天然ダムが発生しているため、1〜3日程度で天然ダムは満水となり、決壊して下流に大きな被害を与えています。当時の記録を読むと、崩壊地や湛水池上流の住民は尾根沿いの山道を通って、天然ダムが形成されたことを下流流域の住民に知らせています。そして、鉄砲や大砲・狼煙などの当時の最も速い通信手段を使って、決壊の発生と緊急避難すべきことを伝達しました。
太平洋岸の地域では、南海・東南海・東海地震が数十年以内に発生することが想定されおり、地震や豪雨によって、天然ダムが形成・決壊する可能性があります。
本コラムによって、今まで国内ではほとんどデータの無かった天然ダム決壊時のピーク流量、洪水伝播速度、洪水氾濫状況がかなり明らかとなりました。天然ダムの形成・決壊・洪水流の流下のメカニズムを検討する材料を提供できたと考えています。
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