1. 追良瀬川流域の地形・地質
青森県南西部に位置する白神(しらかみ)山地中を北流して日本海へ注ぐ追良瀬川は、流路延長33.7kmで、全体的にV字谷を形成し、下流域には狭い谷底平野が連なります。防災科学技術研究所(2000)の地すべり地形分布図によれば、上流域には地すべり地形が多数分布し、河口から約5km上流の松原集落西方に位置する岩山の対岸にも地すべり地形が存在します(図1)。その岩山の洞穴には見入山観音堂(写真1)があり、康永三年(1344)の創建とされます(
『津軽一統志』)。
岩山の地質は、主として中新世の大戸瀬(おおどせ)層からなります。大戸瀬層の下部は安山岩溶岩や火砕岩から構成され、礫岩や砂岩を挟み、中部は流紋岩の溶岩や緑〜赤紫色の火砕岩から構成されます。上部は安山岩の溶岩や火砕岩からなります。
図1 追良瀬川流域の地すべり地形分布図(井上ほか,2011)
防災科学技術研究所(2000)作成([深浦]、[川原]平図幅)に追記
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2.寛政西津軽地震(1793)の概要
寛政西津軽地震は、寛政四年十二月二十八日(1793年2月8日)昼八ツ時(午後2時半)頃に発生しました(檜垣ほか2011、白石ほか2011)。当日の天気は
「昨夜少々雪、今日時々雪」(弘前市立弘前図書館蔵
『弘前藩庁日記 御国日記』、以下
『国日記』と略記)と記録され、同年は雪の多い年であることが記された史料も存在します(
『佐藤家記』)。寛政西津軽地震はマグニチュードM6.9〜7.1と推定され、図2の左下図に示すとおり、震度は最大でY程度、城下の弘前(ひろさき)でも震度X程度と推定されています。
また、地震発生直後に津波が発生した記録もあり、青森県西部の鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)を中心とする津軽領西海岸の湊町や村では被害が大きく、藩庁への被害報告が行われました。しかし、津軽領内の主な被害を挙げてみると、地震による被害者数が少ないことに気付きます。最も被害の大きかった深浦で、潰死2名、山崩れでの死亡6名、潰家・半潰家63棟、土蔵、寺、御蔵など、鰺ヶ沢では舞戸村で流死2名、潰家・半潰家76棟、土蔵,漁船22など、十三(とさ)に至っては死亡者や家屋被害はなく、奉行所・御蔵などのみ被害を受けています。これは同地震が天明飢饉(1782〜1788)で、人口が激減した後に発生したためとも推測されます。追良瀬村の支村である松原村(現深浦町松原集落)の墓石調査でも墓誌に刻まれた近世の死亡者の多くが天明期のものでした。なお、同地震に際しては、現在も景勝地として知られる千畳敷(せんじょうじき)海岸が隆起するなどの地形変化も見られました。追良瀬川上流では天然ダムが形成され、
「変水」(天然ダム決壊)の危機感から松原村などで住民が避難したようです。
表1 寛政西津軽地震後の津軽地方の天候表(『国日記』より作成,井上ほか,2011)
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3.天然ダムの形成
寛政四年年末から、翌五年にかけては
『国日記』の天気付に日々雪の記録が残されており、唯一「雨」と記録されるのが、一月十二日(1793年2月22日)の記録です(表1)。
史料1では、松原村領で沢々が山崩れに塞き止められて
「水湛」になり、そのようにしてできた天然ダムが一月十二日に押し破れて、洪水となったことが記されています。まだ、奥の沢に同様のダムが数ヶ所形成されており、
「変水」の不安がぬぐい去れないことから、村民は山野へ小屋掛けして引っ越したと記されています。
同様に、史料2でも、追良瀬川が揺り埋まって
「水大湛」になり、こちらもいつ押し破れるか分からないとして、見分に参じた役人らに下山を命じました。
史料3は、津軽領西岸の赤石(あかいし)組代官からの報告であり、藩庁が天然ダムの形成や山崩れに対応する様子が見られます。川の中に欠け崩れた雑木などをそのままにしておいては、ますます天然ダム内に水がたまっていき危険であるし、田や山でも欠け崩れている場所が多いので、代官見分の上で杉や檜(檜葉)を回収し、雑木や柴などは刈り取るように命じました。使用可能な分については、藩の用木として極印(ごくいん)を打つこととしており、雑木などに至るまで救済措置として被災民へ下付されることは無かったようです。
史料1『国日記』寛政五年二月二日(1793年3月13日)条
一、赤石組代官申出候、松原村領旧臘廿八日之地震ニ而山築崩、沢々所々水湛ニ相成、去月十二日押破、洪水之旨、尤尓今沢奥数ヶ所相湛罷有候間、此上変水之程難計ニ付、野山江小屋致村中引越罷有候旨承届之、
史料2『国日記』寛政五年二月十四日(1793年3月25日)条
一、郡奉行勘定奉行申出候、旧臘廿八日之地震ニ而追良瀬川水上震埋リ大水湛ニ付押破候程難計、山役人并代官郡所役方共、下り方申付差遣候得共埋り候後数日ニ相成、何時押破候も難計ニ付、両奉行之内壱人山奉行之内壱人同道罷下候儀申出之通早速罷下候様申付候、山奉行へも申遣之、
史料3『国日記』寛政五年二月二十日(1793年3月31日)条
一、赤石組代官申立候、同組村々領之内旧臘之地震ニ而山欠崩相成用水堰并川々之内江欠崩候雑木其侭差置候而者弥水湛相成、其上田方并山所欠崩多相成候ニ付、代官見分之上杉檜之類差除、雑木・柴之類伐取被仰付度旨申出之、右木品伐取用木ニ相成候分者雑木ニ而も伐取置、山役人改受山印御極印打入申付旨申遣之、山奉行江も申遣之、
4.地すべりの滑動範囲
寛政西津軽地震によって追良瀬川が河道閉塞したと想定される地点は、河道周辺の地形や住民への聞き取りから、図2に示す4カ所が候補地として挙げられたので、2010年8月に現地踏査を実施しました。なお、各地点で採取した埋れ木の
14C年代測定は、(株)火山灰考古学研究所を通じて、米国ベータ社に依頼しました。
@見入山観音対岸の地すべりによる河道閉塞
図2に示すように、松原集落のすぐ西側、見入山観音の対岸(追良瀬川左岸)には、大規模な地すべり地形が分布しています。しかし、追良瀬川左岸A-B間には、硬質の流紋岩が露出しています。また、地点Bに旧河道の屈曲が疑われる幅広い谷がありますが、Bの谷で確認される円礫の位置は、地点Aでの追良瀬川河床より10mほど高くなっています。これらのことから、この屈曲する谷に1793年の地震当時に、追良瀬川の旧河道が存在したとは考えにくいと判断しました。
A上切沢の土石流による河道閉塞
上切沢(かみきりさわ)では、谷沿いに段丘化した土石流堆積物が連続します。この堆積物中(図2の地点D)の埋れ木の補正
14C年代は、90±40yBP (Beta-285515)で、暦年較正年代は2σ(95%確率)でAD1680〜AD1960でした。これらの値から同地点が1793年の河道閉塞に対応する可能性が充分に考えられます。
なお、暦年較正年代とは、過去の宇宙線強度の変動による大気中の
14C濃度の変動などを補正することにより算出した年代で、補正には年代既知の樹木年輪の
14C測定値およびサンゴのU-Th年代と、
14C年代の比較により作成された較正曲線(Reimer et al. 2004)を用いました。
B追良瀬2号堰堤の右岸地すべりによる河道閉塞
松原集落から6km上流にある追良瀬2号堰堤右岸には、長さ1km・幅1kmの大規模な地すべり地形があります。写真2はこの地域を国土地理院が1975年9月30日に撮影した航空写真を立体視できるようにしたものです(追良瀬川2号堰堤はまだ建設されていません)。図2の地点Eの河床付近(写真3)には、@角礫混じり青緑色の粘土が、厚さ2m以上露出しており、そこには多数の埋れ木が含まれていました。この層の上位は厚さ15mのA粘土混じり安山岩角礫層であるのに、@の粘土層には円磨された礫が混在し、礫種も安山岩・玄武岩・凝灰岩など多様でした。左岸に見られる段丘表面は、凹凸に富んで緩く西側に傾斜し、東向き急傾斜面と接しています(図3)。
このような状況から、@角礫混じり粘土層をすべり面として右岸側で地すべりが発生し、旧河床付近にあった樹木を埋没させ、河床礫を巻き込んだと考えました。その地すべり地塊は、左岸の急傾斜な斜面に到達して河道を閉塞したと推察しました。
A項で述べたのと同様にして得た地点Eの埋れ木の補正
14C年代は、150±40 yBP(Beta- 285514)で、2σ(95%確率)での暦年較正年代はAD1660〜AD1960でした。
図2 寛政西津軽地震関係図、及び追良瀬川流域の地すべり・天然ダムの湛水範囲(井上ほか,2011)
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写真2 追良瀬川中流の地すべり地域の立体航空写真(国土地理院1975年9月30日撮影)
(CTD-54-21, C10A14,15,16をもとに作成)
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図3 追良瀬2号堰堤右岸の地すべり断面図(井上ほか,2011)
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また、同様の角礫粘土層はコワシ沢(地点F)河床に沿っても確認され、埋木が得られました。その補正
14C年代は、260±40 yBP(Beta- 286084)で、2σ(95%確率)での暦年較正年代はAD1620〜AD1950でした。
測定結果はAD1520年以降の年代を示すので、追良瀬2号堰堤右岸の地すべりは、当該地域における歴史地震の記録等に鑑みても、寛政西津軽地震での河道閉塞を引き起こしたと考えるのが妥当だと判断しました。
C濁水沢(にごりみずさわ)の土石流による河道閉塞
濁水沢右岸では、追良瀬川との合流地点に土石流の段丘が存在し、背後には大規模な地すべり地形が存在します。ここでも河道閉塞を生じた可能性がありますが、年代は特定されていません。
写真3 追良瀬川右岸の地点Fの露頭(2010年8月、古澤撮影)
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5.追良瀬川の天然ダムの規模について
寛政西津軽地震について史料表記中に見られた天然ダムは、追良瀬川2号堰堤右岸斜面からの地すべりによる河道閉塞で形成された可能性が高いと考えられます。
同地震発生時の追良瀬川の流量を次のように推定しました。2010年2月時点の追良瀬川最下流、河口付近で計測された流量は、4〜140m
3/sと変動します(青森県 2010)。この値から流域面積比で天然ダムの堤体地点の流量を計算すると2.8〜100m
3/sとなります。また、同地震で形成された天然ダムは、決壊まで15日間を要しました。前述の通り、この年は例年よりも雪が多く、決壊した日の夜中は降雨が記録され(表1)、気温が上がっていたと推測されます。そのため融雪が進み、決壊へ至ったと考えられます。
当時も2010年と同じ程度の流量だったと仮定して、2.8m
3/sの流量が14日間+12時間、100m
3/sの流量をその後の12時間(雨による出水)として計算すると、天然ダムの最大湛水量は780万m
3/sとなります。さらに、B項で検討した河道閉塞で右岸の段丘表面の高さまで湛水したとして、地形図上で計算した天然ダムの湛水量は530万m
3となりました。
算出した湛水量にそれほど差が無いことからも、追良瀬2号堰堤右岸地すべりが寛政西津軽地震(1783)時に追良瀬川を河道閉塞したと考えられます。
6.十二湖崩れ
今回の対象地域から12km離れた青森県西津軽郡深浦町の十二湖(図1参照)は、宝永元年四月二十四日(1704年5月27日)の羽後・津軽地震(M7.0±1/4)によって、巨大崩壊が発生し、崩壊堆積物の中に多くの湖沼を形成したものです(日本地すべり学会,2012のカルテ10-1)。図4は図1の地すべり地形分布図の十二湖付近の拡大図で、図5は、古谷ほか(1987)による十二湖崩れの崩壊地形を示しています。
地震による被災事例のカルテ票10-1によれば、崩壊地の面積35.6万m
2、崩壊土砂量1.1億m
3と見積もられています。今日、十二湖として知られる大小の湖水は、崩壊土砂の上の凹地に雨水が溜まって形成されました。当地域の地質は、中新世の十二湖凝灰岩(海底に堆積した火砕流堆積物が主)と玄武岩からなり、推定断層によって境されています。
十二湖という名称は、広大なブナ林の間に点在する面積1万m
2以上の湖が12ある(実際には大小合わせて33以上)ところから来ており、昭和28年(1953)に県立公園に指定されました。
図4 十二湖周辺の地すべり地形分布図
防災科学技術研究所(2000)作成([深浦]平図幅)
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図5 十二湖崩れの主要な崩壊地形(古谷ほか,1987)
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引用・参考文献
井上公夫・檜垣大助・白石睦弥(2011):2.7 寛政西津軽地震(1793)による追良瀬川上流の天然ダムと決壊,水山高久ほか,日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.69-74.
白石睦弥・檜垣大助・古澤和之(2011):1793寛政西津軽地震に関する一考察(その1),歴史地震,26号,p.96.
日本地すべり学会(2012):地震地すべり,―地震地すべりプロジェクト―,特別委員会の総括編,巻末CD「地震地すべり事例カルテ票」
檜垣大助・白石睦弥・古澤和之(2011):1793寛政西津軽地震に関する一考察(その2),歴史地震,26号,p.111.
檜垣大助・古澤和之・白石睦弥・井上公夫(2011b):寛政西津軽地震による白神山地追良瀬川での天然ダム形成,第50回(社)日本地すべり学会研究発表会講演集, p.27-28.
古谷尊彦・町田洋・水野裕(1987):津軽十二湖を形成した大崩壊について,昭和61年度文部科学省自然災害特別研究(1),「崩災の規模,様式,発生頻度とそれに関わる山体地下水の動態」,千葉大学理学部,p.183-188.
Reimer,P.J. et.al.(2004) : IntCal04 Terrestrial radio carbon Age Calibration 10-26 cal kyr.BP., Radiocarbon, 46, p.1029-1058.