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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム32 明治24年(1891)の濃尾地震直撃による土砂災害
 
1.濃尾地震の概要
 濃尾地震(M=8.0)は、明治24年(1891)10月28日6時38分に岐阜県本巣郡西根尾村の水鳥(みどり)の北方を震央として発生しました。明治22年(1889)7月1日に町村制施行とともに、宇津志村・高尾村・水鳥村・松田村・大井村・大河原村・能郷村が合併して西根尾村が発足しました。明治37年(1904)4月1日に、東根尾村・中根尾村・西根尾村が合併して、根尾村となっています。平成16年(2004)2月に本巣町・真正村・糸貫町・根尾村が合併して本巣市となりました。
 濃尾地震は、北は宮城県仙台から南は鹿児島まで有感となり、内陸直下型地震では日本で最大級のものでした。明治24年頃は日本の文明開化の時期に当たり、開通したばかりの鉄道(東海道線)や紡績工場が大きな被害を受けました。東海道線の長良川鉄橋は5スパンのうち3スパンが落ちました。
 表1は地方別の死者・負傷者、家屋全潰戸数、山崩れ箇所を示しています。濃尾平野では7000人以上の圧死者を出しました。特に根尾谷から岐阜県北部を通り、犬山市北部にかけての地区(濃尾断層に沿った延長50km)は、震度Zの激震域で、人家の倒壊率は80%以上にも達しました。また、濃尾断層の延長である大野郡・今立郡・足羽郡などで家屋倒壊、山地崩壊などの大被害が発生しました。
表1 地方別死者・負傷者、家屋全潰戸数、山崩れ箇所(宇佐美,1996)
表1 地方別死者・負傷者、家屋全潰戸数、山崩れ箇所(宇佐美,1996)

 2017年4月25日〜26日に20年ぶりに濃尾地震の土砂災害地点を歩いてみました。建設省越美山系砂防工事事務所の「平成10年度地震に関連した大規模土砂移動調査」で作成した『越美山系の地震と土砂災害―濃尾地震(M=8.0)とその後の土砂移動―』の中の写真と見比べながら、写真撮影を行いました。
 表2と図1に示したように、濃尾断層系に沿って、多くの土砂災害が発生しました。多くの斜面で崩壊が発生するとともに、川が堰き止められて、天然ダムが8箇所で発生しました。さらに、濃尾地震による地震動で脆弱となった山腹斜面は、その後の豪雨などの誘因が加わり、土砂災害が多くの箇所で発生しました。地震から数日後、数年後、さらには74年後の昭和40年(1965)の台風24号による集中豪雨によって、ナンノ崩壊、徳山白谷、根尾白谷、越山谷などの大規模崩壊が発生しました(地震後豪雨による土砂災害については、コラム33で説明します)。
表2 濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は図1と対応)
建設省越美山系砂防工事事務所(1999b)を一部修正

表2 濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は図1と対応)建設省越美山系砂防工事事務所(1999b)を一部修正
図1 濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は表2と対応)建設省越美山系砂防工事事務所(1999b)を一部修正 図1 濃尾地震に関連した土砂災害等の一覧表(位置は表2と対応)
建設省越美山系砂防工事事務所(1999b)を一部修正

2.濃尾地震断層系
 濃尾地震断層系は、図1に示したように、温見断層根尾谷断層黒津断層水鳥断層海原断層古瀬断層谷汲断層に分かれますが、北は福井県今立郡池田町野尻から美濃俣を通り、温見(ぬくみ)峠を越えて、能郷白山、根尾谷、岐阜県山県市伊自良、高富町を通り、長良川、木曽川を越えて、可児市帷子に達する、全長80kmに及ぶものです。濃尾地震時の地震断層は全体として一本の連続した断層線を生じたのではなく、数箇所で途切れ、少しずれた地点から出現しています。 
濃尾地震断層系は、全体としてみれば水平変位(左横ずれ)の大きな断層ですが、ところによっては上下変位を伴って出現しました。写真1は、Milne & Burton(1892, 第2版)に掲載された写真で、Koto(1893)論文で、断層崖にFaultと記載されました。本巣市根尾・水鳥では、最大6mの上下変位(北東側の隆起)、水平変位2〜4mの断層が根尾川を横断して出現しました。水鳥には国の天然記念物として指定された断層崖が今も残っています。写真3,図2に示したように、根尾村(現本巣市)教育委員会では、この断層崖を直接観察できる地震断層観察館を平成3年(1991)に完成させました。
写真1 根尾谷水鳥の濃尾地震断層南側の低位段丘面の上から北方を望み、小川一真が撮影した。(Milne & Burton, 1892, 第2版)Koto(1893)では、小藤が急崖部にFaultと追記している。(防災専門図書館蔵)
写真1 根尾谷水鳥の濃尾地震断層
南側の低位段丘面の上から北方を望み、小川一真が撮影した。
(Milne & Burton, 1892, 第2版, 防災専門図書館蔵)
Koto(1893)では、小藤が急崖部にFaultと追記している。

   
写真1 根尾谷水鳥の濃尾地震断層南側の低位段丘面の上から北方を望み、小川一真が撮影した。(Milne & Burton, 1892, 第2版)Koto(1893)では、小藤が急崖部にFaultと追記している。(防災専門図書館蔵)
写真2 河成段丘上の断層展望広場からみた根尾谷地震断層観察館
2017年4月25日井上撮影
 
 
写真3 地下観察館の北西側法面 2017年4月25日井上撮影
写真3 地下観察館の北西側法面
2017年4月25日井上撮影
図2 地下観察館の北西側法面の地質概念図 根尾村教育委員会(1992)
図2 地下観察館の北西側法面の地質概念図
根尾村教育委員会(1992)
 
3.根尾谷断層沿いに発生した地変・土砂移動
 図3は、「根尾谷地変図」(岐阜地方気象台蔵)で、図4は根尾川の天然ダム形成位置と崩壊地形区分図(建設省越美山系砂防工事事務所,1999a)です。黒のジグザグ線は、濃尾地震の起震断層で、写真1に示したように明瞭な直線状の地変が認められました。当時の新聞記事や災害報告では、断層とは呼ばず、「震裂波動線」と呼んでいました。図3によれば、根尾谷の河谷には茶色で示された崩壊地が連続的に発生しました。このため、地震直後の根尾川流域には、少なくとも8箇所の天然ダム(「瀦水(ちょすい)」と記されています)が形成されていたことが記載されています。これらの天然ダムの規模は、他にほとんど資料がないため不明な点が多いのですが、一番上流の能郷谷と根尾西谷川の合流点付近に形成された天然ダム(地点25,後述)の規模が一番大きくなっています。
 知事官房の「震災日誌二」の12月12日付の「官房局への報告」には、「板屋村外七箇村役場部内ハ谷川所々瀦水シ、田畑道路破壊セリ。又井水尽ク汚濁セシヲ以テ飲料水ヲ欠キ大ニ困難セリ。」とあり、瀦水(天然ダム)が各地にできて、多くの被害が発生した様子が伺えます。
 写真4は、国土地理院が1975年10月22日に撮影した航空写真で、立体視できるように加工したものです。立体視してみると、根尾谷断層と東西に走る水鳥大将軍断層の形態などが識別できます。根尾谷水鳥地区(岐阜県本巣市根尾,地点@)や板所山(根尾谷左岸,地点A)からの崩壊土砂と地震断層(東西性の水鳥大将軍断層、断層の北側が5m沈下した)の出現によって、根尾川が堰き止められ、大規模な天然ダムが形成されました。田畑ほか(1999,2002)によれば、湛水高6m、湛水面積68万m2、湛水量140万m3と推定しています。この天然ダムにより、根尾谷の河床付近はほとんどが水没してしまったため、根尾谷唯一の幹線道路も遮断され、交通の便は舟に頼らざるを得なくなりました。写真5は岐阜地方気象台所蔵の当時の写真で、板所山の崩壊土砂と地震断層(東西に走る「大将軍断層」)によって湛水している状況を示しています。
図3 根尾谷地変図(岐阜地方気象台蔵),赤丸数字は表2の地点を示す
図3 根尾谷地変図(岐阜地方気象台蔵),赤丸数字は表2の地点を示す
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図4 根尾川の天然ダム形成位置と崩壊地形区分図(建設省 越美山系砂防工事事務所, 1999a)
図4 根尾川の天然ダム形成位置と崩壊地形区分図
(建設省 越美山系砂防工事事務所, 1999a)
 

写真右上に板所集落が確認できます。写真6は写真5とほぼ同じ位置から、2017年4月25日に撮影したものです。付近の人々は高所に逃れ、仮小屋を建てて暮らしました。この天然ダムは大正の初め頃まで、20年間も残っていました。
 岐阜日日新聞の特派員は、この様子を見て次のように伝えています。「水鳥板所村なる根尾川の渡しは、従来は舟を以てせしも河幅僅に十五六間(27〜29m)に過ぎず、加ふるに河底浅くして舟を磨り、殆ど舟を遣るべからざりしに、今や変じて一湖をなし洋々として漣波岸を撲ち、碧水際なし。実に一幅の山水活書図なり。」
写真4 根尾谷水鳥地区の立体航空写真, 赤丸数字は表2の地点を示す 国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25,C16B-13,14,15
写真4 根尾谷水鳥地区の立体航空写真, 赤丸数字は表2の地点を示す   
国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25,C16B-13,14,15
 

写真5 水鳥大将軍断層と板所の崩壊によって形成された天然ダム(岐阜地方気象台蔵) 写真5 水鳥大将軍断層と板所の崩壊によって
形成された天然ダム(岐阜地方気象台蔵)
写真6 ほぼ同地点から撮影した現況 2017年4月25日井上撮影 写真6 ほぼ同地点から撮影した現況
2017年4月25日井上撮影

写真7 水鳥左岸の崩壊状況、全山禿山状態 Milne & Burnton (1891,初版) (防災専門図書館蔵)
写真7 水鳥左岸の崩壊状況,全山禿山状態
Milne & Burton (1891,初版,防災専門図書館蔵)
写真6 ほぼ同地点から撮影した現況 2017年4月25日井上撮影
写真8 巨大な移動岩塊に向かう吊り橋(数年前は通行できたが、もう通れない)
2017年4月25日井上撮影
 

写真9 根尾谷左岸側の谷から移動して来た巨大な岩塊(右側に吊り橋が見える)
写真9 根尾谷左岸側の谷から移動して来た巨大な岩塊(右側に吊り橋が見える)  

 地震から1週間後の11月4日、震源地調査のために根尾谷に入った岐阜測候所(1894)の井口所長によれば、「一大鳴動ト斉シク左右に聳エル山岳忽チ陥落シテ土砂烟ノ如ク昇騰シ、其近傍各村一時暗黒トナリ。其山形或ハ凸変シテ凹トナルモノアリ、或ハ崩壊シテ半身ヲ剥落裁断シ、又其位置方面ヲ変スルアリ。皆陥落ノ結果トシ。其第一震裂波動線ニ中ル山岳ハ悉ク分崩シ。」と記しています(岐阜新聞社,1991)。
 Milne & Burton(1892)の写真7とその説明によれば、「写真に見られる山の脇の明るい部分は、地すべりによって草も木も剥ぎ取られたところである。前面には樹木がまっすぐ立ったまま一塊になって上から滑り落ちたところも見える。大地震の後、数日経て地すべりが起きたのであるが、そこに居合わせた人の見たところによると、唸りや震動のために大砲の音のように聞こえた。」と記載されています。
 Milne & Burton(1892)と同行した写真師・小川一真が撮影した写真7や図3などを見ると、水鳥付近の根尾谷は全山禿山状態になっていました。手前の小丘は正面の沢から流下して、根尾川の河床で90度回転して止まったと言われています。写真8は2017年4月に撮影したもので、巨大な移動岩塊(小島)に向かって古い吊り橋が架かっており、数年前までは通行できましたが、現在は通行できません。写真9によれば、根尾川は巨大岩塊(小島,長径200m)を挟んで分流しています。この巨大岩塊(小島)は写真4の立体航空写真でも識別できます。
 地震直後、あるいはその数日以内の震央付近の山岳斜面においては、おびただしい斜面崩壊が発生し、その崩壊土砂が煙や霧のように立ち昇り、付近一帯は暗黒になる程でした。そしてその中には、岩盤崩壊や地すべり性の大規模な土砂移動現象も多数発生していた状況を読み取ることができます。また、現地調査の結果によれば、植生に覆われて遠くからは分かりにくいが、根尾谷の斜面には大量の崩壊土砂がほぼ安息勾配(35度前後)で堆積しており、当時の土砂流出の激しさを物語っています。
図5 根尾谷断層に沿う変位地形(A−A’,B−B’は横ずれ変位) 1/5万地形図「谷汲」 (建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
図5 根尾谷断層に沿う変位地形(A−A’,B−B’は横ずれ変位)
1/5万地形図「谷汲」 (建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)

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4.金原谷付近の断層変位と崩壊
 金原谷は、図5に示したように、根尾川に沿って約2kmの左横ずれが生じたと見なされています。谷の食い違いなどが系統的に連なるところです(松田,1974)。金原谷と鍋原谷はかつて直線状の谷でしたが、根尾谷断層の左横ずれが繰り返され、2kmもの食い違い(A−A’,B−B’)が生じたものです。1回の地震で仮に8mのずれが生じたとすれば、まさに250回もの地震が繰り返されてきたことになります。明治24年(1891)の濃尾地震の際にも、田畑の畔の左横ずれ断層や湧水、陥没(最大8mの水平変位と1m以下の上下変位)が発生し、断層沿いには陥没によってできたといわれる蛇池が存在します。
 写真10は、岐阜市で明治8年(1875)から営業されている瀬古写真館の初代・瀬古安太郎氏が撮影されたものです(瀬古写真株式会社蔵)。根尾谷金原ダント坂付近(本巣市)の谷や支渓流の斜面では、崩壊が多発しました。また、金原谷のほとんどの渓流の出口には土石流扇状地が形成されています。地震後の降雨のために、土石流の発生が繰り返されてきたことが推察され、かつて土砂供給が活発であったことが伺われます。金原谷は谷頭を根尾川に河川争奪された旧谷頭部にあたります。
 揖斐川流域でも、濃尾断層直後の土砂移動は、谷汲断層西端のG奥ノ谷、H小津村、I東津汲、J樒・大柵などで発生しました(表2、図1参照)。
写真10 根尾谷金原ダント坂山潰ノ図 初代・瀬古安太郎氏撮影 瀬古写真株式会社蔵
写真10 根尾谷金原ダント坂山潰ノ図     
    初代・瀬古安太郎氏撮影     
    瀬古写真株式会社蔵
写真11 上写真とほぼ同じ地点の現況 2017年4月25日井上撮影

写真11 上写真とほぼ同じ地点の現況        
2017年4月25日井上撮影

 

5.山県市(旧高富町)深瀬での梅原断層沿いの沈降と天然ダム形成
 山県市(旧高富町)の深瀬では、梅原断層の北西側が約2m陥没したため、それまで鳥羽川に流入していた支流が排水口を失い、東・西深瀬地内において220ha,湛水量200万m3の新湖が形成されました(図6)。翌年の明治25年(1892)、鳥羽川の下をくりぬいて人工河川を造り(川の立体交差)、高低差のなくなる下流で再び本川に合流させる「伏越し」と呼ばれる工事が行われました。しかし、その後も大雨の度に浸水し、特に昭和51年(1976)9月の集中豪雨時には、濃尾地震後と同規模の湖が形成されるなど、地震の後遺症が残っています。
図6 濃尾地震後の深瀬地域の想定湛水域,1/5万地形図「美濃」「岐阜」(建設省越美山系砂防工事事務所,1999)
図6 濃尾地震後の深瀬地域の想定湛水域,1/5万地形図「美濃」「岐阜」
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999)

6.根尾西谷川地区の大規模崩壊と天然ダム形成
 写真12は根尾西谷川の立体航空写真で国土地理院が1977年10月01日に撮影したものです。根尾西谷川右岸部には、比較的規模の大きな崩壊跡地と県道沿いの崩壊堆積物が確認できます。図3によれば、「震裂破動線(地震断層)」が最も大きな瀦水(天然ダム)の西端を通っています。このため、根尾西谷川の右岸側で濃尾地震の激震により、大規模崩壊が発生し、根尾西谷川を河道閉塞しました。  
写真12 根尾西谷川地区の立体航空写真 国土地理院1977年10月01日撮影,CCB-77-13, C8-8,9,10
写真12 根尾西谷川地区の立体航空写真
 国土地理院1977年10月01日撮影,CCB-77-13, C8-8,9,10
図7 根尾西谷川の天然ダム(建設省越美山系砂防工事事務所,1999a)
図7 根尾西谷川の天然ダム(建設省越美山系砂防工事事務所,1999a)
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図7の1/2.5万地形図に示したように、この天然ダムの湛水域は黒津谷まで3kmも上流まで達したようです。写真13は河道閉塞地点直上流の根尾西谷砂防堰堤付近の国道157号から撮影したもので、硬質な岩塊が張り出して堆積している様子が分かります。図7の地形図から読み取ると、崩壊面積3.7万m2,崩壊土砂量150万m3の河道閉塞土砂が存在し、湛水高60m、堰止幅235m、湛水面積40万m2、湛水量810万m3の天然ダムが形成されました(田畑ほか,1999,2002)。
写真13 根尾西谷川を河道閉塞した硬質の移動岩塊 2017年4月25日井上撮影
写真13 根尾西谷川を河道閉塞した硬質の移動岩塊 2017年4月25日井上撮影

 この天然ダムが何時決壊し、下流に被害を与えたかを記した史料は見つかっていません。この地点を通る国道157号は温見峠を経て、福井県に繋がる道なので、今後関連した史料を見つけたいと思います。
 根尾川に沿って分布する低位段丘面の構成層は、河川の運搬による堆積物の上に、谷壁斜面から供給された崩壊・土石流起源の角礫層が多く堆積しています。岡田ほか(1992)によれば、この角礫層下部には、層厚2mにも及ぶ埋もれ木を含んだシルト層が存在し、シルト層は一時的な湖沼堆積物と考えられています。このように、根尾川流域では、地質時代から地震や豪雨により、崩壊や土石流によって、河道閉塞が繰り返し起こり、天然ダムの形成と決壊を繰り返し、広い河床と河成段丘が形成されるようになったと考えられます。

引用・参考文献
愛知縣警察部(1892):明治二十四年十月二十八日震災記録,115p.
飯田汲事(1979):明治24(1891)10月28日濃尾地震の震害と震度分布,愛知県防災会議,324p.
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井口隆・八木浩司(2015):濃尾地震(1891年)の後の降雨によって発生した越美三大崩れ,日本地すべり学会誌,52巻4号,口絵,p.1-2,本文,p.47-49.
宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,増補改訂版 416-1995,493p.
宇佐美龍夫(2003):新編日本被害地震総覧,東京大学出版会,最新版 416-2001,605p.
宇佐美龍夫・石井寿・今村隆正・武村雅之・松浦律子(2012):被害地震総覧,416-2012,694p.
大森房吉(1899):明治二十四年十月二十八日濃尾大地震に関する調査,震災予防調査報告,28号,p.77-95.
岡田篤正・松田時彦(1992):根尾村水鳥および中付近における根尾谷断層の第四紀後期の活動性,地学雑誌,101号,p.19-37.
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岐阜県歴史史料館(1996):THE GREAT NOBI EARTHQUAKE 1891,濃尾大震災の教訓,119 p.
岐阜測候所(1892):岐阜県岐阜測候所写真帳「震災写真」
岐阜測候所(1894):明治二十四年十月二十八日大震報告,193p.
岐阜新聞社(1991):写真で見る濃尾震災,171p.
金原治山治水財団(1968):金原明善,871p.
金原治山治水財団(1968):金原明善資料,上,885p.,下,1077p.
金原明善(1897):現地調査写真集,金原明善記念館蔵
建設省越美山系砂防工事事務所(1999a):平成10年度地震に関連した大規模土砂移動調査報告書,日本工営株式会社
建設省越美山系砂防工事事務所(1999b):越美山系の地震と土砂災害,―濃尾地震(M=8.0)とその後の土砂移動―,29p.
建設省中部地方建設局越美山系砂防工事事務所(1998a):越美山系砂防工事事務所史,320p.
建設省中部地方建設局越美山系砂防工事事務所(1998b):越美山系災害史,145p.
建設省土木研究所(1997):地震による大規模土砂移動現象と土砂災害の実態に関する研究報告,土木研究所資料,3501号,261p.
国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所(2003):金原明善の活動,―家財を投げ打ち国土づくりに邁進した金原明善翁―,編集;日本工営株式会社,発行;砂防広報センター,59p.
Koto, B. (1893) : On the cause of the great earthquake in central Japan, 1891. Journ. Coll. Science, Imp. Univ. Japan, no. 5, p.295-353.
財団法人警察協会愛知支部(1931):明治二十四年濃尾大震災寫眞帖,写真72枚
田畑茂清・原義文・井上公夫(1999):濃尾地震に起因した土砂移動の実態,砂防学会誌,52巻3号,p.24-33.
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,口絵,8p.,本文,206p.
土屋喬雄(1958):金原明善の事歴と指導精神,通運業務研究,通運資料,154p.
土屋喬雄監修(1968):金原明善,金原治山治水財団,871p.
中村浩之・土屋智・井上公夫・石川芳治(2000):地震砂防,古今書院,191p.
根尾村(1980):根尾村史,1003p.
根尾村教育委員会(1992):濃尾地震と根尾谷断層,―地下観察館の案内―,32p.
原義文・井上公夫・今村隆正(1997):天正地震及び濃尾地震に起因した大規模土砂移動,平成9年度砂防学会研究発表,p.238-239.
原義文・井上公夫・田島靖久(1998):濃美地域における濃尾地震以降に発生した大規模土砂移動,―特に石灰岩地帯の大規模崩壊について―,平成10年度砂防学会研究発表,p.224-225.
松田時彦(1974):1891年濃尾地震の地震断層,地震研究所速報,13号,p.85-126.
Milne, J. & Burton, W. K., 写真師小川一真撮影(1892,初版・2版) : The great earthquake in Japan, 1891. Lane, Crawford & Co., Yokohama, Japan, 2版, 72p.
村松郁栄(1963):濃尾地震激震域の震度分布および地殻変動,岐阜大学教育学部研究報告(自然科学),3号,p.202-224.
村松郁栄(1976a):濃尾地震の震度分布について,―当時のアンケート調査から―,岐阜大学教育学部研究報告(自然科学),5号,p.424-440.
村松郁栄(1976b):根尾谷断層と濃尾地震,地質学論集,12号,p.117-127.
村松郁栄(1983):濃尾地震による濃尾平野の住家被害率分布,岐阜大学教育学部研究報告(自然科学),7号,p.867-882.
山内修(1985):ナンノ崩壊,新砂防,38巻4号,p.33-34.
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