1.明治24年(1891)12月8日(40日後)の崩壊
根尾谷では、濃尾地震から29日後の明治24年(1891)11月26日より大雪が降り続いたが、40日後の12月8日には気温が上昇して午後から大雨(降水量不明)になりました。このため、コラム32の表2に示したように、西根尾村(本巣市)大字大井字上ノ山(地点L)では、夜20時頃大音響とともに土砂が樹木を混じえて崩れ落ち、180mあまり離れた集落を埋没させました。同夜、大字高尾字吉尾(地点K)でも、土石流が発生し、人家9戸を埋没させました。
八谷と根尾川が合流する大井付近の根尾川にある
「千貫巖」は、濃尾地震以前は水面より三丈(9m)程の高さでしたが、流入土砂の堆積でその1/3を露出するのみとなりました(写真1)。このように地震後の降雨を誘因として、大規模な土砂災害が各地で発生しました。
写真1 濃尾地震から4年後の「千貫巖」(明善生家記念館蔵)
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2.明治28年(1895)8月5日(4年後の豪雨)のナンノ谷大崩壊
ナンノ谷大崩壊(岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内川上,コラム32の表2の地点M)は、濃尾地震から4年後の明治28年(1895)8月5日に発生しました。崩壊発生の約1週間前から長雨が続いており、特に7月29〜30日には豪雨(降水量不明)となって、多数の洪水氾濫が発生しました。図1はナンノ谷大崩壊の土砂災害状況図、写真2は斜め航空写真を示しています(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)。写真3は天然ダム形成から2年後の湛水状況(明善生家記念館蔵)を示しています。現在は砂防施設が整備され、河川公園が整備されています(写真4)。写真5は国土地理院が1975年10月22日に撮影した航空写真を立体視できるように加工したものです。
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図1 ナンノ崩壊の土砂災害状況図 1/2.5万地形図「美濃川上」
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写真2 ナンノ谷崩壊地の斜め航空写真
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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写真3 明治30年(1897)の天然ダム湛水状況)
(明善生家記念館蔵)
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写真4 現在は砂防施設が整備され、公園と
なっている (2017年4月25日井上撮影)
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ナンノ谷大崩壊は2度にわたって発生しました。1回目の崩壊は8月5日15時に発生し、一時的に坂内川を堰止めましたが、ほどなく決壊しました。しかし、18時に2回目の崩壊が発生しました。この時の崩壊土砂は坂内川を河道閉塞し、天然ダムを形成しました。崩壊地の形状は、比高285m、斜面長500m、崩壊面積21万m
2、崩壊土量150万m
3と推定されています(山内,1985,田畑,1999,2002)。
写真5 ナンノ谷大崩壊と天然ダム湛水域の立体航空写真
国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25, C15A-11,12,13
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天然ダムの規模は、湛水高38m、湛水面積15万m
2、湛水量200万m
3と見積もられています。
崩壊地の頭部は標高985mにあり、半円形の高さ60m、幅300mの滑落崖が形成されています。図2の発生模式図に示したように、地質構成は下部より粘板岩、緑色岩が見られ、上部には厚さ200mにも及ぶ石灰岩が確認されました。石灰岩はナンノ谷の稜線上に広く分布し、水平ないしやや「受け盤」状であると推定されます。また、岩質的には、最上位の石灰岩は硬質ですが、亀裂が発達しており、下位の粘板岩・緑色岩・チャートは石灰岩より軟質で、難透水性を示しています。一般的に、このような構造(上部硬質・下部軟質)は
キャップロック構造と呼ばれ、しばしば大規模な岩盤崩壊を起こすことが知られています。当時の写真と現地調査から、明治28年(1895)のナンノ谷の大規模崩壊は石灰岩の硬質部分から起きていることが判明しました(原ほか,1998,建設省越美山系砂工事事務所,1999b)。また、崩壊地直上の石灰岩には、
ドリーネ地形(石灰岩地域に存在するすり鉢状の溶食凹地、石灰岩が二酸化炭素を含んだ水に溶食されて形成される)が形成されています。
図2 ナンノ谷大崩壊の発生模式図 (建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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ドリーネ地形の存在は、その地点から雨水や地表水が集中的に浸透していることを示し、大規模崩壊の発生原因の一つにもなっていると考えられます。当地区の石灰岩は硬質であるが、亀裂に沿って雨水が浸透しやすく、積み木を重ねた状態となっています。そこへ、濃尾地震の激震を受け、より不安定な状態(亀裂の拡大など)になったと推定されます。そして、4年後の集中豪雨時には、地震前と比較してドリーネから大量の雨水が地下に浸透しやすくなりました。これらの地下水が石灰岩の下位に分布する難透水性の粘板岩・緑色岩の上面に集中し、この付近にすべり面が形成され、大崩壊が発生したと考えられます。
この崩壊土砂は坂内川を堰止め、幅36〜109m、長さ1500mに及ぶ湛水池が形成されました。現在確認できる崩壊堆積物のほとんどは石灰岩礫で構成され、石灰岩礫の間は細粒物で埋められています。当時ナンノ坂にあった出作りの家4軒は一瞬にして押し流され、4人の犠牲者を出しました。また、崩壊土砂により形成された天然ダムは、6日後の8月11日16時20分に決壊し、ダム湛水の引き水により上流にあった出作りの家2軒が流出しました。この天然ダムの決壊により、川上村及び下流域の広瀬村・坂本村(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)では大きな洪水氾濫が発生し、流出家屋23戸など、大きな二次災害をもたらしました。
3.金原明善の濃尾地震後の災害調査
金原明善(きんぱらめいぜん)は、家財を投じて中部地方の治山・治水活動を精力的に実施された方ですが、その活動や人物像は現在あまり知られていません。
金原明善は、天保三年(1832)、天竜川のほとり遠江国長上郡安間村(静岡県浜松市東区安間、旧東海道沿い)に生まれ、江戸時代には青年名主として、郷土のために尽くしました(土屋,1958,金原治山治水財団,1968,国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2003)。度重なる天竜川の災害を少年時代から何度も見てきたことから、明治維新後は家財を投じてまでも、治山・治水活動などの公共のために献身するとともに、出獄人保護や水利学校の設立など、社会・文化面にも貢献しました。他面、金融・交通・製材などの企業を起こし、さらに晩年には、各地を行脚して講演を行い、植林思想や治山・治水活動の普及と社会指導に努めました。その生涯は、社会公共のために捧げられたものと言っても過言ではありません。旧東海道沿いの静岡県浜松市東区安間には、一般財団法人金原治山治水財団の
「明善生家記念館」(明善の生家で200年前に建立,写真6)があり、多くの資料や伝記などが展示されています。
6月9日(金)に明善生家記念館を訪問し、金原利幸館長と面会して色々な話をお聞きするとともに、明善の活動を示す貴重な写真や絵図、200年前から使われていた様々な生活用具、植林事業に使う用具などを見せて頂きました。
明善は震災から6年後の明治30年(1897)、岐阜県知事・湯本義憲の招聘によって、ナンノ谷や根尾谷などの濃尾地震の被災地を現地調査しました。金原明善は、調査報告書(金原生家記念館蔵)を建白書として作成し、同年7月24日に明治天皇に上奏しています。写真3に示したように、ナンノ谷を河道閉塞した堆積物の一部は調査当時もまだ残っていて、小規模な天然ダムを形成していました。
明善生家記念館には、1897年に撮影された被災状況写真や現地調査の記録が保存されていて、濃尾地震直撃及びその数年後の豪雨によって発生した土砂移動を把握するためにも、大変貴重な資料です。調査団一行は、明治30年(1897)7月7日〜17日、大垣輪中堤防〜揖斐川上流〜根尾谷などを現地調査しています(図3)。この時地元の写真師を同行させ、15枚の被害状況写真を撮影(撮影位置を図3に示す)しています。写真9に示したように、禿げ山状になった根尾谷の崩壊面が早期に回復したのは、金原明善の指導による植林・治山工事があったからです。コラム32の写真7は、上記写真の濃尾地震直後の写真で、根尾谷の谷壁斜面のほとんどで崩壊し、禿山状態であったことが分ります。
写真6 明善生家記念館(静岡県浜松市安間),2017年4月26日井上撮影
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図3 金原明善の明治三十年(1897)の現地調査ルートと写真撮影位置図
(1/20万地勢図「岐阜」),国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2003)
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写真7 明善生家記念館に保管されている資料
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写真8 金原明善の水源地調査団一行
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(明善生家記念館蔵)
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写真9 第貳號 本巣郡中根尾村大字板所崩潰,崩壊面には植栽工が施工されている
濃尾地震から6年後の明治30年に撮影 (明善生家記念館蔵)
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4.74年後の根尾白谷の大崩壊
濃尾地震から74年後の昭和40年(1965)9月13日の集中豪雨によって、根尾白谷(コラム32の表1の地点N)、徳山白谷(同,地点O)、越山谷(同,地点P)などで、大規模崩壊が発生しました。9月13日から16日にかけて台風24号がもたらした集中豪雨(総降水量800〜1000mm)のため、岐阜県揖斐川流域、福井県九頭竜川流域の能郷白山の南側から北西側にかけての山地一帯では、夥しい山崩れが発生しました。本地域は、いわゆる美濃越前山地の一部であって、標高1617mの能郷白山を最高峰とし、1200m程度の尾根が連続する険しい山岳地帯です。この地域には濃尾地震時に起震断層となった笹尾川断層、熊河断層、根尾谷断層、揖斐川断層が存在します。これらの断層に沿っては、岩盤が著しく破砕され、かつ幅の広い埋積谷が形成され、河成段丘も認められます。
地質構造的には飛騨片麻岩類の分布が特徴である飛騨帯と非変成古生界が広く露出することで特徴付けられる美濃−丹波帯の接合部に相当します。
図4の地形分類図と写真10の斜め航空写真に示した根尾白谷は、濃尾地震でかなり大きく変動しましたが、根尾谷支流・八谷まで土砂が流出することはありませんでした。しかし、昭和40年(1965)の豪雨で大きく再活動しました。根尾白谷は、長さ1.15km、最大幅400m、高度差550mで、根尾白谷の尾根部、特に東側の部分が大きく崩れました。その崩壊土砂は、大半が根尾白谷中流部の狭窄部より上部に残留し、残りの土砂は本川・八谷にも流入し、大きな堆積を生じました。
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図4 根尾白谷の地形分類図
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写真10 根尾白谷の斜め航空写真
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(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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写真11 根尾白谷の大崩壊,国土地理院1977年11月1日撮影,CCB-77-13, C8-5,6,7
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崩壊発生源の最奥部の急崖は、傾斜50度以上で、比高150m以上の高さがあります。その上部100mは角礫状の石灰岩からなり、下部は緑色岩(枕状溶岩を含む)で、前述したナンノ谷大崩壊と同じような地質構造となっています。
写真11は国土地理院が1977年11月1日に撮影したもので、立体視できるように加工したものです。昭和27年(1952,濃尾地震から61年後)撮影の米軍写真では、崩壊源の形状は現在とそれほど変わりはありません。滑落崖の下には長く延びた3つの崩壊地が存在し、その下部に大量の崩壊土砂が観察されました。崩壊土砂の上には大きな樹木は生育していないので、これらの崩壊地は濃尾地震時に大きく崩壊したものと考えられます。
写真11の航空写真によれば、昭和40年(1965)の崩壊は、東側の崩壊地で崩壊地の下には崖錐堆積物が存在し、崖錐先端部が侵食によって深くえぐられているのが分ります。この時に、最上流の崩壊の発生に誘発されて先端が大きくえぐられ、不安定になった崖錐堆積物も下方に移動して、一部は八谷まで押し出しました。
根尾白谷では、現在も土砂崩壊が活発に行われています。崩壊の一部はガリー状に侵食が進んでいます。山内(1985)によれば、崩壊面の傾斜39度、斜面長335m、崩壊面積8.5万m
2、崩壊土量10
7万m
3となっています。また、根尾白谷上方の尾根部にはナンノ谷と同じようにクラックやそれに挟まれた線状凹地が認められます。急崖の上の尾根部には、比高10〜20mの崖がこの急崖に並行して存在しており、将来この部分が大崩壊する可能性を示唆するものです。もし、仮にこのクラックよりブロックが一度に崩壊した場合、総体積は113万m
3と推定され、昭和40年の崩壊土砂量とほぼ同じ数値となります(田畑ほか,2002)。
5.74年後の徳山白谷の大崩壊
揖斐川左支川・白谷の徳山白谷では、地すべり性の大規模崩壊が発生し、183万m
3の崩壊土砂が200m崩落し、白谷を堰止め、高さ65mの天然ダムを形成しました。
写真12は、国土地理院が昭和50年(1975)に撮影した航空写真で、天然ダム湛水範囲の最上流部まで立体視できるように加工したものです。崩落したブロックは、河床に張り出した平坦な台地状の地形を形成し、その背後には比高200mの滑落崖が形成されました。水位が上昇するにつれ、左岸側の一部が決壊しました。その後、災害復旧工事として放水路が開削されました。
写真12 徳山白谷の大崩壊と天然ダムの立体航空写真
国土地理院1975年10月22日撮影,CCB-75-25, C11-26,27,28
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写真13 徳山白谷の大崩壊地
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写真14 崩壊地の山腹工
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(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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写真12によれば、上流部には天然ダムの湛水範囲の名残が確認できます。また、あまり乱されずに崩落した崩積土の上には、広葉樹の高木林が生育しています。
図5 徳山白谷の大崩壊のメカニズム(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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図5は、徳山白谷のメカニズムで、周辺の断層によって破砕され、崩壊しやすくなっていた流れ盤構造の岩盤の亀裂・割れ目に、集中豪雨が浸透し、岩盤のせん断抵抗力を低下させ、さらに河川の洗掘によって、斜面先端が侵食されて発生した地すべり性の崩壊であったと考えられます。
現在は平成10年(2008)の徳山ダムの完成によって、貯水され現地には行くことができなくなりました。
6.74年後の越山谷の大崩壊
温見断層に近い
越山谷(岐阜県本巣市根尾)では、昭和40年(1965)9月の集中豪雨によって、大規模な崩壊が発生し、土石流となって流下しました。そして、根尾西川を河道閉塞し、天然ダムが形成されました。図6は越山谷の地形分類図(田畑ほか,1999,建設省越美山系砂防事務所,1999b)で、写真16は昭和41年に撮影されたものです。越山谷は、明治42年(1909)測図の1/5万旧版地形図においても、中流右岸側の稜線部に崩壊地記号が認められます。
昭和23年(1948)の米軍写真では、右岸側に明瞭な崩壊地形が確認され、東西方向に並走するリニアメントが判別できます。昭和30年(1955)の航空写真では、再び下流部右岸側に崩壊が生じていました。昭和40年災害から2年後の昭和42年(1967)の航空写真の判読結果(図6)によれば、昭和40年災ではリニアメントが通過していた斜面上で、大規模崩壊が発生し、流下土砂が根尾西谷川本川に押し出しました。温見峠の越山谷との合流点付近にある平坦な地形面は、根尾西谷川が形成した土石流段丘です。段丘面の構成層は、礫層の厚さ4.5m、基盤岩種は硬質砂岩、あるいは古い沖積錐が段丘の本体を構成している可能性があります。
濃尾地震時の崩壊から流出した土石流堆積物は、谷出口付近の左岸側に直線状の高まりとして認められます。越山谷の崩壊地下部には、茶褐色の腐植土を多く取り込んだ厚い崩積土の断片が存在し、地震時の崩壊堆積物であると判断しました。
越山谷右岸側の昭和40年の崩壊地は、非常に大規模で複数の岩盤ブロックの滑り落ちが確認できました。谷底には明瞭な土石流マウンドが連続していました(写真16)。出口付近の段丘面上には、越山谷からの堆積物と思われる角礫層が載っており、昭和40年災害時に流下し、河道閉塞した堆積物と考えられます。根尾上流西谷川の上流には、この時形成された天然ダムの痕跡が認められます。
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図6 越山谷大崩壊地の地形分類図
(建設省越美山系砂防工事事務所,1999b)
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写真16 越山谷の大崩壊と土石流
(1966年10月撮影)
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7.まとめ
コラム32と33で述べたように、濃尾地震直撃では、起震断層沿いに多くの崩壊が発生しました。これらの崩壊は、根尾西谷地区(地点㉕,崩壊面積3.7万m
2)を除いて、谷壁斜面に存在した崖錐堆積物などが崩落する表層崩壊が主体でした。崩壊地の平均面積は2400m
2で、震後降雨で発生したナンノ谷(地点M,21万m
2)、根尾白谷(地点N,8.5万m
2)、徳山白谷(地点O,4.1万m
2)の崩壊面積に比べて1桁から2桁小さいようです(田畑ほか,1999,田畑ほか,2002)。写真判読では、濃尾地震直撃によって発生したと想定される大規模な崩壊地は見当たらず、表層崩壊は植生が回復し、崩壊痕跡はほとんどわからないようです。しかし、谷壁斜面下部には濃尾地震時の崩落土砂と考えられる細かい角礫層が崖錐状に堆積しています。このような状況から、地震直撃による表層崩壊は、粘板岩・砂岩・チャートを主体とする地層の表層風化部(厚さ数〜10m程度)や崖錐堆積物が崩落することが多かったようです。
濃尾地震(M=8.0)直撃による根尾谷の崩壊面積率は10%を超えており、兵庫県南部地震(M=7.2)は1%以下であったことと比較すると1桁以上大きくなっています。また、地震から40日後、4年後、74年後の豪雨時にも土砂災害が多発しており(大規模土砂移動も多い)、地震による激震の影響が地下深部まで達していたと考えられます。
このことは、M8クラスの地震が発生した場合に考えておくべき重要な問題と考えられます。
引用・参考文献:コラム32参照