1.はじめに
富士川右支川大柳川(山梨県富士川町)は、図1に示したように、富士川の上流、釜無川と笛吹川との合流点より下流側に位置する右支川で、流域面積42km
2、流路延長9kmの一級河川です。富士川町は平成18年(2010)に鰍沢町と増穂町が合併し、鰍沢町は昭和30年(1955)に鰍沢町と五開村が合併しました。この地域はフォッサマグナ西縁の糸魚川−静岡構造線沿い(外帯の付加体)に位置しており、地形はかなり急峻で、脆弱な地質からなります。富士川の狭窄部・
兎之瀬(うのせ)地区直下流で合流する大柳川を西に進むと、梅久保、鳥屋の集落があります。南アルプスの前衛山地である巨摩山地に入り組み、かなりの秘境となります。西側の分水嶺である十谷峠(標高1500m)を越えると、早川流域となり、大柳川沿いに古くから甲府地域との交流の山道が続いていました。
大柳川流域は古くから荒廃しており、富士川本川への土砂流出が顕著で、富士川本川の河床上昇を引き起こす一因となっていました。富士川は、甲府盆地や諏訪地方からの年貢米などを江戸に運ぶ重要な輸送路でしたが、兎之瀬の狭窄部や大柳川等からの土砂流出によって、瀬と渕が連続して、舟下りは大変苦労していたようです(北原,2011)。明治16年(1883)5月、内務省御雇工師ムルデルは、富士川流域の現地視察を行った際に、大柳川における砂防事業の必要性を指摘しました。この指摘を受けて、明治16年〜19年(1883〜1886)に大柳川右支渓の赤石切沢において、直轄砂防工事が実施されました。本コラムでは、砂防法が制定された3年後の明治33年(1900)に、大柳川で発生した大規模崩壊による天然ダムの形成・決壊と災害復旧対策について、当時の新聞記事や写真等の文献を整理し、現地調査の結果をもとに十谷地域の地形・地質特性を説明します(堀内ほか,2008)。
図1 明治時代の大柳川周辺の状況(堀内ほか,2008,水山ほか,2011)
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2.十谷(西谷)地すべりの地形特性
大柳川における大規模土砂災害の発生箇所と主な集落の分布図を図2に示します。写真1は、国土地理院が昭和51年(1976)9月18日に撮影したカラー航空写真で立体視できるように加工してあります。明治33年(1900)12月に発生した柳川区・切コツの地すべり以外にも、十谷区の北西斜面には明治以前の古い地すべり地形が存在し、地すべり崩積土の上に十谷の集落が存在します。十谷集落の載る地すべり地は、平成元年(1989)頃から大規模な地すべり変状が集落の各地で発生しました。4項で詳述しますが、山梨県では西谷地区災害関連緊急地すべり対策事業を申請し、平成元〜3年(1989〜1991)に災害関連緊急地すべり対策事業を実施しました。現在は対策工事が完了したため、ほぼ安定しています(山梨県,1991)。
図2 大柳川流域の天然ダムと集落の位置関係(堀内ほか,2008,水山ほか,2011)
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写真1 大柳川上流の十谷地域の立体航空写真 CCB-76-15 C4B-3,4,5
国土地理院1976年9月18日撮影,縮尺1/15,000
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図2に示したように、この地区は1500年前に大きな地すべり変動を起こし、大柳川を河道閉塞し、天然ダムが形成されました。
写真2 十谷地区の緩斜面と集落(2006年10月井上撮影)
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3.明治時代に大柳川流域で発生した天然ダムによる被災状況と災害対応
表1は、当時の新聞記事を整理したもので、明治29年(1896)9月及び明治33年(1900)12月に発生した地すべりの被災状況を示しています。また、地すべりに対する災害対応を表2に示します。明治34年(1901)から地すべりが発生した切コツ地先において、山梨県施工による山腹工を主体とした砂防事業が実施されました。しかし、明治40年(1907)、明治43年(1910)に大きな土砂災害が発生したため、大柳川中流域で明治43年(1910)〜大正10年(1921)に、山梨県による補助砂防工事が再開されました。また、大柳川下流域で昭和7年(1932)〜昭和15年(1940)に内務省による直轄砂防工事が実施されました。
明治29年(1896)に地すべり発生後、五開村(現富士川町の南半部)から山梨県に対して被災状況報告が提出され、その報告により山梨県から内務省に専門家の派遣を要請しました。また、明治33年(1900)12月の地すべり発生時には、土木技術者とマスコミ(新聞社)が現地調査を行いました。視察報告は、県議会に報告され、災害復旧予算が確保され、砂防堰堤などの築造工事が実施されました。また、被害状況は詳細な新聞記事となって、県民に公表されました。写真3に示したように、天然ダムは十谷集落の下に満々と水を湛え、周辺の麦田の多くは水没してしまいました。
表1 大柳川(五開村)で発生した地すべりの被害状況(堀内ほか,2008,一部修正)
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表2 明治29年(1896)9月〜明治34年(1901)7月の大柳川の災害対応(堀内ほか,2008,一部修正)
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写真3 切コツで発生した地すべりによる天然ダム(山梨県砂防課蔵)
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天然ダムの決壊対策としては、水位を計測して満水になる時期を予測し、被害範囲を想定するとともに、越流対策として箱樋を設置し、排水対策が実施されました。写真4は、河道閉塞土砂の上に設置された箱樋(高さ1m程度)で、右写真は箱樋の拡大写真です。しかしながら、天然ダムは260日後の明治34年(1901)7月1日に、一部が決壊し、箱樋では通水できなくなりました。このため、天然ダムは徐々に決壊し、下流側に土砂が流出しました。そのため、直下流側に築造したばかりの咽谷石堰堤を埋没させ、さらに下流側の不動滝石堰堤も流失しました。
このため、農作業中の3名が押し流され、1名が行方不明となりました。氾濫流は下流域両岸の堤防を破堤させ、田畑を荒らしました。さらに、氾濫流は富士川の流れを阻害したため、鰍沢付近の数村は若干の浸水被害を受けました。
明治39年(1906)には、3日前から降り続いた豪雨により、7月16日午後洪水流が流下して、柳川小学校が流失し、大柳川に架かる橋もことごとく流失しました。天然ダムの決壊はこの時(天然ダム形成から1840日後)と推定されます。人的被害がなかったのは、地域住民が事前に避難していたためと考えられます。
写真5は、天然ダム決壊後の大正4〜6年(1915〜1917)に、河道閉塞地点より下流の大柳川に施工された砂防堰堤の工事写真ですが、その後の豪雨災害で流出し、現在はほとんど残っていません。
新潟県中越地震(2004)による芋川・東竹沢地区の事例と比較すると色々なことが分ります。明治39年(1906)7月16日の大柳川の決壊は、事前に下流住民に伝達されたため、避難することができ、大きな被害は発生しませんでした。大柳川の天然ダムは結果として、排水対策工を施工したにも関わらず、越流決壊に至ったが、天然ダムに対する災害対応の考え方は、現在の災害対応と通ずる部分が多く、当時の関係者の見識の高さに感心させられます。
写真4 排水假樋工事(箱桶)の設置状況と拡大写真(明治33年(1900)2月27日通水)(山梨県砂防課蔵)
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左:大正4年(1915)度砂防第4号堰堤工事 右:大正5,6年(1916,17)度砂防工事
写真5 切コツ地すべり地付近の大柳川本川に施工された砂防えん堤(山梨県砂防課蔵)
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4.西沢(十谷)地すべりの発生と対応策
4.1 西沢(十谷)地すべりの概要
地すべり地のある富士川町五開・十谷地区は(写真1)、甲府市から国道52号線で30kmほど南に下った、甲府盆地の端に位置します。十谷集落は、富士川との合流点から大柳川を6kmほど上流の標高500m前後の山間部に位置します。巨摩山地は櫛形山(標高2052m)を中央にした南北に連なる山体で、十谷はこの南端部にあたり、東を富士川、西を早川で区画されます。山体の多くは新第三紀層からなり、主に海底火山噴出物からなる玄武岩、安山岩などの溶岩や凝灰角礫岩などの火山砕屑岩からなり、一部泥岩、砂岩等の堆積岩やこれらが変質を被った地質が分布します。
このような地形・地質条件の中で、2から3項で述べたように、明治29年(1896)〜34年(1901)に地すべり変動が発生し、天然ダムの形成・決壊による激甚な被害が発生しました。
昭和39年(1964)9月の台風では、上流側斜面で亀裂が発生し、下流側では崩壊が多発するなど、人家に大きな被害をもたらしました。この災害を契機に、昭和41年(1966)に
「地すべり防止区域」の指定地となり、集水井工を主体とした本格的な地すべり対策事業が開始されました。
昭和52年(1977)8月の台風で、末端ブロックの上部に亀裂が発生したため、末端ブロックを中心に調査を開始し、地すべり対策事業を継続しました。昭和54(1979)年度から56年度にかけて、横孔集水ボーリングが集中的に行なわれ、地下水排除工が実施されました。しかし、昭和54,57,58年(1979,82,83)の台風により、末端ブロックの亀裂は拡大し、人家の密集する台地状斜面縁辺部まで地すべり変動が波及してきました。このため、@ブロック上部にアンカー工2段、A地下水排除工の継続などが実施されました。
4.2 災害関連緊急地すべり対策事業
平成元年(1989)初め頃から、十谷地区の集落地域で大規模な地すべり変状が発生し、台地上の人家が密集する地域でも人家に亀裂が入るようになりました。このため、山梨県は
「西沢地区地すべり対策技術委員会」(事務局:財団法人砂防・地すべり技術センター)を平成元年(1989)8月に設置しました(平成3年3月まで)。本委員会の委員長は、渡正亮地すべり学会会長で、委員会は地すべり対策に明るい学識経験者・専門技術者からなる7名の委員と5名の幹事によって構成されました。地すべり変動状況を調査・監視しながら、4回の委員会と3回の幹事会が開催され、
「災害関連緊急地すべり対策事業」として採択されました。
写真6は地すべり学会実行委員会・山梨県(1999)の
『西沢(十谷)地すべり』(山梨県でも同じタイトルの報告書を作成)の表紙です。災害関連緊急地すべり対策事業で実施したアンカー工事の鋼製受圧版が5段施工され、帯状に白く見えます。その上にアンカー工2段が帯状(鋼製受圧版が目立たない)に見えます。図3は工事完成鳥瞰図で、地すべり対策工の全体像が把握できます。特に、地すべり地末端部のアンカー工、地すべりブロック頭部を鉢巻状に結ぶ排水トンネル工と集水井群などの配置が良く分ります。
図4は地質踏査平面図、図5は西谷(十谷)地すべりの模式断面図(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)で、十谷集落の載る平坦面は斜面上部からの巨大地すべりの移動岩塊であることが分かります。図6は東沢ブロック集水井縦断面図で、多くの集水井(排水トンネル工を含む)が施工され、地下水位を低下させ、地すべり変動を抑制していることが分かります。
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写真6 西谷(十谷)地すべりの斜め航空写真
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図3 西谷(十谷)地すべりの工事完成鳥瞰図
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(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)
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図4 西谷(十谷)地すべりの地質踏査平面図(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)
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図5 西谷(十谷)地すべりの模式横断面図(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)
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図6 東沢ブロック集水井縦断面図(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)
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表3は西沢(十谷)地すべりの災害関連緊急地すべり対策事業の工種と内訳表です。北側山腹斜面の排水トンネル工(延長570m)、東沢ブロックの集水井10基、末端ブロックのアンカー工、西沢川ブロックのアンカー付法枠工などが実施されました。
表3 西沢(十谷)地すべりの対策工種と内訳表(地すべり学会実行委員会,山梨県,1991)
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引用・参考文献
井上公夫(2008):2.10 富士川支流・大柳川における天然ダムの形成と災害対策,水山ほか(2008):日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.84-88.
河西秀夫(2001):山梨県の明治期の水害とその社会的影響,―水害の「災害場」の検討―,社会科学研究,26号,p.37-119.,山梨学院大学社会科学研究所
北原糸子(2014):宝永地震の富士川流域被害と復旧について,利根川文化研究,38号,p.1-22.
小坂共栄・角田史雄(1969):山梨県西部、巨摩山地第三系の地質,地質学雑誌,75巻3号,p.127-139.
田村淳一・金子剛・新妻信明(1984):山梨県西部、巨摩山地南部の地質,静岡大学地球科学報告,10号,p.23-53.
地すべり学会実行委員会(1999):西沢(十谷)地すべり,95p.
堀内成郎・赤沼隼一・森俊勇・井上公夫・吉川知弘・黒木健二(2008):明治時代に発生した大柳川における天然ダムの形成と災害対策,平成20年度砂防学会研究発表会概要集,p.230-231.
水山高久・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫(2008):日本の天然ダムと対応策,古今書院,口絵,4p.,本文,187p.
山梨県(1999):西沢(十谷)地すべり,95p.
山梨県応用地質調査委員会(1974):山梨県応用地質誌,山梨県,p.6-174.