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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム35 姫川左支・浦川の稗田山崩れ(1911)と天然ダムの形成・決壊
 
1.稗田山崩れ(1911)と天然ダムの形成
 明治44年(1911)8月8日3時頃に発生した「稗田山崩れ」(稗田山の大崩壊)は、土石流(岩屑なだれ)となって姫川の左支川・浦川を流下し、姫川との合流点に天然ダム(長瀬湖と呼ばれた)を形成しました。浦川下流では100m程度の土砂埋積があり、右岸側段丘面に存在した石坂集落の3戸は埋没し、死者・行方不明は23名にも達しました(姫川本川の池原下の1戸を含む)。流下土砂の一部は浦川下流部の松ヶ峯と呼ばれる小尾根部を乗り越え、来馬河原に流入しました。
 平成23年(2011)は、稗田山崩れ100周年にあたるため、稗田山崩れ100年事業実行委員会(2011)は、8月8日に長野県小谷村の小谷小学校で、「稗田山崩れ100年シンポジウム」(参加者500名弱)を開催しました。翌9日には、浦川流域から姫川上流の天然ダム湛水域の下里瀬(くだりせ)、下流の氾濫域の来馬(くるま)地域を巡る現場見学会(参加者160名)を開催しました。
 稗田山崩れは、明治末年の大規模土砂災害であるため、非常に多くの資料や写真、新聞記事が残されており、横山(1912)や町田(1964,67)で詳しい調査が実施されています。写真1は、稗田山崩れを撮影した斜め航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)です。
写真1 浦川上流・稗田山崩れの斜め航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)H稗田山,Ls崩壊堆積物,Ky金山沢,Km唐松沢,U浦川
写真1 浦川上流・稗田山崩れの斜め航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)
H稗田山,Ls崩壊堆積物,Ky金山沢,Km唐松沢,U浦川

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2.当時の天気図
 図1は、気象庁の図書館で稗田山崩れ4日前の天気図(1911年8月4日22時)を収集したものです。2つの台風が日本列島を縦断し、一つは日本海の酒田沖、もう一つの台風は潮岬から浜松付近にあり、上陸する寸前でした。その後、台風は中部地方を縦断し、8月5日午前6時には日本海の佐渡島沖に達しました。
 これらの台風によって、中部地方では豪雨が降り続き、天竜川流域から諏訪盆地、松本盆地、長野盆地でも大きな水害が発生し、国鉄中央本線なども各地で寸断されました。気象庁松本雨量観測所の8月4日の日雨量は155.9mmにも達しました。この雨量は松本における日雨量としては、1/50〜1/100年確率雨量にも達する雨量でした。
 稗田山崩れ付近には、当時雨量観測点はないのではっきりしませんが、8月4日前後にかなりの雨量があったことは間違いないと思われます。その後天気は回復し、8月7日の夜は十三夜の祭りがあって、浦川付近の住民は熟睡中だったと言われています(松本,1949)。稗田山崩れが発生した8月8日3時頃は、天気が良く、雨は降っていませんでした。
図1 天気図(1911年8月4日22時),経済安定本部資源調査会事務局(1949)
図1 天気図(1911年8月4日22時),経済安定本部資源調査会事務局(1949)

3.新聞記事の整理
 表1は、信濃毎日新聞などを国会図書館で閲覧し、稗田山崩れの経緯をまとめたものです(稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)。信濃毎日新聞社は穂刈松東記者を派遣し、8月9日〜13日の新聞に詳細な記事が掲載されています。8月9日5面に、「8月8日午前3時頃南小谷村の山崩れで,22名惨死した。石坂區の傾斜地100haは数日前の豪雨に地盤緩み押出し、姫川を堰きとめた。」と記しています。8月11日2面に、「8日夕暮まで現場で指揮をなしていた大浦北安曇郡長は、9日長野市で開催された郡市長会議に現場見取り図を持参し、大規模土砂移動の状況を説明した。」と記しています。8月12日5面に、「稗田山は数年前より山鳴りや地震があり、石坂區の住民は不安がっていた。10日18時には濁水は1里半(6km)上流の下里瀬(くだりせ)部落まで順次湛水していった。10日19時より数百人の人夫と消防夫にて徹夜の掘削工事を行い、11日8時に僅かに水の流出を見たが、到底人力の及ぶ慮にあらず、自然決壊を待つ外なしと」と記しています。8月13日5面に、「11日18時下里瀬部落は全部浸水し、19時半(88.5時間後)から減水し始めた。その頃姫川の堰留場所は凄じき勢いで17間(30m)決壊し、北小谷字来馬を襲い、小学校・郵便局・役場・駐在所、その他民家13戸を押し流した。村民総出で、鐘・太鼓・鉄砲を発ち、下流に連絡するとともに、水防活動を行った。」と記されています。

4.横山(1912)論文の概要
 長野県の要請を受けて、東京大学教授の横山又次郎は、明治45年(1912)の5月18,19日に現地調査を行いました。彼は現地調査や聞き込み調査の結果をもとに論文にまとめ、6月に長野県庁に提出するとともに、地学雑誌に投稿しています。その論文の中に図2が示されていますが、当時入手できた「浦川口を姫川に沿って通過している県道の実測図」「浦川筋の村図」を基図として、地形変化状況などを書き込んでいます。
 なお、横山(1912)では、稗田山崩れの発生日を地元からの聞き込みから8月9日3時とし、町田(1964,67)もこの日時を採用しています。しかし、地元の松本(1949)や招魂碑の日付は8月8日となっていました。そこで3項で説明した新聞記事を詳しく読み、関係者の動向から発生日は8月8日であることを確認しました。このため、稗田山崩れ100年事業実行委員会では、シンポジウムの開催日を8月8日としました。 
図2 長野県北安曇郡南小谷村浦川奥崩壊地付近地質図(横山1912)
図2 長野県北安曇郡南小谷村浦川奥崩壊地付近地質図(横山1912)
 
 写真2は、横山が現地調査した頃に撮影された写真(小谷村役場蔵)で、松ヶ峯から浦川の土砂堆積状況や稗田山崩れを示しています。写真3は、姫川合流点から浦川上流・稗田山崩れの斜め航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)です。
 写真4は、浦川を流下・堆積した流れ山で、巨大な移動岩塊の上に人が乗っています。写真5は、姫川対岸の外沢(そでさわ)地区から松ケ峯の小尾根部を望んだものです。稗田山崩れからの流下土砂は、この尾根部を乗り越え、来馬河原まで達しました。このため、松ケ峯に繁茂していた立木は残らずなぎ倒され、裸地となっています。写真6は姫川対岸の外沢から松ケ峯・浦川方向を撮影したもので、稗田山崩れ100年事業実行委員会(2011)で、地名などを追記しました。
写真2 松ヶ峯から浦川の土砂堆積・稗田山崩れを望む(小谷村役場蔵)
写真3 姫川合流点から浦川上流・稗田山崩れの航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)

写真2 松ヶ峯から浦川の土砂堆積・
    稗田山崩れを望む
  (小谷村役場蔵)

   写真3 姫川合流点から浦川上流・
      稗田山崩れの斜め航空写真
   (防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)
 
写真4 浦川を流下・堆積した流れ山
写真5 姫川対岸・袖沢から松ケ峯を望む
写真4 浦川を流下・堆積した流れ山
写真5 姫川対岸・袖沢から松ケ峯を望む
(小谷村役場蔵,写真5は、横山(1912)にも掲載されている)

写真6 姫川対岸外沢から松ケ峯・浦川方向を望む(2011年6月森俊勇撮影)
写真6 姫川対岸外沢から松ケ峯・浦川方向を望む(2011年6月森俊勇撮影)


5.1/5万旧版地形図による稗田山崩れ後の地形変化
 図3は、明治44,45年(1911,12)の1/5万旧版地形図を示しています。1911〜12年の測図ですから、稗田山崩れ直後の地形状況と考えられます。1/5万地形図は、陸地測量部(国土地理院の前身)の測量技術者が数年かけて実測して作成しています。測量日誌などが見つかれば、稗田山崩れによる地形変化がわかる筈ですが、測量日誌はまだ見つかっていません。新田次郎(1977)の『剱岳・点の記』は測量日誌などをもとに詳しく書かれています。図3に示したように、北小谷役場は来馬河原にあったのですが、災害直後に西側斜面にあった浄法寺に移転しています。
  図4は、20年後の昭和5,6年(1930,31)に修正測図された1/5万旧版地形図で、村役場は下寺に移転しています。稗田山崩れの流下土砂によって、浦川は埋め尽くされ、姫川の来馬河原まで土砂が堆積しています。
 松本と糸魚川を結ぶ「塩の道」は、江戸時代から姫川の左岸側と右岸側を通っていましたが、稗田山崩れによって、左岸側のルートは通行できなくなりました。明治40年(1907)頃県道・糸魚川街道を姫川河床から左岸を通って開通させましたが、天然ダム(長瀬湖)と来馬河原付近で、通行不能となっていました。その後、姫川街道は姫川右岸側の中腹を通るようにルートが変更されました。この県道の開通によって、塩の道は次第に通行されなくなりました。現在は国道148号線となり、多くの区間がトンネル区間となりました。
図3 1/5万旧版地形図「小滝」(1911年測図),「白馬岳」(1912測図)
図3 1/5万旧版地形図「小滝」(1911年測図),「白馬岳」(1912測図)
図4 1/5万旧版地形図「小滝」(1930年測図),「白馬岳」(1931測図)
図4 1/5万旧版地形図「小滝」(1930年修正測図),「白馬岳」(1931年修正測図)

6.町田(1964)論文による稗田山崩れの地形・地質特性
6.1 稗田山崩れの地形変化
 図5は、稗田山崩れによる地形変化の状況を示した地形学図(町田1964,67を1/2.5万地形図に転記,稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)です。町田(1964)論文の摘要では、いわゆる荒廃河川の地形学的な意義を検討するため、過去およそ50年間に進んだ侵蝕・堆積の過程と、砂礫供給源として下流に与える影響とを明らかにしました。
     @    古い火山体の一部である浦川流域の稗田山では、1911年8月に巨大地すべり性崩壊が発生し、崩壊物質は土石流の形で流下して、崩壊地直下から約6kmの区間の浦川谷を深く埋積し、姫川本流をせきとめた。
     A    その後、斜面からの土石の流下が相対的に少なくなるにつれて、埋積谷は水流に刻まれ、段丘化しました。下刻は下流部に生じた遷急線の後退という形式ばかりでなく、急傾斜の上流側からも始まり、次第に一様に急速にすすみ、その後側刻が進んでいる。
     B    浦川におけるはげしい侵蝕の結果、搬出された多量の砂礫が合流点直下の姫川のポケットに堆積し、この部分の姫川の河床断面形は浦川によってつり上げられた形となった。
     C    浦川合流点以下の姫川中流部の河床に堆積する砂礫の内容は、その供給源からみて、(a)稗田山系、(b)風吹岳系(ともに浦川から搬出される)、(c)姫川上流系に分けられる。それぞれの地域の砂礫流下率を、河床礫の岩種別分類を行なって試算すると、41%、26%、33%となった。面積的には姫川上流域の1/21にすぎぬ小渓流・浦川の荒廃渓流としての性格が示される。また、砂礫流下量の多い河川の砂礫は、広い流域から一様の割合で供給されるというよりも、ある限られた地域の異常に急速な侵蝕に由来する場合の多いことが示唆される。
と記しています。

6.2 稗田山崩れ発生源の地質推定断面
 図6は、稗田山崩れ100年シンポジウム時に町田先生が基調講演で説明した稗田山の推定地質断面図です(稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)。金山沢の右岸側(東側)には、基盤の来馬層群の上に60〜75万年前に形成された稗田山火山の溶岩と火砕物の互層からなる高さ200〜300m、長さ2kmの急崖が続いています。1911年の稗田山崩れは、この急崖部分が大きく山体崩壊して、金山沢から唐松沢の区間に堆積し、丘陵性地形(流れ山が多く存在)をなしています。大量の崩壊物質は、岩屑なだれとなって浦川を流下したと考えられます。
 金山沢の左岸側(西側)には、風吹岳火山群からなり、唐松沢を流下する土石流が1842年、1936年、1948年、1964年と数10年毎に発生しています(規模は稗田山崩れよりは1桁以上小さい)。

6.3 浦川の石坂付近の河床断面形状の変化
 図7は、町田先生が基調講演した時の浦川の石坂付近の河床横断面図で、1911年以前の河谷断面と土石流の堆積状況を示しています。明治44年(1911)8月8日の土砂流出で、石坂の下段の3戸の住居は完全に埋没して、17人全員が死亡しました。翌年の明治45年(1912)4月26日(第2回目の崩壊)と5月4日(3回目)にも崩壊し、7月21日〜22日に残っていた天然ダムも決壊しました。一連の大規模土砂移動によって、浦川中流の石坂集落や姫川の来馬集落などは壊滅的な被害を受けました。
図5 稗田山崩れによる地形変化(町田1964,67を1/2.5万地形図に転記)(稗田山崩れ100年シンポジウム実行委員会,2011,井上,2011)
図5 稗田山崩れによる地形変化(町田,1964,67を1/2.5万地形図に転記)
(稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)

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図6 稗田山の推定地質断面図(町田原図,稗田山崩れ100年シンポジウム実行委員会,2011,井上,2011)
図6 稗田山の推定地質断面図
(町田原図,稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)

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6.4 稗田山崩れによる地形変化の量的吟味
 町田(1964)は、1959年撮影の約2万分の1空中写真とトランシットによる谷の横断測量の結果を用いて、稗田山崩れによる地形変化の量的吟味を行っています。
 1911年の稗田山土石流堆積物の容積(V)は、堆積物の平均厚さを50mと推定し、分布面積(300万m2)を乗じて、1.5億m3と推定しました。その後の50年間の侵蝕・流出土砂量は、回春谷の容積に等しいとして、谷の横断形から計測すると、2400万m3(崩壊土砂量の20%)となります。従って、浦川流域からの年間流出土砂量は48万m3/年となります。
 図5に示したように、地形状況から判断して、稗田山崩れの土石流の氾濫堆積域は、来馬河原から下流の塩坂付近(発電所付近まで)の氾濫原地域としました。この地域の面積を求めると321万m2となります。稗田山崩れ(3回の崩壊)と天然ダム決壊以降の浦川からの土砂流出・堆積によって、姫川に流出した土砂の大部分が来馬河原に堆積したと考えられます。
 2011年6〜7月に来馬河原の旧小学校の校庭面を把握するため、調査ボーリング(25mと50m)と調査観察井(直径3.5m、18.2m)が施工され、堆積状況が検討されました。来馬河原での1911〜12年の平均層厚を10〜15mと仮定すると、姫川本川に流出し、堆積した土砂量は、3200〜4800万 m3となります。
図7 浦川の石坂付近の河床横断面図(町田原図,稗田山崩れ100年シンポジウム実行委員会,2011,水山ほか,2011)
図7 浦川の石坂付近の河床横断面図
(町田原図,稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011,井上,2011)
 
図7 浦川の石坂付近の河床横断面図(町田原図,稗田山崩れ100年シンポジウム実行委員会,2011,水山ほか,2011)


6.5 姫川上流の天然ダムの形成と決壊
 浦川から流出した土砂によって、姫川には高さ60m前後の天然ダムが形成されました。表1に示したように、信濃毎日新聞の記事などによれば、下里瀬(くだりせ)集落の48戸中43戸まで徐々に湛水して行きました。下里瀬集落内には1等水準点(標高476.86m)があり、地元で湛水したことを示す電柱の赤い印と比較すると、最高水位は477.08mであることが判明しました。図5に示すように、1/2.5万地形図の480mの等高線から湛水範囲を決め、湛水面積を計測すると169万m2となります。現在の姫川と浦川の合流点付近の標高は440mですが、20m以上河床は上昇していると考えられるので、水深は60mと想定しました。従って、天然ダムの最大湛水量は3400万m3(V=1/3×S×H)となります。
 大浦北安曇郡長は、8月8日の夕方まで現場で指揮をしてから、9日長野市で開催される郡市長会に現場見取り図を持って行き、被災状況を説明しました。長野県では技術者を派遣し、64時間後の8月10日19時から警察署長の指揮で、数100名の人夫と北城村消防組消防夫134名にて、徹夜で掘削工事に着手しました。しかし、88.5時間後の8月11日19時半に決壊し、決壊洪水段波が下流の来馬集落から姫川下流の4集落(下平・穴谷・嶋・李平)を襲いました。来馬では田畑の流失50haに及び、北小谷村の役場・学校・駐在所・民家14戸は流出を恐れて解体され、常法寺など周辺の高台に移転しました。
 図8は常法寺住職の松本宗順(1949)が作成した3時期の来馬河原の災害地図(全部で10枚あります)で、姫川の河道変遷と被災、その後の人家の移転状況を示しています。上図は来馬災害地図No.3で、稗田山崩れ以前(明治44年(1911)8月8日)の状況を示したものです。右上図は来馬河原の河床断面図で、明治44年と昭和22年(1947)の河床位置を示しています(松本,1949)。中図は来馬災害地図No.4で、長瀬湖決壊後の明治45年(1912)4月26日の状況を示したものです。来馬河原にあった北小谷村役場や小学校は、西側斜面中腹にあった常法寺に移転しています。他の人家も周辺の地区に移転しました。その後も浦川からの土砂流出や姫川の河道の変化(西側斜面の側刻を含む)によって、何度も移転した人家がありました。下図は来馬災害地図No.9で、昭和22年(1947)12月30日の状況を示しています。この間にも浦川からの土砂流出は激しく、姫川の側刻によって、西側斜面には多くの崩壊や地すべりが発生しました。現在は押え盛土や排水ボーリングなどの地すべり対策工が実施され、地すべり変動はほぼ停止しています。

6.6 決壊後の地形変化
 以上の地形変化と被災状況を明確にするため、町田(1964、67)に示された「浦川中・下流部の地形学図」をもとに、図5で稗田山崩れによる地形変化と、天然ダムの最大湛水域、天然ダム決壊後の氾濫堆積域などを検討しました。稗田山崩れは、溶岩と火砕物が重なる成層火山の一部が山体崩壊して、岩屑なだれとなって、高速で浦川を流下し、姫川を河道閉塞した大規模土砂移動です。
 明治44年(1911)8月10〜11日に、河道閉塞土砂の開削工事が行われましたが、あまり進捗しませんでした。8月11日19時(天然ダム形成88時間後)に、長瀬湖は満水・決壊して、来馬河原は大洪水流に襲われました。このため、長瀬湖の水位は6m下がり、下里瀬集落は湛水しなくなりました。長瀬湖決壊後の土砂氾濫堆積域は、来馬河原から下流の塩坂の発電所付近までと推定しました。この地域の面積を求めると、321万m2となります。稗田山崩れ(1〜4回の崩壊)と天然ダム決壊による土砂流出・堆積によって、流出土砂の大部分が来馬河原に堆積しました。
 昭和23年(1948)と平成23年(2011)の来馬河原の状況を写真10と11に示します。
図8 3時期の来馬災害地図(松本,1949,稗田山崩れ10周年実行委員会,2011)その1
図8 3時期の来馬災害地図(松本,1949,稗田山崩れ10周年実行委員会,2011)その2
図8 3時期の来馬災害地図(松本,1949,稗田山崩れ10周年実行委員会,2011)その3
図8 3時期の来馬災害地図(松本,1949,稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011)
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写真10 松ケ峯付近からみた来馬河原 昭和23年(1948)8月撮影(小谷村役場蔵)
写真11 松ケ峯展望台から来馬河原を望む 平成23年(2011)6月3日 森俊勇撮影
写真10 松ケ峯付近からみた来馬河原
昭和23年(1948)8月撮影(小谷村役場蔵)
写真11 松ケ峯展望台から来馬河原を望む
平成23年(2011)6月3日 森俊勇撮影


7.県道糸魚川街道(現国道148号)のルートの変遷
 県道糸魚川街道は、明治16年(1883)に長野県の第五路線(大町から県境まで)として計画されました。順次建設工事は進められ、稗田山崩れ(1911)以前に、来馬河原をまっすぐに通る自動車道として開通していました(図8の上図)。しかし、この道が稗田山崩れによって通行できなくなったため、図9に示した姫川災害実測図(長野県立歴史館蔵)が作成されました。図9には、天然ダム(長瀬湖)決壊前の来馬河原の被災状況が示されています。県道の仮設道路が来馬河原の堆積土砂の上に建設されていることが分ります。松ケ峰の山頂部から東側は土砂を被っていないようです。
図9 姫川災害実測平面図(縮尺1/3000),(長測図1324) 明治44年(1911)8月作成,長野県立歴史館蔵
図9 姫川災害実測平面図(縮尺1/3000),(長測図1324)
明治44年(1911)8月作成,長野県立歴史館蔵
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図10 縣道糸魚川街道改修路線平面図 明治44年(1911)11月(長測図1020)
図10 縣道糸魚川街道改修路線平面図 明治44年(1911)11月(長測図1020)
長野県立歴史館蔵
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図11 縣道糸魚川街道改修路線平面図 明治45年(1912)7月(長測図1020)
図11 縣道糸魚川街道改修路線平面図 明治45年(1912)7月(長測図1020)
長野県立歴史館蔵
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 図10は、明治44年(1911)11月の改修路線平面図で、来馬河原にあった姫川街道を姫川左岸(西側)に移転させる計画で、道路の計画線が示され、道路横断測量も行われていました。浦川との合流点より上流側には、天然ダム(長瀬湖)の湛水範囲が水色で示されています。
 しかし、翌年の明治45年(1912)4月26日の稗田山の第2回目の大崩壊により、大量の土砂が浦川を流下し、松ケ峯を乗り越えて来馬河原に到達したため、県道の左岸ルートは断念せざるをえなくなりました。このため、県道のルートを姫川の右岸側(東側)に変更することが決定され、図11に示したように、明治45年(1912)7月に改修路線平面図が作成されました。また、詳細な道路縦断面図と横断面図(20mピッチ)が作成されました。図11にも天然ダム(長瀬湖)の湛水範囲が示されており、県道のルートは姫川右岸のかなり高い位置に設定されました。このルートは国道148号にそのまま引き継がれました。現在の国道はこの付近を長大トンネルで通過していますが、写真12に示したように、旧国道148号は現在でも姫川のかなり高い位置に残っています。
 図12は、松本砂防事務所作成の平面図に、稗田山崩れ前後の地形状況と土地利用の変化状況を示したものです。写真10,11,12と比較すると、その変化状況が良く判ります。
 
図12 稗田山崩れ前後の地形状況と土地地利用の変化状況図(姫川・浦川合流点から来馬河原)稗田山崩れ100年事業実行委員会(2011)
図12 稗田山崩れ前後の地形状況と土地地利用の変化状況図(姫川・浦川合流点から来馬河原)
(稗田山崩れ100年事業実行委員会,2011)
写真12 姫川右岸(東側)の急斜面部を通る県道糸魚川街道(2012年4月井上撮影)
写真12 姫川右岸(東側)の急斜面部を通る県道糸魚川街道(2012年4月井上撮影)


引用・参考文献
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井上公夫(2011):2.11 姫川右支・浦川の稗田山崩れ(1911)と天然ダムの形成・決壊,水山ほか(2008):日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.88-103.
井上頴纉(1983):来馬村災害変遷図,図葉(A1判)1葉
井口隆・八木浩司(2011):空から見る日本の地すべり地形シリーズ−19,発生後100年を迎えた稗田山の崩壊地形,日本地すべり学会誌,48巻4号,口絵,p.35-37.
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小谷村誌編纂委員会(1993a):小谷村誌,歴史編,小谷村誌刊行委員会,p.335-337.
小谷村誌編纂委員会(1993b):小谷村誌,自然編,小谷村誌刊行委員会,p.121-122,p.194-197.
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経済安定本部資源調査会事務局(1949):日本気象災害年報,−1900年より1947年まで−,中央気象台編纂,資源調査会資料17号
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