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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム36 豪雨(1914)による安倍川中流・蕨野の河道閉塞と静岡市街地の水害
 
1.安倍川の土砂・洪水災害
 静岡市を南北に流下する安倍川は、南アルプス東南端に位置する大谷嶺(標高1999.7m)に源を発する一級河川(図1,流路長51km,流域面積567km2)です。安倍川流域の東側山地には北北西に通過する十枚山地質構造線が、西側山嶺部にはほぼ南北に併走する笹山地質構造線が存在します。このため、安倍川流域を構成する古第三紀の瀬戸川層群(主たる地質は砂岩・泥岩互層)は、強い構造作用により脆弱で破片化しやすくなっています。しかし、安倍川の河谷は急峻で、400〜500m以上の起伏量を示す山地を形成しています(土屋,1998,小山内・井上,2014)。安倍川の源流部には、「鳶崩れ」(コラム23)、「稗田山崩れ」(コラム35)と並び日本の三大崩れに数えられる「大谷崩れ」(崩壊面積1.8km2,崩壊土量1.2億m3)があります。
図1 安倍川水系概略図(井上ほか,2008)<br>(建設省静岡河川工事事務所,1988に追記) 
図1 安倍川水系概略図(井上ほか,2008)
(建設省静岡河川工事事務所,1988に追記) 
写真1 浦川上流・稗田山崩れの斜め航空写真(防災科学技術研究所・井口隆氏撮影)H稗田山,Ls崩壊堆積物,Ky金山沢,Km唐松沢,U浦川
 図2 大谷崩れと下流に分布する堆積段丘
(土屋,1998)

 大谷崩れは、宝永四年十月四日(1707年10月28日)に発生した海溝性巨大地震である宝永地震(M8.4)が引き金となり、大崩壊を発生したと推定されます(静岡河川工事事務所,1988,小山内・井上,2014)。図2に示したように、崩壊土砂は赤水の滝まで大谷川を一気に流下し、広大な土石流段丘を形成しました。また、安倍川の本川である三河内川などを塞き止め、大池(天然ダム)を形成しました。大谷川に残存する高位・低位の土石流段丘から、大谷崩れの崩壊地形は一度に形成されたのはなく、数回にわたり繰り返されたと考えられています(町田,1959,土,1992)。現在の新田集落や赤水集落は、これらの段丘面上に明治時代になって入植しました(梅ヶ島村教育委員会,1968)。
 安倍川は大谷崩れからの流出土砂が厚く堆積し、急流河川であるため、いったん大雨が降れば、濁流が川幅一杯に広がって音をたてて流れるすざましい光景が見られます(海野,1991)。江戸時代になって、両岸に堤防が構築された後にも、洪水・氾濫が繰り返されました。海野(1991)、建設省静岡河川工事事務所(1988a,b)などによれば、以下の主な災害記録があります。
 
  慶長十七年一月三日,八月一日(1612年2月4日,8月27日)
  宝永四年十月四日(1707年10月28日),宝永地震
  享保七年八月(1722年9月)
  宝暦七年五月三〜八日(1757年6月19〜24日)
  明和五年七月二十〜二十一日(1768年8月31日〜9月1日)
  寛政四年七月十三〜十四日(1792年8月30〜31日)
  文政十一年六月三十日(1828年8月10日)
  嘉永七年十一月四日(1854年12月23日),安政東海地震
  文久二年七月二十四〜二十五日(1862年8月19〜20日)
  六月二十八〜二十九日(1862年7月24〜25日)
  慶応二年七月二十四日(1866年9月2日)
  明治元年七月十八日(1868年9月4日)
  明治9年9月17日(1876年)
  明治17年9月15日(1884年)
  明治30年9月9日(1897年)
  明治40年8月22〜25日(1907年)
  明治43年8月7〜10日(1910年)
  明治44年8月1日(1911年)
  大正3年8月29〜30日(1914年)
  大正4年8月5日(1915年)
  大正5年6月7日(1916年)
  大正11年8月26日(1916年)
  昭和10年7月11日(1935年),静岡地震
  昭和41年9月25日(1966年),梅ヶ島温泉災害
  昭和49年7月7日(1974年),七夕災害
 
 なかでも、文政十一年(1828)と大正3年(1914)には、激甚な大水害が発生しました(静岡河川工事事務所,1988,92,静岡県土木部砂防課,1996)。  

2.文政十一年(1828)と大正3年(1914)における安倍川下流の大洪水
 図3は、建設省静岡河川工事事務所(1992)に挿入されている水害図をもとに、文政十一年(1828)と大正3年(1914)における安倍川下流の洪水の被災状況を明治22年(1889)測量の1/2万正式図「美和村」、「静岡」図幅に転記したものです(井上ほか,2008,井上,2011)。図3の範囲を図1に示しました。正式図に描かれている堤防を緑、道を橙色で示しましたが、当時の洪水防御の施設と安倍川下流の交通網が良く判ります。明治22年には、東海道(現在の一般県道藤枝・静岡線)と東海道線の橋を除いて橋はほとんどなく、安倍川の上流へ向かう安倍街道は安倍川の河川敷を通っており(点線で示されている)、少しでも増水すると、通行不能になりました。図3には、各洪水時の破堤個所を番号と×印で示すとともに、洪水の流下方向を赤色の→印で示しました。破堤個所とその状況は表1に示しました。
 図3の基図として利用した1/2万正式図(1889年測図「美和村」「静岡」図幅)には、安倍川の河谷と静岡平野の地形状況が良く表現されています。この地形図は大正3年(1914)災害から25年前の明治22年(1889)に測図されており、安倍川流域は災害時とほぼ同じ土地利用状況であったと考えられます。大正3年災は安倍川左岸の堤防を各地で破堤させ、駿府城から南の静岡市街地付近で氾濫し、大きな被害を与えました。  
表1 文政十一年(1828)と大正3年(1914)水害の破堤箇所一覧 (井上ほか,2008)
表1 文政十一年(1828)と大正3年(1914)水害の破堤箇所一覧 (井上ほか,2008)
表1 文政十一年(1828)と大正3年(1914)水害の破堤箇所一覧 (井上ほか,2008)
図3 文政十一年(1828)と大正3年(1914)の安倍川下流の洪水の被災状況(井上ほか,2008)
基図は1889年測図1/2万「美和村」「静岡」図幅

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3.安倍川下流の扇状地地形と駿府城(静岡城)
 図4は、(有)地球情報・技術研究所の井上誠氏に作成して頂いた安倍川下流の1m毎の等高線図(国土地理院の10mDEMを利用)です。安倍川下流の標高90mから下流の地域について、1m毎(緑色)の等高線図を作成し、10m毎(青線)青数字で標高値を示しました。安倍川扇状地(静岡平野)の地形状況が良く判ります。
 図4に示したように、駿府城(静岡城・府中城)は、駿河国安倍郡府中、静岡市葵区にあります。14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地に今川館が築かれ、今川領国支配の中心地となりました。地形を見ると、南北に細長く延びる賎機山(しずはたやま,標高171m)の南端から安倍川の扇状地が広がります。この扇状地の一番高い地点(標高25m付近)に今川館が建立され、次第に駿府城に発展していきました。駿府城は周囲の安倍川扇状地(静岡平野)の中で一番高く、天守閣からは、城下町が一望できました。
 扇状地は北北東方向の巴川方向から南方向まで、放射状に広がりました。500〜600年前以前は巴川の最上流部には標高8m以下の浅畑沼が存在し、明治末には沼地・湿地となっていました。
図4 安倍川扇状地(静岡平野)付近の1mコンター図 (井上誠氏作成,国土地理院10mDEMを利用)
図4 安倍川扇状地(静岡平野)付近の1mコンター図 (井上誠氏作成,国土地理院10mDEMを利用)
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 今川氏は隣接する甲斐国の武田氏と相模国の後北条氏と同盟を結び、領国支配を行ったが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により、今川氏は駆逐され城館は失われました。武田氏は駿河支配の拠点のひとつとしていたが、 天正十年(1582)に織田・徳川勢力により滅ぼされ、徳川家康が領有するようになりました。 徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されました。
 江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居しました。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立しました。天守閣は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものでした。しかし、慶長十二年(1607)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失しました。その後直ちに再建されたが、慶長十五年(1610)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となりました。
 その後、宝永四年(1707)の宝永地震で駿府の城下町はかなりの被害を受けましたが、駿府城は大きな被害を受けませんでした(北原,2014)。この地震時に安倍川の源流部で大谷崩れが発生したが、大谷崩れから発生した土石流は、図2に示した赤水の滝より下流にはあまり流下しませんでした。基本的に安倍川扇状地の地形は、14世紀に構築された今川館の時代と大きくは変わっていません。
 図3の左図に示したように、文政十一年(1828)の洪水では、安倍川下流の扇状地は激甚な水害を受けました。洪水流の一部は、賎機山と駿府城の間を抜け、北方向に流下しました。洪水流の一部は巴川最上流域の標高8m以下の浅畑沼方向に流入したと考えられます。
 図3の右図に示したように、大正3年(1914)の洪水では、静岡城の南側の城下町の大部分を襲いました。濁流は牛妻門屋(かどや)の堤防を破潰してさらに下村の諸岡山に続く有功堤を夜半に崩して、ここから賎機山麓の安倍海道に沿って南下しました(海野,1991)。すなわち、福田ヶ谷は忽ち水没し、松富との境の堤防も間もなく決潰しました。下流の松富をはじめ与一衛門新田、菖蒲ヶ谷、伝馬新田は濁流にのまれ、籠上の小籠の堤防も崩されて、ついに濁流は井宮との境の薩摩堤防にせまりました。薩摩堤防(薩摩土手)は徳川家康の命令で、島津藩の島津忠恒が慶長十一年(1606)頃に工事を行った堤防です。徳川家康は駿府城の拡張工事を行いましたが、駿府城や城下町を守るために、この土手を造らせました。また、もし駿府城を敵に奪われた時には、この土手を切り崩して水攻めにするためとも言われています(異説もあります)。安西、井宮、妙見下より大里村中野新田に至る大堤防で、土手敷24間(43m)、のり敷7間半(14m)、天端15間(27m)の堅固な堤防でした。現在、この旧堤防が残っているのは700m区間だけで、「薩摩土手の碑」(図3左の地点D付近)が建立されています。
 大正3年(1914)の洪水は薩摩堤防に襲いかかったが、井宮水道町民の必死の水防によって、危なく決潰は免れ、井宮以南は水害から救われました。濁流は西方へ堤防沿いに流れて、通称勘六堤にせまりました。この勘六堤は以前から危険な個所で補強が叫ばれていたが、ついに濁流に持ちこたえられず、約100mが決潰し、奔流はさらに安西四丁目の酒造業橋本演太郎方裏手の堤防20間(36m)を押し流して、静岡市内に流れ込みました。  

4.1914年の大水害と中流右岸の崩壊による河道閉塞
 大正3年(1914)8月28日の台風襲来によって、安倍川上流域は400mm以上の降雨量となりました。このため、大洪水が静岡市街地を襲い、溺死者45名、流失家屋約1000戸、浸水家屋1万余戸の大被害となりました(望月,1914)。
 この大洪水の原因を調べてみると、豪雨だけでなく、河口から23.5km地点の右岸斜面が大規模崩壊を起こして、安倍川の河道(幅500m)を2/3以上閉塞したことが大きく関与していることが判明しました(井上ほか,2008,井上,2011)。河道閉塞によって、上流部には一時的に天然ダムが形成されました。この天然ダムは満水になるとすぐに決壊して洪水段波が発生し、下流の静岡市街地に激甚な被害を与えました。1/5000〜1/5万の旧版地形図を収集整理すると、この地域の地形変化の状況が良く判ります。ここでは、天然ダム形成・決壊に対する危機管理の観点から、1914年に発生した大規模崩壊と安倍川の河道閉塞状況と、閉塞土砂が次第に消滅していった経緯を説明します。
 山内(1988)を要約すると、「大正3年(1914)8月28日、小笠原群島父島南方海上を通過した台風は、翌29日進路を本土に向け北上した。静岡県下は午後に入り暴風雨となり、18時には安倍川の増水が5尺(1.5m)近くになり、21時に非常招集が出された。23時に増水が10尺(3.0m)を超え、安西五丁目裏(地点P)で10間(18m)の堤防を破壊し、洪水流は市内に殺到し、相次いで2箇所の堤防が決壊した。暴風雨は夜半に益々猛威をふるい、安西町から番町を襲い、寺町・新町・宮ケ崎・馬場町・呉服町と静岡市中心部を浸水させ、東海道線を超え、駅南地区まで及んだ。雨の止んだ30日10時頃から減水し始めたが、氾濫水は3昼夜にわたって市中に漂い、井戸水は飲用に適さなかった。このため、伝染病なども発生し、文政十一年(1828)以来の大惨事となった。」と記載されています。被害状況は、溺死者45名(市内4名)、負傷者90名、流失家屋約1000戸、浸水家屋1万余戸と報告されています(建設省静岡河川工事事務所,1992)。
 海野(1991)は、「水害の発生原因は台風による豪雨と安倍川中流右岸の大崩壊による河道閉塞(天然ダム)の形成・決壊」と説明しています。「安倍川上流の大河内(安倍川の河口から27km地点、標高200m)では、498mmという空前の降水量を記録した。このために安倍川上流の各地で山崩れが発生した。中でも図5の中央部の大河内村の蕨野(同23.5km地点、標高160m、河床勾配1/120)では、安倍川右岸の山腹が大音響とともに大崩壊した。この山地を地元民は“大崩れ”と呼んでいた所であるが、多量の崩壊土砂は一瞬にして河幅500mの安倍川をせきとめてしまった。満水になっていた安倍川はダムのように水がたまり、上流の横山辺まであふれる程であった。満水となった水はやがて安倍川を閉塞した土砂を突破し、濁流は轟々として鉄砲水となって下流に流れ出た。激流は牛妻、門屋(図3右、同14km地点AとB、標高80m,河床勾配1/140)の堤防を破壊して,師岡山(もろおかやま,同12km地点C)に続く有功(ゆうこう)堤を夜半に崩して、賎機(しずはた)山麓の安倍川に沿って南下し、静岡市街地の半分以上が浸水した。」と述べています。
 以上の情報をもとに、現地調査と資料収集を行いました。写真1は、聞き込み結果をもとに撮影した安倍川中流右岸の崩壊地形の現況(2007年5月10日井上撮影)です。聞き込み調査によれば、この斜面を地元民は昔から『大崩れ』と呼んでいます。
写真1  蕨野地区のほぼ正面から見た安倍川中流右岸の崩壊地形(2007年5月10日井上撮影)
写真1 蕨野地区のほぼ正面から見た安倍川中流右岸の崩壊地形(2007年5月10日井上撮影)

5.旧版地形図(1/2万と1/5万)による蕨野地区の崩壊地形の変遷
 旧版地形図や航空写真を入手して、蕨野地区の崩壊地の変遷を追跡しました。幸いなことに、明治22年(1889)測量の1/2万正式図「玉川村」図幅に安倍川流域の蕨野地区が測図されていたので、図5(図1に範囲を示す)を作成しました。この図によれば、安倍川の河谷斜面は30〜50度の急斜面であるが、崩壊現象はあまり発生していません。最上流部の大谷崩れからの活発な土砂流出によって、安倍川の河床は幅500mにもなり、少し中央部が高く、厚い砂礫層で覆われています。その河床の中を安倍川の上流に向かう安倍街道(点線で示されている)が通っており、張り出した尾根の前面に発達する蕨野地区だけ、斜面(河岸段丘)の上に安倍街道(実線)が通過していることが判ります。
 図6に示した4時期の5万分の1地形図は、@明治29年(1896)に初めて図化され、その後、A大正5年(1916)、B昭和15年(1940)、C昭和49年(1974)に修正測量が行われています。
@    1896年の地形図は図5の地形状況とほぼ同じですが、大正3年災害から2年後のA1916年の地形図では、安倍川の右岸斜面に大きな崩壊地(幅200m、高さ160〜200m、崩壊深10mとして、20〜30万m3程度)が形成され、安倍川の河床の1/3を堆積土砂が閉塞していることが判りました。
A    1916年は災害から2年後の測量であるので、堆積土砂は河幅の1/3程度ですが、大正3年(1914)の災害時には堆積土砂はもっと安倍川の対岸近くまで堆積していたと考えられます。
B    1940年の地形図では、崩壊地形は明瞭に残っていますが、河床に堆積していた堆積土砂は右岸部の一部を残し、その後の洪水流によって流出しました。地元での聞き込みによれば、「戦前までは崩壊土砂からなる平坦地の上に小規模な畑が耕作されていた」とのことでした。
C    1974年の地形図では、崩壊地形は表現されず、河床に堆積していた崩壊土砂は完全に流出していました(一部崩壊地下部に緩斜面が残る)。その後に測量された1/2.5万地形図や1/5万の地形図では、地形図(1974年)と同様の状況です。
図5 1889年の安倍川中流右岸・蕨野地区の斜面状況(1/2万正式図「玉川村」,1889年測図)
図5 1889年の安倍川中流右岸・蕨野地区の斜面状況
(1/2万正式図「玉川村」,1889年測図) 
図6 安倍川中流右岸・蕨野地区の斜面変化(1/5地形図「清水」,1896,1916,1940,1974年測図)
図6 安倍川中流右岸・蕨野地区の斜面変化(1/5地形図「清水」,1896,1916,1940,1974年測図)

 写真2は昭和60年(1985)に静岡県が撮影した航空写真であり、立体視できるように加工してあります。河床の堆積土砂は完全に流出しているものの、植生状況から右岸斜面の崩壊地形はかなり明瞭に読み取れます。左岸側の蕨野集落の前面には小高い砂礫堆積段丘(洪水時には冠水)が認められます。図7は,静岡河川工事事務所が昭和53年(1978)に測図した1/5000の安倍川砂防平面図です。図6や聞き込み調査、海野(1991)などをもとに、大正3年(1914)災の崩壊地、河道を閉塞した堆積土砂、背後に湛水した範囲を図示しました。地形図から湛水高15m(標高175m)として、湛水面積32万m2、湛水量160万m3(1/3・AH)と計測しました。海野(1991)によれば、すぐに満水となり決壊しています。このため、5分(300秒)で満水になったとすれば、当時の洪水流量は5300m3/s,10分(600秒)間で,2700m3/sとなります。この地点では完全に河道閉塞された訳ではなく、少しずつ流出していたと判断されます。図8は、図7をもとに作成した蕨野地区の河道閉塞地点の横断面図です。河道閉塞から2年後に修正測図された図6(1940年)によれば,安倍川の河道の1/3に堆積土砂が残っています。点線で示した河幅2/3の範囲まで河道は閉塞され、洪水流のかなりの部分が背後に貯留されたと考えられます。Manningの公式により決壊直前と決壊直後の洪水流量を求めると、表2のようになります。
 蕨野右岸の大規模崩壊が発生し、安倍川の河道の2/3程度が狭められました。左岸側には低位段丘があるので、洪水流の大部分は上流部に貯留され、次第に水位は上昇して行きました。背後の横山付近まで天然ダムの水位が上昇した時に、河道閉塞した土砂の半分近くを押し出す決壊現象が起きたと判断されます。2年後の大正5年(1916)の河床断面をもとに流量計算すると、1.7万m3/s程度となります。このような洪水段波が安倍川下流の静岡市街地を襲い、図3で示したような大氾濫となったと 判断しました。
写真2 安倍川中流・蕨野地区の航空写真(SHIZUOKA、C38-1046,1047、1985年1月撮影)
写真2 安倍川中流・蕨野地区の航空写真(SHIZUOKA、C38-1046,1047、1985年1月撮影)

図5 稗田山崩れによる地形変化(町田1964,67を1/2.5万地形図に転記)(稗田山崩れ100年シンポジウム実行委員会,2011,井上,2011)
図7 安倍川中流右岸・蕨野地区の崩壊状況
(1/5000安倍川砂防平面図,静岡河川工事事務所1978年測図,井上ほか,2008)


図8 安倍川中流右岸・蕨野地区の崩壊状況(井上ほか,2008) (基図は1/5000安倍川砂防平面図,静岡河川事務所1978年測図)
図8 安倍川中流右岸・蕨野地区の崩壊状況(井上ほか,2008)
(基図は1/5000安倍川砂防平面図,静岡河川事務所1978年測図)

表2 天然ダム決壊前後のピーク流量(井上ほか)
表2 天然ダム決壊前後のピーク流量(井上ほか)


6.昭和54年(1979)水害との流量比較 
 大正3年(1914)の洪水災害のピーク流量については、安倍川上流で400mm以上の豪雨があったとういうこと以上のことは分かっていません。図3の洪水氾濫範囲は当時の記録から判断して、文政十一年(1828)と並ぶ大出水であったことは間違いありません。表3は、国土交通省静岡河川事務所の高水関係資料より作成した手越地点(1956−2003年)と牛妻地点(1972−2003年)の既往洪水順位です(地点位置は図1参照)。河道閉塞を起こした蕨野地点は、安倍川の砂防基準点とほぼ同じであるので、この地点より上流域の面積は148km2です。洪水氾濫範囲などから考えて、河道閉塞地点におけるピーク時の洪水流量は、3000〜5000m3/s、安倍川下流の洪水流量は1万m3/s以上であったことは間違いないでしょう。
表3 手越地点と牛妻地点の既往洪水ベストテン(井上ほか,2008)
表2 天然ダム決壊前後のピーク流量(井上ほか)

 今後は、文政十一年(1828)災害の史料を含めて安倍川流域の大規模土砂移動と土砂災害・洪水災害の関係を調査して行きたいと思います。

むすび
 従来、砂防計画の検討では、土石流対策を含めて、流域の最も上流の部分に崩壊が発生し、土砂が生産・流送されると想定して議論を進めることが多かったようです。それでは、土砂の移動に時間がかかり新しく生産された土砂がその出水中に下流の河床を上昇させることは難しいし、その程度も氾濫を引き起こすほどではないことも多いのではないかと考えています。
 しかし、本コラムで示したように、安倍川中下流の渓岸・河岸の崩壊は、崩壊土砂が直接的に河道に流入し、下流河床を上昇させたり(平成7年(1995)の姫川の出水も良い例と考えられる、水山,1998)、低い河道閉塞を起こして、それが決壊する時に大きな洪水流量になったりして、直接的に下流の災害(水害)の原因となり得ます。
 実際、量的にも生産土砂のかなりの部分を渓岸の崩壊が占めます(水山ほか,1987)。過去の大量の土砂流出現象についても、このような現象が起こったとすれば、説明しやすくなります。砂防計画においても、このような現象を想定して行くべきであると考えています。

引用・参考文献
井上公夫(2011):豪雨(1914)による安倍川中流・蕨野の河道閉塞と静岡市街地の水害,水山ほか(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,p.104-109.
井上公夫・蒲原潤一・本橋和志・渡部康弘(2008):安倍川中流・蕨野地区の西側山腹で生じた河道閉塞と1914年の水害,砂防学会誌,61巻2号,p.30-35.
梅ヶ島村教育委員会(1968):梅ヶ島村史,梅ヶ島村,p.17.
海野實(1991):安倍川と安倍街道,安倍藁科歴史民俗研究会,明文出版社,190p.
小山内信智・井上公夫・(2014):第4章 地震と土砂災害,内閣府(防災担当),1707宝永地震報告書,p.187-205.
北原糸子(2014):第5章 城郭被害図にみる宝永地震,内閣府(防災担当),1707宝永地震報告書,p.207-243.
建設省静岡河川工事事務所(1988a):安倍川砂防史, ―安倍川直轄砂防50周年記念―,156p.
建設省静岡河川工事事務所(1988b):安倍川砂防史, ―安倍川直轄砂防50周年記念―,400p.
建設省静岡河川工事事務所(1992):安倍川治水史, 直轄河川改修安倍川60周年記念,357p.
静岡県土木部砂防課・全国治水砂防協会静岡県支部(1998):静岡県砂防誌,431p.
土隆一(1997):東海地震の予知と防災,静岡新聞社,172p.
土屋智(2000):3.2 大谷崩,地震砂防,古今書院,p.28-32.
町田洋(1959):安倍川上流部の堆積段丘,―荒廃山地にみられる急激な地形変化の一例―,地理学評論,32巻,p.520-531.
水山高久(1998):姫川の大規模土砂流出と土砂管理,河川,628号,p.8-13.
水山高久監修・森俊勇・坂口哲夫・井上公夫編著(2011):日本の天然ダムと対応策,古今書院,187p.
望月荒吉(1914):大正三年安倍川大水害, 安倍川沿革誌,23p.
山内政三(1988):静岡市の百年, 静岡市百周年記念出版会,310p.
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