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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム37 関東大震災(1923)による横浜の土砂災害
       ―9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―
 
1.はじめに
 筆者は関東大震災から90周年にあたる2013年9月1日に、『関東大震災と土砂災害』(編著,古今書院)を出版しました。関東大震災では、10.5万人もの死者・行方不明者を出したが、土砂災害が167箇所、1056人以上の死者・行方不明者を出したことはあまり知られていません(井上・伊藤,2008)。関東地震による土砂災害について、これから数回に分けて説明致します。
 2013年9月21日(土)午前中に、横浜YWCAにおいて、本を分担執筆した3人が『出版記念講演会』を開催しました(井上ほか,2013)。
 1)  井上公夫:関東大震災の土砂災害地点を歩く
 2)  相原延光:1923年関東大震災前後の天気について
 3)  茅野光廣:根府川大洞調査報告
 その後、『関東大震災・横浜の現地見学会、―1923年9月1日のプールの逃避行―』を開催しました(井上,2013)。図1は、内務省社会局(1926)『大正震災志』の巻末図で、関東地震による林野被害区域山崩れ概況を示しています。丹沢山地の秦野盆地に面した南斜面は「山崩れ激甚地帯」で最も山崩れが多く発生しました。丹沢山地から箱根火山地域は「山崩れ多大地帯」で、関東山地から多摩丘陵、三浦半島、房総丘陵では、「山崩れ軽微地帯」となっています。この図の上に、地震直撃と2週間後の豪雨による土砂災害地点を追記しました。
図1 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点井上(2013):関東大震災と土砂災害に伊豆大島を追記,▲びゃくを追記
図1 関東地震による林野被害区域「山崩れ地帯」概況図と関東地震による土砂災害地点
井上(2013):関東大震災と土砂災害に伊豆大島を追記,▲びゃくを追記

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表1 関東地震による住宅被害数および死者数の集計(諸井・武村2004;井上編著,2013)
表1 関東地震による住宅被害数および死者数の集計(諸井・武村2004;井上編著,2013)
表2 関東地震による土砂災害(井上編著,2013を修正)
表2 関東地震による土砂災害(井上編著,2013を修正)

 この図には「びゃく」という土砂災害地点も示しています(「びゃく」については、いさぼうネットのコラム41〜43で説明致します)。表1,2は、関東地震による土砂災害の一覧表です。震源域は神奈川県から千葉県南部であったため、神奈川県内の被害は極めて大きく、表2によれば、103箇所945人+139人にも達しました。神奈川県西部で35箇所、650人+74人が亡くなり、神奈川県東部で66箇所、295人+65人が亡くなっています。横浜市内では27箇所、68人+60人が亡くなっていますが、火災によって亡くなった人の中には、崖崩れを受け、被災後の火災によって亡くなった人も多いと想定されます。  

2.横浜市内の現地見学会−プールの逃避行ルートを歩く
 沖積低地に発達した横浜の市街地は、地震で多くの建物が倒潰するとともに、その後各地で出火し、ほとんどの建物は焼失しました。被災民の多くは周辺の台地(神社・仏閣、外国人居留地が多く存在)へ向かって避難したが、台地縁辺部の急崖部では多数の崖崩れ・崩壊が発生しました(上部の台地へ向かう階段の多くが破損した)。
 英国貿易商社ドットウェル商会の日本総支配人だったO. M. プール(Otis Manchester Poole,愛称,チェスター,当時43歳)は、30年前から日本に来て横浜などで暮らしていました。実父Otis Augustusは、日本茶の買い付けなどで82回も太平洋横断しており、震災時は静岡にいました。プール氏は9月1日と2日の行動について、43年後の1966年に『The Death of Old Yokohama in the Great Earthquake of 1923』として発行し、日本では金井圓訳(1976)『古き横浜の壊滅』(有隣堂)として発行されました。
 図2は、震災地応急測図の1/2万「横浜」「保土ヶ谷」「神奈川」図幅(1906年測図、1917年修正)です(歴史地震研究会編集,2008)。関東地震から17年前の平面図ですが、当時の土地利用状況が示されています。この地形図の上に、参謀本部陸地測量部が9月6日〜15日の短期間の間に被災状況を調査したもので、赤字で被災状況が示され、焼失地域が赤のハッチングで示されています。当時の横浜市内の建物のほとんどが地震で倒壊し、焼失しました(緑線でプールの逃避行ルートを示す)。
 図3はプールの逃避行ルート(赤線)と現地見学会ルート(緑線)です。赤線で示したように、プール
図2 震災地応急測図1/2万「横浜」「保土ヶ谷」「神奈川」図幅(1906年測図,1917年編集)(歴史地震研究会編集,日本地図センター発行,2008)
図2 震災地応急測図1/2万「横浜」「保土ヶ谷」「神奈川」図幅(1906年測図,1917年編集)
(歴史地震研究会編集,日本地図センター発行,2008)

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は勤めていた関内のドットウェル商会事務所から自宅のある山手台地にまで歩いて行き、家族(妻ドロシーと6・4・3歳の3人の男子)と会うことができ、フランス波止場に繋留されている義父所有のヨットに乗るまで、非常に大変な逃避行を行いました。2013年9月21日の「横浜市内現地見学会」は、なるべくプールの逃避行ルートに沿って、道がなくなっている箇所は図3の緑線で示したルートを歩きながら、関東地震当時の災害状況を追体験する目的で行いました。図3の左上には、現地見学の地点と関東大震災の慰霊碑の位置を一覧表で示しました。
 ドットウェル商会は、図3のNo. 0地点(山下町72番地)に存在し、付近の道路は現在も震災前とほぼ同じで、この位置にはJALシティホテルが建っています。関東地震当時、横浜港に面した沖積低地(細長い砂州の発達する微高地域)は関内と呼ばれ、英国領事館や米国領事館、香港上海銀行等の商業施設が多く建っていました。その南東側には中華街が建設され、関東地震時には大岡川下流のデルタ低地一帯が人口密集地となり、関内の南東側の台地(下末吉海成段丘)の上は、欧米人の居住地区でした。幕末に横浜が開港されて以来、台地の上には米国海軍病院や英国海軍病院、外人墓地などが建設され、欧米人の洋館が次々と立ち並びました。以下、プールの著述の一部を引用します。
図3 プールの逃避行ルート(赤線)と現地見学会ルート(緑線)基図は国土地理院の1/1万地形図「関内」(1984年編集,2005年修正),井上(2013),井上ほか(2013)
図3 プールの逃避行ルート(赤線)と現地見学会ルート(緑線)
基図は国土地理院の1/1万地形図「関内」(1984年編集,2005年修正),井上(2013),井上ほか(2013)
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3.地震発生から家族と再会するまで
 プールは、土曜日の昼食に出かけようとした11時58分に、「非常に激しい地震動を受け、周囲の建物はほとんど倒潰したが、コンクリート製のドットウェル商会の建物は、破損した程度で倒潰せず、プールや社員は大きな怪我をしませんでした。社員が全員無事であることを確認してから、家族のいる自宅(山手68番地)に社員2人と向かうことにしました。しかし、商会の建物から外に出てみると、周囲の建物がほとんど倒潰していることに気が付き、大変驚きました。いつもの通勤路(中華街から前田橋方向)は倒潰した建物の瓦礫で通行不能となっていました。大きな余震が続く中、倒潰した建物から次々と火災が発生しました。このため、中華街を迂回し、加賀町警察署(No. 2地点)のある中華街西通り(No. 3地点)を通って、西の橋(No. 4地点)に向かおうとしました。中華街西通りの西側はスワンプ(湿地)と呼ばれていたところで、激震によって地下水が吹き出し、沼地状になっていました。プールはこの沼地を腰まで水に浸かって、必死に横断し、西の橋に到達しました。
 西の橋からチェリーマウントヒルを登って自宅(No. 7地点)に向かおうとしたが、ホテルなどのあるV字型の谷は崩壊・地すべりを起こし、元町・石川町の商店街になだれ落ちていました。崖縁にあった外国人の家々はほとんど倒壊して、崩れ落ちていました。崖下の元町の状態はさらに悲惨で、細長い街全体がもつれたマッチ棒のようにペチャンコになっていました。日本人の長い商店街(元町)は消え去っていました。家々が街路の両側から一緒に倒れて、重い瓦や裂けた木材の山になっており、街路はV字型にへこんでいることで、やっと識別できました。数歩歩くごとにボロをまとった人影が立っていました。ほとんどの建物が倒潰してしまったショックで、誰もが茫然として我を忘れていました。あの建物の残骸の下になってしまった人達が、何とかしてきっと大きな力で持ち上がり、何百人となく生きたままで姿を表すに違いないと感じられました。
写真1 元町から浅間山に向かう百段 (上田寫眞版合資會社製の絵はがき)
写真2 百段のあった急崖で崩落した 急傾斜地崩壊対策が実施されている (2013年4月井上撮影)
写真2 百段のあった急崖で崩落した
   急傾斜地崩壊対策が実施されている
   (2013年4月井上撮影)
写真1 元町から浅間山に向かう百段
   (上田寫眞版合資會社製の絵はがき)

 その光景に度肝を抜かれて、私たちは別の方向を振り返って地蔵坂の方を見ると息が詰まりました。元町の私たちの立っているところから80ヤード(73m)も離れていないところで、火が突然吹き出して、赤茶けた炎が薄気味悪いつむじ風となって、空へ舞い上がって行きました。朝方には不自然な温室の中にいるような微風があったが、今ではあおられて焼けた夏の突風となり、たくさんの炎を拾い上げ、渦のようにして、廃墟の溝に沿って私たちに襲ってきました。すすり泣きの悲痛な声は非常な哀れさに満ちていたため、これから起こるなおいっそうの多くの悲劇の衝撃に対する感覚を麻痺させました。
 4分の1マイル(400m)歩いた後、私たちは山手の上部に神社と茶屋一間がある浅間山(せんげんやま,No. 6地点)に向かう急傾斜地を登る百段(実際は101段,No. 5地点)の下に着きました(百段の下の標高は6.7m,上の元町公園の標高は39.3m)。中華街の東側を通り、第二の橋(前田橋)から元町を通り、山手に続く道であるが、階段とそれがついていた崖の半分はすでになく、大きく崩落して下の家々を覆って、見えなくしていました。めくるめく傷痕と、ひとつの土の小山だけが残っていました。火炎はなおも私達の足元をなめるようにして迫ってきたので、私達はもうひとつブロック先へ急ぎ、ヘクト山として知られる代官坂の方へ曲がりました。その角には食料品店があり、コンデンス・ミルクの缶や肉の缶詰を持てるだけ購入しました。そして、総合病院の近くにある我が家へ最も安全な経路である代官坂を登りました。その間にも余震が続いていたが、丘の頂上に近づくと、私は山手にあった住居を眼にして、心は沈みました。多くの邸宅がペシャンコになっていました。
 ヘクト山の頂上では、背の低いバンガロー風の平屋2軒がパンケーキのようになり、柱という柱は倒れ、屋根瓦はちょうどパイの皮のようになって、がらくたの上に崩れ落ちていました。2軒のバンガロー風の平屋も道路をふさいで倒れていました。反対側の丘ではドイツ海軍病院や山手公園のある木の茂った山脚の方を見下ろすと、どの家も倒れるか、ずたずたになっていました。
 私は広範な破壊が完全にゆきわたっているありさまを見てたじろぎました。そして、ドロシーと子供達に対する心配の気持は、懸命な祈りとなりました。私は壊れた垣根をいくつも突き抜けて走り続け、我が家の隣の家はまだしっかりと建っており、我が家は完全に崩れ落ちてはいませんでした(No. 7地点)。

 外の道路上には足をけがしていた下男の石井がいて、『皆さんはベランダを通って庭へ逃げ出し、そし
写真3 震災後移設された百段東側の尾根線に再建されている(2013年4月,井上撮影)
写真3 震災後移設された百段
東側の尾根線に再建されている
(2013年4月,井上撮影)
写真4 元町百段公園(元浅間山)横浜ランドマークタワーが見える(2013年4月,井上撮影)
写真4 元町百段公園(元浅間山)
横浜ランドマークタワーが見える
(2013年4月,井上撮影)

て旦那様をお待ちするため、修道院の庭へ小道を下って行ったと思います』と言いました。計り知れないほどほっとして、感謝し大急ぎで、私は息せききって捜索を再開しました。左手には総合病院が建物の2つの間にハンモックのようにぶら下がっていました。さらに下ると修道院があり、私はドロシーと子供達の名前を呼びました。さらに先に進むと、外側に崩れ落ちた高い建物の袖で道は完全に断ち切られていたので、ドロシーはこの修道院より下へは行ける筈はありませんでした。その頃には、下方の元町から渦を巻きながら上がってくる黒煙で一杯になりました。丁度その時、恐ろしい余震が起こり、私達は地面から跳ね上がり、揺さぶられました。全員が小形のなだれか、そりにでも乗ったように坂からすべり落ちたが、私達に怪我はありませんでした。私はこんなことはすべて単なる悪夢ではないかと思いました。
 ドロシーと子供達が完全に隠れてしまう筈もないので、私はその小道を元来た方へ駆け登りました。すると我が家の角の所に、荒々しい身振りで総合病院の向かい側の89番地にある家へ来るようにという大声が聞こえました。そこは結婚2年後まで、私達が住んでいた所で、義父・ウイリアム キャンベルの住居でした。そこの庭にドロシーと子供達がいました。私達が再開できた安心感と、抑えてはいたが心に満ちていた喜びとは、悪夢から目覚めた感じでした。


4.山手台地から急崖を降りるまで
 そこはまさに、30年前(明治24年,1891)の濃尾地震,横浜で震度W(いさぼうネットのコラム32,2017.5.25参照)の時に父と母と私などが午後から夕方にかけて、陣取っていた所でした。その地震は関東地震までに横浜で経験した最悪の地震であり、89番地の家から瓦屋根を奪い、広範囲に被害を与えました。私が義父の家に到着した時、ドロシーの義父母も一緒にいました。義父キャンベル(横浜副領事,太平洋郵船会社の総代理人)はヨットクラブの会長で、ヨット「大名号」をフランス波止場(東波止場、図3の地点No. 15の海岸線付近にあった)に置いてありました。
 息が詰まるほど熱く、頭上を渦巻く煙はますます下へ降りてきました。私の家族は神の与え給うた偶然によって、怪我をまぬがれました。激震時にはみんな一緒にいて、ドロシーとお手伝いのミネは子供達を抱き寄せたが、壊れた煙突が屋根を突き抜いて、子供達が遊んでいた場所に落下しました。驚いた子供達
写真5 山手資料館(1909年に本牧・中澤邸として建設)(1977年に移設して資料館開館,89番地付近)(2013年5月,井上撮影) 
写真5 山手資料館(1909年に本牧・中澤邸として建設)
(1977年に移設して資料館開館,89番地付近)
(2013年5月,井上撮影) 
写真6 ゲーテ座劇場(1885年に設立)(震災で焼失,1980年に岩崎博物館として再建)(2013年5月,井上撮影)
写真6 ゲーテ座劇場(1885年に設立)
(震災で焼失,1980年に岩崎博物館として再建)
(2013年5月,井上撮影)

を保護して戸口へ這って行き、激震が続く間は身を寄せ合っていました。地震が収まったので階段を降りて、玄関にたどり着きました。しかし、玄関ドアは開かず、崩れた家財で台所へも食堂へも行けませんでした。庭にいた石井がベランダに来て、全員を救出しました。我が家の段々の庭はほとんど谷間へすべり落ちたため、アンダースンの庭へ避難していました。
 最初の地震から、まだ1時間しかたっていなかったが、そこにぐずぐず出来ませんでした。頭上を渦巻く煙は、今や雷雲のように黒くなり、時には燃えカスを落としていました。四面に焚火の用意をしたように倒れた家が見えたので、危険が迫り逃げる以外に処置はありませんでした。1分か2分毎に余震が続き、絶えず破壊が続いていました。義父キャンベルは、『みんなで海岸通りに降りて行き、大名号に乗れば、食料も少しはあるので、事態を切り抜けられる』とフランス波止場に行くことを勧めました。
 外人墓地(No. 9地点)近くの山手図書館(写真5)は、すでに消え失せていました。山手通りはひと続きの階段のようで、2,3フィート毎に幅8インチ(1m毎に20cm程度)の亀裂ができました。亀裂は右手の庭にも走り、豚背丘(Hogback,フランス山)の構造に大きな移動がありました。E. J. キングの大邸宅は今やただの岩石の山となり、彼の妻と娘は亡くなりました。
 私達は、山手の背後から元町の先端にある外人墓地のあたり一帯を見渡すことが出来ました。外国人居留地と野毛山丘陵に延びている日本人町全域が見えたが、居留地も町もなく、ただ一面の炎と煙だけでした。1時間以内に全横浜はいっせいに火に包まれました。私達がさっき走り抜けた元町は、崖下まで焼き尽くされていました。外人墓地も悲惨で、戦死者に捧げた花崗岩の記念碑は倒潰・破損していました。左手の米国海軍病院は崩れ落ちてしまい、外人墓地からキャンプヒルまで広がっている庭園の築堤も崩れていました。その角にあったゲーテ劇場Gaiety Theater(演劇・舞踏会・音楽会の場,写真6,No. 10地点付近)は倒潰していました。山手の南の窪地には天沼の集落がありましたが、火の手が上がり、南に下がって行くことは不可能でした。
 当初は、キャンプヒルを下って海岸通りに出て、大名号に乗り込む積りでいたが、不可能でした。谷間
写真7 港の見える丘公園の急崖で崩壊対策を実施中(現在は樹木に覆われている,2005年2月井上撮影)
写真7 港の見える丘公園の急崖で崩壊対策を実施中
(現在は樹木に覆われている,2005年2月井上撮影)
写真8 急崖部には遊歩道が建設され,崖下に降りられる(2013年7月井上撮影)
写真8 急崖部には遊歩道が建設され,崖下に降りられる
(2013年7月井上撮影)

の元町は、ゴウゴウとうなる炉のようで、そこへ向かう道路は地すべりを起こしていました。私達は山手最後の山脚であるフランス山の仏領事館を抜ける道を探しました。英国海軍病院の石積の塀は病棟とともに倒潰して、行く手を阻んで遮断していました。山脚の険しい斜面を突き抜けるのは、たとえ崩壊・地すべりや熱い煙がなくても危険なことでした。私達は南から吹き上げて来る火炎によって、山手で閉じ込められてしまいました。
 素足の子供達が、我慢できないほどの熱さで苦しんでいるので、壊れたガラスで覆われた道に長居することはできませんでした。大名号にたどり着くためには、別の避難所を探す必要があり、近くの英国海軍病院(現在の港の見える丘公園,No. 11地点,写真7,8)に向かいました。病院の階段を登り、広い構内に入ったが、病棟等はペチャンコになっていました。多くの人々がテニスコートに避難していました。避難してきた人々は次の段々庭へ降りて、湾を見晴らす崖の方へ進み、さらに崖っぷちの第三庭の方へ向かいました。しかし、芝生には驚くような亀裂が発生し、数年前に崖下の海辺にできた埋立地の方に崩れ落ちていました。数分毎に余震が起きました。第三段目の段々庭全体が40mの崖をすべり落ちることを恐れて、私達は第二の段々庭にあるヒマラヤ杉の陰に行き、やっと安心しました。
 はじめて、私達は事態を見極めることができました。ここで野宿するとすれば、シーツと食料と水が必要でした。病棟から枕とシーツを入手したが、食料は私のポケットにあるだけでした。元に戻ると負傷者が加わっていました。
 背の高い木々が防壁となっていましたが、わずか100ヤード(91m)離れた火の川からくる騒音と熱気は、かなり恐ろしいものとなりました。病院構内から掘割への出口は、フランス山の火で閉ざされました。このため、3人の英国水兵と一緒に、テニスコートの周りの網を外して、段々庭にあるあずま屋にしっかりと固定し、崖に覆いかぶさるように投げました。半分はそこにぶら下がったが、残り半分は届かず、簡単に降りることは出来ませんでした。私達は抜け道がないかとキャンプヒルを下って、偵察に忍びでたが、火はたけり狂っていました。1台の車が横転し、死体があったが、明らかに曲り道を一部遮断した地すべりから引っ張り出されたものでした。崖下へ抜け出る道はなく、丘の頂上に戻りました。しかし、数分の間に驚くべき変化が起こって、恐怖の衝撃を受けました。ゲーテ座劇場から病院の構内に火が押し寄せ、山手通りの家々に近づいていました。
図4 プール氏の逃避行ルート,1/1万旧版地形図「横浜近郊南部」(1922年測図)に加筆
図4 プール氏の逃避行ルート,1/1万旧版地形図「横浜近郊南部」(1922年測図)に加筆
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 人々は崖の上端(No. 13地点)に引き寄せられ、大人が網の綱を使って降り始めたが、子供達をどうやって降ろすかが問題となりました。私は長男のトニー(6歳)を背中に縛りつけて貰い、降り始めました。ドロシーは先に降りて、斜面の途中で子供を受け取ることにしました。私は子供の頃、この当たりの崖を登ったことがあり、懐かしく思いました。初めの30フィート(10m)はうまく行ったが、次第に勾配が急となって上の人の姿が見えなくなり、やっと地すべりの上に辿り着けました。少しの平場で子供を降ろし、崖下まで降りました。私達は数回この崖をよじ登って、子供達や怪我人を崖下に降ろしました。 
写真9 港の見える丘公園下の斜面工事中の露頭写真 写真7の急傾斜地崩壊対策実施前の地質状況(茅野光廣提供)
図5 ボーリング柱状図
      写真9 港の見える丘公園下の斜面工事中の露頭写真            図5 ボーリング柱状図
    写真7の急傾斜地崩壊対策実施前の地質状況(茅野光廣提供)

 再度崖を登り始めた時、私達の恐れていたことが起こりました。上にいた多くの人は危険が大きくなるのに気が付き、急いで降り始めました。義父はキャンベル夫人と子守を思い切って下へ降ろしました。2人の婦人は地すべりのあった場所で私のそばを通過して、下方へ向かいました。義父は自由のきかない腕のことも無視して、二男のディック(4歳)を背中にくくりつけて崖を越えてきました。彼はディックを自分の方へ押さえつけ、丈夫な方の腕で綱をしっかり握っていました。私は義父の背中のディックを苦境から救い出し、彼の両腕を私の首にからませて、岩棚に沿って注意深く戻りました。しかし、湧水地点があり、子供を抱いたまま飛び越えることはできませんでした。そこで彼を降ろし、私が跳び越え、私の両腕を差し出して、彼に跳び越えるように命じました。彼はひとでのように空中を飛んで、私の胸にしがみつき付きました。数分後、私達家族は全員海辺の埋立地で再開できました(図4に示した1922年測図の1/1万地形図に埋立地が表現されている)。
 残りの人達を助けるために、地すべりの場所まで戻ると、悲惨な光景が目に写りました。火炎が崖の上を越えて渦巻いており、黒煙の中から多くの人影が急ぎ足で走ってきました。彼らは狂ったように押し合いへし合い、落ちてきました。これがまさしく私の恐れていた人の流れでした。日本人達は、人々の衣類を焦がし始めると、パニック状態となって、どっと降り始めました。彼らは海辺に面した崖に、ふじつぼ貝のようにぶら下がりました。恐ろしい火炎の舌先がいくつも煙の中に織り交じっていました。一人は空で鷲のように手足を拡げ、金切り声を上げながら落下して、パタリと静かになりました。次の人々は回転花火のように駆け回りながら、他の人々を押しのけて飛び降り、崖の麓に身動きしない外べりができました。そこに数人の日本人の若者が来て、生きている人達を次々と運び出していました。
 埋立地は重苦しい熱煙に覆われたため、欧米人は外側の水際に退きました。至る所に幅3〜5フィート(1〜1.5m)もある長い亀裂があり、護岸の塊が海に転がり込んで散乱していました。日本人の2000人ほどが埋立地(図4)を避難場所としていましたが、その大部分は元町から掘割の土手を通って来たに違いありません。猛烈な風の中を炎と煙がナイアガラの滝のように外側に吹き出し、茶色に薄明かりとなって照らし
表3 関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列(相原,2017,一部修正)
表3 関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列(相原,2017)
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ていました。崖下から病院のシーツを見つけ出し、子供達の風よけを作りました。真水を運ぶはしけを見つけ、天与の賜物と大喜びをして、全員に手柄杓で水が渡されました。
 これまで私が話してきたことのすべては、最初の地震から3時間の間に起こったことでした。」


5.むすび
 2013年9月21日の現地見学会では、ドットウェル商会からプールが必死に逃避行したルートを、ほぼ同じ時間をかけて山下公園まで歩きました。表3は、相原延光(2017)が関東大震災の経緯とプールの逃避行の時系列を整理したものです。一読して分るようにプールの観察眼と文章力に驚かされます。鬼気迫る具体的な描写力は多彩な趣味(水彩画と写真、山登り、鳥打)によるものです。明治37年(1904)に槍・穂高240マイル(386km)の試験登山が認められ、イギリスの王立地理学会の会員にも選ばれています。
 現地見学会の当日は土曜日のため、中華街や元町の商店街は観光客で溢れていました。観光客だけでなく、商店街の人達も94年前に実際に起こった激甚な被災状況を知る人は少ないでしょう。
 首都直下地震や海溝型地震は今後確実に発生します。94年前と比較すると関東大震災の被災地や避難した場所は人口が増えて、都市開発・宅地開発が進み、大震災が発生した場合に、避難できる場所が少なくなっていると思います。

引用文献
相原延光(2017):関東地震時のO. M. プールの行動,―横浜の地形地質を中心として ―,第374回資源セミナ−,8p.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
井上公夫(2013):関東大震災・横浜の現地見学会報告, ―1923年9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,地理,58巻12号,口絵,p.8.,本文,p.82-91.
井上公夫(2017):コラム32 明治24年(1891)の濃尾地震直撃による土砂災害,土木情報サービス,いさぼうネット,2017. 5. 24.
井上公夫・相原延光・茅野光廣(2013):出版記念講演会と横浜市内現地見学会資料,O. M. プールの逃避行ルートを歩く,33p.
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会,1923関東大震災報告書,第1篇,p.50-79.
今井精一(2007):横浜の関東大震災,有隣堂,307p.
諸井孝文・武村雅之(2004):関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定,日本地震工学会 論文集,4巻4号,p.21-45.
Poole, O. M. (1968): The Death of Old Yokohama in the Great Earthquake of 1923,135p.,金井圓訳(1976): 古き横浜の壊滅,有隣堂,220p.
歴史地震研究会編集(2008):地図にみる関東大震災,―関東大震災の真実―,日本地図センター発行,68p.

参考文献
神奈川県(1927,復刻1983):神奈川県震災誌及び大震災写真帳,神奈川新聞出版局,写真,32p.,本文,848p.
神奈川県警察部編纂(1926):大正大震火災誌,1(第一〜二編),写真,50p.,本文,p.1-564.,2(第三〜六編),本文,p.565-1203.
北原糸子編(2010):写真集関東大震災,吉川弘文館,422p.
武村雅之(2009):未曾有の大震災と地震学,―関東大震災―,シリーズ繰り返す自然災害を知る・防ぐ,古今書院,209p.
中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1923関東大震災報告書,第1篇,242p.,平成24年11月19日訂正
内務省社会局(1988改訂版):写真と地図と記録でみる関東大震災誌・神奈川編,千秋社,750p.
波多野勝・飯森明子(1999):関東大震災と日米外交. 草思社,271p.
フェリス女学院150年史編纂委員会(2010):関東大震災女学生の記録,―フェリス女学院150年史資料集−,第1集,306p.
山手資料館(1977):山手資料館展示目録,16p.
横浜開港資料館(2013):関東大震災90周年被災者が語る関東大震災,平成25年度第2回企画展示,7月13日〜10月14日
横浜市史資料室(2010):報告書横浜・関東大震災の記録,108p.
横浜市史資料室(2013):レンズがとらえた震災復興1923〜1929,企画展示,7月13日〜10月14日
横浜市役所市史編纂係(1926-27):横浜市震災誌,第壹冊,120p.,第二冊,199p.,第三冊,651p.,第四冊,491p.,第五冊,665p.
吉村昭(1973):関東大震災,文芸春秋社,249p.
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