1.神奈川県東部の土砂災害
神奈川県東部の横浜や横須賀・鎌倉地域では、人家背後の急斜面が崖崩れを起こし、多くの人家が押し潰され、多数の死傷者を出しました。しかし、地震の揺れによる人家の倒潰や火災被害が甚大であるため、土砂災害の詳しい調査・研究はあまり行われていませんでした。中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会の1923関東地震小委員会(2006)では、神奈川県県土整備部 河川水道部 砂防海岸課の協力を得て、資料や報告書を収集・整理するとともに、神奈川県東部の土砂災害分布図(1997年編集の1/10万集成図「南関東」に追記)を作成(図1)し、図の左側に土砂災害一覧表を示しました。災害状況を示した詳細な一覧表は、井上・伊藤(2006)や井上編著(2013)をご覧下さい。
土砂災害地点の特定に当たっては、当時の災害資料・報告書などをもとに、関東地震直前に修正測図されていた1/5万の旧版地形図「横浜」(1898年測図,1922年修正)と「横須賀」(1903年測図,1921年修正)図幅に記入し、その後1/10万集成図にプロットしたものです。土砂災害地点は基本的に1923年当時の集落の地域とほぼ同じです。土砂災害の少ない地域は農地や林地として利用されていましたが、現在は土地利用が高度化し、ほとんどの集落が繋がっています。今後、直下型地震や海溝型地震が発生することに備えて、広域の避難計画が必要になると思います。
2.横浜の被災状況
図2は
横浜火災延焼状況図(内務省社会局,1926)で、当時の横浜市内の建物が倒潰や大破損となり、その後各地から失火しました。そして、赤矢印の方向に燃え広がり、数時間で横浜の市街地はほとんど延焼しました。図2の右図は、ほぼ同じ範囲の傾斜量図(井上誠,2012)で、横浜地域の地形特性(海成段丘と大岡川の低地)が良く分ります。当時の地形図では現在の地名がよく分らないので、コラム37の図2と図4に、現在の地名を赤字で追記しました。
当時の横濱駅から新桟橋付近は、
「発表禁止」と記されています。図に示された横濱駅は明治5年(1872)5月に新橋−横浜間が開通した時の横浜駅(現在の桜木町駅)です。明治20年(1887)7月に横濱−国府津間が開通すると、横濱駅まで来てスイッチバック運転をしていました。大正4年(1915)8月に現在の高島町付近に二代目の横濱駅が開業し、元の横濱駅は櫻木町駅となり、関東大震災を迎えました。震災から5年後の昭和3年(1928)に現在の横浜駅が開業し、東京横濱電鉄(東急電鉄東横線)と京濱電鉄も乗り入れました。
日本大通りから東側の地域(関内・中華街・元町・山手)は被害が大き過ぎて、
「調査不能」と記されています。横濱浜駅付近から南京街(中華街)・関内の建物は、ほとんど倒潰・延焼してしまい、個々の建物の被害調査ができなかったことが分ります。コラム37で説明したプールの避難行動は、このような状況下で行われました。
神奈川県の横浜在留外国人の罹災調査では、死者1789人、行方不明1109人、負傷者2353人、計5251人となっています(横浜市役所市史編纂係編,1927;今井,2007)。死者を国別に見ると、南京街(現
図1 神奈川県東部の土砂災害分布図(井上・伊藤,2006,井上,2013)
国土地理院1/10万集成図「南関東」(1997年編集)に土砂災害地点を追記
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在の中華街)が全潰・全焼したため、中国(清)1541人(1893年の人口3325人)が8割以上を示しています。次にロシア87人(不明)、英国44人(同808人)、米国39人(同253人)、インド28人(不明)、フランス11人(同808人)の順になっています。
3.鎌倉地域の土砂災害
図3は
震災地応急測図の1/5万地形図
「横須賀」「三崎」図幅を示しています。三浦半島は首都東京に近く、横須賀海軍基地や軍事工場などが多く存在するため、1/5万地形図は
秘図地域(持ち出し禁止地形図)になっていました。このため、参謀本部陸地測量部の調査隊員が震災直後の9月6日〜15日に災害調査を行った際、地形図を持ち出すことが出来ませんでした。このため、海岸線、鉄道や道路、集落や地名などをトレースした平面図を持って現地調査を行いました。図3の平面図には、現地調査結果をもとに、鎌倉・横須賀・浦賀などの市街地の建物の倒潰や焼失の状況、鉄道や道路の損壊状況が赤字で克明に描かれています。
三浦半島は新第三系からなる丘陵地で、狭い海岸部や谷部に軍事基地や多くの集落が密集していました。また、関東地震時に地震断層として変位した下浦断層が出現し、地震動によって多くの地割れが発生しました。このため、崖崩れだけでなく、規模の大きな地すべり性崩壊も発生して、鉄道や道路が各地で寸断されました。
図4は、大正10年(1921)測図、昭和37年(1962)修正の1/2.5万旧版地形図
「鎌倉」図幅で、図1(右側に一覧表を記す)に示した土砂災害地点の番号を示しています。関東地震当時、自動車交通が発
図3 震災地応急測図1/5万秘図地域「横須賀」と「三浦」図幅
(歴史地震研究会編集,2008,日本地図センター発行,井上編著,2013)
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達し始めたため、鎌倉に向かう切通し道は、次第に自動車道として整備されました。しかし、これらの自動車道は道幅が極めて狭く、現在は旧道として多くが遊歩道となっています。
朝比奈(図4の地点29)、
化粧坂(地点33)、
亀ヶ谷(地点34)、
名越(地点36)、
大仏坂(地点41)、
極楽寺坂(地点45)などの切通しの峠越え道は、多くの箇所で崩壊して、通行不能の状態となりました。このため、周囲から鎌倉に向かう鉄道や道路は、津波や土砂崩壊の影響もあって寸断され、一時期孤立状態となりました。
浪川(2004〜2008)は、鎌倉市のホームページで
「知られざる鎌倉、関東大震災の鎌倉https://www.ken-net.org
」を公表しています。貴重な写真や丁寧な解説が掲載されており、鎌倉市のホームページから閲覧できます。また、新しく出版されたNAMAZUの会(2017)もご覧ください。
鎌倉は、鎌倉時代以降、幾度か大地震に見舞われた記録が残っています(鎌倉市役所自主研究グループNAMAZUの会,2008)。特に、長谷の高徳院と大仏は何回も地震を経験してきました。大仏は現在露座ですが、鎌倉時代に完成した時には、大仏殿の中に祭られていました。明応四年八月十五日(1495年9月
図4 鎌倉地区の1/2.5万旧版地形図「鎌倉」(1921年測図,1962年修正)と土砂災害地点(井上編著,2013)
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表1 知られざる鎌倉「関東大震災の鎌倉」の一覧表(鎌倉市のホームページより,井上編著,2013)
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3日)の鎌倉大地震で、
「大津波。水勢、鎌倉大仏殿堂舎屋を破壊し、溺死者200人」
と記されています。大仏は現在露座ですが、鎌倉時代に完成した時には大仏殿の中に祭られていました。大仏の標高は12〜13mあり、津波で被害を受けたとすれば、大津波だったことになります。浪川(2014)は、文明十八年(1486)に大仏殿はなく露座の大仏であったと報告しています。
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写真1 鎌倉・長谷の大仏 (2005年10月井上撮影,井上編著,2013)
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写真2 大仏の地震による揺り出し (鎌倉町役場,1930)
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鎌倉町役場(1930)によれば、写真2に示したように、長谷の大仏は関東地震時に35.8cm前に揺り出されて、前のめりになりました。
写真3は鎌倉から東側の海岸に抜ける道として切り開かれた
「朝比奈切通」で、写真4はこの切通の石碑です。関東地震時には自動車の通れる県道として開通していました。しかし、関東地震でこの県道は至る所で崩壊し、泉水橋、明石橋も落ちて、交通が途絶えました。鎌倉から外へ向かう7つの切通しの中で、復旧が一番遅れました。現在は2車線のバイパスが北側に建設されたため、旧道はハイキングコースとして使われています。
4.横須賀地区の土砂災害
横須賀地域では、図1に示したように関東地震による土砂災害が20箇所(葉山町を含む)抽出でき、被害家屋数111戸以上、死者220人以上となりました。横須賀地域は新第三紀の丘陵地からなり、谷底低地に建物が密集し、周辺は急傾斜の斜面で囲まれています。図5は軍都・横須賀市の震災要図(横須賀市震災誌刊行会,1932)で、市街地のほとんどの建物は関東地震による激震によって倒潰し、その後の火災によってほぼ全焼しました。また、急傾斜面の多くの箇所で崩壊を起こし(図1と同じ個所に赤番号を付す)、崩壊土砂が建物を襲い、激甚な被害が発生しました。
図5 大正十二年九月一日横須賀震災要図に土砂災害地点(赤番号)を追記
(横須賀市震災誌刊行会,1932;井上編著,2013)
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図6 横須賀地区現地見学会案内図(井上ほか,2016)
国土地理院1/1万地形図「横須賀」(2002年修正図)にコースを追記
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このため、2015年10月24日に「横須賀地区と浦賀地区の土砂災害地点を歩く」という現地見学会を行いました。現地見学会は20名(+5歳児)と案内者5名で行いました。見学会は横須賀(逸見・汐入)地区と浦賀地区に分けて行い、間に横須賀市総合福祉会館5階視聴覚研修室でシンポジウムを行いました。図6は横須賀地区の見学コースです。福祉会館では、茅野光廣の司会で
1) |
井上公夫:関東地震とその後の豪雨による土砂災害 |
2) |
蟹江康光:横須賀・浦賀地区の地形・地質と関東地震による土砂災害 |
3) |
相原延光:三浦半島の周辺の「びゃく」の事例紹介 |
と題して、関東地震による土砂災害の背景などを説明しました。
横須賀地区で最も被害の大きかった場所は、図7に示した横須賀市港町(現汐入町一丁目)付近の横須賀鎮守府に面した急崖部です。海軍基地に面した見晴山の高さ30mの急崖部(図6の地点B)が長さ440mにわたって地すべり性崩壊を起こしました。崩壊土砂量は16万m
3にも達し、横須賀駅から海軍基地に向かう県道と海軍工廠内の海軍軍需庫を埋没させ、その間の交通は途絶しました。このため、崩壊土砂に巻き込まれて、通行人など50人が死亡・行方不明となりました。崩壊地はA,B,C,D(図7)に分かれており、崩壊土砂を取り除くため、トロッコ線路が敷設されました。土砂は大滝町(現在のショッピングセンター付近)に運ばれ、埋め立てに使われました。
地点Bの港町公園には、
関東大震災供養塔(写真5)などがあり、関東地震による横須賀地区全域の死者500名が祀られています。元は旧県道付近にありましたが、昭和5年(1930)に国道16号の拡幅工事で、現在位置に移転されました。大きな慰霊碑の前には横須賀線で通学途中に死亡した横須賀市立高等女学校(現県立横須賀大津高校)の生徒9名と市民遭難者41名の慰霊碑があります。
三浦半島北部は主に新第三紀の三浦層群(逗子層など)からなり、標高50〜70mと定高性のある丘陵地です。この丘陵地の山頂部は下末吉期・小原台海進期の海水準で、その後この高さまで隆起したことを示
図7 横須賀市港町の土砂崩壊状況図
(海軍省公文備考番号T12-172;蟹江,2014)
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写真5 横須賀市港町公園の関東大震災避難者供養塔
(2015年10月井上撮影)
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しています。氷期には気候が寒冷で海水準が下がり、丘陵地は侵食が進んで、樹枝状に多くの谷地形が発達しました。横須賀はこのような地形を利用して、江戸時代から横須賀製鉄所、明治になってから造船所が建設されました。明治9年(1876)に横須賀鎮守府(東海鎮守府)が設置されると、造船所も拡張されました。このような谷地形の急斜面にも多くの施設や宅地が造成されました。
関東地震の激震によって、多くの人家が倒潰するとともに、これらの急崖部で多くの崩壊が発生して、多くの死者・行方不明者を出しました。これらの被害者は、その後の市街地の焼失によって、多くが焼死として計上されています。
写真6,7は、米軍が1946年2月15日に撮影した航空写真で、横須賀地区と浦賀地区の現地見学コース付近を立体視できるように加工してあります。米軍写真は、関東地震から23年後の終戦直後に撮影されましたが、丘陵地の急斜面や急崖下部にも人家が密集していることが分かります。空襲の被害は比較的少ないようです。関東地震で崩壊した土砂はすべて取り除かれています。写真6には映っていませんが、図6に示されているように、急崖付近に横浜・横須賀道路が平成2年(1990)に開通しています。
写真6 横須賀地区米軍立体写真 1946年2月15日撮影
M46-A-7-2,101, 102, 103 元縮尺:1.2万分の1
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写真7 浦賀地区米軍立体写真 1946年2月15日撮影
M46-A-7-2,142, 143 元縮尺:1.2万分の1
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5.浦賀地区の土砂災害
写真7は浦賀湾に面した地域の航空写真で、直線状に深い海が入り込んだ地域に造船施設や人家が多く分布しています。図8は現地見学会のコースを示します。現地見学会では、写真8に示した渡船で、東浦賀(図8の地点G)から西浦賀(地点H)に向かいました。西浦賀の乗船口には、巨大な関東大震災慰霊塔(写真9)が建立されています。表面には
「大正十二年九月一日関東大震災慰霊塔再建者野澤恒良東福八十翁勝丘(やとおうしょうきゅう)
書」と記されています。裏面の文字は木が繁茂し読みにくいが、
「再建に就いて再建後援者大正十二年九月一日関東大震災のため当浦賀町に於いて関根弥一外二九六柱の霊を弔うため浦賀当局で慰霊塔を建立し居りました。終戦直後撤去されたままになっておりましたが、本年五十周年に当たりますので、町内の方々の賛同を得ましたので、再建致しました。昭和47年(1972)九月一日喜寿記念再建者野澤恒良」と記述されています。
震災前の大正4年(1915)に発行された
『大禮記念浦賀案内記』によれば、西浦賀の愛宕山(地点H)の南側下には、江戸時代後期から浦賀奉行所の陣屋が置かれ、山頂には
浦賀園と呼ばれた浦賀町で最も古い
浦賀町営記念公園((地点I),明治24年(1891)開園)が設けられていました。この公園には、中島三郎助の招魂碑と
咸臨丸(かんりんまる)出港の碑、与謝野鉄幹・晶子の碑などがあります。山の下の海に面した狭い地域は人家が密集し、遊郭などもあり、繁栄していました。
大正関東大震災では、愛宕山の浦賀湾に面する東側斜面が崩れ、民家74戸を埋没させ、100人以上の死
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図8 浦賀地区現地見学会案内図(井上ほか,2016)
横須賀市発行1/1万地形図にコースを追記
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写真8 東浦賀−西浦賀を結ぶ渡船
写真9 西浦賀の関東大震災慰霊塔
(2015年10月井上撮影)
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者・行方不明者を出しました。海軍浦賀方面指揮官の戒厳令司令部の9月7日の報告(海軍省
公文備考T12-172によれば、
「蛇畑山崩レノタメ家屋埋没数十軒圧死者未発掘ノモノ多く交通全然途絶セリ速応急手段ヲ講スルコト。・・・」 9月7日の時点では救助作業は手つかずの状態であったことが分かります。
蛇畑地区は、図8のI地区で、西浦賀の南側の愛宕山東側直下の海岸域、西浦賀1丁目に位置します。図9に示したように、神奈川県横須賀土木事務所が西浦賀1丁目A地区として、急傾斜地危険個所に指定しています。図9の上図は、関東地震2年前に修正された1/1万地形図「浦賀」図幅(1895年測図,1921年修正)です。図9の左図は、図9の平面図に20m間隔で引いた平行線毎の断面図で、地震による崩壊部分が凹地状の地形になっています。
現地見学会では、関東地震慰霊塔(地点H)を見学後、紺屋町地区の急斜面部に入り口のある愛宕山公園(浦賀園,地点J)に登りました。途中の石段からは、南側の蛇畑の斜面がよく見えました。関東地震時に地すべり性崩壊(崩壊土砂量7400万m
3,井上・伊藤,2006,井上編著,2013)を起こした地形状況が残存しています。公園の山頂部から南に回って行くと、蛇畑地区の地すべり性崩壊地形を観察できます。当地区では急傾斜地事業として、斜面末端部に擁壁工が施工され、斜面に中部には地すべり対策工が施工されています。
この付近には露頭があり、基盤を構成する逗子層の上に、厚さ数10cmの礫層(小原台砂礫層)が認められました。逗子層は小断層で切られており、多くの亀裂が発達し、斜面に対して逆傾斜となっています。写真7の米軍撮影写真では、蛇畑地区は関東地震前から地すべり地形が存在し、大正関東地震による激震で、下部斜面がかなり大きく崩落したと考えられます。
図9 西浦賀町一丁目A地区急傾斜地崩壊危険個所平面図と断面図(井上ほか,2016)
神奈川県横須賀土木事務所1/500地形図(1982年3月作成)
上図は1/1万旧版地形図「浦賀」図幅,1985年測図,1921年修正(1926年発行)
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写真10 現地見学会参加者(横須賀市港町公園)
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写真11 愛宕山公園に登る急階段
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現地見学会時に秋山晋二撮影 |
6.まとめ
2013年9月21日の横浜、2015年10月24日の横須賀・浦賀の現地見学会で、神奈川県東部の地形・地質状況と関東地震による土砂災害の関係が良く判りました。人家の背後には多くの急傾斜地対策事業が施工されています。しかし、これらの地区では関東地震時以上に多くの人家が密集していますので、ソフト・ハードを含めて、よりきめ細かな土砂災害防止対策が必要になると思います。
現地見学会では、同行して下さったジオ神奈川の会員,後援をして頂いた神奈川県地学会、資料提供をして頂いた神奈川県横須賀土木事務所、横須賀市総合福祉会館、浦賀コミュニティセンター分館などの関係各位に厚く御礼致します。
引用文献
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井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会,1923,1923関東大震災報告書,第1篇,p.50-79.
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井上誠(2012):Digital Elevation Modelから判読できる三次元地形・地質情報,日本情報地質学会2012年度シンポジウム,―地形・地質・地球物理学情報の三次元モデリング―
今井精一(2007):横浜の関東大震災,有隣堂,307p.
神奈川縣三浦郡浦賀町立尋常高等浦賀小學内職員懇話会(1915):大禮記念浦賀案内記,信濃屋書店,横須賀市.
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中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2006):1923関東大震災報告書,第1篇,p.50-79.
内務省社会局(1926):大正震災志寫眞帖,上巻,1236p.,下巻,836p.,附図,20図葉,写真帖,166p.
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横浜市役所市史編纂係(1926-27):横浜市震災誌,第壹冊,120p.,第二冊,199p.,第三冊,651p.,第四冊,491p.,第五冊,665p.
参考文献
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