1.第2回 秦野盆地・震生湖の現地見学会
いさぼうネットのコラム37と38では、横浜(第1回)、横須賀(第3回)の現地見学会の報告を含めて、関東大震災の神奈川県東部の土砂災害について、説明しました。2014年9月27日(土)に第2回シンポジウムと現地見学会として、「関東大震災による秦野盆地と大磯丘陵の土砂災害,―秦野駅から震生湖周辺を歩く―」を開催しました(井上・相原・笠間,2015)。27日の午前中、シンポジウムは秦野市南公民館で行い、発起人の3人が次のテーマについて説明しました(参加者41名)。
1) |
井上公夫:関東地震とその後の豪雨による秦野付近の土砂災害 |
2) |
笠間友博:大磯丘陵付近の地質,―とくに関東ローム層について― |
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相原延光:関東地震前後の気象状況 |
シンポジウム終了後、図1 震生湖周辺の現地見学会のルートに従って、震生湖まで歩いて行き、周辺の地形・地質状況や慰霊碑などを観察しました。
また、本年(2017)の7月1日(10〜12時)に秦野市立桜土手古墳展示館の平成29年度第1回ミュージ
図1 震生湖周辺の現地見学会のルート(秦野市1/1万地形図にルートと観察地点を追記,井上ほか,2015)
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アムさくら塾で、「秦野周辺の土砂災害とその対応,〜富士山宝永噴火(1707)と関東大震災(1923)〜」と題して話をしました。ここではこれらの準備と当日得られた情報なども含めて、関東地震による丹沢山地周辺の土砂災害について説明します。
2.神奈川県震災荒廃林野復旧事業図と土砂災害地の分布
コラム37の図1に示したように、神奈川県西部は、小田原市根府川駅の地すべりと白糸川の土石流災害(コラム40で説明します)もあって、37箇所、死者650人、行方不明者74人と極めて大きな土砂災害が発生しました。
図2は、
神奈川県震災荒廃林野復旧事業図(1930,丹沢山地,神奈川県森林再生課蔵)で、丹沢山地・箱根火山地域の山地の荒廃状況と昭和4年(1929)までに実施された荒廃林野復旧事業の施工地(緑色箇所)が描かれています。日本で最初に作成された土砂移動分布図で、崩壊地や地すべり地の分布状況が良く判ります。
墨で塗られた部分は御料地で、『帝室林野局五十年史』によれば、明治23年(1890)に御料に編入された時点では、「極めて地力に富み且其地の東京に近きを以て緩急の用を資するに足るべし」と表現されていることから、相当な天然林の賦存があったものと思われます。その後、伐採事業が行われ、大正13年(1924)の武田久吉博士『丹澤山塊概説(三)』では、「明治の晩年から御料林の払い下げと共に村有林の伐採も激烈を極め、・・・玄倉川上流を初め大又沢と大棚沢(※この3つの沢は西丹澤の御料地です)に於いて、御料林の乱伐が大規模に行われてから、山地は憐れむべき状況となって、瀕死の病人にも比すべき有様である。」と記しています。
諸戸北郎博士は関東大震災の崩壊地について、「崩壊地は幼年の造林地及伐採跡地に多く老壮令の天然林に少なし」と「震災予防調査報告書,第100号乙」で指摘しています。
県への御下賜は昭和6年(1931)に行われ、西丹沢の中川から東丹沢まで、当時の御料地のほぼ2/3の地域であり、当時は「恩賜県有林」と表現し、神奈川県林務課に属していました。西側の世附国有林は、昭和22年(1947)4月に小田原営林署の管轄となり、昭和23年(1948)4月に平塚営林署に統合されています。現地点では恩賜県有林は、神奈川県自然環境保全センター所管、世附国有林は東京神奈川森林管理署所管となっています。
かなり荒廃した状況になっていた丹沢山地に、関東地震(9月1日)、台風による集中豪雨(9月12〜15日)、翌年の丹沢地震(1月15日)の影響が重なり、崩壊や土石流が多発して、荒廃した状況になったようです。
緑色で示された崩壊地は、関東地震から7年経って山腹工などの治山工事がほぼ完了した箇所です。
○数字は関東地震直撃による土砂災害、
●数字は震災から2週間後の豪雨による土砂災害(井上・伊藤,2006,井上編著,2013)を示します。表1は図2に示した土砂災害地点の一覧表で、左欄は地震直撃による土砂災害、右欄は地震後降雨による土砂災害地点を示しています。
図3は、関東地震による崩壊面積率(土木研究所,1995,井上,2000)で、神奈川県企画総務室(1989):
土地分類調査,1/5万自然災害履歴図,「秦野」「山中湖」小田原」「御殿場」図幅などをもとに作成しました。主な渓流の流域毎に災害履歴図を区切り、崩壊面積率を計測したものです。図2と図3を見比べると、丹沢山地、特に秦野盆地に面した丹沢山地の南斜面での崩壊は極めて多く、崩壊面積率が30%を超えています。特に高いのは、丹沢山地の寄(やどりき)沢で48.0%、水無沢で41.1%、四十八瀬川で38.3%にも達しました。丹沢山地全体(調査面積773km
2)での崩壊面積率は13.7%となり、山口・川邉(1982)が求めた15.2%と調和的です。丹沢山地での関東地震による生産土砂量は、崩壊地の面積が106km
2であるので、平均崩壊深を1mと仮定すると1億600万m
3にも達したことになります。
図3にも示したように、関東地震から4,5箇月後の大正13年(1924)1月15日にM7.2の丹沢地震が発生しており、この地震でも崩壊や土石流が多発したと言われていますが、関東地震と分離して分析した報告書は見つかっていません。きちんと2つの地震による土砂災害を分離できると良いのですが、今後の課題にしたいと思います。
内務省では、大正13年(1924)から
「直轄震災復旧砂防事業費」を新設し、10箇年計画を策定して、酒匂川流域など5河川において、内務省直轄の砂防事業を実施しました(建設省河川局砂防部,1995)。この砂防事業は昭和12年(1937)まで14年間も続けられました。大正12年度(1923)の全国の直轄砂防事業費が25.1万円であったのに対し、大正13年度(1924)のそれは70.8万円と3倍にも達しました。相模川流域などの直轄砂防事業費は48.7万円にもなりましたので、関東大震災後の対策が重要視されていたかが判ります。
図2 神奈川県震災荒廃林野復旧事業図(1930,丹沢山地,神奈川県森林再生課蔵) 関東地震による土砂災害地点を追記(伊藤・井上,2006,井上編著,2013)
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表1 関東地震による土砂災害地点一覧表(伊藤・井上,2006,井上編著,2013に追記)
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3.関東地震前後の台風襲来と土砂災害の激化
関東地震当時は、中央気象台では各地方気象台から1日3回の気象観測データを無線(モールス信号)で受信し、それらの気象データを整理して、数時間後に天気図を作成していました。気圧配置から高気圧や低気圧の中心をもとめ、風向きと気温の急変するところに
「不連続線」を設定し、それが低気圧を伴っていると考えていました。颱風は
「暴風雨」としてその発生地点と転向点から認定しているが、天気図では他の低気圧を含めて、「低」と記載されています。
相原(2013)によれば、図4の8月30日12時の天気図では、台風は九州の南西海上にあり、富山県付近に小さな低気圧が発生しています。図5の8月31日6時の天気図では、等圧線と等温線の曲がりが引かれています。このことから、前線(天気図に破線で追記)に向かって、北東側の寒気が湿った暖気の下に流れ込み、上昇気流が生じていて丹沢や箱根に豪雨をもたらしました。図6は9月1日6時の天気図で、神戸海洋気象台が作成したものです。関東地震発生直後も定時観測は行われていましたが、中央気象台は無線施設などが失われたため、機能できなくなりました。その後の震災報告書(気象編)には、詳細な局地天気図と東京のデータ解析が残されています。
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図4 1923年8月30日12時の天気図(中央気象台) |
図5 1923年8月31日6時の天気図(同左) |
相原(2013)で前線を追記
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図6 1923年9月1日6時の天気図 (神戸海洋気象台),相原(2013)で追記 |
図7 関東大震災が巨大災害となった原因である気象現象 中部日本の天気図と東京の温度変化 (相原,2017) |
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31日6時に有明海にあった台風は9月1日6時には能登半島南部まで達しており、その間に中心気圧は6mmHg(8hPa)上昇していることから、台風は勢力を弱めつつ、中国地方〜近畿地方を時速30kmで東北東に進んでいました。震災時(9月1日12時)には、台風(分裂して消滅している?)の南東側の雨雲はほとんど無くなっていたと思われます。
図7は、関東大震災が巨大災害となった原因である気象現象(相原,2017)を示しています。左図は9月1日18時、1日22時、2日10時における中部日本の局地天気図を示しました(藤原,1924に相原追記)。緑色で示す寒冷前線が南下したことで、東京の気温が低下しています。右図は東京の9月1日0時から9月2日12時までの気温変化と主な気象現象などを示しています(篠原,2006に相原追記)。9月1日15時には、横浜ではほぼ火災も一段落していました。風向きは南寄りの強風20〜30m/sでしたが、やがて無風状態になりました。横浜では16時、東京では17〜18時に気温が高まり、火災旋風による大惨事となりました。それ以降、2日の午前中は北風になったようです。
図8は大正12年(1923)8月31日(31日9時〜9月1日9時まで)の日降雨量(井上・伊藤,2006,井上編著,2013)を示しています。図9は9月12日〜15日の連続雨量(建設省土木研究所,1995,井上編著,2013)を示しています。コラム37で説明したプールの記録によれば、8月31日から9月1日の早朝までは、横浜でもかなりの降雨が降っていました。現在のように、山間部にアメダス観測点はないので、山間部ではもっと多くの雨量があったと思われます。
図2や表1に示したように、丹沢山地箱根火山地域では、関東地震直撃によって、多くの崩壊が発生するとともに、2週間後の9月14日〜15日の台風による豪雨によって、土石流が多くの渓流で発生し、激甚な被害となりました。
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図8 大正12年8月31日9時〜9月1日9時の日雨量 (井上・伊藤,2006,井上編著,2013) |
図9 9月12日〜15日の連続雨量 (建設省土木研究所,1995,井上編著,2013) |
4.大山の土石流災害
丹沢山地の最も東にある大山(標高1252m)は、雨乞いの山として信仰の熱い山です。南東側の谷沿いにある伊勢原市大山の集落は、阿夫利(あぶり)神社の門前町として現在も大変賑わっています。住民の多くは狭い谷間の門前町で暮らし、参拝客も大変多くありました。この付近の山間部では地盤が比較的固く、地震の揺れによる被害はわずかで、人的被害はほとんどありませんでした。ところが、図2に示したように、関東地震による激震によって、大山の山腹では無数の亀裂と多数の崩壊が発生し、多量の土砂が上流部の渓流に堆積しました。このため、多少の降雨でも崩壊が拡大し、土石流が発生しやすい状態となっていました。
このため、2週間後の9月12日〜15日の豪雨時に大規模な土石流(山津波)が発生し、下流の人家の大部分である140戸を押し流しました。図10は伊勢原市大山周辺で2週間後の豪雨による土石流災害の状況
図10 伊勢原市大山で地震発生14日後に発生した土石流災害(建設省河川局砂防部,1995)
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を示しています(建設省河川局砂防部,1995,井上編著,2013)。写真1は伊勢原市大山町開山町の土石流による被害(伊勢原市教育委員会蔵)です。
幸いなことに、この時には地元の警察官の指示により、地域住民は安全な場所に避難したため、死者1名のみでほとんど人的被害はありませんでした。しかし、土石流の通過した門前町は、阿夫利神社の社務所を含め、住宅などに大きな被害となりました。
5.関東地震による震生湖周辺の土砂移動状況
図11は、大磯丘陵の震生湖付近の1/2.5万の旧版地形図で、左図は関東地震前の大正8年(1919)測図、右図は関東地震後の昭和4年(1929)修正図です。左図で赤く塗色している箇所は、関東大震災時に焼失した秦野町の範囲を示しています。図1の地点6では、関東地震による激震によって、大磯丘陵の谷壁斜面が大規模地すべりを起こし、市木沢を河道閉塞し、塞き止め湖が形成されました。この塞き止め湖は
「震生湖」と呼ばれて現存しており、秦野市の自然公園として市民に利用されています。震生湖という用語は、寺田・宮部(1932)には記載がなく、地元では地震直後から使われていたようです。昭和4年の修正図では
「震生池」と記載されています。
近くの丸山(図1の地点5)には、
「大震災埋没者供養塔大正十二年九月一日」が建立されています。関東地震が起こった12時頃、小学校(地点2の南部、現市立南小学校)から自宅のある小原(図11の左端)に帰る途中で、平沢峰(丸山)付近の北斜面の山道が崩壊し、2人の少女が生き埋めとなったという惨事が伝えられています。
小原に向かう峰坂は、斜面を切割って作られた幅1mほどの山道(図1で曲がりくねった赤点線で示されている)でした。
図11 震生湖周辺の旧版地形図(1/2.5万地形図「秦野図幅」) 左:1919年測図,右:1929年修正 (井上ほか,2015)
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図12 震生湖周辺の平面図(秦野市1/2500地形図「平沢2」),井上ほか(2015)
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雨の時には山道が流路になることもありました。谷形の深いところは5〜6mあり、崩れやすかったようです。旧道の一部は今でも農作業用の歩道に使われているが、崩壊痕跡は残っていません。新道の自動車道は昭和5年(1930)に秦野から中井への幹線道として開通しました。村の消防団・青年団の人達が数日間発掘にあたったが、少女たちの遺体や所持品・履物は何一つ見つかりませんでした。井上編著(2013)では、震生湖地すべりと区別していなかったため、いさぼうネットのコラム37の表2では、死者・行方不明者を2名追加しました。
図12は秦野市の1/2500平面図「平沢2」で、これをもとに震生湖周辺の地形情報を計測しました。震生湖への流入面積はかなり狭く、15.3万m
2しかありません。震生湖地すべり地は、面積3.9万m
2、平均崩壊深を5mと仮定すると、全移動土砂量は19.6万m
3と推定されます。現在の震生湖(湛水面標高152.7m)は、秦野市史編纂室(1987)による「震生湖の水深図」をもとに計測すると、湛水面積1.6万m
2、水深9m、湛水量6.0万m
3となります。湛水量は地すべり移動土砂量の1/3程度であるため、震生湖への雨水の流入量と地すべり土塊への浸透水のバランスが取れ、現在まで決壊せず、残っているものと判断されます。しかし、蒸発散量や下流への流出量を無視すると、満水位12m(湛水量11.8万m
3)の状態には、490mmの連続降雨量で到達するので、注意が肝要です。
6.震生湖周辺の地質状況
大磯丘陵には箱根火山・富士火山からの噴出物が数百mも厚く堆積したが、震生湖の地すべり土塊はほとんどが風化した火山砕屑物(テフラ)からなります。図13に示したように、秦野盆地と大磯丘陵の間には、東西方向の
渋沢東断層が走り、50〜100mの撓曲崖が続いています。また、大磯丘陵の震生湖付近には、北東−南西方向の
柄沢北断層が認められます(平塚市立博物館,2007)。
図1の地点4(撓曲崖の中段付近)には、京都大学防災研究所の千木良雅弘教授から教えて頂いた露頭(ゴミ焼却場所)があり、地質状況がよく判ります。現地見学会では写真2の露頭を見ながら、地質状況を詳しく観察しました。
この露頭では、
三浦パミス層MPと
東京軽石層TP、軽石流堆積物T(pfl)が観察でき、震生湖地すべりとの関係が議論されました。この噴出物は6.6万年前に箱根火山が大規模噴火によって降下・堆積したものです。軽石層は南関東一円に広く分布し、軽石流堆積物は神奈川の東部・横浜付近まで堆積しています(笠間,2009,笠間・山下,2009)。写真2の写真は地質コンサルタントの土志田達治が現地見学会時に撮影加筆した写真で、断層の形状について、現地見学会で様々な議論を行いました。
その後、10月12日に、井上・相原・茅野光廣(ネオテクノエンジニアリング)の3人で現地調査を行いました。写真3の写真は相原延光が撮影加筆の写真です。白く帯状(厚さ40cm)に見えるのが東京軽石層TPで、その上位に軽石流堆積物T(pfl)が分布します。この付近の軽石流堆積物は厚いところでは10m以上の層厚がある筈ですが、上部は侵食され、不整合で新しい降下火山灰層などが乗っています。この露頭から、以下のような形成史が議論されました。
@MPおよびスコリア、長石リッチのローム層の堆積→A正断層形成(垂直落差50cmで上部は少し丸みを帯びている)→BTPが降下し、断層を覆う→CT(pfl)が堆積し、TP上部が削剥され地表が平坦化→D上部削剥、富士山の火山灰などが被覆。すなわち、この断層運動(地震)直後に箱根火山が大規模噴火し、軽石層TPと軽石流堆積物T(pfl)が堆積したことになります。
残念ながら、道路擁壁が建設されて、この露頭は消滅しました。
図13 大磯丘陵周辺の地形と活断層の分布(平塚市博物館,2007,井上ほか,2015で震生湖を追記)
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写真2 震生湖北部の露頭(図1の地点4) (土志田達治9月27日撮影加筆、井上ほか,2015)
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写真3 震生湖北部の露頭(図1の地点4) (相原延光10月12日撮影加筆,同左)
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7.震生湖地すべりの発生機構
写真4は米軍が昭和21年(1946)8月15日に撮影した白黒写真、写真5は国土地理院が昭和52年(1977)12月28日に撮影したカラー航空写真を立体視できるように加工したものです。米軍の写真は、震災から23年後の写真で、震生湖地すべり地の頭部の滑落崖の状況がほぼそのままの状況で残っていたことが分かります。1977年の写真では地すべり地の中にゴルフ練習場が開設され、滑落崖方向に打ち出すようになっています。当時は植生があまり繁茂しておらず、滑落崖の状況がよく判ります。現在、ゴルフ練習場は解体され、太陽光発電施設が建設されました。
写真4 震生湖周辺の米軍撮影写真 1946年8月15日撮影, R227, 56, 57
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写真5 震生湖周辺の国土地理院写真 1977年12月28日撮影, CKT-77-1, C14A-18. 19
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図14は、寺田・宮部(1932)による震生湖地すべり地の実測平面図です。図15は震生湖地すべりの断面図(断面位置は図14のP-Q測線)で、西側の震生湖の湖面水位を基準(0m)として描かれています。一点鎖線は地震前の地形を示しています。
図16は、図12に示した測線に沿って描いた断面図です。A-A’断面は震生湖地すべり地の外であるので、地震前の断面形状を示していると判断されます。B-B’断面は震生湖地すべりの中心測線で、一点鎖線はA-A’断面を投影した地震前の地形を示しています。
震生湖は大磯丘陵の北辺に位置し、東西に走る渋沢断層の撓曲斜面とは反対側の市木沢に面した南向き斜面に位置します。大磯丘陵は箱根火山と富士火山起源の火山砕屑物からなるため、震生湖地すべりの移動土塊は、主に風化した火山砕屑物からなります。
3項で述べたように、関東地震直前の8月31日から9月1日の午前中まで降った雨量は60mm程度ですが、火山砕屑物はかなり湿潤状態であったと考えられます。このような状態の時に、関東地震時の最初の激甚な縦揺れ(P波)を受け、すぐに横揺れ(S波)を3分間も受け続けました。恐らく1000ガル以上の重力加速度を受け、一時的に浮き上がるような状態になってから、全体が崩れ落ちるように急激な地すべり変動を起こしたと考えられます。
これに対して、移動土塊は粘着力のある土層であるので、浮き上がる可能性は少なく、激しい横揺れによって、すべり面角度が小さくても、水平に大きく変動する可能性もあるという意見も出されました。
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図14 震生湖の崩壊地の実測平面図 (▲は平板測量の実測平面図) |
図15 図13におけるP-Qの断面図 (一点鎖線は地震前の谷のプロファイルを示す)
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図14,図15とも寺田・宮部(1932)
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図16 震生湖地すべりの横断面図
秦野市1/2500地形図「平沢2」(図11)
をもとに作成(井上ほか,2015)
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8.むすび
コラム39では、関東地震直撃と2週間後の豪雨による土砂災害について説明しました。地震直撃だけでなく、地震前後の降雨状況との関連を検討する必要があります。
震生湖地すべりの形態はかなりはっきりとわかってきたが、地すべり発生機構について、議論をまとめることができませんでした。この点については、ボーリング調査などを実施することにより、不動地と移動体との境(すべり面?)を明確に把握してから、再度考察する必要があります。ボーリング孔を利用して各種の試験を行うとともに、ボーリング孔の水位観測(震生湖の水位も含む)を行い、降雨量との関係を把握すべきだと思います。
2016年2月6日の朝日新聞で、京都大学防災研究所の千木良雅弘教授らが2本の調査ボーリングを行ったことが報道されていました。地下17m付近に東京軽石層(TP)を認め、関東地震で動いた部分の下部にあった軽石層がすべり台のようになったと記しています。千木良教授は、「風化して軟らかくなった軽石層に雨が浸透すると滑りやすくなる。地震がきっかけに地すべりが多発する恐れがあり、点検が必要だ」と指摘しています。
現地見学会の事前調査で、震生湖地すべりの下流側(東側)末端部には、腰止め擁壁(一部は破損)が建設され、直径20cm程度のパイプが敷設されていることを確認しました。これらのパイプからかなりの湧水が認められました。当地域は秦野市の市民公園となっており、今後の豪雨や地震発生時に震生湖地すべりの安定性をきちんと監視する必要があると思います。
写真6 第2回現地見学会「秦野駅から震生湖周辺を歩く」の参加者(井上ほか,2015)
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引用文献
相原延光(2013):2.5 関東地震前後の天候状態,井上公夫編著:関東大震災と土砂災害,古今書院,p.27-31.
相原延光(2015):よこはま防災町歩き,―O. M. プールの避難ルートをたどる―,防災塾だるま十周年記念講演,PPT配布資料.
相原延光(2017):関東地震時のO. M. プールの行動,『横浜の地形・地質を中心として』,第374回資源セミナー,PPT配布資料.
井上公夫(1995):関東地震と土砂災害,砂防と治水,104号,p.14-20.
井上公夫(2000):4.3 関東地震,中村浩之ほか,地震砂防,古今書院,p.60-70.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
井上公夫(2013):関東大震災・横浜の現地見学会報告,―1923年9月1日のプールの逃避行ルートを歩く―,地理,58巻12号,口絵,p.8,本文,p.82-91.
井上公夫・相原延光・笠間友博(2015):関東大震災・現地見学会,秦野駅から震生湖周辺を歩く,地理,60巻2号,口絵,p.6-7.,本文,p.68-76.
井上公夫・伊藤和明(2006):第3章1節 土砂災害,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会,1923関東大震災報告書,第1編,p.50-79.
内田一正(2000):人生八十年の歩み,内田昭光編集,関東大地震,p.1-20.
内田宗治(2012):関東大震災と鉄道,新潮社,239p.
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神奈川県(1927,復刻1983):神奈川県震災誌及び大震災写真帳,神奈川新聞出版局,写真,32p.,本文,848p.
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関東地震による土砂災害を語る会(2014):関東大震災による秦野盆地と大磯丘陵の土砂災害,―秦野駅から震生湖周辺を歩く―,60p.
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建設省土木研究所(1997):地震による大規模土砂移動と土砂災害の実態に関する研究報告書,建設省土木研究所資料,3501号,261p.
篠原雅彦(2006):第3節 大規模火砕流の延焼性状と被害の分布,中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会:1923関東大震災報告書,第1編,p.180-206.
武田久吉(1924):丹澤山塊概説(三),科學知識、86p.,科學知識普及協會
寺田寅彦・宮部直巳(1932):秦野に於ける山崩れ,地震研究所彙報,10号,p.192-199.
秦野市(1992):秦野市史,通史編,3 近代,806 p.
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参考文献
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藤原咲平(1924):関東大震災調査報告(気象編),中央気象台,161p.