1.根府川・白糸川流域の現地見学会
『関東大震災と土砂災害』(井上編著,2013年9月1日,古今書院発行)の原稿執筆時の平成24年(2012)12月14日(金)〜15日(土)に13名の参加で、小田原市根府川・白糸川流域の現地見学会を行いました(内田・井上,2012)。関東地震当時10歳だった内田一正(2000)の手記と測量図(1975)で、根府川集落を襲った白糸川の土石流について、正確な情報が得られました。土石流の発生源は大洞(おおぼら)と呼ばれ、明瞭な痕跡地形が残っています。ご子息の内田昭光氏が地元で経営されている
「ホテル離れの宿・星ヶ山」に宿泊し、14日夜のシンポジウムでは以下の話題提供がありました。
井上 公夫:神奈川県西部・白糸川の大規模土砂災害 |
平田 大二:箱根地区の日本ジオパーク認定 |
西本 晴男:「土石流」の起源 |
鈴木 比奈子:災害の復元をこころみる |
関東大震災による土砂災害を語る会(井上・相原共同代表)では、本の出版後いさぼうネットのコラム37〜39で紹介したように、3回のシンポジウム・現地見学会を開催しました。第4回のシンポジウム・現地見学会として、平成28年(2016)6月10日(土)〜11日(日)に、
『小田原市根府川の白糸川流域を歩く』を実施しました(井上ほか,2016,参加者8名+地元の方6名)。10日夜は「ホテル離れの宿・星ヶ山」に宿泊し、シンポジウムでは、以下の話題提供がありました。
井上 公夫:関東地震とその後の豪雨による箱根周辺の土砂災害 |
山口 珠美:箱根火山の形成史と現在の噴気活動 |
相原 延光:関東地震前後の気象状況と土砂災害 |
森 慎一:相模湾の海底地形から見た県西部域のテクトニクスと地質 |
2016年の現地見学のコースを図1に示します。
2.小田原−熱海間の交通の発達
小田原−熱海間は、箱根火山の外輪山が相模湾に面して急峻な地形をなしています。この間の海岸線の美しさは、外国人向けの『旅行案内』に、
「日本の代表的な景勝である」と紹介されています(加藤,1995)。明治14年(1881)に小田原−熱海間の県道が開通したが、人力車で5時間もかかりました。国鉄東海道線の横浜−国府津間は、明治20年(1887)7月に建設されました。外国人を含め、箱根温泉の湯治客が増加したため、
小田原馬車鉄道が明治21年(1888)に国府津−小田原−箱根湯本間の鉄道を建設しました。小田原−熱海間については、
豆相人車鉄道が明治29年(1896)年にトロッコ鉄道を開通させました。この鉄道の実物模型がホテル星ヶ山に動態展示されています。
写真1(内田,2000)に示したように、1両の客車を3〜4人の押し手が登りは押すという極めて原始的なものでした(小田原−熱海間4時間)。登り坂にかかると、下等の客は降りて押し手と一緒に押さなければなりませんでした(芥川,1922)。この人車鉄道が一番繁盛したのは、日露戦争(1904〜1905)
図1 現地見学のルート(1/2.5万「小田原南部」,「箱根」図幅(2015年3月発行)に追記)
@ 根府川駅→A岩泉寺・慰霊碑→B釈迦堂・釈迦像→C白糸川河口の地形→D根府川駅横の慰霊碑→E根府川駅上の地すべり→Fホテル星ヶ山(人車鉄道を見る)→Gターンパイク・林道→H大洞上部→I小田原城C.C.→J大洞崩壊地→白糸川を歩いて下る→A岩泉寺・慰霊碑→@根府川駅
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の頃で、湯河原、熱海の温泉地に療養させるため、多くの傷病兵が運ばれました。この頃には蒸気機関車で牽引しており、機関車は現在熱海駅前のロータリーに展示されています。
東海道線(現御殿場線)は輸送量が増加するにつれて、輸送が困難となりました(単線区間で御殿場付近では標高500mの峠を越えた)。このため、丹那トンネル(全長7804m)を通るルートの建設が大正2年(1913)に決定されました。
熱海線は将来の東海道線として、国府津−小田原間が大正9年(1920)、小田原−真鶴間が大正11年(1922)に開通しました。図2は1/2.5万の旧版地形図「小田原」図幅で、左図は大正5年(1916)測図、右図は昭和8年(1933)修正測図です。小田原市石橋〜江ノ浦間は、風光明媚と言われた地形を示しています。大正5年の地形図では、細く曲がりくねった県道と人車鉄道が描かれていますが、昭和8年の修正図では、熱海線(東海道線)がゆるやかなカーブの太線で描かれています。
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写真1 小田原−熱海間の人車鉄道 (内田,2000) |
写真2 ホテル星ヶ山で復元された人車鉄道 (内田昭光氏提供) |
図2 1/2.5万旧版地形図「小田原」図幅(左:1916年測図、右:1933年測図)
(関東地震前後の小田原市石橋〜江ノ浦間の地形と土地利用の比較)
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3.白糸川を流下した大規模土石流災害
このような状況下で、大正12年(1923)9月1日に関東地震を迎えることになりました。図3は1/5万の
震災地応急測図「小田原」「松田総領」図幅で、関東地震による被災状況が克明に描かれています。本図は、参謀本部陸地測量部が震災直後の9月6日〜15日という短期間に延べ94人もの要員を配置して作成した応急測図63枚の一部です。
「小田原」図幅(1866年測図,1916年修正測図,1921年鉄道補入)、
「松田総領」図幅(1888年測図,1896年修正測図)の地域は、関東地震による激甚被災地域で、赤字で記載事項が多く記入されています。前者で2枚、後者で3枚の応急測図が存在します。国鉄東海道線(現JR御殿場線)や国道1号線(東海道)が通っているため、鉄道や道路の被害や復旧工事の必要日数などが詳細に記載されています。また、小田原から伊豆半島の東海岸に向かっては、箱根地区(東海道)とは別の調査隊員が調査し、応急測図を作成しています。本図は、上記の応急測図を重ね合わせて作成したものです(歴史地震研究会,2008,井上,2008,井上編著,2013)。
図5は、当時10歳だった内田一正氏が50年後の1975年に、
平面図・縦断面図・横断面図に関東地震時の大規土砂移動の状況を描いた図(神奈川県立公文書館蔵)です。白糸川上流部の大洞の大規模(深層)崩壊から白糸川を高速で流下した土石流(岩屑なだれ)と根府川駅の地すべりの状況を示しています。横断面図には白糸川の屈曲した河谷を流下した土石流の流下状況(ボブスレーのように)が描かれています。
図3 震災地応急測図1/5万地形図「小田原」「松田総領」図幅
(歴史地震研究会編集,日本地図センター発行,2008,井上編著,2013)
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図4 白糸川流域(根府川集落と根府川駅)の土砂災害状況図(内田一正,1975原図)
(神奈川県立公文書館所蔵,井上編著,2013でレイアウト編集)
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写真3 岩泉寺の大震災慰霊碑
(2012年井上撮影) |
写真4 白糸川沿いの釈迦堂(この下2mの左側壁面に
釈迦像がある)(2005年井上撮影)
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平成28年(2016)の現地見学会では、最初に白糸川の下流部の土石流の流下状況と被災状況を調査し、
A岩泉寺(写真3)と
B釈迦堂・釈迦像(写真4)などを見学しました。釈迦堂は、内田氏が根府川石溶岩(箱根火山起源)に刻まれていた釈迦像(地下2mにある)のことを思い出し、掘り起こしてお参りできるように建立したものです。国道136号の真鶴道路の白糸川橋梁のドライブインから200mほど白糸川を上った地点に釈迦堂はありますので、熱海から伊豆方面に行かれる時には、根府川ドライブインで休憩して、お参りしていただきたいと思います。
写真5は震災前の根府川集落と建設中の国鉄白糸川橋梁、写真6は根府川集落を埋没させた土石流の流下・堆積状況を示しています(神奈川県,1927)。この土石流で根府川集落91戸のうち、72戸が埋没しました。人家の名前は内田氏が当時の戸主の名前を思い出して追記したものです(内田,2000)。写真6の@は落橋した熱海線の鉄橋です。手前には開削した箇所にトロッコのレールがありますが、
豆相人車鉄道ではなく被災者が土石流堆積物や家財などを搬出するために敷設したようです。
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写真5 震災前の根府川集落と建設中の白糸川橋梁 |
写真6 根府川集落を埋没させた土石流 |
(神奈川県,1927,復刻,1983,戸主の名前などは内田,2000で追記) |
4.大洞の大規模(深層)崩壊
白糸川の土石流を流下させた源頭部は大洞(おおぼら)と呼ばれ、関東地震以前から崩壊現象は発生していたようです。図1に示したように、現地見学会ではマツダターンパイク経由で林道を通り、尾根部の踏み分け道を地元の方に案内していただきながら、大洞の上部(地点H)に到達しました。写真7は井上が2005年2月に撮影した大洞の崩壊源頭部です(冬場でない
と葉が生い茂り、撮影できません)。写真8は、航空写真(国土地理院1962年11月13日撮影, MKT-62-3X,C6-10,11)を立体視できるように加工したものです。井上編著(2013)で詳述したように、大洞の上部斜面には多くの直線状の凹地があるので、現地案内して頂いた地元の方々に、今後の地震や豪雨などの際には留意していただきたいと伝えました。
写真9は、復興局(1927)に挿入されていた大洞付近の崩壊直後の写真(鉄道省の職員が北側から撮影)で、
「熱海線白糸川の断層」というタイトルがついています。植生が繁茂していないため、上部の滑落崖と左側の流れ山(小丘)地形が明瞭に認められます。写真10は大洞崩壊地下部の流れ山地形を2012年12月15日に相原が撮影したものです(井上編著,2013)。
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写真7 大洞の崩壊源頭部 2005年2月井上撮影 |
写真8 大洞付近の立体航空写真(国土地理院1962年11月13日撮影) MKT-62-3X, C6-10, 11(井上編著,2013) |
写真9 熱海白糸川の断層(大洞崩壊地と崩壊地下部の流れ山(小丘)の地形(復興局,1927)
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写真10 大洞崩壊地下部の流れ山地形(2012年12月15日相原延光撮影,井上編著,2013)
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ホテル星ヶ山に戻り昼食後、小田原城カントリークラブ(図1の地点I)に行き、クラブハウスの2階から屋根に上がり、写真を撮らせて頂きました(写真11,12)。今まではクラブハウス入口付近の林道で撮影していたが、林道付近の森林が育ち、ほとんど見えなくなりました。北嶺・大洞の崩壊地形や箱根外輪山、足柄平野、大磯丘陵の地形がよく判りました。
その後、林道から大洞の崩壊地に踏み込んで、地形・地質状況を観察しました。図5は、平成24年(2012)12月15日(土)の現地調査後に、茅野(2013)が作成した大洞付近の平面図です。この大規模崩壊の土砂量は100万m
3と推定しました。この大規模崩壊は、崩壊地直下に小丘状の崩積土を残したが、大部分は白糸川との合流点まで流下し、白糸川を河道閉塞し、白糸川の流れを堰き止めたと推定されます。
内田(2000)によれば、
「本震の後、家族が皆揃ったその時、前の地震と同じ位の凄い地響きがし、2回目の地震がありました。ようやく地震が治まったその時、『寒根山が来た、逃げろ』のおじいさんの声とともに、北側の桑畠30mのところまで逃げ、振り返ってみると、その間1分もたたない
図5 大洞地区地形図(茅野,2013,番号を付した写真は,井上編著,2013参照)
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写真13 大洞崩壊地へ続く北嶺と南嶺 |
写真14 南嶺から大洞崩壊地上部を望む |
(ゴルフ場に向かう東側の林道より,2013年4月13日茅野光廣撮影) |
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写真15 南嶺上のテンションクラック状の溝 |
写真16 南嶺東側上部にある溝 |
(2013年4月13日茅野光廣撮影) |
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写真17 北嶺の崖上部の状況 (2013年4月13日茅野光廣撮影) |
写真18 車線より上部が板状節理の顕著な部分
右側がマッシブな部分
(2013年2月28日茅野光廣撮影)
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うちに、今まで居った私の家はもちろん部落のほとんどが赤土の中に消えてしまったのです。」と地震動と土石流を記録しています。
関東地震(M7.9)は、9月1日11時58分32秒に発生し、震動は1分位続きました。その後、余震が何回も続きましたが、12時3分に山梨県東部で余震(M7.3)がありました。相原(2013)が関東地震当時の気象状況を調査しており、コラム39で詳述しました。8月31日から9月1日早朝までかなりの豪雨がありました。大洞から流下した白糸川を河道閉塞した土砂は、数分のうちに背後の天然ダムは満水となったため、閉塞土砂が決壊して土石流となって流下しました。閉塞地点の標高は400m、根府川の集落まで3.3kmを5分程度(時速40km)で流下したと考えられます。
5.根府川付近の段丘面
今回の現地見学会の結果、根府川駅周辺には従来は知られていなかったが、図6に示したように、4段の平坦面が分布していることが分りました。海岸部の平坦面の構成層には水平層を確認できないことから、隆起波食台(海岸段丘)と考えられます。その連続が白糸川沿いにも認められることから、河成段丘も含まれると推定されます。これらを上位より、T,U,V,W面としました。
最高位のT面は、片浦中学校、片浦小学校、白糸橋北側に分布し、標高88〜95mを有します。中位のU面は、白糸橋北側から寺山神社、片浦小学校東側に連続する標高60〜74mの面です。V面は、U面より10mほど低く、岩泉寺から根府川駅付近に分布し、標高45〜52mを有します。低位のW面は、根府川駅東方、根府川トンネル南側の海岸沿いに分布する標高12〜15mの面です。
現地調査では、T面の海食崖およびT・U面の波食台基底には根府川石溶岩(Kuno,1938)が確認されました、釜井(2006)の柱状図と併せ考えると、T面の段丘崖には根府川石溶岩が、U面の段丘崖には大根溶岩が分布することから、T面は根府川石溶岩を侵食する海成段丘(隆起波食台)であり、U面は根府川石溶岩ないし根府川石溶岩下位の火砕岩を基底とする海成段丘(隆起波食台)と考えられます。V面は大根溶岩上面を基底とし、W面は根府川石溶岩を削り込んだ波食台です。
図6 根府川付近の段丘と根府川駅地すべりの平面図(森慎一作成,井上ほか,2016)
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これらの平坦面の構成層のテフラが未確定なので断定できないが、標高からT面をS面(下末吉面・吉沢面)に、U面をM1面(小原台面・相模原1面)に、V面をM2面ないしM3面(相模原2面ないし相模原3面・三崎面)に、W面を縄文海進期の中村原面(沼面)に対比できると考えられます。今後、ボーリングデータなどの収集を行って行く必要があります。
6.根府川駅地すべりと段丘面
1923年大正関東地震では、これらの段丘面で地すべりが発生し、旧根府川駅と駅に停車していた下り列車が流されて、111名が犠牲となりました(武村,2009)。この地すべりは
根府川駅地すべりと呼ばれています。図6には、釜井(1991,2006)による3つの地すべり分布を示しました。
図7 根府川付近の段丘と根府川駅地すべりの平面図(森慎一作成,井上ほか,2016)
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図7に示したように、釜井(1991,2006)によれば、最も大規模な南側の地すべりは、片浦小学校の裏山に滑落崖があり、小学校付近に幅40m、長さ140mの陥没帯が形成されたと言われています。釜井に描かれている地すべりにより移動崩壊した集落は、この段丘面上にありました。この地すべりは、板状節理の発達する根府川石溶岩の波食台面(T面)あるいはそれに重なるテフラにすべり面があったと考えられます。小学校東側の崩壊堆積物が根府川石溶岩のブロックからなる(釜井,1991,2006)ことも、それを裏付けています。前項の段丘面と溶岩との関係から考えると、根府川地すべりは板状節理が卓越した根府川石溶岩からなるかつての下末吉期の海食崖が滑落崖となり、T面の段丘面上の堆積物が地すべりを起こして移動し、U・V・W面上に地すべり崩壊堆積物を堆積させたものと推定しました。波食台に水平方向の板状節理の卓越する根府川石溶岩が露出していることも、地すべり・崩壊を導いた要因の一つと考えられます。
なお、片浦小学校は大正3年(1914)に開校され、関東大震災で被災しました。平成27年(2015)に100周年を迎えました。写真19と20に示したように、片浦小学校へ登る階段の上に、関東大震災の10回忌の慰霊碑が昭和7年(1932)に建立されています。また、片浦中学校の地すべり滑落崖は、根府川石溶岩が露出していたようで、江戸時代には根府川石の丁場として利用されていました。
釈迦堂(図1の地点B)の壁面には、江戸時代前半に繰り返し地震が襲来し、大きな被害が発生したことが記されています。図6の平面図に示したように、現JR東海道線のすぐ山際には、日本の大動脈である東海道新幹線が白糸川を橋梁で通過しており、大洞付近で再び大規模崩壊が発生し、土石流が流下すると、新幹線を含めて激甚な被害が発生する危険性があります。
図5で示したように、大洞の上部斜面には直線状の凹地が多く存在するので、強い地震や豪雨を受けた場合には、行政や住民が一緒になってパトロールし、大規模崩壊の前兆現象を見逃さないようにする必要があります。
釈迦堂の釈迦像や各地に残っている慰霊碑は、このことを静かに語り続けているように思います。2回の現地見学会では、内田昭光氏やご家族、地区の人達と一緒に歩くことができ、大変有意義でした。深く感謝致します。
引用文献
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内田一正(2000):人生八十年の歩み,内田昭光発行,151p.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害,古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
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内田昭光・井上公夫(2012):関東地震(1923)時の神奈川県西部白糸川の大規模崩壊地の現地見学会,2012年12月14日(金)〜15日(土),東海道線根府川駅集合・解散,40p.
内田一正(1975):関東大震災による根府川集落(白糸川)の土砂移動状況図,神奈川県立公文書館蔵,ID2200700211〜218(内田昭光氏寄贈)
内田一正(2000):人生八十年の歩み,内田昭光発行,151p.
加藤利之(1995):箱根の近代交通,箱根叢書25,神奈川新聞/かなしん出版,235p.
神奈川県(1927,復刻1983):神奈川県震災誌及び大震災写真帳,神奈川新聞出版局,写真,32p.,本文,848p.
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Kuno, H(1938):Geologic map of Hakone Volcano and the adjacent areas, Geology of Hakone volcano and adjacent area, PartT.
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歴史地震研究会編集(2008):地図にみる関東大震災,―震災直後の調査地図の初公開―,日本地図センター発行,68p.
参考文献
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井上公夫・飯沼達夫・笠原亮一(2008):震災地応急測図による関東地震(1923)時の箱根火山・小田原地域の土砂災害(その2),第47回日本地すべり学会研究発表会講演集,p.299-300.
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内務省社会局(1988改訂版):写真と地図と記録でみる関東大震災誌・神奈川編,千秋社,750p.