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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム41 伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」
 
1.はじめに
 伊豆大島・元町では、平成25年(2013)10月16日の台風26号の襲来によって、死者36名、行方不明者3名、島内の建物被害は全壊73戸、半壊37戸という激甚な被害を受けました(消防庁応急対策室,平成26年1月15日現在,平成25年台風26号による被害状況について−第37報)。元町の集落は、延元三年(1338)の噴火により流出した溶岩台地(緩斜面部)の上にあります。他にこれほど大きな集落は大島には存在しません。その後、何回もの噴火・地震・豪雨によって、大きな被害を受けながらも、元町の集落は拡大して行きました。
 筆者は関東大震災から90周年にあたる2013年9月1日に、『関東大震災と土砂災害』(編著,古今書院)を出版しました。関東地震の震源地に近い伊豆大島にも関東大震災による土砂災害がある筈と考え、災害から40日後の11月29日~30日に伊豆大島を訪れました。伊豆大島文化伝承の会事務局長の藤井虎雄氏の協力を得て、大島町立図書館などで土砂災害史の史料調査や現地調査を行いました(井上,2014)。
図1 1/5万地形図「大島」図幅明治21年(1880)測図、昭和9年(1934)修正
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2.元町周辺の地形・地質特性と集落の発展
 図1は、明治21年(1880)測図、昭和9年(1934)修正の1/5万地形図「大島」図幅で、伊豆大島が元村・岡田・泉津・野増・差木地・波浮港の6箇村に分かれていた時の状況を示しています。明治41年(1908)4月に島嶼町村制が施行され、上記6箇村となりました。昭和30年(1965)に6箇村が合併し、大島町が発足しました。この時に元村は元町に改称されました。表1は、辻村・山口(1936)などをもとに、旧村(大字)別の面積・海岸線長、天保七年(1836)・大正5年(1916)・昭和10年(1935)・平成25年(2013,大島町役場のデータ)の人口を示しています。
 図2は、元町の火山噴火・土砂災害・大火の状況を示したものです。基図は国土地理院の1/1万火山基本図「伊豆大島T」(2006年測量)を用いました。延元三年の溶岩流の分布は、国土地理院(2006)の火山基本土地条件図「伊豆大島」から転記しました。昭和33年(1958)の狩野川台風襲来による山崩れ・浸水区域は、気象庁(1958)の図から転記しました。昭和40年(1965)の大島大火焼失区域は、東京都災害対策本部(1965),大島復興十年記念実行委員会(1975)などから転記しました。 昭和61年(1986)の大島割れ目噴火と溶岩流は、1/1万の火山基本図と火山基本土地条件図「伊豆大島」から読み取りました。平成25年(2013)11月16日の台風26号による崩壊地・土砂・流木流の流下区域は、国土地理院(2013)のHPから転記しました。
 図3は、井上誠氏に作成して頂いた傾斜量図(井上,2014)で、国土地理院数値標高モデル(5mメッシュ)のデータを用いて、作成しました。傾斜量図(脇田・井上,2011)は、明るさで傾斜量の程度を示し、地形をエッジ強調して、立体感を得やすくしています。これらの図と川辺(1998)の「伊豆大島火山
図2 伊豆大島・元町周辺の火山噴火・大火・土砂災害の分布(井上,2014)
図2 伊豆大島・元町周辺の火山噴火・大火・土砂災害の分布(井上,2014)
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図3 伊豆大島・元町付近の傾斜量図(5mメッシュ),井上誠氏作成
図3 伊豆大島・元町付近の傾斜量図(5mメッシュ),井上誠氏作成

地質図」を比較すると、伊豆大島・元町地区の地形・地質特性が良く判ります。火山土地条件図によれば、大島火山の外輪山斜面はかなり急で、多くの谷地形が発達しています。しかし、元町地区の背後斜面は、延元三年(1338)の溶岩流が分布しており、谷地形が消され、緩斜面となっています。その上に未固結の降下火砕物や崩壊・土石流堆積物が薄く覆っています。標高300~500mの斜面上部は30度前後の急斜面で、斜面下部に向かって緩傾斜になっています。
 図4は元町周辺の1/5万旧版地形図「大島」の明治29年(1896)、昭和9年(1934)、昭和54年(1979)、平成20年(2008)を並べたもので、元町周辺の集落の発展状況が良く判ります。左上図は1888年測図(1896年修正)で、新嶋(にいしま)村と記載されています。この当時の集落は海岸沿いの狭い範囲に限られています。明治41年(1908)4月に島嶼町村制が施行され、元村となりました。1934年の地形図では元村ですが、昭和30年(1965)に6箇村が合併し、大島町となると、元村は元町に改称されました。1979年と2008年の地形図では元町となっています。
 図5は、大島・元町の字切図(大島町史編さん委員会,2000)で、図6は明治35年(1902)の土地分類図(辻村・山口,1936)です。元町の集落の周りの緩斜面部は古畑と呼ばれる耕作地で、斜面上部の急斜面部は山林・共有地となっています。
図4 元町周辺の1/5万旧版地形図 左上:1896年,右上:1934年,左下:1979年,右下:2008年
図4 元町周辺の1/5万旧版地形図 左上:1896年,右上:1934年,左下:1979年,右下:2008年

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写真1 小田原−熱海間の人車鉄道<br>(内田,2000)
図5 1923年8月31日6時の天気図(同左)
図5 大島・元町の字切図
大島町史編さん委員会(2000)

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図6 明治35年(1902)の元町の土地分類図
辻村・山口(1936)

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3.「びゃく」による集落移転

 明治41年(1908)の島嶼町村制が施行される前、元村が新嶋(にいしま)村と呼ばれていたのはなぜでしょうか。伊豆大島文化伝承の会事務局長の藤井虎雄氏に面会し、大島町の歴史をお聞きするとともに、大島町立図書館で多くの本や資料を閲覧しました。
 立木猛治(1961)の『伊豆大島志考』によれば、「元町はかつて新嶋村と呼ばれており、文禄三年(1594)に「びゃく」におされて現在地に移転したと伝えられる。「びゃく」とは豪雨のため三原山山麓から地下水が噴流し、土砂、岩石を交えて押し流す山津波のことである。「下高洞(しもたかぶら)」(字オミドウ付近)に集落があったが、文禄三年(1594)の災害で新嶋に移転した」と記載されています。
 下高洞は図7に示したように、元町の南の大島火山博物館付近の台地から海岸付近で、遺跡A~Dが発掘されています(東京都大島町教育委員会,1996)。こられの遺跡には縄文時代から16世紀まで人類が居住生活していた痕跡があります。図8によれば、赤〇で示した垂れ下がった地層は、人為的地層改変の跡と考えられます。Y1,Y2,Y3(文禄三年よりも新しい地層)には、人為的改変の跡がみられません。このため、文禄三年(1594)以降は居住地域としては放棄されたことが分ります。
 大島測候所の元調査官・田澤堅太郎氏によれば、「文禄年間、伊豆大島では著しい火山活動の記録はないが、『東京市史稿』中の『日本気象総覧』に、文禄三年九月九日(1594年10月22日)江戸大風雨と記載されている。この大風雨は時期的に見て台風であり、この風雨によって下高洞集落が新嶋(現在の元町)に集落移転するきっかけになった。図2に示したように、佐久川やその北の新高沢(八重沢)の上流は、大島としては深いV字谷へと続き、標高200m以上では、20度を超える傾斜となり、最上部は最大38度にも達する。これほどの急な谷であれば、むしろ土石流が起こらない方が不思議であろう。」と説明しています(田澤,1988)。
 大島町史編さん委員会(2000)によれば、「和泉村(和泉浜は元町の北側)は延享年間(1744~48)に「びゃく」(山津波)によって埋没した。子孫は後に新嶋村に移り住み、家名を「ワガイ」と称し、和泉彦右衛門を名乗ったが、明治末年に家系が断絶した。」と記されています  
図7 下高洞遺跡A~Dの位置(東京都大島町教育委員会,1996)
図5 1923年8月31日6時の天気図(同左)
図7 下高洞遺跡A~Dの位置
(東京都大島町教育委員会,1996)

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図8 伊豆大島・下高洞遺跡B遺跡トレンチの地質スケッチ
田澤(1985)

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4.伊豆大島の方言としての「びゃく」
 「びゃく」については、以下の『大島方言集』の中に、かなり詳しい記載があります。
柳田国男編(1942初版,1977改版:伊豆大島方言集,国書刊行会,87p.(図9)
 ビャク:崖の斜面
 ビャクガクム:崖が崩れる
 ビャクガオス:山ずりして土砂が押し出す
藤井正二・元村読書会(1987):島ことば集−伊豆大島方言,第一書房,223p.
 ビャク:山津波(神奈川・千葉・茨城・東京多摩などの「はまことば」として使われている)
藤井伸(2013):しまことば集−伊豆大島方言,藤井晴子,伊豆大島文化伝承の会,362p.(図10)
 ビャク1:崖の斜面、崖そのもの
 ビャクガクム:崖が崩れる
 ビャクガオス:山ずり(活断層がずれることか)して土砂が押し出す。
 ビャク2:山津波、土石流、山崩れ、鉄砲水
図9 柳田国男編(初版1942,1977改版):伊豆大島方言集の表紙,国書刊行会
図10 藤井伸(2013):しまことば集 藤井晴子,伊豆大島文化伝承の会
図9 柳田国男編(初版1942,1977改版):
伊豆大島方言集の表紙,国書刊行会
図10 藤井伸(2013):しまことば集
藤井晴子,伊豆大島文化伝承の会

5.関東地震による岡田の崖崩れ
 現地調査や資料収集によって、地震による土砂災害事例を見つけることができました。元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)の元禄関東地震(小田原地震)時の大津波で、波浮のマール(9世紀の噴火で形成)の一部が崩れ、外海と繋がりました。その後、寛政十二年(1800)に秋広平六が崖を切り崩して、波浮港が建設されました。
 平成25年(2013)の台風26号災害から40日後の現地調査・資料調査で、立木(1961)『伊豆大島志考』の中に、岡田地区の崖崩れで3人が死亡したという記事を見つけました。岡田港の民宿「良作丸」に宿泊し(11月29日)、御主人から関東地震による崖崩れの位置をお聞きしました。ご主人(80歳,昭和8年(1933)生まれ)は、関東地震による崖崩れの位置を良く覚えており、図11右側の位置図を作成して頂きました。
 翌日、現地調査で地形状況を確認しました。岡田港に面した岡田集落は100m以上の急崖に取り囲まれています。関東地震時の崖崩れは、平成2年(1990)に完成した岡田トンネル(延長481m)の坑口付近のバイパス道路脇の丸久旅館(現在は旅館を営業しておらず、店舗となっている)付近で発生しました。
 岡田小学校(現在は統合されてさくら小学校に改称)は明治9年(1876)に開校しており、昭和51年(1976)に『岡田小学校百年誌』を発行しています。その中に地震の体験手記がありました。
 「大正12年(1923)9月1日11時58分、突如として大地震が起こった。私はその時、岡田村勝岬(米丸の下の海)で、2,3人の友人と波乗りをしていた。波に乗って岸まで来て、また沖に向かって泳いでいる時、強い地震があったのだが、私には感じられなかった。予定の岩に立った時、グラグラと岩が動いた。第1震の終わりの時だった。水面は腹まであった。岸の方を見た瞬間、土煙で村が見えなくなった。と同時に、燈台からから泉津方面までいっせいに土煙である。目の前のお んぶこしの2本の松の大木が真逆さまに落ちて、苗の根まで陸続きになった。今の丸久旅館の上の崖が大きく崩れて、4人の人が下敷きになって死んだ。岸から「津波が来るから早くあがれ」と、白井熊吉さんが大声で叫んでいた。見るとさっき腹まであった水は、足元の岩肌を出していた。津波の第1波は、地中にしみ込むように水がなくなるということを体験した。急いで150m位を岸まで駆けて家までたどり着いた時、第1波の津波によって、海岸の土堤にたたきつけられた。黒い波だった。それは水とともに、浜の砂が降ってきたのだった。
図11 岡田地区の関東地震(1923)による崖崩れの位置図(井上,2014a)
図11 岡田地区の関東地震(1923)による崖崩れの位置図(井上,2014a)
左図:1/1万火山基本図「伊豆大島T」  右図:民宿主人の案内図

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 母と妹の3人でころがるように逃げて、塚の本まで行った時、海を見ると第2波が終わって、港に挙げてあった船が流されて行くのが目に映り、今でもユラユラと流れてゆく船の姿が目に焼き付いている。その船はどこまで流れていったのか、消息を聞いていないが、悲しい思い出として、いつまでも残っている。その後何回も地震があって、夜は1週間位外に寝た。横須賀・東京方面の大火が、赤く空を燃やして、何日も夜空を明るく照らし続けていた。当時の新聞報道では、震源地は大島で、飛行機で調査に来たら、海中に沈んで、黒煙だけで島の姿は見えないと報道している。島の在京者は、島の船に便乗して、花や線香でも投げて、霊を慰めようと大島に来てみると、島はちゃんと残っているのに驚き、喜んだそうである。家屋の被害は少なかったが、死者4人(大島町史通史編では3人)を出したことは、誠に残念な悲しい記録となった。」
 大島町史編さん委員会(2000)などによれば、高さ12mの津波が大島を襲ったが、岡田以外の村落に大きな被害は発生しなかったようです。

6.狩野川台風(1958)による土砂災害
 昭和33年(1958)の狩野川台風(22号)は観測史上最大級の台風で、最盛期の9月24日3時〜25日15時には36時間もの間、中心気圧は900mb以下でした。これは、2013年11月8日にフィリピンを襲った台風30号とほぼ同じ勢力でした。
 図12は昭和33年(1958)9月26日0時の天気図(気象庁,1964)で、少し衰えているものの 中心気圧は935mbでした。図13は狩野川台風(22号)による被害調査図です。狩野川台風は26日14時頃、神奈川県に上陸し、関東・静岡県(特に狩野川流域)に多大な被害を与えました。伊豆大島・元町でも104棟が全半壊し、死者1名、不明1名などの犠牲者がでるなど、激甚な土砂・洪水被害が発生しました。気象庁(1958)には、図14に示した「大島山崩れ・浸水区域図」が挿入されています。図2に狩野川台風による山崩れ・浸水区域図を転記しました。
 大島小学校(現在は統合されてつばき小学校に改称)も明治9年(1876)に開校しており、昭和51年(1976)に『大島元町小学校百年史』を発行しており、狩野川台風についても説明しています。
 「昭和33年9月24日夜半、伊豆半島南端をかすめて大島を襲った台風22号(狩野川台風)は、水害を知らない大島に大きな爪痕を残し、北北東海上を抜けていった。18日、台風21号が伊豆大島付近を通過し、125.7mmの降雨量を記録した。その後21日より小止みなく降り続く長雨、そこへ重ねて22号台風が襲来した。しかも最大風速50.2mの強風が運んできた豪雨は、ゆるんだ山肌を仮借することなく洗い流し、26日の日降雨量は419.2mmにも達した。その結果、三原山の山麓一帯の山林約30町歩(30ha)が崩壊し、大金沢、長沢などに岩石・土砂などに立木を交えた山津波となって元町を襲った。  被害家屋146戸(全壊55戸、半壊49戸、浸水42戸)、罹災者134世帯476名、死者・行方不明者2名の尊い人命を失った。島の山林も日本各地の例に漏れず、戦中戦後を通じての乱伐に、露わな山肌を見せる所が多くなっていたとは思うものの、乱売、開発、そして事業停止という近頃の世相のもたらすものはなんであろうか。  幸いに元町小学校は窓硝子や瓦の損傷こそあれ、さしたる被害も受けずに済んだが、学校日誌に『台風22号のため町内の水害、甚大な被害を受けた児童の家庭も多数』とある通り、被害家庭16軒、町の災害対策本部と緊密な連携を保ちつつ、救援活動を行った。」と記しています。
図12 昭和33年(1958)9月26日0時の天気図 図13 台風22号による被害調査(9月30日現在)
 図12 昭和33年(1958)9月26日0時の天気図 図13 台風22号による被害調査(9月30日現在)
気象庁(1964年12月):狩野川台風調査報告,気象庁技術報告,37号
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図14 昭和33年(1958)9月26日の狩野川台風による山崩れ・浸水区域図 気象庁(1964年12月):狩野川台風調査報告,気象庁技術報告,37号
図14 昭和33年(1958)9月26日の狩野川台風による山崩れ・浸水区域図
気象庁(1964年12月):狩野川台風調査報告,気象庁技術報告,37号

7.大島大火(1965)と都市計画事業
 元町に行って、最初に気が付くことは、伊豆大島の他の集落と異なり、元町の街並みが整然としていることです。これは、昭和40年(1965)の日本の10大ニュースにもなった「大島大火」により、元町の街区はほぼ全焼し、その後に都市計画事業が実施されたためです(東京都災害対策本部,1965)。昭和40年1月11日23時10分、大島町15番地の飲食店兼旅館より出火しました。5分後に連絡を受けた大島町ではただちに消防団を出場させたが、先頭部隊現場に到達した時には、出火建物は火災中期にあり、隣接建物にも延焼して、折からの強風にあおられ、各所に延焼を起こし、瞬く間に燃え広がりました(図15)。
 このため、大島町では災害対策本部を23時30分に設置し、消火に努める一方、待避所を設け住民を避難させました。このため、幸いにも人的被害は皆無でした。しかし、元町の中心部1万6500m2、358戸、408世帯を焼き尽くし、12日6時45分にやっと鎮火しました。
 その後、復興都市計画が策定され、「富士箱根伊豆国立公園における海洋自然公園の拠点としてふさわしい将来の市街地構成を目途に総合防火的な都市計画」(大島復興十年記念祭実行委員会,1975)が策定されました(図16)。平成25年(2013)の台風26号の被災地は、火災で延焼し復興都市計画の範囲はほとんど含まれていません。
図15  大島大火(1965)による焼失範囲 東京都災害対策本部(1965)
図16 大島大火後の都市計画案 藤井虎雄氏より
図15  大島大火(1965)による焼失範囲
東京都災害対策本部(1965)

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図16 大島大火後の都市計画案
藤井虎雄氏より

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8.割れ目噴火(1986)による全島避難
 図2に示したように、昭和61年(1986)11月15日に三原山山頂火口で、ストロンボリ式噴火が始まり、火口を埋めた溶岩は19日にはカルデラ壁まで流下しました(川辺,1998,国土地理院,2006)。21日16時16分に三原山の北東山麓で北西−南東方向の割れ目火口列が形成され、大規模な溶岩噴泉を噴き上げました。溶岩噴泉の高さは最大で500m余、噴煙柱は高さ19km上空まで達しました。割れ目火口列から噴出した溶岩噴泉は、北方と北東方向に溶岩流として流下しました。17時47分には、外輪山北西方向に新たに割れ目噴火が形成されました(図2,写真1,2)。
 この火口列から噴出した溶岩流は、元町市街地の方向に流下し、その日の夜のうちに全島避難(1万
写真1 御神火茶屋に向かう都道からから中央火口を望む  写真2 割れ目噴火のC火口列
 写真1 御神火茶屋に向かう都道からから中央火口を望む   写真2 割れ目噴火のC火口列
(2013年11月井上撮影)

人)という事態に至りました。11月16日には山頂火口が爆発し、火口底が30m陥没しました。1カ月後に噴火が収まってきたため、全島避難は解除されました。平成3年(1990)10月4日の小噴火以降、三原山は静穏な状態が続いています。

9.平成25年(2013)台風26号による土砂災害
 平成25年(2013)台風26号については、多くの報道がなされ、各種の学会調査団や国土交通省、東京都の調査結果が公表されました(東京都大島町防災対策室,2017)。図2には、それらの公表資料から台風26号による崩壊地、土砂・流木流の流下区域を国土地理院のHP(2013年10月31日)から転記しました。
 図17は元町地区の断面図で、断面位置A−Bは図2と図6に示してあります。図6に示したように、明治35年(1902)頃までは元町(元村)の集落は標高30m付近までしかなく、集落の周りの緩斜面部は古畑と呼ばれる耕作地で、斜面上部の急斜面部は、山地・共有林となっています。人口の増加に伴って、古畑地域に集落が拡大していったことが判ります(図4参照)。関東地震時(1923)の土砂災害に記録は見つかりませんでしたが、古畑背後の急傾斜地は山林・共有地で、狩野川台風(1958)と台風26号(2013)の表層崩壊の発生源になったところです。図17の3km付近の標高260m付近に小尾根があり、大金沢の流域界がありました。しかし、移動速度の速い崩壊土砂の一部は小尾根を乗り越えて、流下・堆積しました。山林・共有地の急傾斜地に昭和61年(1986)の割れ目噴火以降に御神火ラインが建設されました。この御神火ラインが緩傾斜地に人家の建設を呼び込み、被害を激化させる起因となった面もあったと思います。
図17 大島・元町のA−B測線の断面図(土地利用状況は明治35年(1902)当時,井上,2014)
図17 大島・元町のA−B測線の断面図(土地利用状況は明治35年(1902)当時,井上,2014)

10. 三宅島の「びゃく」地名
 三宅島村が発行している「三宅島旧地名地形図」(縮尺1/1万)には、島内の小字名が地形図の上に記載されており、地形と地名に関連があることを示しています。図18は「三宅島旧地名地形図」の部分を示しています。三宅島空港の西側に「ビャク」、阿古漁港近くに「錆ビャク」の小字名があります。図19は産業技術総合研究所 地質調査総合センター(2005)の「三宅島火山地質図」です。「ビャク」は1535年、「錆ビャク」は1643年の噴火と関係あるのでしょうか。
 池田(1983)「三宅島の歴史と民俗」によれば、「寛永二十年二月十二日(1643年3月31日)に雄山より噴火す。二月十二日酉の刻(18時頃,夕暮れ時)大雨降り出し大地震動し、山中より神火を発し、阿古村在家一軒も残らず焼失す。それより海の方へ十町(1000m)許り焼けたり。阿古村の老若男女みな冨賀へ逃げこもり三日三夜食事もせず、坪田村は風下にて焼石おびただしく降り人家を埋めたれば、人の出入りなり難く、其の上畑の作物も絶えたり、村内の人々は神着へ逃げ去り、一人も怪我なかりき。鳥類は皆死したり。かくて三十七日の間に鳴動止み、神火も静まりたるを以て諸人安堵せり。」と記されています。
 池田(1983)では、「火焼(びやく)」と振り仮名がふられています。
図18 三宅島の錆ビャク,ビャクの位置(「三宅島旧地名地形図」)
図18 三宅島の錆ビャク,ビャクの位置(「三宅島旧地名地形図」)
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図19 産業技術総合研究所 地質調査総合センター(2005)の「三宅島火山地質図」
図19 産業技術総合研究所 地質調査総合センター(2005)の「三宅島火山地質図」
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11. あとがき
 本コラムをまとめるにあたっては、多くの報道や国土交通省・各種学会のHPを参考にしました。また、気象庁図書館や大島町立図書館をはじめ、都内の主な図書館で大島関係の資料を収集・整理しました。その後、伊豆大島に数回行って、現地調査をするとともに、伊豆大島文化伝承の会事務局長・藤井虎雄氏や大島測候所の元調査官・田澤堅太郎氏、大島町立図書館などから多くの史料を見せて頂き、まとめたものです。お世話になった岡田の民宿「良作丸」のご主人や大島町立図書館などの多くの方々に御礼申し上げます。
 平成25年の台風26号災害から4年が経過し、被災地の復興が進んでいますが、田澤堅太郎氏が朝日新聞(2013年11月12日)の記事「大島忘れていた『びゃく』」で書かれた意味を忘れないようにしたいものです。

引用文献
朝日新聞記事(2013年11月12日):大島忘れていた「びゃく」
池田信道(1983):三宅島の歴史と民俗,伝統と現代社,334p.
井上公夫編著(2013):関東大震災と土砂災害. 古今書院,口絵,16p.,本文,226p.
井上公夫(2014a):伊豆大島・元町の土砂災害史,地理,59巻2月号,口絵,8p.,本文,p.10-19.
井上公夫(2014b):伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,平成26年度砂防学会研究発表会概要集,R4-32
井上公夫(2014c):伊豆大島・元町の土砂災害史と「びゃく」,砂防と治水,219号,p.85-90.
井上公夫編著(2015):書架「火山 伊豆大島スケッチ,―改訂・増補版―」,地理,60巻7号,p.117.
岩崎薫(2016):文禄の「びゃく」に関する考古学的一考察,地図中心,528号,特集伊豆大島全島避難30年,p.21-23.
大島町史編さん委員会(2000):東京都大島町史,通史編,829p.
大島復興十年記念実行委員会(1975):大火から十年のあゆみ,編集責任者寺田康郎,128p.
大島元町小学校百年史編纂部(1976):大島元町小学校百年史,大島元町小学校創立百周年記念会,374p.
岡田小学校百年誌編集委員会(1976):岡田小学校百年誌,青濤社,312p.
川辺禎久(1998):伊豆大島火山地質図,2.5万分の1,地質調査所
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