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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム42 東京都と山梨県の土砂災害を示す「びゃく」
 
1.はじめに
 伊豆大島での「びゃく」の事例を調査した後、南関東の「びゃく」の事例を調査してみると、今ではあまり使われていませんが、「びゃく」と呼ばれる災害事例や小字名などが南関東で多く見つかりました。図1は「びゃく」の事例一覧図(背景は井上誠氏作成の傾斜量図)で、表1は東京都と山梨県の土砂災害を示す「びゃく」の一覧図です。方言辞典などには、一般に平仮名またはカタカナで掲載されています。
図1 びゃく事例の分布(基図は井上誠作成:傾斜量図,国土地理院10mDEM利用)
図1 びゃく事例の分布(基図は井上誠作成:傾斜量図,国土地理院10mDEM利用)
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表1 「びゃく」の事例一覧表(東京都と山梨県)
図1 びゃく事例の分布(基図は井上誠作成:傾斜量図,国土地理院10mDEM利用)

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 これから説明するように、「びゃく」「ひゃく」「ヒャク」などと記載されることが多いのですが、「濁点は現代仮名遣いではほとんどの場合濁音に付されるが、それ以前の仮名遣いでは必ずしも付されていません。例えば、法令に濁点が付されるようになったのは、昭和2年(1927)からであり、昭和20年(1945)の終戦の詔書でも濁点は用いられていません。つまり、濁点の有無は発音とは無関係で同じです。

2.東京都多摩丘陵周辺の「びゃく」
2.1 町田市野津田町・薬師池の東・川島谷(T3-1)
T1-1,T1-2,T2-1,T2-2は、伊豆大島、三宅島の「びゃく」の事例ですので、コラム41をご覧下さい。
 東京都町田市付近は、多摩丘陵からなり、多くの谷地が発達し、何回も「びゃく」が発生したことが、地名や災害事例などに残されています。
 町田市野津田町の薬師池公園は町田市立の都市公園です。薬師池(面積7700 m2)は「福王寺池」とも呼ばれ、天正五年(1577)に北条氏照の印判状が野津田の武藤半六郎(河井家祖先)にくだり、水田用水池として開発され、天正十八年(1590)に完成しました。現在でも地域の重要な水源となっています。
 元禄十六年十一月二十三日(1703.2.31)の元禄関東地震(M8.1〜8.2)によって、関東地方南部は激甚な被害を受けました。図2は、「宝永三年(1706)野津田村絵図」(河井將次氏所蔵)で、薬師池のすぐ近くに赤色で崩壊地が描かれ、「ひゃく打」と記載されています。『野津田村年代記』元禄十六年十一月二十二日(1703.12.30)の記事(町田市史編纂委員会(1972):町田市史史料集,第五集,p.31)には、次のように記されています。
 「同月廿二日夜八ツ半時(午前3時頃)大地震にて国々大分ユリ申候、江戸ハ見付石垣ユリ破り田舎にても大分家潰、当村之内にてひしと潰れ候家、合わせて四拾九軒、半潰は数不知、且つ又、川嶋谷にて長弐百間余(360m)ビヤク打甚兵衛田場三反歩(3000m2程押し埋まり田山に成り候、右地震は五百年にも七百年にも覚え候者無之候。」
 重政(2017)によれば、元禄関東地震によって江戸城の見附の石垣が崩れたことにも言及しており、野津田村の被害について詳述しています。49軒の家が潰れたが、半壊は数知れないと言います。そして、川嶋谷では長さ200間(360m)にわたる山崩れ(びゃく打ち)があり、甚兵衛の田圃は3反部(3000m2)程が土砂で埋まり、まるで田が山に成ったようだと言います。こんな大きな地震は500年らい、いや700年らい、起こったことを知る者はいないと言います。『野津田年代記』で辿ってみると、十一月二十二日の本震のあと、月末まで連日続き、二十八日には「西より東へ飛び物これあり、地震」とあり、奇怪現象も起こっています。十二月に入っても治まらず、さらに新年になっても、「正月末迄も昼夜少しつゝ地震止まらず」、その先、「三月中も地震、鳴動もこれあり」と記されています。
 図2は「宝永三年野津田村絵図」で、図3は野津田村付近の明治13年(1880〜1886)の野津田村付近の地形図(第一軍管地方二万分一迅速測圖原図,農研機構農業環境変動研究センターの歴史的農業環境閲覧システムを使用)で、薬師池(青)鎌倉街道(赤)などを強調してあります。
 薬師池の東側の山向こうに「びゃく打」があったことが、絵図及び付箋の記事に記されています。場所は『野津田村年代記』の記事のとおり、川嶋谷に当たると思われる所の山崩れの斜面を赤く塗り分けて、「びゃく打ち」と書き込んで示しています。さらにそこに付箋が張られていて、「びゃく打ち」のことが記録されています。付箋の記事は、「此所去ル未(ひつじ)年、地震之節びゃく打田三反部埋り申、今以毛配仕付申候儀不罷成候、ひゃく打 長六拾間(108m)程、横拾五六間(27〜29m)(以下不明)」と記されています。つまり、去る未年すなわち元禄十六年(1703)の地震時に起こった「びゃく打」のために、三反部の水田が埋まったことが記されています。3年経ったこの時点で、未だに作付けをすることができないことが強調されています。
図2 宝永三年(1706)野津田村絵図(河井將次氏所蔵)(町田市立自由民権資料館で撮影)
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 この村絵図が描かれた翌年の宝永四年(1704)に富士山噴火があり、降灰による被害が農業に追い打ちをかけました。薬師池は宝永三年(1707)の富士山宝永噴火による降灰で埋まったため、灌漑用水として利用できなくなり、3年間にわたって「浚い普請」が行われました。

2.2 町田市鶴見川筋の「びゃく」(T3-2)
 重政(2017)によれば、享保三年九月十二日(1718.10.5)に大雨がありました。川が満水となり、川端の屋敷へ水が上がり、家財が押し流されました。「百年にも覚えこれなく、勿論語り伝えにも承らざる」大雨でした。並木では新築したばかりの居宅が「ひゃくニてひしと潰れ、扨々大水ニて堰々申すに及ばす、所々ひゃく打多く、永々田畑に成り難き所多く出来」とあり、川筋で何か所も山崩れが起こったことが記されています。

2.3 町田市野津田町・薬師池東側のびゃく(T3-3)
 『野津田村年代記』によれば、享保十三年(1728)の項には、当申(さる)年は「大凶作で、諸作段々大違い」と書き出され、五月以来大風雨が続き、川は満水で相模川の上流甲州方面で山崩れや大水があり、相模川に多くの家が流され、人馬も多数流されてきたと記されています。八月にも九月にも大風雨がありました。川は何十年も覚えなき満水となり、方々でびゃく打ち、「人馬ともびゃく打ち潰し、死骸掘り出し候由」という状況でした。
 続いて、野津田村の状況が書かれています。九月朔日(1728.10.3)から二日にかけての大雨で、清大夫の家の後ろの山でびゃく打ち、そのほか村々もびゃく打ち、水害も発生しているので、名主、年寄りが見回りをしました。それによれば、
福生寺留め井東の方、金井村境、町田への道通り金井山嶺より大びゃく打、町田への道も崩落、下に両知行分の田畑これあり候ところ残らず押し埋まる。その上留め井へ右のびゃく打ち出し池二三反部程(2000〜3000m2押し埋まり申し候」といった状況でした(福生寺は福王寺の誤か)。つまり、薬師池の東方金井村との境の山頂から「大びゃく打」があり、町田への道(鎌倉街道)への道も崩落し、田畑は残らず埋まってしまいました。薬師池へもこのびゃく打ち出しがあり、2,3反部ほども池が埋まってしまいました。溜め池の復旧、道路の復旧は極めて困難でした。領主の富田様の見分があったのは、翌十四年になって三月二日(1729.3.30)でした。「福王寺留井の儀、金井村境の金井嶺崩落、池の東の方へ打ち出し、溜井七反歩の内三反部ほど埋まり申し候」(現在藤棚のある
写真1 薬師公園内の案内看板
写真2 薬師池公園(2017月7月相原撮影)
写真1 薬師公園内の案内看板 写真2 薬師池公園(2017月7月相原撮影)

半島部分で、写真1,写真2参照)と認定されました。薬師池は半分近くも埋もれてしまいました。灌漑用の池ですから、池浚いをしなければならないが、「当春は夥しくご普請に有之候処、溜め井浚いに取り懸かり候ては外の所も埒明き申さず」というわけで、鎧渕堰などの普請から手を付けることになったと記されています。
 享保十八年八月十九日(1733年9月26日)は彼岸の中日であったが、もってのほかの大雨となりました。「川は満水にて、所々ひゃく打ち堰々は残らず押し払」われてしまったそうです。

 重政(2017)によれば、『野津田村年代記』の記事にある元禄六年(1693)から元文五年(1740)までの約50年間のあいだに野津田地域の中で「びゃく」の起こった記録は、上述のように4回あります。元禄十六年(1703)の川嶋谷で起こった「びゃく」は、南関東大地震による山崩れですが、その他はいずれも大雨による出水が原因でした。
 享保十三年(1728)の「びゃく」は、薬師池の東側の山が崩れて、7反歩(7000m2)の広さのあった薬師池を3反歩(3000m2)も土砂で埋めてしまったといいます。現在の薬師池は池に突き出して埋めたてたような形の所(写真1)があり、この時の山崩れでできたものであると思っていました。
 ところが、図2に示した宝永三年(1706)の『野津田村絵図』によれば、薬師池の突き出し部がはっきりと示されています。重政(2017)は、1706年以前から薬師池を埋めるような山崩れがあった可能性が考えられると指摘しています。1706年の村絵図が描かれた時期は、1590年に薬師池が完成してから100年以上経過しているので、それまでに何回か薬師池周辺で「びゃく」があったと考えられます。ちなみに、天和二年(1682)の『野津田村絵図』にも、薬師池の突き出し部分が描かれているので、1682年以前にも「びゃく」があったようです。

2.4 町田市小野路町・萬松寺の裏山の崩れ「ヒャク打込」(T3-4)
 町田市小野路町(旧南多摩郡小野路村)は、江戸時代には大山街道の宿場町として栄え、現在も小野路宿通りは当時の雰囲気を残しています。通り沿いにある小島資料館(開館は第1・3日曜の午後のみ)で、小島政孝館長や町田地方史研究会の重政文三郎様から色々教えて頂きました。
 安政六年八月二十一日(1859.9.17)の小島日記『雑書』(小島資料館蔵)によれば、
 当七月十二日(1859.8.10)大雨ニ而玉川・相模川満水、堤等押流し申候
 同月廿四日(8.22)ヨリ之大雨ニ而、廿五日九ツ時(12時)、村方下宿通り、不残押流し申候、萬松寺裏ノ山崩タリ、井戸迄押潰申候、旦中惣人足ニ而片付申候、五反田角左衛門畑崩出コボヲシタ孫兵衛分弐畝(200m2分程ヒヤク打込其外に處々山ツナミノコトク崩出、道橋損し往来兼申候間、郷中惣人足ニ而相片付、一ト通リ明人馬通行為致候、本普請者追々ニいたし候積、村役人一同評議決定いたし申候」と記されています。

2.5 町田市小野路町・小島資料館の「ビャク」(T3-5)
 小島資料館の小島政孝館長から、小島日記の中に明治20年頃、小島資料館(元は名主の建物)の中に裏山から「ビャク」が流れ込み、建物が被災したという記録があると言われました。

2.6 町田市立金井大ビャク児童公園(T3-6)
2.7 町田市立金井大ビャク第2公園,大ビャク駐車場(T3-7)
 図4は、町田市玉川学園周辺のT3-6〜T3-10の「ビャク」の位置を清水(2004)『多摩地形図1942−44年』「玉川学園」「本町田」の図幅上に示しました。背景の地形図は小田急線が昭和4年(1929)に開通してから間もなくの土地利用状況を示しています。
 小田急線玉川学園駅からふれあい坂を上り、西に金井町方向に歩いて行くと、「町田市立金井大ビャク児童公園」、「町田市立金井大ビャク第2公園」(写真3)、「大ビャク駐車場」(写真4)があります。田中正大様に現地を案内して頂き写真撮影しましたが、特に金井大ビャク第2公園は高い擁壁が建設されていました。児童公園であるにも関わらず、ビャクに関する説明はありません。現地調査時に、清水(2004)『多摩地形図1942-44年』とゼンリン住宅地図(町田市)で位置を確認し、図5にT3-6,T3-7,T3-8,T3-9,T3-10の位置を示しました。田中(2009,2013)はこの付近の谷地斜面で、しばしば「びゃく」が発生していたことが、このような地名に残っていると記しています。
 金井町内会(2002)『町誌金井』(p.67-69)にも本町田村境に「大びゃく」の地名がありました。金井村の方言として、「びゃくがくむ:崖が崩れる」(p.176)と記載されています。
図5 町田市玉川学園付近の「ビャク」の位置図(『多摩地形図1942―44年』の「本町田」「玉川学園」上に追記)
図4 町田市玉川学園付近の「ビャク」の位置図(『多摩地形図1942―44年』の「本町田」「玉川学園」上に追記)
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写真3 町田市立金井大ビャク第2公園 写真4 大びゃく駐車場
  写真3 町田市立金井大ビャク第2公園 写真4 大びゃく駐車場
2014年5月井上撮影,田中正大氏に案内して頂く

2.8 町田市金井「字大びゃく」(T3-8)
 重政(2017)によれば、3年ほど前、小野路の小島政孝家(小島資料館)の座敷で使用されていた古いふすまの下張りになっていた和紙をはがす作業をしていたところ、その中から町田各地域の堤防や橋を示した絵図面がでてきました。その中の1枚に図5に示した「金井村堤防麁絵(あらえ)図」(明治6年(1873),小島資料館蔵)には、「土橋長さ四尺(1.2m)、幅三尺(0.9m)、字大びゃく」の記載があります。
図5 金井村堤防麁絵図(小島資料館蔵),左図は字大びゃく(土橋)付近の拡大図
図5 金井村堤防麁絵図(小島資料館蔵),左図は字大びゃく(土橋)付近の拡大図
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2.9 町田市の小田急線玉川学園駅前・花壇公園(T3-9)
 小田急線は、関東大震災後建設が進められ、昭和4年(1929)に開通しました。多摩丘陵の尾根部をトンネルで抜けると、玉川学園駅に着きます(この区間の小田急線の建設工事は難工事でした)。この駅周辺(1.8km)は芝生谷戸(しぼうやと)と呼ばれる谷間を通ります。西側は急崖が続き、びゃく(崖崩れ)がしばしば発生していました。清水(2004)『多摩地形図1942-44年』の「本町田」図幅には崩壊地が描かれています。芝生はこの地域の地名で、堤の補修などに使う芝を生やす場所です。小田急線玉川学園駅の開設とともに、駅前の高さ20mの急崖部分(118段の石段「ふれあい坂」があります)には、花壇が造営され、市民の憩いの広場になっています(写真6)。しかし、「びゃく」についての説明看板はなく、玉川学園駅を降りた乗客はこの空間がなぜできたのかを知らずに、家路に向かっています。
写真5 玉川学園駅前の花壇(2014年4月井上撮影)
写真5 玉川学園駅前の花壇(2014年4月井上撮影)

2.10 町田市東玉川学園・びゃく池(T3-10)
 小田急線玉川学園の東側には、少し離れてバスの終点の折り返し地点があります。この地域は多摩丘陵の谷頭(やとがしら)となっており、安政二年十月二日(1855.11.11)の安政江戸地震により、山が崩れ、池が出来て、灌漑用水池になりました。図6に示したように、明治・大正時代になって開墾され、田となりました(成瀬郷土史研究会,1985)。玉川学園付近に住んでいた田河水泡氏(「のらくろ」などの作者)はこのあたりを散歩し、写生していました。
図12 昭和33年(1958)9月26日0時の天気図 写真6 東玉川のバス折り返し所 びゃく池跡地(2014年4月井上撮影)
 写真6 東玉川のバス折り返し所
びゃく池跡地
(2014年4月井上撮影)

図6 成瀬村各戸表示地図『成瀬』と
住宅表示地図の重ね合わせ地図

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2.11 町田市南つくし野・びゃく坂(T3-11)
 重政(2017)によれば、町田市小川(小川村)に「びゃく坂」の地名があります。現地に行ってみると、現在のつくし野中学校の向かいの崖辺りかと思われます。街の通り名表示に「びゃく坂」があります。しかし、この表示は位置がずれているように思われます。小川地域で大規模に宅地造成され、道路が整備される中で、古い地名がこのような形で表示されていることは望ましいことです。この地名がいつ、どのような山崩れによって名付けられたか不明です。

2.12 町田市小山町・大びゃく山(T3-12)
 町田市の地名編集委員会で、重政氏が「びゃく」地名について報告したときに、委員の内田栄氏から、町田市小山に「ひゃく山」という地名のあることを教えて頂いたそうです。出典は明治初期の文書で、所有者ごとに土地をまとめて筆記された「名寄帳」(岡本芳巳家文書)から作成された小字名一覧です。また、町田市史編纂委員会(1971)『町田市史史料集 第二集』(p.329)の「多摩郡小山村誌写」(『武蔵国多摩郡堺村郷土研究資料弐』)を見ると、「元和の小字名」として列挙されている28の地名中に、「大ひゃくの山」という小字があります。元和(1615〜23)とあるので、江戸時代初期の段階の史料から取り出したものです。

3.東京都多摩市の「びゃく」
3.1 多摩市唐木田の「大びゃく谷戸」(T4-1)
3.2 多摩市唐木田の「あら田」(T4-2)
3.3 多摩市唐木田の「狼谷」(T4-3)
 公益社団法人多摩市文化振興財団は、多摩市多摩歴史ミュージアム(パルテノン多摩内)で、2017年3月3日〜7月23日に「特別展 災害と多摩〜多摩丘陵の自然災害と多摩ニュータウン開発」が開催され、企画展の図録『災害と多摩』も7月20日に発行されました。
 多摩市都市整備部都市計画課(1989)の『多摩市の町名』よれば、多摩市の唐木田駅付近(大妻女子大付近、旧落合村)に「大びゃく谷戸」(T4-1)という地名があります。多摩市史編集委員会(1992)『多摩市の民俗(口承文芸)』によれば、「山崩れのことを当地の方言で「びゃく」という。昔、影取池の堤防が大雨により決壊し、周囲の山が崩れて沼沢と呼ばれていた谷合は荒れてしまったことから名付けられた」と記されています。影取池には、村人が池の面をのぞくと、長い影が走り、池に引き込まれてしまうという奇怪な伝承がありました。明治生まれの人によれば、「影取り池付近で井戸を掘るのに、9尺(2.7m)掘ったら木が出てきた。大洪水のときビャクが飛んだ。」といいます。
 沼沢という小字名がありますが、大びゃく谷戸の古い呼び名であり、湿地の多い沢ではないかと思われます。あら田(T4-2)という地名があり、「ビャク」により荒れた田という意味です。なお、乞田(こった)川の少し北側には「狼谷(おおかみだに)」(T4-3)という小字名があります。多摩ニュータウン開発前は、かなり寂しい地域であったと思われます。

3.4 多摩丘陵のニュータウン計画で失われた「びゃく」
 2項と3項で述べたように、多摩丘陵は戦後になって急激に宅地造成などによる大規模土地改変が開始されました。特に、多摩ニュータウン(稲城市・多摩市・八王子市・町田市の4市にまたがる面積28.8km2)は、昭和41年(1966)から宅地開発が始まり、極めて大規模な地形改変が行われました。このため、谷戸にあった「びゃく」などの小字名は消され、土砂災害の歴史はほとんど伝承されていません。多摩丘陵の地形・地質は土砂災害の起こりやすい地区であることを、地元に説明する看板を設置するなど、きちんと伝承していくべきだと思います。

4.東京都八王子市の「びゃく」
4.1 八王子市の方言「びゃく」(T4-1)
4.2 八王子市の旧恩方村の方言「びゃく」(T4-2)
 八王子市立中央図書館で、鈴木(1959)『恩方を中心とした八王子の方言』、同(1983)『八王子方言考』、塩田(1965)『八王子の方言』などを閲覧しました。鈴木(1959,1983)によれば、旧恩方村の方言として、びゃく(崖)があり、千葉・伊豆大島・津久井・山梨と記載されていますが、特定の場所は示されていません。塩田(1965)によれば、「ビャク:山崩れ」と記載されています。

5.東京都日野市の土砂災害地名
 日野の古文書を読む会の上野さだ子会長から、日野市には「びゃく」という小字名はないが、似たような事例があると教えて頂き、現地調査を行いました。
5.1 日野市三沢の崖崩れ・寺の移転(T6-1)
 日野の昭和史を綴る会(2002)『日野市七生地区の地名と昭和の高幡』は、浅川以南の日野市七生地区(旧七生村)の小名(こな)や字(あざ)の地名が詳しく整理されています。七生地区は江戸時代には、百草・平山・平(南平)・高幡・程久保・三沢・落川の7つの村がありました。
 日野市百草(もぐさ)の地名8号 八幡前には、百草園(真慈悲寺跡・松連寺跡)があります。真慈悲寺は平安末期から御祈祷の霊場で、建久三年(1192)の源頼朝の法要に三人の僧を出したといいます。江戸時代には松連寺があり、青木五雄氏によれば、明治初年(1968)に松連寺が廃寺になりました。その後、百草出身で生糸商を営んでいた青木角蔵氏が購入、「百草園(もぐさえん)」として一般に公開されています。北村透谷・徳富蘆花・若山牧水等にも愛されていました。
 京王線百草園駅から百草園までの坂を松連寺坂といい、心臓破りの急坂となっています。峠の直下には砂土山東光寺(目の薬師)があったが、崖崩れで山の上から低い平らな土地に移ったという伝承があります。京王線百草園駅から百草園に向かって歩いて行くと、かなり急な谷戸となり、ルイシャトレ百草園ヒルズが建設されています。その奥に、日野市公園緑政課(現緑と清流課)の「三沢砂土緑地」の看板があります。その看板には、「緑地前の百草園登り口に地蔵堂がある。その堂の背後地は、東光寺の跡地であり、東光寺は三沢医王寺(明治39年(1906)高幡山金剛寺に合寺された)の末寺であり、山号は砂土山としたが、明治6年(1873)廃仏棄釈のあおりを受けて廃寺となった。寺の南方境の山麓一帯は、多摩丘陵の各地に露出する平山砂層で、東光寺の山号「砂土山」もこれに由来する」(1996)と記載されています。
 なお、南平地区には狼谷戸(おおかみやと)、貉谷戸(むじなやと)という地名があります。

5.2 日野市平沢の「赤崩」(T6-2)
 平山の地名27号 芳ヶ沢(よしがさわ)には、「赤崩谷戸(あかくずれやと)」という小名があり、 「宗印寺の裏の崖、関東ロームの中でも特別赤い土である。山崩れしていて、関東大震災でも崩れた」と記載されています。写真7は日野市平山周辺の立体航空写真で、米軍1947年と地理院1974年撮影です。赤い屋根が宗印寺で、この付近だけ宅地開発から残され、樹木が繁茂しています。1947年には多くの谷戸があり、崩壊地形も認められました。
図17 大島・元町のA−B測線の断面図(土地利用状況は明治35年(1902)当時,井上,2014)
写真7 日野市平山周辺の立体航空写真(赤丸・赤屋根が宗印寺)
左:米軍1947年,右:地理院1974年撮影

6.山梨県河口湖周辺の「びゃく」
6.1 河口湖町河口湖(Y1-1,Y1-2)
 図7は河口湖周辺の「びゃく」関連の地名を示しています。笹本(2003)によれば、山梨県南都留郡河口湖町小立の河口湖畔に日蓮宗の妙法寺があります。この寺の僧が書いたとされる『妙法寺記』(または『勝山記』)は、文正元年(1466)から永禄四年(1561)までの部分が残っており、戦国時代の甲斐の状況を伝える史料として高い評価を受けてきました。『妙法寺記』には、富士山の北側に位置する、主として富士五湖(特に河口湖)から富士吉田市周辺の地域で起きた事案が記されています。特に、大風や大水、地震などの自然災害の記録が記されています。
 笹本(2003)や山梨県立博物館(2013)によれば、明応七年八月二十八日(1498年9月14日)の記録に「大雨・大風無限。申尅當方ノ西海、長浜、大田輪、大原(大嵐)悉「壁(ビャク)」ニオサレテ(Y1-1)、人々死事大半ニ越エタリ。足和田小海ノ巌皆流テ(Y1-2)、白山トナル。」と記されています。大雨と大風の後で壁に押されたというので、記載が土石流災害を示すことは間違いありません。壁は「びゃく」と読むとされ、これを萱沼(1962)は、「びゃくは北都留郡に多い。山くずれである。北都留郡に育った老人の御指示によると、山くずれというよりも一つの山塊が豪雨のあとなどで、地がさけるように飛び出すといった感じで、びゃくがとぶというのが全く実感をあらわした語であるという」と説明しています。 
図7 河口湖周辺の「ビャク」関連の地名(井上・相原,2015のPPT)
図7 河口湖周辺の「ビャク」関連の地名(井上・相原,2015のPPT)
赤:妙法寺記・勝山記関連の災害(1498)緑:大正・昭和期の災害(1915,1983)

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6.2 河口湖町河口湖(Y1-3,Y1-4)
 山梨県立博物館(2013)によれば、大正14年(1915)の大雨による出水で、梨川沿いの斜面が大崩壊し(Y1-3)、大石との中間にある広瀬が埋没しました。横町付近でも、山の神下から土石流が併流して(Y1-4)、山の神川が埋まる被害がでました。このような土石流災害を河口湖周辺では、ビャクットビ(闢飛び、壁が飛ぶ意か)といい、山肌が崩れることを「ビャクが飛んだ」と言います。
 
6.3 河口湖町河口湖(Y1-5)
 山梨県立博物館(2013)によれば、昭和58年(1983)の水害で、「ビャクットビ」がありました。
 盆の3日間台風が来て、雨が降り続き、オオミズとなりました。健康センター裏の字宮ノ上や、字炭焼、山の神神社の近くや字桑田の河口小学校の西浦などが崩落しました。また、道路が女性の股くらくらいまで冠水し、人びとは船津や吉田へ避難しました。このときは、寺川に白滝下の樹木(松・杉)が立ったまま流され、善応寺の橋に引っ掛かったため、川を堰き止めて水があふれ、付近の家いえが浸水被害に遭いました。また、床上浸水の家では床が泥で埋まってしまったり、床下浸水の家でも鯉が家の中を泳いだりしたといいます。

 「ビャクが飛ぶ」というのは、山の斜面を泥流が岩や立木をはね飛ばしながら勢いよく流れ下る様子を表す言葉だと考えられます。河口湖北岸の広瀬の前浜はコロビシ(転石)といい、かつては桑畑で石がごろごろ入っている畑でした。富士山麓には、マルビ(丸尾、丸火)という地形があります。マルビは溶岩流の先端をさす言葉で、「転(まろ)ぶ」から転訛したものと考えられます。
 ビャクットビコロビシのように、立木や土石を巻き込みながら激しく流れ下る泥流は、火山の溶岩流に似ています。脆弱な土質による激しい山地崩壊が谷や川の多い河口湖周辺の集落をたびたび襲っていました。
 昭和41年(1966)9月25日に台風24号の襲来による連日の豪雨で、旧足和田村(河口湖の西部地区)で本沢川、三沢川で大規模な土石流が発生し、根場地区では人口235人のうち死者・行方不明者63名、西湖地区では人口513人のうち死者31名という激甚な土石流災害が発生しました。災害から1年後の昭和42年(1967)9月25日に、根場・西湖地区それぞれで慰霊祭が行われました。両地区はそれぞれ何度も話し合い、「今まで住んでいた場所は家を建てられるほど整地されていない」、 「再度同じ災害に遭うかもしれない危険な場所に住むのは怖いから、安全な場所に移りたい」と言う意見が多く、集団移転をしました。根場地区は、集落のすぐ南の青木ヶ原溶岩台地に、西湖地区は河口湖の対岸に全世帯が移転し、自然環境を活かした民宿村として新たに復興しました。
 根場地区は「西湖いやしの里根場」としてかつての茅葺民家を復元した公園が平成8年(2006)に第一期オープンとなり、現在は20棟の茅葺民家が復元されています。この災害に関連した資料を調査しましたが、「びゃく」という表現はありませんでした。

6.4 上野原町の鶴川左岸のビャーゴ(琵琶湖,Y2-1)
 花本(2000)によれば、「相模川左支の鶴川が上野原町向風(むかぜ)方面から八米地区の西側に沿って流れてきて山に突き当たり、そこから東に向きを変えて行くのであるが、その突き当った所がビャーゴと呼ばれている場所です。この難解な呼稱名を持つビャーゴは、鶴川流域で鮎釣りの名所として知られた場所です。水流が長い年月にわたり山裾を侵食したため、岩肌が露出し自然にえごたが出来て深い渕を形成し、魚類がすむには恰好の場所となって、太公望が競って釣糸をたれていました。花本が若い頃何度か鮎釣りに行ったことがあるが、当時は青々とした深い渕で時々不気味な渦巻が見られた」と記しています。そして、土砂が崩れるのを防止するため、蛇篭が急崖の下に施工されていました。現在では、渕は埋まり昔の風景はなくなり、テトラポットが並べてあります。
 花本が土地台帳で確認すると、渕を含めた山全体をビャーゴと呼ばれていました。小字地名として漢字で「琵琶湖」と書かれ、ビャーゴと仮名がふってありました。しかし、先住民が読んでいたビャーゴなる言葉に語韻の最も近い琵琶湖の文字を冠用したのが実態で、この場合にも当て字と考えられます。上條(2000)や上野原町誌下巻(1975)で、当地方の方言集に以下の説明がありました。
  びゃく:【名】山崩れ。山津波。「大雨が降ったあとでびゃくがでた」
 花本(2000)はかつて年配者が「ビャクで作物がやられた」との会話を聞いたことがあるそうです。「ビャクというのは、当地の方言であるが、現在では死語に近い言葉であるが、崖や傾斜地の崩れた場所をいうようです。このビャクがヒントとなって、ビャーという呼稱が発生され、それに蛇篭の語尾であるゴをとり、合成してビャーゴという呼稱名が発生したものと想定される」と記しています。

引用文献・参考文献
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