1.はじめに
コラム42に引き続き、神奈川県・静岡県・千葉県の「びゃく」の事例を紹介します。表1は「びゃく」の災害事例と地名(神奈川県・静岡県・千葉県)です。これらの地点は、コラム42の図1をご覧ください。
2.神奈川県の「びゃく」
2.1 横浜市港南区港南台の「びゃく」
神奈川県東部・特に横浜・横須賀などでは、幕末からの激しい歴史的変化の中で、「びゃく」などの古い言葉は消滅してしまったものが多いようです。
葦田伊人校訂,根本誠二補訂(1973)
『新編武蔵国風土記稿』は文政十一年(1828)当時の状況を示しており、巻之七十三には宮下村の小字名が示されています。図1の左図に示したように、久良岐郡は神奈川県東部にあった郡です。明治11年(1878)に行政区画として発足した当時の郡域は、横浜市中区、西区、磯子区、金沢区、および南区、港南区の一部が含まれています。
図1の右図は江戸時代の村の分布を示しています(
『港南の歴史』発刊実行委員会,1979)。明治5年(1872)に吉原村・金井村・宮ヶ谷村・宮下村の4ヶ村が合併して日野村になりました。明治22年(1889)に日野村・笹下村・矢部野村・栗木村・上中里村・峰村村・氷取沢村が合併して、日下村となりました。昭和2年(1927)に久良岐郡日下村と大岡川村が横浜市中区に編入されました。昭和18年(1943)に中区の寿警察署・大岡警察署管内を南区に分区しました。昭和44年(1969)に行政区再編成に伴い、港南区が発足し、現在に至っています。
図1 横浜市と港南区 現在の港南区の町名 江戸時代の村々
『港南の歴史』発刊実行委員会(1979)
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表1 「びゃく」の事例一覧表(神奈川県・静岡県・千葉県)
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表2 宮ケ谷村・金井村・宮下村・吉原村の小字一覧表(『港南の歴史』,1979)
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表2は、宮ケ谷村・金井村・宮下村・吉原村の小字一覧表(『港南の歴史』,1979)で、宮下村のなかに、
「びゃく」という小字名がありました。図2は、フランス式1/2万地形図 (明治15年(1882)測図)に村名・
「びゃく」などを追記しました。小字名のきちんとした位置は不明ですが、宮下村の奥の谷が入り組んだ地区に
「びゃく」があり、崩壊・土石流が多発していた地区と思われます(現在の港南区港南台6丁目付近)。この地域は宅地開発が進み、現在ではこのような複雑な地形はほとんどなくなり、切土と盛土によって平坦な住宅地が広がっています。
図2 フランス式1/2万地形図(明治15年(1882)測図)に村名・「びゃく」などを追記
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2.2 葉山町・逗子市の「ビャクバ」(K2-1),「ビャク田」(K2-2),「オオビャク屋号」(K3-1)
葉山町(2015)の
『葉山町の歴史とくらし』は、町制施行90周年記念として発行されたもので、葉山町内の小字名が地形図上に正確に記されています。図3,図4に示したように、葉山御用邸に流れ込む下山川は三浦半島の最短距離を貫く小河川で、流域には多数の小字名が残されています(横浜市域・横須賀市域と比べて人工改変があまり進んでいません)。
図3 葉山町下山川流域の小地名と「ビャクバ」「ビャク田」(葉山町の歴史とくらし,2015)
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図4 葉山町・逗子市の「びゃく」と「じゃく」の分布(相原・井上,2016b)
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「ビャクバ」(K2-1)は、葉山層の凝灰質砂岩のからなる丘陵地(北側斜面)の崩壊地で、その移動体は下山川が大きく蛇行している
「川向(かわむこう)」に堆積しています。その少し上流には
「ビャク田」(K2-2)という地区があります。中流域には
「蛇場見(じゃばみ)」や
「大崩(おおくずれ)」という地名もあります。また、長者ヶ崎の南側の海に面した斜面には
「大崩(おおくずれ)」があり、国道134号線は地すべり変動が何回も発生し、多くの対策工事が行われました。
逗子市桜山には谷頭部に崩壊地形がありますが、
「オオビャク」という屋号の家があるそうです(蟹江康光ご夫妻からの情報)。
2.3 藤沢市江の島の「びゃく」(K4-1),(K4-2),(K4-3),(K4-4)
図5は、藤沢市教育文化センター(2004)の地質図に
「びゃく」などの説明を追記したものです(相原・井上,2016)。藤沢市教育委員会(1995)、粂(2008)によれば、明治38年(1905)生れの老女の証言で、藤沢市江の島の南東の宮下急崖(約50m)が度々崩潰し、幼少時に母親から
「びゃくがくんだ」というのだと教わったそうです(K4-1)。江の島大橋の左の裏山が明治23年(1890)4月15日の豪雨で崩潰して、一家5人が死亡したという石碑はこの証言とほぼ同時期と思われます(K4-2)。
大正9年(1920)9月30日の台風時の豪雨で、「延命寺」の裏山が崩潰し、多数の人骨が流出しました(K4-3)。同じ場所で昭和36年(1961)6月28日(いわゆる
三六(さぶろく)災害)に土砂が流出しました(K4-4)。現在は近くを津波避難路が通り、海岸付近の住民は江の島の上部に避難するようになっていますが、上記の災害の記憶はほとんど伝承されていません。
図5 江の島の「びゃく」の地点(藤沢市教育文化センター,2004に追記)
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2.4 秦野市の金目川水系水無川・大倉の「大ナルビャク」(K5-1)
平成29年(2017)7月01日(土)に、秦野市桜土手古墳展示館のミュージアムさくら塾で、「秦野周辺の土砂災害とその対応,−富士山宝永噴火(1707)と関東大震災(1923)−」と題して話をさせて頂きました。この時、古墳展示館から図6に示した
「ビャク」に関する記事が、
『大正十二年大地震記』にあると教えて頂きました。関東大震災(1923.9.01)から2週間後の9月17日の夕方から大雨が降り、金目川水系水無川流域の大倉地区で「
大ナルビャクキタリテ」、大きな被害を受けたことが記されています。その後、神奈川県では水無川に沿って、戸川堰堤・山の神堰堤・猿渡堰堤などが建設されました。これらの堰堤は、昭和7年(1932)〜16年(1941)に建立され、歴史的砂防施設として平成15年(2003)3月18日に
登録有形文化財に指定されました。
図6 秦野市金目川水系水無川の「大ナルビャク」の記載
2.5 山北町山市場の江戸時代のビャク(K6-1),(K6-2)
『山北町史別編民俗』(2001)によれば、山北町では
「ビャク」と呼ばれる山津波についての伝承が聞かれると記されています。
「ビャク」というのは、豪雨によってもたらされた災害のうち、山崩れによって誘発された大規模な土石流を指していると思われます。古くは山市場の例があります。江戸時代中期に子の神社西側の旧家3戸が
「ビャク」で流されたと言われ、以来
「潰れ家の念仏」と称して、現在も供養が続いています(K6-1)。時期は明らかではないが、2.7項で述べる
箒沢でも複数の家が被災したことがあります(K6-2)。
2.6 山北町の関東地震後(1923年9月)の台風によるビャク(K6-3),(K6-4),(K6-5) 大正12年9月1日の関東大震災の後、9月15日〜17日の台風襲来に伴う豪雨で、3箇所で
「ビャク」が発生したことが確認されました。
岳陽新聞の昭和26年(1951)1月1日の記事や
『山北町史別編民俗』(2001)によれば、関東大震災後の台風で「ビャク」が発生し、三保地区で14名が亡くなったと記されています(K6-3)。山北町中川焼津のボデイ沢が荒れて、
「ビャクが来た」と記されています(K6-4)。また、三尋木延幸氏の地元の82歳の方の聞き取り調査によれば、
「ビャク」が集落の前の橋を越え、河内川まで出たとのことでした(K6-5)。
2.7 山北町中川箒沢の昭和47年(1972)のビャク(K6-6),(K6-7)
『47.7被災―山北町の記録―』(1972)によれば、昭和47年(1972)7月11〜12日に山北町三保・清水・共和地区を中心とした集中豪雨は、数時間で500mmを超え、激甚な被害を与えました。このため、死者6人、行方不明3人、流出・埋没・全壊家屋は65戸にも達しました。
丹沢の登山家奥野幸道(2004)は、丹沢集中豪雨によって
「ビャク」が出た!として以下のように述べています。中川川の東沢出合の箒沢山の家は,土台もろとも消え失せていました(K6-6)。箒沢の自宅にいた管理人の佐藤松雄さんの自宅も流されてしまいました。「
ビャク(山津波)が出たんです。異様な緊張感ある静寂が漂い気分が悪くなり,ビャクがくるんだと逃げました。」
山北町立三保中学校(1972)の文集
「美しい三保への試練」は、三保中学校・小学校の生徒の体験録をまとめたものです(K6-7)。以下に3年生女子の体験談の一部を紹介します。
「
まだ、ほの暗い朝、父が一生懸命に、家の方へ流れて来る水をせき止めていた。その時一度目のびゃくが来た。おじいちゃんは、ものすごい声を張り上げて、父に「びゃく」が来たぞ―早く逃げろ―といった。幸いにも私の方へは来なかったが、同じ場所から二度目のびゃくが出た。家の方へくるかと思ったが一度目と同じコースをとったため、被害はなかった。父には、「危ないから家の中にはいって少しようすを、見てみよう」といった。私は自分の部屋が危ないと思い、大事なものは、全部、茶の間に出した。
それからどれくらいたったかわからなかったが、ちょうど、みんなで朝ごはんを食べているときだった。台所で姉が「来た来た」と言った。父はとっさに「みんなにげろ−、となりの家に行け」といった。私は運よく、くつをはいていたため、すぐに逃げ出した。母たちははだしでとんできた。いっしょにきた赤ん坊は、驚き泣き叫んでいた。私はあまりのおそろしさに、はしと茶わんを置くひまなく固く持ったまま、となりのうちまでとんでいった。びゃくがおさまって少したってから、私だけ家にもどってみた。そしたら父が「手をつけられないから、消防の人を呼んできてくれ」と言った。私は家の方の道をいきたかったが、怖くてとおれなかった。・・・・
それから何時間たったか、やっと一段落ついた。父は死んだおじいちゃんに着物をきせてやりに、私といっしょにつれていってくれた。おじいちゃんは、ふとんの上に毛布をかぶってねていた。わたしはそっと毛布をとった。・・・・家のほうでは、14
日から親せきの人がパンやラーメンをもってきてくれた。また近所のひとたちも、土だしに手伝いにきてくれた。母は、またびゃくが来るのではないかと思い、ふとん、毛布、タンスなどは、みんな倉庫の方へ入れた。そしてこわれたガラス戸などは、みんなで取りのぞき、大工さんや、たたみやさんに来てもらって直した。
昭和四十七年七月十二日、この日は一生の思い出になると思う。二度とこんな日は来てほしくないと祈ります。」
写真1と2は、山北町立三保中学校(1972)の口絵に挿入されていた写真です。写真3は井上が撮影したもので、箒杉は樹齢推定2000年、主幹の胸高11.09m、樹高42.5mです。写真4は箒杉から少し上流の箒沢の旧県道付近にある昭和47年災害の慰霊碑です。
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写真1 被災前の箒沢集落 |
写真2 被災後の箒沢集落 |
山北町立三保中学校(1972):美しい三保への試練,82p. |
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写真3 箒杉(樹高42.5m) |
写真4 箒沢の災害慰霊碑 |
2015年12月井上撮影 |
2.8 清川村宮ケ瀬ハタチガ沢(K7-1)
ふるさと宮ケ瀬を語る会(2001)によれば、清川村宮ケ瀬の現在宮ケ瀬ダムの貯水池に面したハタチガ沢であるとき
「びゃく」(宮ケ瀬の方言、今で言う土石流のこと)が出て、死者があったと記されています。具体的な時期はわかりませんが、宮ケ瀬ダム(1971年完成,堤高156m,総貯水量1.93億m
3)が建設される前の頃、林業が盛んで森林伐採のため小屋掛けして、山で木を伐り、それを沢に落としていた頃に発生したと考えられます。
2.9 相模原市緑区(旧津久井町鳥屋・馬石 地震峠)(K8-1)
津久井町は神奈川県北西部の津久井郡にあった町ですが、2006年3月20日に相模原市に編入されました。図7に示したように、串川右岸側の斜面が関東地震時(1923)に地すべり性崩壊(50万m
3)が発生し、天然ダムが形成されました。埋没人家5戸・水没5戸、死者16名、上流500mまで水没したが、串川を河道閉塞した土砂が取り除かれたため、二次災害は免れました。
津久井町教育委員会(1997)
『つくい町関東大震災体験記録集』によれば、
鳥屋・地震峠について、 佐藤森蔵氏(記録集当時88歳)は「
ふいをつかれたこともあり、当時十六歳であったが最初の震動は歩くことはできなかった。たとえ話として紙の上で豆がころがっているようであった。又建物は、土台石の上で家がおどっているように見えた。川が埋まってしまい近隣の人達が応援に来てくれた
人達の食糧を出す為に八王子に米(弁当用)を買いにいった。あの時のことか
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図7 旧津久井町鳥屋・馬石 地震峠の地すべり地と湛水域
(井上,2017)
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写真5 地震峠の慰霊碑
(2014年9月井上撮影)
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ら今日、食糧の備蓄は必要だと考える。それと水が大切だと思う。山津波(びゃく)が、石や土のかたまりが、もくもくとやまを下ってきたように見えた。その津波に「さか」という家の娘が一人、四十〜五十位津波に流され、川にはまって浮いていた。」と述べています。
2.10 相模原市緑区(旧藤野町・藤野台)(K8-2)
佐藤健夫編(1991)
『聞き書き 博労一代 佐藤計一とカツの記録』によれば、佐藤計一(1905〜1991)とカツ(1910〜1990)の両人が昭和4年(1929)に結婚して以来、実際に体験したり、見聞きしたものの記録集です。2人はちょうど20世紀の初めから1990年代までの、古い時代の生活から新しい時代の生活への移り変わりを体験してきた生き証人です。
第6章
10
井戸の軍刀利(ぐんだり)さんの大蛇のぬけがらと、山下の底なし池 で計一は以下のように述べています。
「
井戸(山梨県上野原市棡原)の軍刀利さんにゃあ、デカい蛇(へべ)のぬけがらがあったぁだぁ。一丈(3m)とか、一丈幾尺とかあったぁだっちゅう。軍刀利さんのお宮ぁ、昔ぁ茅葺き屋根だったぁからな、その棟に、ずーっとぬけがらがあったぁだっちゅう。屋根ぉ直す時にめっけたぁらしい。
俺が奉公にいっている時分は、その蛇の皮ぁ、たたんでしまってあるっちゅう話ぉしてたぁけんどなあ。そんなぁに腐るもんじゃあねぇけんど、今でもあるだんべぇか。
石船(いしぶね)の堺橋の所(とこ)ぉ、橋ぉ渡らねぇで左ぃ入(へえ)る昔の道があって、桃山団地(現在の藤野台)の方まで続いてるだぁ。その途中に、山下の池ちゅうがあるだぁ。へぇ、小渕(津久井郡藤野町)分だぁけんどな。この池ぁ昔ぁ底なしとって言(ゆ)っただぁ。なんぼう長いサオぉさしてもズブズブ、ズブズブ入っちまぁだぁ。小せぇ池だぁけんどなぁ。
弁天様が祭ってあって、上野原の新町の衆(し)がちゃんとお祭りようするだぁ。藤次さん所あたりでやってるだぁ。
いっぺん、上からビャクが出て(土砂崩れで)押し流されちまったぁけんど、縁(ふち)ぉ築(つ)いてよぉ、また、池になってるだぁわなぁ。」
時期は不明ですが、現在の相模原市緑区(旧藤野町)の藤野台付近にあった
山下の池(底なし池)付近に
ビャクが出たのだと思います。
3.静岡県の「びゃく」
3.1 小山町生土の「ビャク」(S1-1)
『山北町史別編民俗』(2001)によれば、昭和27年(1952)に隣接する小山町の生土神社が流された原因は、
「ビャク」であったと記されています。
3.2 伊東市十足の「毘野首(びやくび)」(S2-1),(S2-2)
コラム42の図1示したように、伊豆大島や三宅島で
「びゃく」の事例があるため、静岡大学の小山真人先生の紹介を頂き、伊豆半島にも
「びゃく」があるのではないかと伊東市教育委員会にメールで問い合わせました。伊東市教育委員会の学芸員金子浩之様からの返信によれば、
@伊東市内の小字名にあたってみたところ、十足(とうたり)地区の小字名に「毘野首(びやくび)」という地名があることを確認しました。
Aこの小字名「毘野首」に関する由来や伝承等があるかどうか確認できておりません。
B小字「毘野首」の位置は、伊東の中心市街地を貫流する伊東大川(通称「まつかわ」)の源流部にあたる場所です。
C大室山の北西側に位置し、人家はありません。地形は松川の源流部にあたる谷が周囲の斜面から集まるような場所です。
D想像をたくましくすればビャク(崖崩れや浸食谷)の始まり(首)にあたる場所につけられた地形起源の地名のように思います。
E伊東やその南の東伊豆町などの範囲では崖や石垣が崩れるのを「くむ」(動詞)と表現しています。
F例えば「昨日の雨で石垣がクンだ。」などといいます。が、何となく「崖がクム」は規模があまり大きくないような印象です。
H崩れた場所は「クズレ」と呼ぶようで、伊東市富戸(ふと)地区に「クズレ」という字名があります。ここは正に崖地です。
I大規模な斜面崩壊の伝承は西伊豆の仁科地区に「築地崩れ」という伝承地がありますが、この周囲には「びゃく」という表現や地名等はないように思います。
夏休みに現地調査に行こうと小田原市根府川のホテル星ヶ山まで行き、内田昭光様に小田原市東部の旧片浦村付近で
「ビャク」に事例がないかお聞きしましたが、聞いたことはないとのことでした(加藤恭兄
『片浦村誌(1951)』を借用しましたが、
「ビャク」の記載はありませんでした)。
その後伊東市まで行こうとしましたが、交通渋滞で行くことができませんでした。
4.千葉県の「びゃく」
4.1 富津市加藤の崩下(びゃくした),砂田・砂押(すなおし) (C1-1)
内閣府防災担当(2013)
『1703 元禄地震報告書』によれば、元禄関東地震(元禄十六年十一月二十三日,1703.12.31)時に房総半島南部で、「多くの土砂災害が発生した」という災害記録が残っています。柳沢吉保の日記『
楽只堂年禄』(1706)によれば、上総国内の被害の中に、「
一、天羽郡加藤村御林壱ヶ所、山崩木倒、田地江砂押込」と記されています。天羽郡加藤村(富津市加藤)は湊川北岸の集落で、北側に上総層群を基盤とする標高200m前後の丘陵が存在します。集落背後の南向き斜面は元禄地震で崩壊し、土砂と倒木が一緒に水田に流れ込んだと解釈できます。
図8 千葉県富津市加藤の地形変化(1/2.5万旧版地形図「鬼泪山」1935,1962,1975,1991年測図)
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写真6 加藤地区背後の斜面 |
写真7 砂利採取で平坦になった丘陵地 |
(2015年10月井上撮影) |
図8の1/2.5万旧版地形図「鬼泪山」(1935年測図)によれば、山頂部から大きく落ち込んだ地形が確認できました。その下には
「崩下(びゃくした)」「崩下山(びゃくしたやま)」と、流れ込んだことを意味する
「砂田(すなた)」と呼ばれる小字名が存在しました(角川日本地名大辞典編纂委員会(1984)
『角川日本地名大辞典』,12千葉県,小字一覧,
『1703 元禄地震報告書』では
「砂押(すなおし)」としています)。富津市のホームページの
『ふっつの方言』によれば、
「くむ」(崩れること、道がくむ)と
「びゃく」(土手、くむと組み合わせて使用する、
びゃくがくむ)と記されています。
図8の1962年、1975年、1991年測図の地形図によれば、この丘陵部は高度経済成長期になってから、活発に山砂利採取が行われ、大部分が削り取られてしまい平坦となり、崩れを起こした急斜面部はほとんど消滅しています。
4.2 鋸南町の「びゃくがくんだ」(C2-1),(C2-2)
南房総地域SNS「房州わんだーぁんど」のホームページ
『房辞苑』(房州弁−日本語大辞典)には多くの房州弁が紹介されています。ローズマリーのごんべ氏提供によれば、「
びゃくとは山・がけ・土手・山津波(Mountain・Cliff・Landfall)のことである。例としては「せどんやまで、
びゃくがくんだぁよ(裏山が崩れました)。」と語っています。
藤倉冨二夫(2015)『
続上総地方の言葉』によれば、「
びゃう・びゃく:土砂崩れ、広辞苑の『びゃく』の項に『関東の一部で土の崩れた所をいう』とある。その〈k〉音の脱落である」と記されています。
『角川日本地名辞典・千葉』(1984)によれば、鋸南町の佐久間ダムの上流部に大崩という大字があります。大崩地区に八雲神社があり(C2-2)、その北側に
大崩山(おおくずれやま)があり、
(おおびゃく)と読まれた可能性があります(千葉市立郷土資料館HP:南房総郷土史)。
4.3 鴨川市上流「びゃくがくんだ」(C3-1)
村山由佳(2005)の
『楽園のしっぽ』という小説の中で、2004年10月半ばの大型台風によって
「びゃくがくんだ」ことが記されています。理想の田舎暮らしをもとめて、著者は房総半島南端の鴨川上流で動物たちに囲まれ、自給自足の生活を始めました。
2004年は台風が10個も上陸した年です(D-web Portal 台風のすべて,2004年台風22号・23号の被害状況・記録)。10月4日にフィリピンの東で発生した台風22号は、9日16時頃強い勢力のまま静岡県伊豆半島に上陸して、関東地方を縦断し、同日夜鹿島灘に抜けました。9日には静岡県御前崎で最大時間雨量89mmにも達し、千葉県でも10月7日〜9日に、期間合計降水量が鴨川市鴨川で361mm(最大時間雨量67mm)、大多喜町大多喜で357mmにも達しました。この台風による被害は、死者・行方不明者が静岡県で5名、千葉県で2名、神奈川県で1名となっています。
10月13日に発生した台風23号は20日に高知県土佐清水市に上陸し、日本列島を縦断して、近畿・中部・関東を縦断し、千葉県沖へ抜けました。死者・行方不明者98人(千葉県で3名)となりました。10月24日に新潟県中越地震が発生しています。
村山がどちらの台風を指しているのかわかりませんが、恐らく台風22号の豪雨の経験を語っていると思います。でも幸い、村山の家はさほどの被害が出ずに済みました。文字通りの「嵐の前の静けさ」の中で、出来るだけの台風対策に農場じゅうを駆け回ったのが功を奏したようでした。
『楽園のしっぽ』から関連部分を引用します。
「
でも、翌朝、久しぶりの明るい陽ざしに目を細めながら外を眺めた私は、一瞬声を失った。うちから見える農家の裏手の急斜面が崩れ、土砂がその下の土手にひろがる果樹園まで押し寄せていたのだ。昨日まで緑に覆われていた斜面は大きくえぐられて、赤茶色の土が無惨にむき出しになっていた。
『ああいうの、びゃくがくむ、っていうんだワ』と、近所に住むヒゲさんは教えてくれた。
『
びゃくがくむ? それってどういう意味ですか?』
『いや、だからああいう意味さあ。どういう字書くかはしらねえけど、このへんじゃ昔からそう言うよ。』
手持ちの辞書には載っていなかったのでインターネットで検索してみると、一つだけ引っかかってきた。『富津のことば』とあったが、富津だって房総だからこれに間違いないでしょう。
その説明によると、「びゃく」とは「土手」のことで、「びゃくがくむ」は「土手が崩れる」ことを意味するらしい。何というかもう、語源なんぞ想像しようもないくらい、わからん言葉である。
じつをいうと、今回の台風では事なきを得たものの、去年の長雨の時には、うちが借りている田んぼのびゃくがくんでしまったことがあった。たんぼにたまる雨水の逃げ道をきちんと作っておかなかったために、田んぼのふち(クロと呼びます)をあふれて越えた水がその土手の広範囲にしみこんで、ゴボッと斜面の土が崩れ落ちてしまったのだ。そうやって水がクロを越えることを、たんぼを貸してくれているおじさんは、「みのてごえ」と呼んでいた。
これも方言なんだろうか、と検索したけれど今度はひとつも引っかかってこなかった。ほかの地方でもそう呼ぶのかどうか、ご存知の方は教えて下さるととても嬉しいです。
ともあれ――機械も入らない山奥のたんぼでびゃくがくむと、後の始末が、いやもう大変なんである。・・・
で、前回の「
びゃくがくむ(土手が崩れる)」続きであります。
今年襲ってきた幾つもの台風を、うちがどうにか無事にやり過ごすことができたのは、去年の手痛い経験があったおかげかもしれない。去年は、近所の農家が借りている田んぼの下の斜面が崩れてしまった。そのまた下は川である。
どうやら、田んぼから土手へとあふれた水が一本の流れを作っているうちは、その部分の土が深くえぐられこそすれ、土手全体が大きく崩れることは少ない。が、田んぼ全体からのちょうどお風呂があふれるような具合に広範囲にわたって水が流れでてしまうと、下の土手はゴボッと落ちる。だからこそ大雨の前にはあらかじめ、田んぼの縁に水の逃げ道を切っておくことが必要になるわけだ。
あの時崩れたのは、土手のうちの幅4m、高さ2m分ほどの土砂だった。そのままにしておいてはいずれ水をはった田んぼ全体の重みを支えきれまくなる危険があったし、下の川に流れ込むのも困る。生態系を壊してしまうのはもとより、この川は下流の田にとっての用水路でもあるのだ。」
5.川崎市ローム斜面実験事故
以上、「びゃく」について、現時点で収集・整理した事例を紹介しましが、神奈川県川崎市の多摩丘陵では「びゃく」の事例を見つけられませんでした。町田市などには多くの事例があるのに、何故でしょうか。こんなことを考えているうちに、昭和46年(1971)11月11日に発生した
「川崎ローム斜面崩壊実験事故」を思い出しました。当時関東に広がるローム台地における崖崩れの仕組を解明すべく、科学技術庁が昭和44年度から3ヶ年計画で進めていたもので、4つの研究機関(科学技術庁国立防災科学技術センター、通商産業省工業技術院地質調査所、自治省消防研究所、建設省土木研究所)の協力の下、関東ローム層で構成された台地縁辺部の斜面崩壊に関する総合研究として行われました。生田緑地公園内に設定された試験地において、実際に斜面に散水し、人工的に斜面崩壊を発生させ、基礎データを収集するというものでした。降雨装置からかなりの降水を散布している最中の午後3時34分に、総雨量(総散水量)が470mmに達した時に轟音とともに爆発的な崩壊が発生し、実験関係者、報道関係者を含む25名が生き埋めとなり、実験関係者11名、報道関係者4名、計15名が死亡しました(ローム斜面崩壊実験事故調査委員会,1974)。
私は、東京都立大学理学部地理学科の3,4年生当時、東銀座にあった国立防災科学技術センター(現在の国立研究開発法人 防災科学技術研究所)で大石道夫地表変動防災研究室長のもとで、週2日ほどアルバイトを行いました。そこで大石先生が研究されている、砂防に関する地形調査の手伝いをしました。特に土砂流出の活発な地域の写真判読の方法と多くの事例を教えて頂きました。川崎ローム斜面崩壊実験を行う予定の多摩丘陵斜面(現在の川崎市多摩区生田緑地公園内)の地形・地質調査の手伝いを行いました。試験地には数回行き、弾性波探査の手伝いをしました。昭和46年3月に卒業して、コンサルタント会社に就職しましたが、大学院に進学していたら間違いなくこの現場で実験の手伝いをしていたと思います。この実験の実質的責任者であった大石道夫室長も流下した土砂に埋められ、その後救出されましたが、かなりの重傷を負われました。現地には写真8のような慰霊碑があり、私も時々現地に行き、お参りしています。
この実験で発生した急激な土砂移動も
「びゃく」の一例なのでしょうか。
写真8 ローム斜面崩壊実験事故慰霊 (2017年4月15日井上撮影)
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