いさぼうネット
賛助会員一覧
こんにちはゲストさん

登録情報変更(パスワード再発行)

  • rss配信いさぼうネット更新情報はこちら
 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム44 カスリーン台風(1947)による土砂災害地点を歩く
 
1.カスリーン台風による土砂・洪水災害から70年
 昭和22年(1947)9月に関東地方を襲ったカスリーン台風から平成29年(2017)は70周年となったため、様々なイベントや雑誌(『地図中心』,9月号)の特集が行われました。
 防災・減災シンポジウム「カスリーン台風から70年 いま考える水災害対策」(群馬県・群馬県建設技術センター、上毛新聞社主催)が平成29年8月17日、前橋市大渡町の県公社総合ビルで開かれ、約300人が参加しました。渡良瀬遊水地研究所所長の白井勝二様による基調講演「忘れてはならない洪水 カスリーンから70年」が行われ、パネリスト4人による意見交換が行われました。
白井 勝二 渡良瀬遊水地研究所所長
井上 公夫 砂防フロンティア整備推進機構
國本 未華 気象予報士、防災士
中島 聡 群馬県県土整備部長
阿部 和也 上毛新聞社編集局長(コーディネーター)
 また、被災者体験談として、桐生市川岸町の多田明様の「カスリーン台風による盛運橋付近の惨状」が読み上げられました。
 上毛新聞では、8月30日に別刷り(8ページ)で、「2017 防災特集 忘れない明日への備え〜多数の尊い命を失った、あのカスリーン台風から70年〜」が発行されました。
 本コラムでは、このシンポジウムで話されたことも参考に、カスリーン台風による土砂・洪水災害について説明致します。

2.カスリーン台風による土砂・洪水災害の概要
 戦後間もない昭和22年(1947)9月11日、マリアナ諸島付近に発生した台風をGHQ(連合国総司令部)は、カスリーン台風と名付けました。中央気象台は13日午前8時に第1回気象特報を発表、その頃から本州を横断して停滞していた前線を刺激し、本格的な降雨となりました。図1は群馬県(1950)をもとに作成したカスリーン台風による3日間雨量(1947年9月13日〜15日)です。台風は上陸せず、房総半島沖を通過しましたが、15日夜半まで豪雨が続きました。 3日間降雨量では、埼玉県西部の秩父地方で600mmともっとも多く、降雨帯は赤城山方向に北東に延びています。
 この豪雨により、各地で激甚な被害を受け、死者1100人、家屋倒壊3万1381戸、家屋浸水30万3160戸となりました。なかでも、群馬・埼玉・栃木・茨城・千葉・東京に跨る利根川上流域の被害は甚大でした。
 図1の3日間雨量(1947年9月13日〜15日)の分布を見ると、一番多かったのは秩父盆地でしたが、大きな被害はありませんでした。赤城山麓では400〜500mmでしたが、激甚な土砂災害が発生しました。当時はアメダスなどの降雨観測地点がなかったため、山地部ではもっと大きな降雨量だった可能性がありますが、赤城山麓には秩父地方と比較し、地形・地質的に土砂災害の発生しやすい特性があったと思います。
図1 カスリーン台風による3日間雨量(1947年9月13日〜15日),群馬県(1950)をもとに作成
図1 カスリーン台風による3日間雨量(1947年9月13日〜15日),群馬県(1950)をもとに作成

 図2は、利根川水系砂防事務所(2010)、後藤(2012)によるカスリーン災害による被災概要図を示しています。利根川上流の沼田市(当時の赤城根村・東村)では、白沢橋、文化橋、南郷橋などが流失し、20人近くの死者がでました。14日からの豪雨で各地に山崩れ、崩壊土砂が流水とともに一斉に押し出しました。赤城根村では住家流失89戸、半壊42戸、浸水36戸、東村では住家流失4戸、半壊4戸、浸水8戸の被害となりました。
 昭和村(糸之瀬村)では、長久保地区が山崩れで死者7人、下吹張地区が堤防決壊で10戸流失などの被害がでました。特に14日午後2時半頃からの1時間の豪雨により、各地で山崩れが発生しました。昭和村(久呂保村)では、永井沢、大久保沢、入沢久保、三室久保などの谷から出水しました。特に三室久保は、山の崩壊により堰止められ、その決壊により、久保の農地、小岩鎌沢の家屋道路などにも大損害を与えました。三ツ谷では人家流失3戸、埋没2戸の被害となりました。
 渋川市(敷島村・横野村)では、沼尾川・天竜川で山津波が発生しました(群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会,1959)。敷島村では死者行方不明83人,横野村では15人の被害となりました。渋川市(小野上村)では、如意庵地区の地すべりにより、民家3戸が押し流され、2名の死者となりました。また、夜に入り山崩れのため、如意寺の参道が決壊・流失し、その下流の田畑・山林は一面荒地と化しました。渋川市(豊秋村)では、行幸田地内の寿々川で、15日14時頃発生した山津波により、 2名が生き埋めとなり、住家・納屋各1棟が埋没しました。この他、半田地区で堤防が決壊し、国道17号線は30余日間にわたり、交通が途絶しました。また、山林の崩壊により、河道閉塞・天然ダムが何か所もでき、次々に決壊して下流の被害は甚大でした。
 前橋市(富士見村)の小沢では、15日16時頃、上流からの土石が音をたてて流れ、字上白川・字八幡・字薬師前の各地点で、一斉に決壊し、送電塔が破壊されました。この他、箕輪で16時〜16時半頃、土砂と樹木が高さ3mの山となって流れてきました。赤城白川の氾濫により、死者100名以上の被害となりました。前橋市(大胡町)では、15日14時半頃、大音響が聞こえ、まもなく荒砥川上流より、高さ2.5mの濁流が大胡町の中心を襲いました。荒砥川からの山津波で、死者71名の被害となりました。
図2 昭和22年(1947)カスリーン災害による被災概要図 (国土交通省利根川水系砂防事務所,2010,後藤,2012)
図2 昭和22年(1947)カスリーン災害による被災概要図 (国土交通省利根川水系砂防事務所,2010,後藤,2012))
拡大表示

 桐生市(新里村)では、鏑木川、天神川などの河川が一斉に洪水となって、死者1人と橋梁の流出など、甚大な被害がでました。下仁田町(下仁田町)では、涸沢から大量の土砂が流出し、流出土砂は椚川の流水を急変させ、一瞬にして7人が濁流にのまれて死亡しました。

3.赤城山麓の沼尾川の土砂災害
 群馬縣(1950)、村上(2008)、白井(2010)などによれば、沼尾川流域では、カスリーン台風襲来の5〜6日から降り続く雨によって、赤城山麓の地盤が緩んでいたところ、9月14日、15日に降雨が集中し、15日朝より夜8時頃までに400oという豪雨が降り続きました。これにより、沼尾川は増水してきたため、辻久保部落付近では、堤防が危険と感じ、警防団の出動を行い待機していたが、正午頃にはやや減水したため、警防団は一時引き上げました。しかし、この頃より降雨は一層激しくなり、15時頃山鳴りと同時に大土石流となり、30分後に前入沢が抜け、約20分後に本流が抜け、土砂・軽石・流木が濁流とともに大土石流となりました。さらに30分後に中入沢が抜け出し、本流の濁流の上を3丈(9m)ほども高い段波が流れ込みました。
 深山部落周辺では、土石流の発生直前まで沼尾川の出水は大した変化もなかったが、突然の出来事で、逃げる余裕もなく、150mも流された人もいました。土石流が小山のように押し出して流下したのは極め
図5 江の島の「びゃく」の地点(藤沢市教育文化センター,2004に追記)
図3 敷島村沼尾川における災害関連地名(勢多郡敷き島村大水害・災害調書,1947日などをもとに作成)

て短時間で、10分も続かなかったと言われています(目撃者談)。土石流の通過後1〜2時間後には、水は急激に減水し、荒廃した河原を自由に通過できる状況となりました。
 この土石流によって、深山部落は一瞬にして大半を根こそぎ押し流され、昭和10年(1935)に災害復旧で完成した護岸工事(幅5m)も跡形もなく流失し、沿岸の道路・橋梁は流失し、田畑は大転石・土砂に累々として覆われ、見る影もなく荒廃してしまいました。
 山津波の押し出してくる有様は、立木は立ったまま地響きを立て、3〜4丈(9〜12m)の小山状をなして押し出し、瞬時に流れ去った後は地上に一物も残らず、深さ2〜3丈(6〜9m)の切り立った谷間と化しました。また、その下流部では土石流により宅地・農地に巨石などが2〜5m堆積する有様でした。この土石流は、国鉄上越線鉄橋を押し流し、利根川本川に出て、本流の洪水を15分堰き止めた後決壊し、洪水とともに流送されました。このため、利根川の水位は上昇し、本流上流部の狩野部落4〜5軒を浸水させました。
 土石流の先端は、小山のように高く盛り上がり流下します。これは先端部では一般に摩擦が大きく流速が小さいため、後方より流下する部分が先端部に乗り上げ、盛り上がるためです。また、横断的にみると最も速度の大きい部分は断面中央で、脇に向かって次第に速度が小さくなります。したがって、中央部は後方より押し上げられ、次第に両側に向かって移行します。その結果、中央が高くドーム状の断面が形成されます。
 深山地区の土石流による被害は、住民902人中、死者31人、重軽傷者18人、家屋156戸中、流失78戸という惨状でした。敷島村役場(1947)『沼尾川流域災害記録』によれば、洪水後沼尾川沿いの70数戸は跡形もなく、美田とともに押し流されて、一面石河原となり、削り取られた深い谷底を沼尾川本流が泥濁りとなって流れている状況でした。
 写真1は、赤城村小川田地内にある災害慰霊碑で、昭和54年(1979)9月15日に建立され、赤城村の下田八州太村長の碑文が記されています。
「想えば、1947(昭和22年)9月15日関東地方一帯と奥羽地方の一部を通り魔のように襲来したカスリーン台風による災害は、群馬県下では暴風による被害よりも豪雨による山津波から起こった被害がその大部分であり、特に赤城山を中心とした村落の被害が多く、中でも本村は沼尾川並びに天龍川・利根川沿いに被害を蒙ったが、最も悲惨を極めたのは沼尾川沿いの地域であった。
 当時の状況記録によると、赤城山も崩れるかと思われるばかりの大音響と同時に中山後入りの各窪から流れ出た土石流によって深山村落の大半を根こそぎ押し流し、日陰・辻久保・小川田・清水年丸を経て、利根川に至るまでの集落を呑み込みつつ流れ去った。
 死者行方不明者83名、重傷者14名、流失家屋167戸、その他浸水家屋等は200戸以上に及び、宅地・田畑・山林の流失・埋没は570ha以上といわれ、罹災総人員は2424人を数える未曾有の大災害であった。
写真1 沼尾川の災害慰霊碑と地蔵堂 1979年9月15日の33回忌に建立(2009年9月井上撮影)
写真1 沼尾川の災害慰霊碑と地蔵堂 1979年9月15日の33回忌に建立(2009年9月井上撮影)
 
 不帰の客となられた犠牲者のご無念はもとより、住み馴れた家を失い、田畑・山林を押し流され、両親を失った子供、夫に分かれ妻を失い愛児を失うなど、一瞬の間に肉親を失った人達の当時の心境を思う時、今なお胸の痛む思いである。
 しかしながら、被害者住民は不幸の内にもめげず、毅然と立ち上がり、官民一体となって努力した結果、今や当時の惨状をとどめぬまでに復旧し、活気に満ち溢れ発展の一途をたどっている。これもひとえに犠牲者諸霊のご加護の賜であり、残された遺族を始め関係者各位の悲しみと苦難に満ちた努力の賜にほかならない。
 ここに33回忌を迎え、遺族の手により慰霊の地蔵像を建立することは、犠牲者への最善の供養であり、かつ二度と繰り返してはならない災害の戒めともなる事績であり、建立にあたりご苦労された関係者各位に深く敬意を表する次第である。終わりに犠牲者の御霊安良かなれと祈り合わせ今後とも我が郷土の繁栄と平安を見守るとともに、永遠の加護を念願するものである。 
1979(昭和54)年9月15日          赤城村村長  下田 八州太 」

4.土砂災害の地形・地質的背景(赤城火山の形成史)
 カスリーン台風によって、赤城山周辺の斜面で崩壊が多発し、多くの渓流で土石流が発生して、激甚な災害が発生しました(井上,2010)。これらの流出土砂が大量に利根川や渡良瀬川に流入したことが、利根川中・下流域で激甚な洪水氾濫の原因の一つになったと考えられます。図4は、カスリーン台風時の赤城火山周辺の崩壊地分布図(群馬縣,1950)を示しています。西側の沼尾川方向だけでなく、赤城火山の北麓〜東麓〜南麓にかけて、多くの土石流が発生していることが判ります。
 火山の地形発達史という観点から見れば、これらの火山災害も赤城火山という脆弱な火山帯が侵食・解体されていく一過程と見なすことができます。関東地方の北部から西部には、赤城山・榛名山・浅間山・八ヶ岳などの活火山が存在し、噴火のたびに偏西風に流されて、火山から東方地域に大量の降下火砕物(テフラ:軽石・火山灰)が堆積しました(新井,1993,木崎ほか,1977)。降下火災物は地質学的に極めて短期間に堆積するため、地形発達史を考える際の重要な鍵層(キーテフラ)となります。不安定な降下火砕物は、徐々に斜面下方に移動します。そして、豪雨や激甚な地震の際に崩壊や地すべりを引き起こし、土石流となって渓流を流下する現象が起きます。渓流を流下した土砂は、利根川や渡良瀬川との合流点付近に沖積錐となって堆積し、堆積土砂は洪水時に下流に流下します。 そして、利根川や渡良瀬川は、関東平野に入ると広大な前橋扇状地や大間々扇状地を形成しました。
図4 赤城山周辺の崩壊地分布図(群馬縣,1950をもとに作成),緑線は国有林の範囲
図4 赤城山周辺の崩壊地分布図(群馬縣,1950をもとに作成),緑線は国有林の範囲

4.1 赤城火山の形成史
 赤城火山は50万年も昔から数多くの噴火活動を繰り返して、大量の火山噴出物を放出し、それらが積み重なって形成された複式火山です(守屋,1968,1983,1993)。すなわち、火山噴火時の成長と、それ以外の時期での侵食作用という地形形成作用が繰り返されました。南東方向に流出した山体崩壊堆積物・火砕流堆積物によって、何回も渡良瀬川は河道閉塞を起こし、非常に大規模な天然ダムが形成されました。 
 図5は、南西上空より見た赤城火山の地形発達を示す想像図(守屋,1968)を示しています。 赤城火山の形成史は、@〜Bの成層火山建設期、Cの成層火山の大崩壊、Dの成層火山の修復、Eの成層火山の侵食(放射谷・火山麓扇状地の発達)、F山頂火口丘の形成(火砕流・降下火砕物が広範囲に堆積)、Gの
山頂カルデラの形成、Hのカルデラ内溶岩延長丘の形成、の時期に分けられます。
@ 〜 Bの成層火山建設期
 赤城火山は、溶岩流の流出と火砕流噴火などの繰り返しで、次第に標高2500mにも達する富士山のような見事な成層火山に成長して行きました。
C 成層火山の大崩壊
 見事な成層火山となった赤城火山は、急傾斜な斜面を形成し、溶岩やスコリアなどが積み重なり、重力的に不安定な状態となりました。このため、明治21年(1888)の磐梯山や昭和55年(1980)のセントへレンズ火山のように、地震やマグマの上昇、水蒸気爆発などの衝撃によって、南方向に山体崩壊を起こしました。富士山のような山体が一気に崩れ、山頂部には大きな凹地が形成され、崩壊した土砂は梨木岩屑流(岩屑なだれ)となって、関東平野の北西部の前橋市・伊勢崎市・みどり市・桐生市西部などを埋めてしまいました(澤口,1997)。
図5 南西上空より見る赤城火山の地形発達を示す想像図(守屋,1968)
図5 南西上空より見る赤城火山の地形発達を示す想像図(守屋,1968)

D 成層火山の修復
 山頂部の大きな凹地で火山活動は再開されました。今度は爆発力の大きなブルカノ式噴火(粘性の高い溶岩の噴出)を繰り返し、鍋割山や荒山のような山体が形成され、赤城火山は修復されました。
E 成層火山の侵食(放射谷・火山麓扇状地の発達)
 噴火の間隔が長くなったため、侵食が盛んとなり、放射状の谷地形が発達して行きました。カスリーン台風によって大規模な土石流が発生した沼尾川は、中央部のカルデラ内部に源流部がある赤城山で一番大きな侵食河川です。中・上流部は深さ300〜400mにも達する急峻な谷地形を形成し、土砂生産の非常に活発な河川です。沼尾川の河谷には、多くの崩壊地形(痕跡地形)が存在し、繰り返し土石流が発生した証拠である土石流段丘が多く分布しています。
F 山頂火口丘の形成(火砕流・降下火砕物が広範囲に堆積)
 20万〜5万年前頃、赤城火山はプリニー噴火と呼ばれる爆発的噴火(10回以上)を繰り返しました。大量の降下火山噴出物の放出と火砕流の発生です。東方の渡良瀬川に発達する水沼などの河岸段丘では、厚さ1m程度の降下軽石の層が10枚以上見つかっています。また、この時期には山頂付近から何回も火砕流が発生し、渡良瀬川の河谷を乗り越え、かなり遠方の山麓にまで達しました。赤城火山から噴出した軽石質火砕流は、山頂付近の急斜面には止まることができず、山麓斜面に堆積し、山頂部には大きな火山体をつくりませんでした。
 また、大規模な山体崩壊が数回発生し、東から南方向に流下・堆積しました。東方に流下した山体崩壊堆積物や火砕流堆積物は、渡良瀬川を越えて左岸側地域まで厚く堆積しました。これらの堆積物によって、渡良瀬川は河道閉塞され、花輪附近から上流域に天然ダムを形成しました。この天然ダムは形成と消滅を繰り返し、花輪から神戸付近にかなり広い埋積谷と埋積段丘を形成するようになりました。
G 山頂カルデラの形成
 上記の時期の後半には、赤城火山は成長よりも逆に山頂部は破壊されて、山頂カルデラが形成されました。このカルデラは南北4km、東西3km、深さ200〜300mの楕円形の形状となりました。その中には大沼・小沼などの火口原湖・火口湖や地蔵岳などの溶岩円頂丘があって、非常に変化に富み、多くの観光客を楽しませてくれます。
 4.5万年前に大規模な噴火があり、南東方向に湯ノ口降下軽石層(UP、園芸用の桐生砂)が厚く堆積しました。赤城火山の東方地域には、発砲の悪い岩片を主体とする火砕流堆積物が堆積しました。この火砕流も渡良瀬川を河道閉塞し、広大な天然ダムを形成しました。
H カルデラ内溶岩延長丘の形成
 カルデラ内には円形のカルデラ湖(十和田湖のような)が形成され、満々と湖水を湛えていたが、3.2万年前に大規模な火山活動が再開され、東方向に鹿沼降下軽石(KP、園芸用の鹿沼土)が噴出しました。渡良瀬川流域に厚く堆積した軽石は、その当時の植生を広範囲に破壊し、谷壁斜面から大量の土砂が流出したと考えられます。当時この地域に住んでいた旧石器人は、これらの火山噴火によって、多大な影響を受けたと考えられます。
 顕著な噴火はその後1万年ほどありませんでしたが、2万年前に地蔵岳と小沼溶岩円頂丘がカルデラ内に形成されました。このため、カルデラは3つの火口原湖に分けられ、その一つが大沼です。他の火口原湖は干上がって、新坡平・オトギの森と呼ばれる火口原となっています。
 その後、赤城火山の噴火活動はほとんど停止して、山体の侵食が卓越する状態となっています。
 『吾妻鏡』の中に、「建長三年四月十四日(1251.5.11)赤城嶽焼」という記録があることから、気象庁は活火山に指定していますが、噴火に相当する堆積物は見つかっていません。
 埼玉県北部から群馬県南部を北北西〜南南東方向に走る関東平野西縁断層帯は、規模の大きな活断層帯です。昭和6年(1931)9月21日の西埼玉地震(M=6.9)は、この断層帯付近で発生しました。
 『類聚国史』によれば、弘仁九年七月(818年8月)に東国で大規模な地震が発生したという記録があります。翌八月には被害を受けた諸国へ勅使が派遣され、損害の程度を調査するとともに、賑給(米塩の支給)を行い、さらに詔を布告して、租調免除・家屋修理の補助、死者の埋葬などが指示されました。赤城火山の南斜面では、非常に多くの大規模崩壊土石流が発生したことが、史料に残っています(群馬県新里村教育委員会,1991,能登,1991,早川ほか,2002)。特に、赤城山南麓の考古学の発掘調査で、土石流堆積物に覆われた平安時代の遺跡が多く認められました。
図6 赤城火山南麓の地震地形と関連遺跡の分布(群馬県新里村教育委員会,1991)
図6 赤城火山南麓の地震地形と関連遺跡の分布(群馬県新里村教育委員会,1991)

4.2 関東地方の主なテフラと赤城火山の活動と渡良瀬川の段丘編年
 表1は、関東地方の主なテフラ(降下火山灰)の年代と赤城火山の活動、渡良瀬川上流域の河成段丘の編年を一覧表として示したものです(井上,2010)。関東地方には、関東地方の西部の火山だけでなく、遠く鹿児島湾の姶良火山から噴出したATと呼ばれる広域テフラが降下堆積しています。これらのテフラの堆積状況を編年することにより、赤城火山の形成史や渡良瀬川流域の段丘編年は、町田・水山(1952)、澤口(1968)、塩島・大内(1978)、鈴木(1990)、大間々町史刊行委員会(1996)、竹本(1999)などがあり、調査者によって、段丘面の名称や形成時期は異なっており、統一した見解は示されていません。
 図7に示したように、渡良瀬川の河谷には多くの河岸段丘が発達しています。赤城火山の10回以上の大噴火によって、多量の岩屑なだれ堆積物と火砕流堆積物が渡良瀬川に流入し、水沼から中神梅(なかかんばい)付近で河道閉塞し、広大な天然ダムを形成しました。水沼の河岸段丘の堆積物から判断して、天然ダムの形成は20万年前頃から始まったと考えられます。図6に示したように、この天然ダムの湛水標高は380m程度で、湛水高150m、湛水量4.85億m3にも達したと考えられます(国土交通省渡良瀬川河川事務所,2009,井上,2010,2012)。塩島・大内(1978)によれば、この湛水域には、湖成段丘(水沼・大平・神戸)が形成され、比較的軟質な湖成堆積物(周辺谷壁斜面からの土石流堆積物を含む)が厚く堆
表1 関東地方の主なテフラと赤城火山の活動と渡良瀬川の段丘編年(井上,2010)を修正
表1 関東地方の主なテフラと赤城火山の活動と渡良瀬川の段丘編年(井上,2010)を修正
図7 渡良瀬川の河床断面図・段丘面投影・天然ダム想定図(塩島・大内,1978に追記,井上,2010)
図7 渡良瀬川の河床断面図・段丘面投影・天然ダム想定図(塩島・大内,1978に追記,井上,2010)

積しました。この湖成堆積物の直上には、4.5万年前頃赤城火山から噴出したUP湯ノ口軽石層:桐生砂)が堆積しています。最後に3.2万年前のKP(鹿沼軽石層:赤城火山最後の大規模噴火)が堆積しました。KP(降下火災物)が渡良瀬川流域に数10cmも堆積したために河谷斜面は不安定となり、大量の土砂が流出するようになりました。このため、多くの渓流下部に沖積錐(土石流扇状地)が形成されました。この時期は寒冷なウィルム氷期であり、凍結融解作用の激化によって、皇海山や古峯ヶ峰の山頂付近には周氷河地形の一つである岩屑流堆積物が厚く堆積する埋積谷が多く認められます。
 前述の天然ダムは満水になって徐々に溢水するようになったが、赤城火山起源の岩屑流堆積物によって、渡良瀬川は4kmもの区間にわたって河道閉塞されました。このため、この天然ダムはすぐには決壊せずに、KPが噴出した3万年前頃まで継続したと考えられます(中禅寺湖は4万年前の華厳溶岩の流出で形成されました−コラム10参照)。その後、天然ダムから溢れた河川水によって、岩屑流堆積物は急激に下刻されるようになりました。狭窄部の河床が低下するにつれて、天然ダムの湛水域は次第に排水され、湖底跡には広い低位段丘が形成されました。この低位段丘面上に花輪・大原・松島・神戸などの集落が形成されて行きました。しかし、本宿から水沼間は狭窄部で、河積断面が不足しているため、豪雨時に急激な出水があると水位が上昇し、上流部の低位段丘まで湛水・氾濫するような洪水被害が繰り返し発生しました。明治35年(1902)の足尾台風や昭和22年(1947)のカスリーン台風のような豪雨を受けると、渡良瀬川の急傾斜な谷壁斜面からは落石や崩壊が発生し、流入する支渓流からは土石流が多く発生しました、このため、上記の集落やわたらせ渓谷鉄道、道路(国道122号や県道・市町村道・林道)が激甚な被害が発生していました。

引用文献
新井房夫(1993):上州の火山噴火の歴史,新井房夫編:火山灰考古学,古今書院,p.30-53.
井上公夫(2010):山間部の土砂災害、特に渡良瀬川流域について,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会:1947カスリーン台風報告書,第4章,p.101-117.
井上公夫(2012):5.2 火山地域で想定される土砂災害,地盤工学会関東支部・関東地域の火山由来地盤の災害事例研究と地域特性に関する研究委員会,p.109-111.
大間々町誌刊行委員会(1996):大間々町の地形・地質,大間々町誌「基礎資料編[」,148p.
カスリーン台風70年目の検証実行委員会(2017.11.18):土砂災害から身を守るための砂防公開講座,国土交通省利根川水系砂防事務所,15p.
木崎喜雄・野村哲・中島啓治(1977):群馬のおいたちをたずねて,上毛新聞社出版局,上巻239p. ,下巻231p.
群馬縣(1950):カスリン颱風の研究,利根川水系における災害の實相,日本學術振興會群馬縣災害對策特別委員會報告,447p.
群馬県勢多郡敷島村村誌編纂委員会(1959):群馬県勢多郡敷島村誌,947p.
群馬県新里村教育委員会(1991):赤城山南麓の歴史地震,―弘仁九年に発生した地震とその被害―,86p.
国土交通省関東地方整備局渡良瀬川河川事務所(2017):決して忘れてはならないカスリーン台風,2017年はカスリーン台風から70年,15p.
国土交通省渡良瀬川河川事務所(2009):H20渡良瀬川大規模土砂災害対策検討業務報告書,砂防フロンティア整備推進機構
澤口宏(1968):渡良瀬川の河岸段丘,群馬県高等学校社会科研究会誌号,9号,p.40-47.
澤口宏(1997):足尾山地における「梨木岩屑流堆積物」の分布,えりあぐんま4号,p.31-36.
塩島由馗・大内俊二(1978):北関東地域渡良瀬川流域の河岸段丘,日本地理学会大会予稿集,2巻,p.40-41.
利根川水系砂防事務所(2010):H22片品川・烏川流域事業効果検討業務報告書
後藤宏二(2012):5.4 利根川水系砂防事務所管内の事例及び対応策,地盤工学会関東支部・関東地域の火山由来地盤の災害事例研究と地域特性に関する研究委員会,p.121-147.
鈴木毅彦(1990):テフロクロノロジーからみた赤城火山20万年間の噴火史,地学雑誌,99巻,p.182-197.
白井勝二(2010):カスリーン台風と利根川流域,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会:1947カスリーン台風報告書,第1章,p.3-59.,2章,p.60-80.
竹本弘幸(1999):北関東北西部地域における第四紀古環境変遷と火山活動,茨城大学大学院理工学研究科宇宙地球システム科学専攻学位論文,利根川水系渡良瀬川流域の地形発達史,p.103-107.
中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会(2010):1947カスリーン台風報告書,207p.
辻村太郎:昭和22年9月の群馬縣水害調査報告,群馬県(1950):カスリン颱風の研究,p.107-130.
能登健(1991):弘仁九年地震災害についての覚書,群馬県史研究,34号,p.38-50.
早川由紀夫・森田悌・中島田絵美・可部二生(2002):『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山南斜面の残る9世紀の地変跡,歴史地震,18号,p.34-41.
防災専門図書館(2017.9.01〜12.28):企画展「首都圏水没!?〜カスリーン台風から70年」
町田貞・水山高幸(1952):渡良瀬川上流域の地形,地理学評論,25巻,p.486-494.
村上智美(2008):カスリン台風における多数の人的被害を生んだ災害事象に関する資料解析,群馬大学工学部建設工学科,卒業論文
守屋以智雄(1968):赤城火山の地形及び地質,前橋営林局,64p.
守屋以智雄(1983):日本の火山地形,東京大学出版会,135p.
守屋以智雄(1993):赤城火山の生い立ちと将来の噴火,荒井房夫編:火山灰考古学,東京大学出版会,p.173-193.

参考文献
市川正巳(1952):渡良瀬川上流地域の山地崩壊とその諸因子並びに河川に与える影響,地理学評論,25巻,p.548-563.
カスリーン台風写真集刊行委員会(1997):カスリーン台風,報道写真集昭和22年関東水没から50年,茨城新聞社・埼玉新聞社・上毛新聞社・下野新聞社・千葉日報社・共同通信社共同編集,発売元埼玉新聞社,81p.
カスリン・アイオン颱風50年事業実行委員会(1998):カスリン颱風(1947),38p.,アイオン颱風(1948),38p.
葛飾区郷土と天文の博物館(2007):諸国洪水・川々満水,―カスリーン台風の教訓―,145p.
川口武雄・渡邊隆司・瀧口喜代志(1951):赤城山山崩に関する研究,林業試験所研究報告,49号,81p.
群馬県河川課(1998):カスリーン台風から50年,忘れられぬあの日,上毛新聞出版局,76p.
建設省渡良瀬川工事事務所(1998):カスリーン災害記録集T,洪水の爪痕から、いま、そして、未来へ,洪水写真集,150p.
建設省渡良瀬川工事事務所(1998):カスリーン災害記録集U,聞き取り調査・体験談集,150p.
小出博・野口洋一(1950):赤城山の崩壊並びに土石流,群馬県(1950):カスリン颱風の研究,p.199-219.
上毛新聞出版局(1999):写真と新聞で見るカスリーン台風,110p.
小林政能(2017):米軍空中写真に写るカスリーン台風破堤部,地図中心,540号,特集カスリーン台風70年,p.15-17.
清水義彦(2010):扇状地急流河川の氾濫による被災過程,中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会:1947カスリーン台風報告書,第3章,p.81-100.
清水義彦(2017a):カスリーン台風による豪雨災害を振り返る,河川,846号,特集大河川の歴史(第3回)〜利根川・荒川〜,p.25-29.
清水長正(2017):利根川中流・治水地形を巡って,地図中心,540号,特集カスリーン台風70年,p.24-25.
白井勝二(2017):渡良瀬遊水地の成立,河川,846号,特集大河川の歴史(第3回)〜利根川・荒川〜,p.30-36.
上毛新聞社(2017.8.30別刷):2017防災特集,忘れない明日への備え〜多数の尊い命を失った、あのカスリーン台風襲来から70年〜,8p.
高崎哲郎(1997):洪水・天ニ漫ツ,カスリーン台風の豪雨・関東平野をのみ込む,講談社,248p.
高橋裕(2017):カスリーン台風から70年,地図中心,540号,特集カスリーン台風70年,p.3.
谷口榮(2017):カスリーン台風と災禍の記憶,地図中心,540号,特集カスリーン台風70年,p.18-21.
檜山靖洋(2017):究極の雨台風,地図中心,540号,特集カスリーン台風70年,p.10-11.
防災科学技術研究所(2007):カスリーン台風60年企画展,東京を襲った利根川の洪水,自然災害情報室 .
水谷武司(2011):シリーズ「我が国を襲った大災害」,−1947年9月カスリーン台風の豪雨による洪水・土砂災害−水利科学,319号,p.82-99.
Copyright(C) 2002- ISABOU.NET All rights reserved.