1.御嶽山の最近の火山活動
御嶽山(標高3063.4m)は、本州中央部に位置する成層火山で(図1)、火山としては富士山に次ぐ日本第2位の高さを持っています。図2の地質図によれば、御嶽山は第四紀更新世に活発な火山活動がありましたが、活動の長い休止期を挟んで、古期御嶽火山と新期御嶽火山に区分されます(山田直利・小林武彦(1988): 1/5万地質図幅,「御嶽山」,通商産業省工業技術院地質調査所)。古期御嶽火山は75万年前に活動を開始し、おもに安山岩からなる成層火山群を形成して42万年前に終了しました。その後、30万年間の長い休止期を経て、新期御嶽火山の活動が開始されました。新期火山は10万年前に活動を始め、初期には軽石などの大量の火砕物を噴出してカルデラを生じ、それ以降、珪長質〜安山岩質の火山噴出物がカルデラを埋め立てて、現在の御嶽火山上部を築き上げました。新期御嶽火山のマグマの活動は2万年前に停止し、それ以降は水蒸気爆発と温泉・噴気が残っています。現在の山体には放射状の開析谷が発達し、谷頭部には多数の崩壊地形が認められます。
平成26年(2014)9月27日11時52分、御嶽山は水蒸気爆発を起こしました。噴煙高度は山頂から7000mに達し、推定噴出量は50万トン程度とされています(気象庁地震火山部火山課,2014.9.28)。平成27年(2015)11月6日現在、死者58人、行方不明5人、計63人と戦後最悪の被害となりました(総務省消防庁,2015.11.6)。山頂の南西、地獄谷付近の地下にあった熱水溜まりが何らかの原因で加熱(あるいは減圧)したことにより急膨張した結果、突沸し噴出に至りました(山と渓谷社,2014.12)。
35年前の昭和54年(1979)10月28日5時20分、火山性地震を先駆けとして噴火活動が始まりました(山田・小林,1988)。当初は爆発音も出さず、噴煙も小さく白色でしたが、8時30分頃から噴煙が一段と激しく立ち昇り、灰色〜暗灰色を呈するようになりました。噴煙は北東に広がり、前橋市でも降灰が認められました。火山活動は14時頃極大期を迎え、この時期の噴石が剣ヶ峰周辺に落下して、山頂部の神社や山小屋に被害を及ぼしました。昭和54年(1979)と平成26年(2014)の噴火では、マグマの噴出はなく、水蒸気爆発で良く似ています。
2.長野県西部地震
昭和59年(1984)9月14日8時48分、長野県木曽郡王滝村の御嶽山南東地域を震源として、M=6.8の直下型地震が発生しました。有感地震域は東北から中国地方にかけての広範な地域に及びました(気象庁地震火山部火山課,1984)。震源地であった王滝村の震度はX〜Yであったと推定されます(多賀ほか,1985)。図1には、御嶽山周辺の地形と活断層、本震・主な余震の震源分布を示しています(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2002)。この図には、活断層研究会(1991より、確実度T,Uの活断層を追記しました。この地震により、御嶽山南斜面では大規模な斜面崩壊が各地で発生しました。そのうち、最も大きなものが
「御岳崩れ(伝上崩れ)」と呼ばれる大規模崩壊(推定崩壊土砂量3400万m
3)です。図3は、長野県西部地震による主な崩壊地の位置と土砂の流出状況(水山・原,1991)を示しています。この図には地震発生時(8時48分)の御岳崩れ発生から、主な地点の土石流の流下時刻を示しています。御岳崩れの崩壊土砂は、伝上川源頭部の標高2550m付近の大規模崩壊地から岩屑なだれ・土石流として移動し、伝上川・濁川を10km以上も流下して、王滝川に流入しました。また、松越・滝越・御岳高原などの各地でも崩壊が発生しました。
図1 御岳山周辺の地質図(1/5万地質図「御嶽山」をもとに国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所(2004)で編集
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図2 御嶽山周辺の地形と活断層,震源地点(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2002)
国土地理院数値地図50mメッシュ標高データで作成
活断層は活断層研究会(1991)より、確実度T,Uを追記
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御岳崩れから流下した岩屑なだれ・土石流は、濁川沿いでは濁川温泉(旅館)が埋没して4人が行方不明となったほか、きのこ狩りの5人が巻き込まれました。王滝川沿いでも、柳ケ瀬の住宅や氷ヶ瀬の王滝営林署が流失し、道路を通行中だった6人が死亡したとみられます。松越では13人、滝越では1人が死亡し、合計29人の犠牲者を出しました。そのいずれもが地震で引き起こされた大規模な土砂移動による被災でした。
3.長野県西部地震による大規模土砂移動
図3は、長野県西部地震による崩壊地の位置と土砂流出状況を示したものです。表1は、長野県西部地震で発生した主な崩壊地について、土砂移動前・後の崩壊地の空中写真判読に基づいて、国土地理院技術開発室(1985)がまとめたものです。
図4は、地理調査部地理第一課(1985)が作成した
「1984年長野県西部地震地理調査図」の御嶽山山頂から御岳崩れ付近の写真判読図です。図4に示したように、御嶽山南斜面を中心に多数の崩壊が生じました。地震前後の空中写真の比較判読によれば、表1の他に470箇所の崩壊が新たに生じました(国土地理院地理調査部技術開発室,1985;地理第一課,1985;長岡,1986)。
これらの崩壊は、@浅い震源の直下型地震が御嶽山南麓で発生したこと、A御嶽山南斜面に開析が進んだ急斜面が多かったこと、B構成している溶岩の間に未固結の軽石層が存在したこと、などの複数の要因が重なり、発生したものと推定されます。
図3 長野県西部地震による崩壊地の位置と土砂流出状況(水山・原,1991をもとに作成)
(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2002)
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表1 長野県西部地震による崩壊地の特性(国土地理院地理調査技術開発室,1985)
図4 御嶽山周辺の崩壊地形と長野県西部地震による新規崩壊地
国土地理院地理調査部地理第一課(1985)
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4.御岳崩れ(伝上崩れ)
御岳崩れ(伝上崩れ)は、御嶽山南側の伝上川上流部で派生したもので、日本では当時戦後最大の大規模崩壊地形と言われました。空中写真が撮影されるようになってから最大規模の事例で、地形変化の詳細が解析できた最初の大規模崩壊です。
御岳崩れは、山頂部より南南東に延びる尾根(傾斜26度)の標高2550mから尾根末端の標高1900mにかけて、最大幅430m、最大厚さ160mの山体の一部が大規模崩壊したものです。この尾根は、かつて溶岩類を主とする厚さ160m程度の地層で構成されていました。崩壊によって、西側にあった旧崩壊地の一部を含む形で長卵型の谷が形成されていました。
写真1〜3は、空中写真による伝上川上流の崩壊地の経年変化(長岡,1987)を示しています。上から順に、御岳崩れの36年前の状況(1948年9月30日米軍撮影)、9年前の状況(1975年9月12日国土地理院撮影)、崩壊直後(長野県西部地震から8日後,1984年9月22日国土地理院撮影)を示しています。
崩壊域の地形・地質特性として、次の事実が指摘されています(長岡,1987)。
1) |
崩壊地は、厚さ160mの溶岩・スコリアの互層で構成されている(図5)。すべり面はその最下位に位置し、崩壊によって形成された谷の左岸斜面に沿って広く残存する軽石層中に形成された。 |
2) |
崩壊地の地層は、全体として元のV字型開析谷を埋積した地層であり、この崩壊ではそれらの大半が一気に滑動除去されて、元のX字谷が再露出したと考えられる。 |
3) |
昭和23年(1948)以降、近年までの空中写真を比較すると、大規模崩壊を生じた尾根の末端部(伝上川右岸谷壁)には以前から崩壊地が存在し、経年的拡大が起こっている。 |
写真1 御岳崩れ36年前の米軍写真USA-M1171-214,215(1948年9月30日撮影)
写真2 御岳崩れ9年前の国土地理院写真CB758Y-C4-2,3(1975年9月12日撮影)
写真3 御岳崩れ8日後の国土地理院写真(1984年9月22日撮影)
写真1〜3は、長岡(1987)の空中写真による伝上川上流の崩壊地の地形変化をもとに編集
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写真4 御岳崩れ源頭部及び滑落崖 |
図5 御岳崩れ滑落崖のスケッチ図 |
(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986) |
写真5 御岳崩れ全景(2004年8月1日,井上撮影)
写真4,5は御岳崩れの写真で、図5は滑落崖のスケッチ図です。
崩壊土砂は伝上川を高速で流下し、一部は1km下流の火砕流台地を乗り越えて、鈴ヶ沢(東股)と中俣に流入しました(図6,図7)。大部分の土砂は、伝上川をゆるく右にカーブしながら流下し、2km下流で火砕流台地(比高100m)を乗り越えて、一部は濁沢に流入しました。濁沢と伝上川が合流した後、濁川を流下して、濁川温泉を巻き込み、王滝川との合流点では比高90mの尾根を乗り越え、王滝川右岸の山に、10mほど
乗り上げました。濁川から王滝川に直接流入した土砂は、数分後に1km下流の餓鬼ヶ咽(がきがのど)と呼ばれる狭窄部に達しました。そして氷ヶ瀬付近の狭窄部に行く手をさえぎられ、大部分の流下土砂はこの付近から上流部に堆積しました。この埋没土砂によって、王滝川の上流部に
「王滝湖」と呼ばれる天然ダムが形成されました。
目撃者の証言などによると、御岳崩れは長野県西部地震が起きた8時48分に発生し、8分後の8時56分頃に餓鬼ヶ咽を通過したと推定されます(国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所,2004)。土砂の流下開始点を崩壊部下端とすると、崩壊地〜餓鬼ヶ咽間の土砂流下速度は23m/秒(時速80km)と算出されました(水山・原,1991)。さらに、流下土砂の先端部は17分後の9時05分頃に氷ヶ瀬の営林署敷地内の西半分に流入しました。餓鬼ヶ咽〜氷ヶ瀬間の土砂流下速度は4m/秒(時速15km)となりました。
写真6,7は、災害直後に原義文氏(当時土木研究所研究員)が現地調査した時に撮影したもので、濁沢を流下した土石流(岩屑なだれ)の激甚な破壊力を示しています。
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図6 御岳崩れに伴う土砂流出図 |
図7 御岳崩れに伴う侵食・堆積量 |
(水山・原,1991;国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2002) |
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写真6 土砂移動直後の濁川の河床・谷壁 |
写真7 土砂移動直後の濁沢・王滝川合流点の尾根 |
原義文1984年撮影(国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道務所,2004) |
5.長野県西部地震による地形変化
写真8は、災害前後の濁川と王滝川の合流点付近の地形変化状況を示しています(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986)。写真9は、田中亮治氏が所蔵の災害当日の濁川・王滝川合流点付近の写真です。田中氏は長野県西部地震発生時に王滝川の餓鬼ヶ咽付近を車で通行中でしたが、このまま王滝川の河床付近にいたのでは危険であると判断し、王滝川の左岸の急斜面をよじ登り、土石流が通過する前に安全な場所まで行くことができました(国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所,2004)。写真10は、王滝川が土石流で埋り、餓鬼ヶ咽付近の中部電力株式会社の発電用送水管から水が噴き出している状況です(写真13まで,長野県西部地震の記録編纂委員会,1986)。写真11は被災前の関西電力の導水管(河床からの高さ約35m)、写真12は被災直後の導水管の通っていた位置(破線)、写真13は天然ダムに水没した王滝トンネルを示しています。写真14は災害から20年後の天然ダムの状況です(2004年8月1日,井上撮影)。
国土地理院地理調査部技術開発室,地理第一課(1985)は、長野県西部地震(1984)の御岳崩れによる土砂移動の前後の地形図を比較して、2時期(1969年と1984年)の地形変化等量線図を作成しました。図8の右図は災害前の1/5000の地形図で、左図は災害後の1/5000の地形です。左図には主な測線の横断面図を示しています。中央の図は、左右の図から災害前後の地形変化量を等量線図で示したものです(国土交通省多治見工事事務所,2002)。これらの図を見ると、御岳崩れの中央部で最大150m侵食されたのに対し、濁川(濁川温泉のあった付近)で50m、王滝川の餓鬼ヶ咽付近で35m堆積したことがわかります。
写真8 災害前後の濁川と王滝川の合流点付近の地形変化状況
(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986,国土交通省多治見砂防国道務所,2004)
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写真9 災害当日の濁川と王滝川の合流点 |
写真10 餓鬼ヶ咽付近の中部電力の発電用送水管 |
(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986;国土交通省多治見砂防国道事務所,2004) |
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写真11 被災前の関西電力の導水管
(河床からの高さ約35m) |
写真12 被災直後の導水管の通っていた位置(破線)
(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986) |
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写真13 天然ダムに水没した王滝トンネル
(長野県西部地震の記録編纂委員会,1986) |
写真14 災害から20年後の天然ダムの状況
(2004年8月1日,井上撮影)
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図8 御岳崩れ前(1969)と直後(1984)の地形図と地表変化等量線図(長岡,1987)
国土地理院地理調査部技術開発室,地理第一課(1985)
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濁川から流出してきた土石流堆積物は、王滝川を河道閉塞して、湛水延長2750m、最深水位22m、湛水面積33万m
2、湛水量365万m
3の堰止湖(天然ダム)が形成されました。この河道閉塞により、上流側の道路・トンネル・橋梁が水没しました。このため、天然ダムの水を安全に排水する水路工などの緊急対策が実施されました。これらの対策工により、現在でも天然ダムは決壊せず、水位は一定に保たれています。
6.長野県西部地震の前後の地形変化とそれ以降の地形変化
国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所(2001,2002)では、長野県西部地震から11年後の地形図を作成するとともに、地形標高値をDEM化し、1969年,1984年,1995年の地形変化量を計測しました。図9に示したように、土砂移動地域を5地区に区分し、移動土砂量の変化量を計測しました。この数値には、地形図の精度、撮影時期による植生の回復などの誤差も含まれています。
図9 伝上川・濁沢・濁川・王滝川の土砂収支図(国土交通省中部地方整備局多治見工事事務所,2002)
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@ 長野県西部地震の前後の地形変化
伝上川の源頭部では、災害時に御岳崩れ地点で3400万m3が崩壊し、伝上川・濁沢・濁川では414万m3の侵食(全侵食量3814万m3)が起こりました。濁沢では尾根を越えて流入した土砂により、顕著な堆積と侵食が起こりました。伝上川・濁沢・濁川では、1149万m3の土砂が堆積し、王滝川では濁川・王滝川合流点から末端の氷ヶ瀬までの間に2096万m3に及ぶ堆積が起こりました(全堆積土砂量3245万m3)。土砂の侵食量に比べて堆積量の方が比べて569万m3(15%)少なくなっていますが、この原因は御嶽火山の噴出物が高い空隙率を持っているためと考えられます(水山・原,1991)。
A 長野県西部地震直後と平成3年(1995)の地形変化の比較
崩壊地源頭部は、全体として安定傾向に向かうと推定されますが、部分的に侵食が起こっていました。源頭部1の御岳崩れの下部で伝上川に合流する部分では、著しい渓床侵食が認められ、災害直後に一旦堆積した土砂が再移動していると考えられます。
伝上川2区間では、災害時に移動土砂がへばりついていた斜面で侵食が認められたが、全体的に堆積傾向となりました。濁沢3区間では、伝上川区間と同様な斜面侵食が認められるが、河床は堆積傾向にあり、床固工などが施行され、ほぼ安定した状態になっていると考えられます。濁川4区間では、堆積よりも侵食傾向が認められます。王滝川5区間では、全体的に河床が侵食される傾向が認められ、御岳崩れ発生後11年間(1984〜1995)の侵食量は、河床掘削も含め500万m3ほどです。
B 牧尾ダムへの土砂流入
牧尾ダム(図3)は、水資源開発公団が1961年に完成させた堤高104.5m、総貯水量7500万m3のロックフィルタイプの多目的ダムです。図10に示したように、牧尾ダムでは昭和36年(1961)の竣工以来、堆砂量のデータを蓄積しています。長野県西部地震による崩壊に関連して発生した移動土砂は、下流にある牧尾ダムの御岳湖へ次第に流入しました。このため、地震からその後の流出実態を解明する上で重要な情報です。
昭和36年(1961)の完成から昭和54年(1979)までの18年間の累積堆砂量は200万m3(年平均11万m3)でしたが、昭和54年(1979)の御嶽火山の小規模噴火(水蒸気爆発)以降、昭和58年(1983)までの4年間の堆砂量は、180万m3(年平均45万m3)と、年堆砂量は4倍も多くなりました。さらに、地震直後からの堆砂量は、昭和60年(1985)までの2年間で440万m3と急増しました。これは、小規模噴火以前の年堆砂量の20倍にも相当しました。しかし、その後の平成2年(1990)までの5年間には100万m3(年平均20万m3)の堆砂で、平成11年(1999)までの8年間では80万m3(年平均10万m3)と減少しました。御岳崩れの流出土砂が王滝川を河道閉塞して、天然ダム(王滝湖)で沈積し、王滝川上流の土砂はそれ以降牧尾ダムには流入しなくなりました。このため、単純な比較はできませんが、噴火前の状況とほぼ同じとなっています。
図10 牧尾ダムの年堆砂量・累積堆砂量(国土交通省多治見工事事務所,2002)
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7.今後の課題
長野県西部地震(1984)のすぐ後に緊急対策工として多くの治山・砂防施設が建設されました。しかし、濁川は強酸性河川であるため、摩耗・破損・材料劣化などが著しい施設が多数確認されました。これらの施設が現有機能を損なうような状態まで破損した場合には、現在まで機能してきた効果が低下することになります。また、当地域は畦畔地がレクリエーション環境などとして広範囲に利用されているため、機能低下によって不測の事態が発生する危険性があります。したがって、今後とも既設構造物の定期的な点検と十分なメンテナンスが望まれます。
平成26年(2014)9月の御岳山の水蒸気爆発によって、多くの火山砕屑物が王滝川流域にも堆積しており、十分な流域監視が必要だと思います。
引用・参考文献
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平野昌繁・石井孝行・藤田崇・奥田節夫(1985):1984年長野県王滝村崩壊災害にみられる地形・地質特性,京都大学防災研究所年報,28号-B1,p.519-532.
藤田光一・久保田哲也・本田孝夫・原義文(1991):河川・砂防の被害と対策,土木技術報告,182号,p.207-222.
古谷尊彦・奥西一夫・石井孝行・藤田崇・奥田節夫(1985):地震に伴う歴史的大崩壊の地形解析,京都大学防災研究所年報,28号-B1,p.387-396.
松田時彦・有山智雄(1985):長野県西部地震に伴う御岳山の岩屑流堆積物,―とくに伝上川中流域と王滝川合流部付近―,1984年長野県西部地震長野県西部地震の地震及び災害の総合調査,昭和60年度文部科学省科学研究費,自然災害特別研究突発災害研究,p.207-215.
水山高久・原義文(1991):御岳崩れに伴う土砂動態,土木研究所報告,182号,p.195-206.
守屋以智雄(1985):1984年御岳南腹の大崩壊と岩屑流,月刊地球,7巻7号,p.369-373.
守屋以智雄(1987):火山体の解体における大崩壊の意義,地形,8巻2号,p.62-82.
山田直利・小林武彦(1988): 1/5万地質図幅,「御嶽山」,御嶽山地域の地質,160p.,通商産業省工業技術院地質調査所発行,現在は産総研地質調査総合センターで発売.
山と渓谷社(2014.12):ドキュメント御嶽山大噴火,−生還した登山者たちの証言を中心に救助現場からの報告と研究者による分析を交え緊急出版!−,【地図付】,ヤマケイ新書,248p.
山と渓谷社(2016):御嶽山噴火 生還者の証言 あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み,ヤマケイ新書,264p.
脇坂安彦(1991):地形と地質,土木研究所報告,182号,p.135-146.