1.はじめに
平成26年(2014)8月20日未明、広島市安佐南区から安佐北区にかけて局地的な豪雨に見舞われ、大規模な土石流が同時多発的に発生し、甚大な被害を生じました。局地的な短時間豪雨によって、安佐南区八木・山本・緑井、安佐北区可部などの住宅地背後の山が崩れ、同時多発的に大規模な土石流が発生しました。広島市災害対策本部のまとめでは、8月22日時点で少なくとも土砂崩れ170箇所、道路や橋梁への被害290箇所が確認されました。また、国土地理院が8月22日までに行った航空写真の解析結果で、約50箇所の土砂流出を確認しています。行方不明者の捜索は1箇月に及び、両区での死者77人(災害関連死3人、2016年6月に新たに認定)、重軽傷者は44人に上りました。
瀬戸内海に面した地域は、瀬戸内海式気候で降水量が少ないが、一旦集中豪雨が起こると、激甚な土砂災害が発生します。平成11年(1999)6月29日の広島豪雨災害、平成21年(2009)7月21日の山口県防府市災害、平成26年(2014)8月20日の広島豪雨災害などが連続して起こり、日本でもっとも土砂災害危険個所の多い県です(土石流危険渓流 9964渓流、急傾斜地崩壊危険個所21,943箇所と日本で最も多い)。コラム27(2017.02.02公表)や井上ほか(2008)、井上(2016)で紹介したように、周防大島でも明治19年(1886)9月24日の郷之坪災害(死者110名)が起こっています。
ここでは、広島湾周辺の地域について行った現地調査と既往文献の整理結果をもとに、当該地域の土砂災害の歴史を2回に分けて振り返りたいと思います。
2.広島湾岸周辺の土砂災害
天満(1972)は、広島湾岸地域の水害、特に山津波について分析しています。昭和20年(1945)の枕崎台風による広島湾岸地域、昭和42年(1967)7月の前線性豪雨による呉市で激甚な被害を受けました。太田川のデルタ部を除くと平地の少ない広島湾岸地域では、山地斜面まで高度な土地利用が進んでいたため、豪雨を受けると崩壊・土石流などの土砂災害が各地で発生し、人的被害も多くなっています。
こうした斜面災害は、藩政時代の記録に
「山抜け」(佐伯郡己斐村国郡志書出帳)、
「蛇抜け」(佐伯郡古江村国郡志書出帳)、
「山津江」(賀茂郡広村弘化二年(1845)御注進控帳)、
「山潮(汐)」(三原志稿,巻七(1804)他)、
「づゑぬけ」(小方村弘化二年往古過去帳)と記されており、古くから恐れられていました。
「山津波」という用語が使われ始めたのは、大正15年(1926)に安芸郡西部で土砂災害が発生してからです(山本村,1922,川口,1933など)。
天満(1972)は、崩壊を
崖崩壊、斜面崩壊、谷(渓流)崩壊に分類し、谷崩壊を山津波とみなし、明治以降の大規模な山津波を調査しています。広島湾岸地域の水害環境を把握するという立場から山津波の被害状況と氾濫状況を復元して、その特性、地形との関連・影響力について考察しています。
図1は、天満(1972)をもとに、山津波の発生した河川流域分布図をもとに、明治(1867〜1912)、大正(1913〜1926)、昭和(1927〜1989)、平成(1990年以降)の4期間に分けて、土砂災害の発生した渓流の分布図を示したものです。
図1 広島湾岸地域で明治・大正・昭和・平成に土砂災害が発生した渓流の分布(天満,1972に昭和・平成の渓流を追加)
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藤本ほか(2016)は、広島県内の土石流や洪水に関する石碑の碑文の内容を整理・集約しています。広島県では明治42年(1909)から現在までに、水害碑が少なくとも38 基建立されています。漢文で刻まれた碑文の内容は理解することは難しいため、碑文を現代語に訳しています。第二次世界大戦前までの石碑は、災害の様子、復興の過程に関する詳細な情報が記述されるものが多く、戦後の石碑は災害の概要を端的に伝え、慰霊や復旧記念を目的とするものが多くなっています。
3.安佐南区八木地区の災害?伝説
小笠原(2015)によれば、平成26年(2014)8月の豪雨災害が発生した広島市安佐南区八木地区(
H5地区)には、
『蛇王池物語』で大蛇退治の伝説が存在します。土石流を連想させるこの伝説に関し、碑や池の跡、唄が受け継がれています。この地区は「
蛇落(楽)地」と呼ばれていましたが、その後「
上楽地」という名前に書き改められました(下中編,1982)。この伝説について、小笠原(2015)は現地調査、文献調査、地形判読などを行っています。筆者も小笠原(日本応用地質学会広島豪雨災害調査団、復建調査設計梶jなどと現地調査を行いました。
写真1は、八木地区にある蛇王池の碑です。銘文は読みやすく、下記のように記されています。
「南無妙法蓮華経 蛇王池大蛇霊發菩提心妙塔
昭和二十七年(1952)第四百二十遠忌相富 發起世話人 同心會
一切衆生悉有佛性 施主 龍華寺○信徒一同 國○寺門徒有志 山田新太郎
天文元年壬辰二月二十七日八木村阿生山字中迫に於て富村の勇士香川右衛門太夫勝雄大
蛇を退治す 其の首富池に落ちて隠れたと言ふ 因って蛇王池と稱(称)す」
『陰徳記』は、岩国領の家老香川正矩によって編纂されましたが、万治三年(1660)に逝去したため、未完に終わっています。
『陰徳太平記』(全81巻)は、二男香川景継が父の遺志を引き継ぎ再編して、享保二年(1717)に出版されたものです。戦国時代の中国地方を中心に、永正八年(1507)から慶長三年(1598)までを記述した軍記物語です。米原正義校注(1980)の
『陰徳太平記第八』の
「香川勝雄斬二大蛇一事」を簡略化して、香川勝雄の大蛇退治の話を説明します。
「天文元年(1532)の春、芸州佐藤(東)郡、八木村の内、阿生山の中迫と云処に大蛇顕れて往来を悩殺す、其形状を聞に其大きさ巨象をも可くレ呑む、其長さ崑崙をも可レ繞蔓二延於八丘八谷之間に一、松柏生二於背上一、其頸蹙恧として其腸次且たり、褰鼻鈎牙有て、眼光日月を并懸けたり、掉レ舌をは紅焔を翻し、盤レ身を白花を蹙む、草揺き風動して百毒斉しく起りて手雲霧常に掩ひければ、走獣も地を避け飛禽も空を不レ渡ら、・・・田長なと不幸に行遇ひては、肝を寒し気を絶す、かかれば近辺に往来の道絶て東作業を妨げ、樵蘇途を失ふて、村民愁苦する事甚し。
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写真1 蛇王池の碑 |
写真2 2011年災害後に建設された砂防サム |
(2015年10月井上撮影) |
八木の城主香川左衛門尉光景、此由を聞て吾か領内と云、殊に館に不レ遠所に、かかる不思議の有けるを其儘にて置かん事、吾武功の瑕瑾也とて、一族家中の者共を招び集め、大蛇退治すべき異見を請ひけるに、一門の者共は不レ及レ言ふに、家の子若党の中にも・・・なと云て剛強人に勝れたる者多かりけれ共、若し仕損しては香川の家の恥辱を可レ致す思誰進み出て退治せんと云者こそ無りけれ。
爰に同しく郎等に、香川右衛門の大夫勝雄と云者あり、十五歳の春軍場に赴き、敵二人討取しより巳来、諸所の戦功不レ可二勝計一其骨柄長六尺八分(184cm)有て骨太にして、眼逆に裂け、隆準く口広く頤反て頬髭荒々と生ひ、・・・十五人か力を畜たれば、さながら寺前の二王を黒漆に塗り出したるに不レ特。・・・光景か館に馳着き何の思慮する迄もなく、・・・勝雄に被二仰付一候へ、易々と退治仕候なんず、・・・大蛇を斬り給し先例も候、千万歳は隔つ共勇烈の揆は一等にて候はん、是非に於て某し馳向てしや身首二つに作て候べし、乍レ去り大事の、仕物にて候、義元の御刀借し給り候へと云けれは光景大きに感称して、家に所レ伝の義元の太刀三尺一寸(94cm)有けるを、勝雄にこそ与えけれ、勝雄は望み足りぬと悦ひ、太刀推戴きて腰に刺し、満座へ一礼して起けるか、・・
さて勝雄は吾家に帰て用意の様花やか也、・・・唯一人黒なる馬に打乗りて、二月下旬の暁月の光を冑の星に映じさせ、猶沍回る山風梢を鳴し、小篠の霜の白妙に、野寺の鐘仄かなる比ほひ、阿生山さして上りけり。
されは大蛇は元来竜に化する異霊の者なれは、斯くとや暁りけん、山中に入る比しも、いとと朧の春の月、俄かに空掻き曇りて、山颪烈く吹落たるに深谷隠の桜花木の葉と共にはらはらと散乱して、時ならぬ村雨一頻降り来り、巌崩れ岸裂け、山鳴り谷応へて満山暗々然として、物のあやめも見え分かず、いと冷じかりければ、乗りたる馬も進み兼、身振るひして立たりけり、勝雄少しも不レ動ぜ察大蛇の出来たるなめりと思ひ、馬を傍らに乗り放ち、歩立に成て岩を伝ひ、葛を攀てぞ上りける、東方既に白なんとするに雲間より山上を杳に見上くれは、高さ十丈(30m)許りなる岩陰に、榧の大木の一の枝に大蛇頸を持せ、眠れる体にて咽鳴居たりけるか、息の甚た悪かりけれは五七間(9〜13m)辺りの草木は嵐に靡くか如也、勝雄是を看て、いかに鱗虫なればとて、一言をもかけず斬らんは寝首を掻くに等しと思ひ、程近く立寄て、いかに毒蛇も慥にきけ、凡そ物有り二其所一レ止 得二其所を一則身安く、失へは二其所一則危し、然るに今汝も深山重淵にも蔵れず人里近く出来りて、万民の往来を妨くる事是残害を可レ受く、自業自果の所レ致す也、今欺く云者は香川光景か家臣、香川右衛門の太夫平の勝雄、年積りて十八歳、汝か狼藉を鎮めん為に来りたり、汝其所を去って、本の深淵に立帰り、再たび来りて災を成まじくは早く可レ去、左不有は此勝雄か向ふ上は、惟一太刀に切殺してんと、高声に呼ははりけり。
大蛇是を聞て眠れる眼を闊と開き、紅の舌閃閃として、火焔をふつと吐き出し、左右の角を掉立つつ、岩を砕き樹を折りて、唯一口に飛んでかかれば、勝雄太刀を抜きかざし、飛違へて丁どきる、其首中に飛去て雲路杳に登りけるが、良有て黒雲一村火焔を包みて降ると見えし、彼首勝雄か上へ真逆に落かかるを、抜き設けたる太刀なれば、背けさまに二太刀切る、被レ斬てや疼みけん、其首七八町(700〜800m)飛去て田上に落けるか、上下転動夥し、尚勢ひ不レ休して、又一町(100m)許り飛去て、地を穿ち岩を覆し躍り騰り跳り廻り、流るる血川をなし、其地終に淵と成り、首は淵中に淵く潜れて月日へて咽鳴音、山彦答へて冷しく、聞く人心を傷ましめ肝を寒す、彼首始めに落たる処をは太刀のぶ(刀延、現在、上元氏宅前の水田)と云、後に飛入たる処をは蛇王子と号して至てレ今淵をなす、勝雄が太刀を洗ひし池をは太刀のぶ川とそ名付ける。
古今蛇を斬る類ひ不レ少なからと雖も、勝雄か如く勇なるはなしとて、都鄙の巵言茗話と成る、彼太刀をは須戔鳴尊の麁正に斉しとて八幡に奉納せり、勝雄も大蛇の毒気にや中られけん、両目を久しく煩しか、医療の功を歴て平癒し、永禄十二年(1569)作州高田合戦に戦死す。」
蛇王池のある部落は
蛇落(楽)池と呼ばれていましたが、のちに書き改められて、現在の
上楽地となりました。
『住宅地図』によれば、この付近には
刀川・刀山・刀納という苗字の家が多くあります。蛇王池はその後宝暦年間(1751〜1763)までは底知らずの沼で、稲をまくのにも、板に乗ってまいていたということです。現在でもこの付近は深い沼田であって、写真1に示した供養碑を建てるために、昭和27年(420年忌にあたる)に基礎工事をしたさい、約3mの丸太が沈んでしまったほどだと言われています。
図2は、安佐南区八木地区の明治31年(1898)測図の1/2万正式図「上安」「可部」図幅の一部で、主な地名を赤字で追記してあります。図3は井上誠氏に作成して頂いた傾斜量図(国土地理院の1mDEMで作成)です。
阿武山(標高586m,
『陰徳太平記』や旧版地形図では
阿生山と記載)から延びる尾根からは、多くの渓流が発達し、下流部には
土石流扇状地(沖積錐)が発達しています。これらの渓流からの土砂流出は活発で、土石流扇状地は連なり緩斜面となっていますが、1898年測図の1/2万正式図を見ると、土地利用はほとんど林地となっています。2本点線の道が土石流扇状地の上を通り、八木鉱山跡地に繋がっています(小松ほか,1955)。大蛇が眠っていた直径3mもあるカヤの大木は、2つの大きな渓流に挟まれた尾根の末端の
中迫にありました(屏風を立てたような大岩があった)。この付近に湿地があったのでしょうか。大岩とカヤの大木を探しましたが、2011年災害後に建設された砂防ダム(写真2)の背後に隠れてしまったのか、分りませんでした。
香川勝雄がはねた大蛇の首は、870m南東に飛んで田の上に落ち、また西へ100m飛んで田の上に落ちました。勝雄が大蛇の首をはねた太刀は、写真3に示した光廣神社に奉納されたと言われていますが、現在は行方不明になっているとのことでした。
香川勝雄が大蛇退治を行った天文元年(1532)は室町幕府が滅んだ年で、全国的に荒廃が進んでいたと考えらます。このため、この時期は崩壊・土石流が多く発生していた可能性があります。
阿生山(阿武山)付近の谷頭部で大規模な崩壊が発生して土石流が流下したような現象があり、
『香川勝雄大蛇を斬る』のような大蛇退治の話が創作されたのでしょう。
写真4は、米軍1948年3月31日撮影の写真(M875−24,25,元縮尺S=1/43485)を立体視できるように加工したものです。この写真は、戦後まもなくの土地利用状況を示しています。写真を拡大して詳しく判読すると、昭和20年(1945)9月17日に広島を襲った枕崎台風による崩壊地なども写っています。まだ、土石流扇状地付近はほとんどが林地となっており、土地利用はあまり進んでいません。
写真3 光廣神社 (香川勝雄の大太刀が奉納されたというが、現在は行方不明となっている)
(2015年2月,井上撮影)
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図2 安佐南区八木地区の1/2万正式図(1898年測図,「上安」「可部」図幅,主な地名を追記) 図3 安佐南区八木地区の傾斜量図(井上誠作成)
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写真4 米軍1948年3月31日撮影,安佐南区周辺の立体写真(M875−24,25,元縮尺S=1/43485)
写真5 国土地理院1975年3月02日撮影の立体写真(CCG−74−9,C2B−21〜23,元縮尺S=1/10000)
写真5は、国土地理院昭和50年(1975)3月02日撮影の写真(CCG−74−9,C2B−21〜23,元縮尺S=1/10000)を立体視できるように加工したものです。昭和50年(1975)頃は、高度経済成長期にあたり、土石流扇状地からなる緩斜面部にも多くの住宅が建設されました。また、大規模な人工改変により宅地造成が行われています。平成26年(2014)災害は沖積扇状地の上に多くの住宅が建設されていたため、激甚な災害となった可能性があります。
4.大正15年(1926)の土砂災害
4.1 安佐郡山本村の土砂災害
大正15年(1926)9月は、台風の上陸や十勝岳が噴火するなど、全国的に災害が発生しました。広島周辺でも集中豪雨による豪雨災害に見舞われました(土砂災害ポータル広島など,2017年10月24日閲覧)。
正式な災害記録として残っているのは9月11日と9月23日の2度で、時刻はどちらも未明でした。広島市の1日最大雨量は339.6mm(11日)、最大時間雨量は79.2mm(11日1時〜2時)を記録しています(広島気象台,1952)。明治12年(1879)に発足した広島測候所(現在の広島地方気象台)にとっては、当時観測史上最大の雨量でした。集中豪雨は9月11日の方が大きく、23日の雨量(日雨量31.6mm,最大時間雨量25.4mm)は、11日ほどではありませんでした。
この集中豪雨による災害記録は、広島市を中心とした周囲10kmの非常に狭い範囲で起こりました。中でも現在の安佐北区・安佐南区・東区・安芸区から安芸郡府中町の呉娑々宇山にかけて、河川氾濫や土砂災害が発生しました。特に、太田川水系山本川流域の安佐郡山本村(現在の安佐南区)と、瀬野川水系畑賀川流域の安芸郡畑賀村(現在は安芸区)は大損害を受けました。
写真6は山本村(1927)の
『山本村水害写真帖』の
No.06/20、岡田橋付近です。図1の
T1地区
(山本川流域)では、図4に示したように、死亡24人,負傷者21人,流出21戸,全壊・半壊16戸と、激甚な被害を受けました(山本村,1927,山本史をつくる会,2001)。
図5はほぼ同じ地域の1/2.5万地形図「祇園」図幅(山本史をつくる会,2001)で、山本新町二丁目に大きな宅地造成が行われ、それより下流の河川網は大きく改善されました。このため、平成26年(2014)には大きな被害は発生しませんでした。
図4 大正15 年(1926),広島市山本水害地域の現況,1/2.5 万地形図「祇園」図幅
(山本市をつくる会,2001)
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写真6 岡田橋付近(山元村,1927:『山本村水害寫眞帖』のNo.06/20)
http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/yamamoto-suigai/touji-1/touji-1.html
図5 大正15年(1926),広島市山本水害地域の現況,1/2.5万地形図「祇園」図幅
(山本史をつくる会)
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4.2 安芸区畑賀(旧畑賀村)の土砂災害
写真7に示したように、広島市東部の安芸区畑賀(図1の
T2地区)の畑賀小学校校庭には、かなり大きな
「畑賀村水害碑」があります。畑賀小学校PTA 記念誌発行委員会編(1989)には、図6 大正15年9月11日の畑賀村大水害の被害区域図が挿入されています。9月11日未明、連日続いていた豪雨により各渓流で土石流が発生し、畑賀は荒廃の地と化しました。家屋・田畑・道路・堤防・橋梁の多くは流出し、被災者100人を畑賀小学校に収容しました。6日間かけて行方不明者の捜索が行われ、死者35人、1人行方不明となりました。復旧工事には近隣市町村からの応援を含め2万5千人と陸軍第5師団工兵隊600人であたり、応急処置が行われました。
写真7 畑賀村水害碑(広島市立畑賀小学校門前) 2017年10月5日井上撮影
畑賀小学校PTA 記念誌発行委員会編(1989)には、
「畑賀村水害碑」(漢文)と分りやすい碑文のあらましが記されています。
「安芸郡の北の境に高い呉婆々宇山(標高682m)はそびえたち、その南に畑賀村がある。矢賀谷・横井出・西垣内・水谷・為角などの渓流を集めた畑賀川は南北に還流し、海田湾に注いでいる。
大正15年(1923)9月11日の明け方、連日の激しい雨のため、呉裟々宇山の東南の山麓60余町(59.5ha)が俄然崩壊し、猛烈な勢いで崩れ落ち、川は奔流となって流れ、一面に土砂が堆積し、川は埋まり、田は流れ、大木や巨岩は散乱し、肥沃な田は荒廃し、家屋・田園・道路・堤防・橋梁も多く流失した。人畜の死傷も夥しく、その惨禍筆紙し難いほどであった。近隣の村民や町民は衣類や食料を贈り、仮小屋を建て、罹災者を収容してくれた。100名ほどは20日余小学校で避難生活
をした。さらに、1万人が流死体を捜索し、6日間で35人を見つけたが、残念ながら残りの1人はわからなかった。
復旧工事にかけつけた人々は、安芸郡内だけでなく、加茂・豊田・廣島・呉・安佐・佐伯の郡市から、2万5000人にも達した。特に広島にあった第五師団は、工兵隊第五大隊の将卒(将校や兵員)600人を送り、岩石爆破などの難工事にあたった。
緊急工事がほぼ終了し、人心も落ち着きを取り戻した9月23日の朝方、再び豪雨となり、畑賀川下流の堤防は決壊した。丁度その時、下り列車が中野駅付近を西へ走り来て、軌道が破壊して列車は脱線・転覆し、死者36人となった。その悲惨さは名状し難い大惨事となった。
このために、当局者は日夜復旧工事を行い、耕地整理組合を組織し、復旧にあたらせた。また、県から補助金14万5000円を貰い、その内の1万5000円を土木工事に使った。低利資金6万4000円を借りて、5万5000円を耕地整理組合に貸し出した。山林災害復旧工事は18万5000円を使って県直営工事として3年で終了した。計画通り昭和5年(1930)3月に竣工した。
これも地方長官(県知事)や県職員の指揮と社会の同情と援助、村役場・村民の一致協力の成果であり、誰もが感激するところである。ここに、この碑に概要を記して後に伝える。
被害の状況と関係要員は、別の表に示す通りである。
昭和5年(1930)9月11日
稲 田 斌 撰 書
死亡者氏名(碑の壇の正面上) 35名の死亡者の氏名・年齢(男子21名,女子10名)
畑賀村水害碑の被害表のあらまし(碑の右側面)」
図6 大正15年9月11日の畑賀村大水害の被害区域図(畑賀小学校PTA 記念誌発行委員会編(1989))
転載許可願いを畑賀小学校に提出した際,大庭浩資校長から話を伺いました。生徒向けに書かれた
「畑賀小学校長室だより」のNo.135(平成29年9月8日,畑賀小学校のHPで閲覧)には、
「畑賀村水害碑」のことが詳しく説明されていました。
「9月11日(月)は
「畑賀水害の日」です。畑賀の町(昔は村ですが)は過去に何度も水害にあっています。その中でも大正15年(1926)9月11日の水害は、最もひどい災害でした。亡くなった方は36名、流されたり壊されたりした家は97戸にものぼりました。その後、多くの方の努力のおかげで町は復旧し、工事が終わった年に、小学校の校庭に
「畑賀村水害碑」が建てられました。
ここで、改めて「水害碑の碑文(碑の壇の正面)」を紹介します。内容が少々難しいので、保護者の皆様のほうで、児童に分りやすく説明してくださればと思います。」の次に「碑文」が詳しく説明されています。
碑文の後半にも記されていますが、9月23日未明、再び豪雨により畑賀川は決壊しました。土砂が山陽本線安芸中野駅まで到達し、山陽本線の線路は土砂を被り、安芸中野駅付近の築堤の崩壊により、山陽本線特急列車(東京―下関)は3時30分に脱線事故を引き起こし、死者34名となりました(佐々木・網谷,1993)。この事故を起こした特別急行第1列車(事故後の昭和4年(1929)に
「富士」と命名)は、下関駅から関釜連絡船を介してアジア及びヨーロッパを連絡する国際連絡運輸の
役割を担う日本最高級の列車でした。著名人も多数乗車していたため、世間に大きな衝撃を与えました。このため、木造車体の脆弱性が指摘され、以後日本で新造される客車が鋼製に切り替わる契機となりました。写真8,9に示したように、安芸区中野3丁目の専念寺の境内に供養碑があります。
写真8 浄土真宗本願寺派の専念寺
2017年10月5日 井上撮影 |
写真9 特急列車事故の慰霊碑
2017年10月15日小笠原撮影
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「畑賀村水害碑」には、山林復旧工事に18万5000円使ったと書かれているので、広島県や県立図書館・県立文書館などで調べましたが、戦災、特に原爆による火災などで資料は焼失しているようです。安芸郡畑賀村(1927?)の
「安芸郡畑賀村水害復旧耕地整理組合地區現形豫定図面(縮尺千
二百分之一)」を閲覧できました。この図は非常に大きな図で、全体を写真撮影できませんでした。しかし、部分撮りした図7と図6を比較すると復旧耕地整理の位置関係が良く分りました。
図7 安芸郡畑賀村(1927)水害復旧耕地整理組合地區現形豫定図面(縮尺千二百分之一)
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引用・参考文献
安芸郡畑賀村(1927):安芸郡畑賀村水害復旧耕地整理組合地區現形豫定図面(縮尺千二百分之一)
井上公夫(2016):歴史的な大規模土砂災害に関する調査研究,−特に,中国地方と四国地方の事例紹介−,時間防災学+山口学研究プロジェクト第2回ミーティング,PPT配布資料
井上公夫(2017.02.02):周防大島で発生した1886年の激甚な土砂災害,いさぼうネット,歴史的大規模土砂災害地点を歩く,コラム27
井上公夫・判野充昌・大平米司・高橋透(2008):110名の犠牲者を出した明治時代の天然ダム災害(山口県),砂防と治水,185号,p.67-71.
大庭浩資(2017.9.8):畑賀小学校長だより,No.135,畑賀村水害碑,広島市立畑賀小学校HP,2p.
小笠原洋(2015):災害文化の伝承から学べること,―八木地区に残る伝説から―,日本応用地質学会平成26年広島大規模土砂災害調査団報告会配布資料,平成26年広島土砂災害に学ぶ,―土地の成り立ちを知り,土砂災害から身を守る,p.37-44.
海堀正博・石川芳治・里深好文・松村和樹・中谷加奈・松本直樹・高原晃宙・福塚康三郎・吉野弘祐・長野英次・福田真・中野陽子・島田徹・堀大一郎・西川友章(2014):2014年8月20日に広島市で発生した集中豪雨に伴う土砂災害,砂防学会誌,67巻4号,p.49-59.
川口真雄(1933):口田村史(広島県安佐郡口田村),郷土教育研究会,490p.
小林浩・秋山幸秀・渋谷研一・長野英次・鈴木寛・中野陽子・安倍美沙・三浦博之(2016):広島大規模土砂災害 航空レーザー計測による精密DEMでとらえた被災地区の地形・地質的特徴,@,A
小松彊・上野三義・土井啓司(1955):広島県金明鉱山周辺地質鉱床調査報告,地質調査所月報,6巻8号,p.23-36.
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