1.枕崎台風(昭和20年(1945)9月17日)による土砂災害 昭和20年(1945)9月17日に広島を襲った枕崎台風については、柳田邦男の
『空白の天気図』(1975年刊行,1981年新潮文庫,2011年文春文庫)に詳しく記載されています。柳田は昭和35年(1960)にNHKに入社、社会部遊軍記者として、広島に着任しました。以来、3年3ヶ月の在広島時代に原爆問題の取材活動を精力的に続けました。後述する昭和42年(1967)の呉豪雨災害後に、枕崎台風の被害についても詳しく取材を行い、本書を書き上げました(眞田,1989)。
枕崎台風は9月17日に鹿児島県枕崎に上陸し、九州を斜断し、勢力は少し衰えて瀬戸内海から中国地方を通り、能登半島から東北地方を通過した台風です。全国の死者行方不明者3000人のうち、2000人までが広島県下に集中していました。つまり、柳田の疑問は、最初の上陸地九州より広島の被害の方がはるかに大きいという事実でした。
2.広島周辺の土砂災害
柳田は、この災害の原因を戦争による治山治水事業の放置と、防災機関による台風情報の欠如と結論付けました。とくに、原爆直後の広島の天気図が空白(気象情報が皆無に近かった)であったことが、この疑問を解く鍵だと位置付けました。情報の早期伝達、という現代砂防の基本に通じる鋭い指摘です。
8月6日の原爆が投下された後、
『黒い雨』(宇田ほか,1953,井伏,1966,北,1971,増田,1989)が北西方向に降りました。8月15日の終戦による混乱の中で、8月末からまるで梅雨のような雨が降り続きました。戦争により治山治水事業は放置され(7月に広島県砂防課も廃止)、気象情報も途絶えていました。
このような状況下で、9月17日に枕崎台風が広島を襲いました。原爆で壊滅状態だった広島市街は水没し、県下各地の山や谷は崩壊と土石流が多発し、多くの資産と人命を失いました。太田川の奔流は広島市郊外の農村地帯に襲いかかりました。濁流は、八木、緑井、古市、祇園にかけての水田地帯をみるみるうちに水没させ、辺り一面を広大な湖のようにしてしまいました。
後に広島市長となった配給課長の浜井(1967)は、この時の心情を後日次のように記しています。
「市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ、一見美しい眺めであった。“原爆砂漠”が一夜にして、“原爆湖水”に変わっている。−これで一切合切が、徹底的に葬り去られた。私はヤケッパチな気持ちで、いっそこの水が永久に引かなければよい、と思った。」
3.呉市周辺の土石流災害
呉は枕崎台風による最大の被害地となりました(コラム46の図1のS6地区など)。9月17日の枕崎台風による豪雨によって、急傾斜地の多い呉市では、山津波や河川の決壊が無数に発生しました。あっという間に1162戸の家屋を流失させ、死者1154名にものぼる大惨事となりました。広島県下の犠牲の半数以上は呉市でした。一地方都市で1000人を超える死者を出すということは稀有の大災害です。災害の後、呉市民の間には、
「戦争で火攻めにあい、今度は水攻めにあった。正月頃には食攻めにあって餓死するだろう。何故、天はこうまで我々を苦しめ抜かねばならぬのだろうか」という悲痛な叫びが聞かれました。図1は、枕崎台風による呉市周辺の土石流災害の状況を示した図(廣島縣土木部砂防課,1946)で、渓流毎の土砂堆積範囲と浸水区域が示されています。呉市街地の背後の山地から流下する渓流の多くで土石流が発生したことがわかります。
『空白の天気図』の主人公・広島気象台の北技手は、昭和42年(1967)再び広島気象台の人となりました。16年ぶりに広島に着任しましたが、戦災都市の面影をすっかり払拭し、広島市西部の太田川は、大規模な太田川放水路に姿を変え、広島を水害の恐怖から救っていました。
昭和42年(1967)7月、典型的な梅雨末期の集中豪雨が、佐世保、呉、神戸を中心に西日本一帯を襲い、呉でも多数の山崩れや崖崩れが発生し、死者88人となりました(平尾・大久保,1970)。この災害が引き金となり、昭和44年(1969)に
「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」が制定されました。
図1 枕崎台風による呉市周辺の土石流災害 (廣島縣土木部砂防課,1946)
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写真1 呉市宮原地区風水害犠牲者慰霊碑 (2018年3月21日井上撮影) |
裏の碑文(昭和20年9月17日枕崎台風,死者309名 昭和42年7月9日集中豪雨,死者14名) |
4.安芸の宮島の土石流災害
広島の西15kmに位置する
日本三景宮島(厳島,コラム46の図1のS2地区)およびその対岸の
大野村(現広島県大野市,S1地区)の被害は土石流によるものでした。厳島神社周辺の調査に向かった北勲技手(技術主任)の目をとおして、以下のように記されています(柳田,1975)。
「島の中央にそびえる弥山(みせん)は高さが530mもあって、意外と険しく、山裾は海岸にまで迫っている。島の入り江は、谷川のそそぐところである。厳島神社の裏手には、紅葉谷川と白糸川の渓流が流れている。宮島町役場の助役の話では、『これらの谷川からほとんど同時に水が出て、山津波をもたらしたのだ』という。
北は町役場を出ると、神社へ足を向けた。神社の見える海岸の松の木陰に立ったとき、北は思わず息をのんだ。連絡船から大鳥居を遠望したときには全く気付かなかったのだが、社殿も回廊も床すれすれまで一面土砂に埋まっているではないか。平安の貴族の邸を偲ばせる美しさは、もはやそこから消え失せていた。よく見れば、回廊の柱が折れて屋根が宙づりになったところや、完全に潰れた小社屋もあり、痛々しいまでの災害の跡であった。
北は社務所に寄る前に、まず全体の状況を見ようと、神社の裏手の紅葉谷公園側にまわった。紅葉谷川から流れ出た土石流が、神社を背面から襲った跡がはっきりと残っていた。いつもは澄んだ水がちょろちょろと流れているような渓流は、大小の石と砂とで無残に埋め尽くされていた。紅葉谷公園に一部被害を受けた岩惣という旅館が目についたので、北はそこの主人に当夜の話を聞いた。旅館の主人は、長年紅葉谷に住んでいる土地の人だった。『17日の夜は、9時頃から土砂降りとなって、10時少し前になってドロドローッという地鳴りがしてのぉ、山が抜けたんじゃ。大石がごろんごろん流れ出る。土砂はでる。アッという間の出水で、それが神社の方へ抜けて行ったんじゃ。あとでこの辺りを見てまわったが、谷いう谷はみな抜けている。』
北は、豪雨によって発生する典型的な土石流、それも山津波と呼ばれる大規模なものだと思った。」
宮島は広島市の西部・広島湾に浮かぶ島で、長さ9km、幅4kmの細長い島(面積30.2km
2)で、幅500mの大野瀬戸を挟んでいます(広島県土木建築部砂防課,1988)。北から弥山(標高530m)、栗ヶ林(509m)、岩船山(467m)などの山が連なり、海岸から急勾配でそそり立っています。宮島では、弥山を水源として山の中腹から麓にかけて、勾配が急で短小な河川が数本存在します。
宮島は全島花崗岩類が存在し、紅葉谷川は全流域粗粒花崗岩からなります。花崗岩は鉱物組成が大きいため、風化しやすく容易に真砂土となりやすい性質があります。風化した花崗岩は崩壊しやすく、崩壊土砂の中に硬質の巨大転石を多く含みます。真砂の薄い表土層に、
「不伐の松樹森林」が繁茂しています。風化した花崗岩や真砂土は、一度その被覆が剥がれると小雨でも崩壊しやすく、その復旧は容易ではありません。
厳島神社は、推古元年(593)創建と伝えられ、大同元年(806)に空海(弘法大師)が厳島・弥山を開基したと伝えられています。平安時代中期の『延喜式神名帳』では、
「安芸国斉木郡伊都伎嶋神社」と記されています。仁安三年(1168)頃、平清盛が社殿を造営し、現在と同程度の大規模な社殿となりました。昭和20年(1945)の土石流災害は、それ以来の大災害でした。
紅葉谷川はこの内最も大きく、その源を弥山に発する延長2.5kmの河川です。昔から土砂流出は激しく、昭和9年(1934)から12年にかけて砂防堰堤工や流路工が施工されました。島の景観を考慮して、砂防工作物の表面は玉石によって覆われていました。
写真2は、米軍昭和22年(1947)3月27日撮影のM814−4〜6写真を立体視できるように加工したものです(元縮尺S=1/11945)。この写真は、戦後まもなくの土地利用状況を示しており、昭和20年(1945)9月17日に宮島・厳島神社を襲った枕崎台風による土石流なども写っています。災害から1年半後の写真ですが、厳島神社の海中に建立されている大鳥居を越えて、大量の土砂が海に流入し、海面は白っぽく写っています。
写真2 米軍1947年3月27日撮影 厳島神社周辺の立体写真(M814−4〜6,元縮尺S=1/11945)
写真3 国土地理院1975年3月02日撮影 厳島神社周辺の立体写真
(CCG74-7,C21B-21〜23,元縮尺S=1/8000)
写真3は、国土地理院昭和50年(1975)3月2日撮影の写真(CCG−74−7,C21B−21〜23,元縮尺S=1/8000)を立体視できるように加工したものです。この写真は災害から20年後の状況を示しており、森林が見事に回復し、紅葉谷公園として多くの観光客が訪れています。
図2は紅葉谷川の災害状況図(広島県土木建築部砂防課,1988)で、紅葉谷上流で崩壊した土砂が土石流となって、紅葉谷川を流下し、厳島神社まで達しました。図3は厳島神社の被害箇所図(同上)で、多くの土砂や洪水流が神社に流入し、多くの貴重な建物に被害を与えました。
図2 紅葉谷川の災害状況図(広島県土木建築部砂防課,1988)
図3 厳島神社被害箇所図(広島県土木建築部砂防課,1988)
昭和23年(1948)から2年にわたり、紅葉谷川(奥紅葉谷)では特別名勝厳島災害復旧工事が行われ、
「庭園砂防」と呼ばれています。史跡名勝地としてふさわしい工事内容とするため、現地に堆積した花崗岩の巨石や大小の石礫を野面石のまま使用しました。日本庭園風の公園とするため、図4の
「岩石公園築造趣意書」をもとに、工事が進められました(広島県土木建築部砂防課,1988)。
図4 岩石公園築造趣意書(広島県土木建築部砂防課,1988)
平成8年(1996)に厳島神社は世界遺産に登録されました。ケーブルカーで山頂まで登って遊歩道を下ると、自然と調和した紅葉谷川の砂防施設を見学できます。
5.大野浦の土石流被害(大野陸軍病院京都大学研究班の被害)
昭和20年(1945)5月、宮島対岸の佐伯郡大野村(廿日市市大野,コラム46の図1,
S1地区)に広島陸軍病院大野分院が開設されました。8月6日に原爆が投下された後、多くの被爆者が大野分院に運ばれ、治療が開始されました。中国軍管区司令部から被爆者調査と対策の依頼を受け、京都大学調査班は9月3日から同病院を拠点に診療と研究を始めました。
地元の大野国民学校に設けられた臨時救護所は8月15日に閉鎖され、多くの患者は同病院に移送されました。その作業が一段落した17日夜、枕崎台風による丸石川からの土石流で病棟が流され、被爆患者や京大調査班を含む156人が亡くなりました。
写真4は、米軍昭和22年(1947)3月27日撮影の丸石川周辺の写真(M184−44〜46,元縮尺S=1/11945)を立体視できるように加工したものです。この写真は、昭和20年(1945)9月17日の土石流の発生から1年半後の写真であり、大規模な土石流の流下状況、大野分院が土石流の直撃を受け、病棟が流出している状況が良く分ります。丸石川の最上流部の写真(M184−43,44)を立体視しても、上流部に大規模な崩壊地は発生していません。写真4の左側の丸石川中流に堆積していた過去の土石流堆積物が枕崎台風による豪雨によって再移動し、大規模な土石流になったようです。
写真5は、国土地理院昭和50年(1975)3月3日撮影の丸石川周辺のカラー写真(CCG−74−7,C23−34〜36,元縮尺S=1/8000)を立体視できるように加工したものです。
柳田(1975)の
『空白の天気図』では、北技手より先に宇田技師が大野村に向かっており、当地を見聞した状況を以下のように記しています(以下、原文抜粋)。
「この地方の山地は、花崗岩質で地味がやせ、もともと赤松ぐらいしか生えていないところへ、戦時中の濫伐ではげ山になっているところが多かった。そうした山々の肌に、山崩れによる深いひっかき傷が無数にできているのだ。
大野浦駅に降りると、付近は巨大な石が転がっていたりして、まだ水害の跡が生々しかった。駅の助役に聞くと、台風が来た夜は自宅にいると、10時前から雨が最も激しくなり、心配になって10時15分頃駅に駆けつけた時には、もう駅は水に浸かっていたということだった。宇田は駅から1km広島よりの大野村役場へ足を運んだ。
写真4 米軍1947年3月27日撮影 丸石川周辺の立体視写真(M184−44〜46,元縮尺S=1/11945)
写真5 国土地理院1975年3月02日撮影 丸石川周辺の立体視写真
(CCG-74-7,C23-34〜36,元縮尺S=1/8000)
村役場の助役は『大野村は、御存知のように宮島に面した海岸沿いに広がっている村でな、山がかなり迫っている。小さな川がいくつも海にそそいでいるが、それがみな洪水を起こした。洪水よりひどかったのは、山崩れじゃった。山という山は抜けてのぉ、大きな山崩れだけでも50ヶ所もあ
るじゃろうか。山津波になって海岸まで押し寄せて来よった。埋まったり流れたりした家は62戸、死んだ者はまだ遺体の見つからん者も入れて44人、この村としては大災害じゃ。それから大野陸軍病院がやられた。陸軍病院のある丸石浜の山津波は凄いもんじゃった。病院の建物は、ほとんど全滅して、なんでも150人以上亡くなったそうじゃ。』
写真6 広島陸軍大野分院被災状況
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写真7 広島陸軍大野分院全景 (笠井久雄,2005) |
写真8 京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑 |
写真9 同由来記 (2015年2月井上撮影) |
大野陸軍病院は、大野浦駅から岩国寄りに2kmほどのところにあった。丸石浜の一角にたどりついた宇田技師は思わずそこに立ちすくんだ。病院は山の裾が海岸に迫る斜面に建っているのだが、病院というにはあまりにも無惨な廃屋であった。辛うじて残った棟でさえ、一階は土石流が突き抜けて、壁も床もさらわれていて、わずか数本の柱で二階が支えられているという状態であった。その二階は波打つように歪んで、今にも崩壊しそうであった。広い病院の敷地内は、山から押し出してきた土砂で埋まり、いたる所に直径1mから2mもある石が転がっていた。病院の下手、海岸線を走っている国鉄山陽本線と国道も、土砂で埋没していた。山津波は病院敷地の中央を突き抜けて、海まで突進して行ったことが、土砂と瓦礫状態からはっきりとわかった。宇田の目の前広がっているのは、原子爆弾で焼き尽くされた広島の焦土とは違っているが、しかしその惨憺たる有様において決して劣らぬ、廃墟の姿であった。」(写真6,7)
現在、付近一帯は宮原温泉のホテルや民家が建ち昔日の面影はないが、病院跡地に近い小高い丘の一角には、昭和45年(1970)9月関係者により、「京都大学原爆災害調査班遭難記念碑」が建立されています(写真8,9)
7.むすび
コラム46,47で述べてきたように、明治時代以降の150年間で考えると,広島湾岸地域で考えると、ほぼ全域で土砂災害が発生しており、同じ渓流でも2回以上発生している地区もあります。同一渓流で考えると、人間の人生よりも少し長い間隔で、土砂災害が発生しているようです。香川勝雄の大蛇退治の伝説は、天文元年(1532)に発生したと想定される土石流災害を題材としています。今後は江戸時代の土石流の災害事例を調査して、土砂災害の発生間隔を検証して行きたいと思います。
また、明治・大正・昭和・平成の災害事例を考察すると、社会・経済情勢を反映して被災状況は変化しています。特に、広島湾岸地域は、原子爆弾と枕崎台風によって激甚な被災を受けたが、広島市の経済発展に伴って、今までは居住地とはなっていなかった土石流扇状地からなる緩傾斜地の宅地化が急激に進みました。平成の2回の土砂災害の状況を見ると、このような新興住宅地での被害が多かったようです。このような問題についても、土砂災害の事例分析を通して検討して行きたいと思います。
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