1.はじめに
フィリピンにはマヨン火山やタール火山を初めとして、活火山が84以上あり(守屋,2014)、噴火のたびに大きな火山災害を受けてきました。特に、20世紀最大と言われた1991年のピナツボ火山噴火は、フィリピン国に大きな被害をもたらしました。噴火そのものによる直接被害もひどいものでしたが,噴火によって生じた膨大な量の降下火砕物や火砕流などは、火山性堆積物としてピナツボ火山の周辺に堆積し、その後の降雨によりラハール(lahar,泥流)となって繰り返し流出し、下流の集落や農地、幹線道路などを襲い、ラハールとの長い戦いが始まりました。
噴火後ただちに、フィリピン共和国政府はラハールで被害を受けた人々のために、再定住地の建設、生活再建プログラムを実施するためのMPC(Mount Pinatubo Commission,ピナツボ復旧委員会)を設置しました。被害が激甚で大規模な範囲に及んだことから、フィリピン共和国は国連を通して、アメリカや日本、スイスなどの国々に援助を求めることになりました。大統領府の指示のもとで、DPWH(Department of Public works and Highways,公共道路事業省)は国際協力を得て、ラハールによる被害を防御、低減させるために多くの砂防施設を建設しました。
多くの国々や国際機関が支援に乗り出し、復興のための対策を開始しました。UNDP(United Nations Development Programme,国連開発計画)が援助国(ドナー国)の調整会議を定期的に開催し、情報交換を精力的に行っていました。援助国ごとに地域を分担し、支援を行うのが当初の案でしたが、各国が手を引き、一番長くラハール対策にかかわり続けたのは日本でした。噴火後に日本政府は短期・長期専門家を派遣し、無償資金協力のプロジェクトで支援を実施しました。様々な調査の結果、ラハールによる被害を低減させるため、砂防ダムやメガダイク(巨大堤防)が建設され、主要道路の再建などの様々な復旧・復興事業が円借款により実施されました。
無尽蔵ともいえる火山性堆積物の流下対策は当初手探りでしたが、ピナツボ火山周辺の地形解析から、堆積土砂量の推定、流下方向、流下土砂の推定などを行いました。その結果をもとに、効果的な砂防施設の提案を行い、施設建設などのハード対策も徐々に効果を発揮していきました。さらに、雨量計をもとにした土石流予警報の設置による避難体制の整備などソフト対策も実施され、一定の効果があげられました。また、フィリピン国から砂防分野の人材育成が強く求められ、OJT、研修、セミナーなどが数多く行われました。
長期にわたるピナツボ火山泥流対策は、フィリピン国側の真摯な努力と海外からの支援で実績を上げたものです。日本からはJICAを通じ、コンサルタント、大学、行政機関など官学民総力を挙げて取り組み、多くの課題を克服してきました。まさに、世紀の大プロジェクトであり、世界で発生する今後の火山対策に多くの教訓を残すことになりました。
日本工営株式会社と株式会社建設技術研究所では、国際協力事業団(現国際協力機構,JICA)から「フィリピン共和国ピナツボ火山東部河川洪水および泥流制御計画調査」を平成5年(1993)に受託し、1993年11月から開始しました。私はこの調査団の地質調査要員として、数回現地調査に参加し、激甚な被害状況を確認するとともに、1991年6月以降ピナツボ火山周辺で起きた大規模な地形変化を見続けてきました。
国際砂防協会では2015年に『ピナツボ火山の噴火と復旧、復興の25年―砂防技術協力の経緯―』を発行しました。私はこの本の編集作業の一部を担当させて頂きました。本コラムでは、国際砂防協会(2015)などをもとに、ピナツボ火山周辺で起こった大規模な地形変化と土砂災害を中心に説明致したいと思います。
2. 1991年のピナツボ火山噴火とラハール(Lahar,泥流)被害の概要
守屋(2014)は、図1 フィリピン諸島の型別火山分布、表1 フィリピン国に存在する84の火山名(VNm)、火山型(VT)、比高(RH)、底径(BW)を示しています。
ルソン島中部の赤線を付したNo.12はピナツボ火山で、1991年6月に20世紀最大規模の噴火を起こし、近隣諸国まで大量の降下火砕物(火山灰)を降下・堆積させました。6月15日の最大噴火時には山頂部を吹き飛ばし、高温の火砕流が周囲の山麓部に厚く堆積しました。上流部に厚く堆積した降下火砕物や火砕流堆積物は、雨季に
ラハール(Lahar,泥流)となって、下流域に流下・堆積しました。No.33のマヨンのマヨン火山は、フィリピンで最も火山活動が活発な火山で、コラム51で説明します。
図1 フィリピン諸島型別火山分布(守屋,2014)
表1 フィリピン諸島の火山一覧(守屋,2014,一部修正)
このため、平成6年(1994)末までに死者700人以上、建物被害10万棟以上、噴火時の避難住民247万人以上という大災害となりました。不幸中の幸いは、USGS(United States Geological Surveys,米国地質調査所)とPHIVOLCS(Philippine Institute of Volcanology and Seismology,フィリピン火山地震研究所)が噴火の徴候が見え始めた頃から共同の火山観測を行い(トンプソン,D・山越幸江訳,2003)、大規模噴火を事前に予測できたことです。特に、PHIVOLCSのプノンバヤン(Dr. Ray Punongbayan)所長の学識と経験と優れた決断力に裏打ちされた指導力を抜きにしては語れません。残念ながら、プノンバヤン博士はPHIVOLCS所長の座を引いた後、フィリピン赤十字を支援する事業で巨大土砂災害の被災者のための移住地を調査中に搭乗していたヘリコプターが墜落して帰らぬ人となりました。
火山観測の結果に基づき、大規模噴火の前に適切な避難勧告が出され、ピナツボ火山周辺の住民が避難したため、大規模噴火を直接の原因とする死者がほとんどなかったことです。ピナツボ火山周辺には、原住民アエタ族が居住しており、清水(1990,2003)やラカス(1993)によって、アエタ族の避難状況と噴火前後の暮らしが詳しく説明されています。
図2 ピナツボ火山と雲仙普賢岳の被害範囲の比較(国際砂防協会,2015)
図2は、1991年にほぼ同時に噴火したピナツボ火山と雲仙普賢岳の比較図です。ピナツボ火山では島原半島とほぼ同じ範囲が高温の火砕流堆積物に厚く覆われました。その後の降雨によって、二次爆発とラハールがピナツボ火山周辺の河川で流出・氾濫・堆積する現象が継続しました。
3.ピナツボ火山噴火後の土砂災害対策の概要
フィリピン政府は、噴火直後総数60万人と推定された被災者救済を主目的として、
@ |
約1万世帯のアエタ族、および下流域ラハール氾濫域に住んでいた住民の再定住地の整備 |
A |
被災地や再定住地における雇用機会の創出や農業生産の改善 |
B |
住民からの要求に対して適切な社会福祉政策の実施 |
C |
社会基盤の復旧改善、および災害によって移住を余儀なくされた数百万人の家族を通常の生活に戻すためのインフラ整備 |
の方針を立て、国連機関や日本を含む各国はこれを支援してきました。
図3は、日本政府やJICA(国際協力事業団)が実施してきた緊急災害復旧プロジェクトの一覧図です。
日本からは災害緊急援助、医療、再定住地での給水対策、農作物栽培研究など、広範囲にわたる救援がなされました。このような中で国際協力事業団(JICA,現国際協力機構)は、噴火直後から火山災害対策専門家チームや砂防分野の長期専門家を派遣し、
(a) |
ラハールに対する避難体制を整備するため、ラハール予警報システムの整備 |
(b) |
復旧・復興のための物資輸送の交通路を確保するため、土砂掘削用建設重機の配置 |
(c) |
土砂を監視・調節するため、砂防ダム・沈砂地(Sand Pocket)の設置 |
などを助言し、いずれもフィリピン政府の要請を受けた日本政府の無償資金協力、技術協力などにより実施されました。1991年の噴火直後に、ラハールの流出による劇的な地形変化に伴う緊急対応として、DPWHは日本に重機の供与を求めました。日本が供与した重機は、主にピナツボ火山東部の築堤工事に使用されました。
フィリピン政府による洪水および泥流制御の調査・計画策定の要請に基づいて、日本政府と国際協力事業団(JICA)は、ピナツボ火山東部地域のサコビア/バンバン川とアバカン流域について、「ピナツボ火山東部地域洪水および泥流制御調査」(日本工営株式会社と株式会社建設技術研究所のJV)を1993年11月から96年4月まで実施しました。そして、この調査結果に基づき、1995年にフィリピン政府はOECF(Overseas Economic Cooperation Fund,海外経済協力基金)円借款を要請し、緊急対策工事が実施されました。また、1995年にアメリカ合衆国の調査団が引き上げてからは、パシグ/ポトレロ川流域についても、フィリピン政府の要請により、調査(ラハールの流出と堆積現象のモニタリング)と対策工の検討が実施されました。
図3には、8人の長期専門家の名前と滞在期間を示しました。なお、噴火前の1990年7月から1995年7月まで、JICAの長期河川専門家として岩切哲章氏がDPWHに長期派遣されており、噴火直後の初期対応を行ないました。
図3 ピナツボ緊急災害復旧プロジェクト(国際砂防協会,2015)
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4. ピナツボ火山の地形特性
ピナツボ火山は、ルソン島北部からミンドロ島に達する西ルソン弧の火山帯に位置しています。ルソン島西部の南北に延びたザンバルス山地に存在し、首都マニラから北西に90kmの距離にあります。写真1はUSGSのR.P.Hoblit博士がクラーク基地から撮影された1991年6月14日と1992年3月13日の噴火前後の写真です。図4 パシグ川Delta-5観測点からみたピナツボ火山の鳥瞰図に示したように、噴火前の山頂高度は1745mでしたが、1991年6月の噴火で、山頂部が吹き飛び、山頂部は900m低くなりました。そして、直径3kmのカルデラ(底の標高850m)が形成されました。
PHIVOLCS−USGS(Newhall & Punongbayan,1996)は、火砕流やラハールの堆積状況や放射性炭素による堆積物の形成年代の測定結果から、5万年前からの新期ピナツボ火山の噴火時期を
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写真1 噴火前後のピナツボ火山
1991年6月14日と1992年3月13日
USGS,R.P.Hoblit博士撮影
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図4 パシグ川・Delta-5観測点からみた
ピナツボ間の鳥瞰図(噴火前と噴火後)
(広瀬・井上,1999)
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・ |
Inararo期(3.5万年より前)−最大噴火、今回の5倍以上 |
・ |
CrowValley期(5000年〜6000年前)−今回の2〜3倍 |
・ |
Maraunot期(2500年〜3000年前)−今回の2〜3倍 |
・ |
Buag期(500年前)−今回の噴火とほぼ同じか、少し小さい |
に区分しました。
1991年の噴火以前の山頂部は、前回(Buag期)の噴火後に形成された溶岩ドームであり、周辺には標高1500m前後の溶岩ドームが多く存在します。ピナツボ火山は、過去に何回もの噴火(成長と陥没、溶岩ドームとカルデラの作成)を繰り返し、その度に大量の降下火砕物を噴出・堆積させるとともに、大規模な火砕流を周辺地域に流下・堆積させました。この火山体の全体は、西方に開いた直径8kmの巨大なカルデラからなります。この巨大なカルデラの中にはさらに大小4つ以上の西方に開いたカルデラが形成されています。今回の噴火前の山頂部は、これらのカルデラの中央火口丘として形成された溶岩ドームです。
噴火のたびごとに、大規模な火砕流がピナツボ火山周辺の谷地形の中を何回も流下し、谷地形を埋積して平坦な火砕流堆積面が形成されました。これらの火砕流堆積物は、非常な高温状態で堆積しましたが、溶結しておらず、侵食に対して弱いため、豪雨時にラハールとなって、下流の平野部に流下しました。ラハールは流下速度が遅く(土砂運搬力が小さく)なると堆積し、広大な扇状地を形成しました。その後、火山活動が終息すると、周囲の河川は再び下刻するようになり、河底平や扇状地は広大な段丘面や高位扇状地面を形成しました。旧クラーク基地のある平坦面は2700年前頃形成されたと考えられます。
図5 ピナツボ火山東部地域(EPPFF)のラハール被災実績図
(日本工営・建設技術研究所,1996)
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数百年から数千年の休止期を経て、ピナツボ火山が噴火すると、同じような地形変化現象が繰り返され、それまでに形成された地形は侵食されて、さらに複雑な地形が形成されました。また、後述するように、火砕流堆積面の形成に伴う
「河川争奪(Piracy)」と流域面積の変化が繰り返されたため、当流域周辺の地形をさらに複雑なものとしました。
Buag期(500年前)の噴火時にも今回と同様、大規模な火砕流が発生し、山頂部は爆発によって吹き飛ばされ、小規模なカルデラが形成されました。しかし、この時期に形成されたカルデラは、その後の溶岩ドームの成長に伴い完全に埋められて、溶岩ドームからなる山頂部が形成されました。1991年の噴火時には、標高1745mにも達する釣鐘上の急傾斜な山頂部となっていました。なお、
「ピナツボ」とは原住民アエタの言葉で、
「成長する山」を意味します。
5.1991年噴火後のピナツボ火山東部地域の地形変化
当初の日本の援助対象河川は、東部地域のサコビア/バンバン川とアバカン川流域で、アメリカ合衆国のそれはパシグ/ポトレロ川流域でした。これらの河川の上流域はピナツボ火山東部火砕流堆積域(EPPFF,East Pinatubo Pyroclastic Flow Field)と呼ばれる地域です。図5に示したように、この地域は1991年の噴火で、高温の火砕流堆積物が最大層厚200m、14.0億m
3も堆積したため、その後の水蒸気爆発(二次爆発)と河川争奪によって、流域面積が目まぐるしく変化した地域です。
図6は、ピナツボ火山東部火砕流堆積域(EPPFF)の火砕流堆積域と二次爆発の分布、流域面積の変化を示したものです。図6(1)(噴火前)の緑色地区は、1991年噴火前の火砕流台地で、サコビア川・アバカン川・パシグ川の流域界を茶色線で示しています。
5.1 1年目(1991年)−流出土砂量2.5億m3 −図6(2)
1991年6月の大噴火によって、EPPFFの河谷は200mも埋積されて平坦になり、従来の水系網は消されてしまいました。火砕流堆積物は非常に高温であるため、当初地表に降った降雨は蒸発して流水とはなりませんでした。周辺の山腹から流入した河川水や地下水などは、高温の火砕流堆積物に接触すると、
水蒸気爆発(二次爆発)を起こしながら、以前とは異なる水系網を徐々に形成して行きました。航空写真やヘリコプターからの観察によれば、規模の異なる水蒸気爆発の跡が無数に存在し、これらの爆発によって火砕物が飛散し、二次火砕流が発生していました。6月の噴火直後から10月末までの雨季には、下流域には激甚な被害が発生しました。1年目のラハールは、細かい降下火砕物(火山灰)が多かったため、山頂から50km下流まで流下し、広範囲に氾濫・堆積しました。
また、サコビアとアバカン川では、山頂から12km下流の地点(Abacan gapと呼ばれている)で何回も
河川争奪(Piracy)を起こしていたと考えられます。500年前のBuag期の噴火時にも今回と同じような平坦面ができ、一時的にサコビア川の上流部はアバカン川方向に流れていました。その後の河川侵食により、Abacan gapの地点で河川争奪が起こり、上流部はサコビア川方向に流れるようになりました。このため、旧クラーク基地の北側に続く幅1km、長さ9kmの紡錘形凹地に土砂が堆積しました。
図6 ピナツボ火山東部地域(EPPFF)の地形変化
(日本工営・建設技術研究所,1996)
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今回の噴火前のAbacan gapは、落差20〜30mの風隙(Wind gap)となっており、30〜50mの幅広い谷地形が残されていました。このため、アバカン川にはほとんど水は流れず、1991年の噴火前のアバカン川沿いにはサパンバトの集落やアンヘレスの市街地が続いていました。しかし、噴火後ラハールがアバカン川を何回も流下したため、上記の集落やアンヘレス市街地は大きな被害を受け、多くの人家や橋が流されました(写真2)。
サコビア川は、噴火前には前記の紡錘形凹地を通過後、北に大きく曲流し、サパンカウヤン川やマリムラ川と合流し、バンバン川となり、東北東方向に流下していました。しかし、噴火直後からバンバン川の堤防を越えて直進するようになり、堤内地への氾濫が頻繁に発生しました。このため、マリムラ川との合流点付近では河床が数m上昇し、マリムラ川の支川では、出口が閉塞され、いくつかの天然ダム(堰止湖)が形成されました(図5に青色で示す)。しかし、8月21日の豪雨時にマリムラ川の出口付近の天然ダム(堰止湖)が決壊し、この時の洪水によって、国道3号線のバンバン橋が流され、この付近の河床が数m上昇しました。このため、国道沿いの多くの人家がラハールによって埋没しました。
1991年11月以降の乾季になると、サコビア川やアバカン川では、ラハールの発生はほとんどなくなったため、フィリピン政府の公共道路事業省(DPWH)では、大規模な災害復旧工事を実施しました。特に、11月15日から翌年の3月30日頃までに、サコビア川で2基、アバカン川の本支川で8基の砂防ダム(高さ3〜10mでふとん篭製が多い)を建設しました。また、バンバン川では翌年の雨季前にリオチコ川との合流点まで全区間にわたって、ラハール堆積物を盛り立てて、堤防を建設しました。
5.2 2年目(1992年)−流出土砂量1.2億m3 −図6(3)
前述の砂防ダムが完成してまもなくの4月4日(1週間程強い雨が降り続いた)に、Abacan gapの1km上流のサコビア川で大規模な二次爆発が発生しました。この時には、まだ近くに工事関係者がいましたが、ほとんど音が聞こえないうちに高さ1.0〜1.5kmの噴煙柱が上がり、東側斜面に降灰しました。この二次爆発を起因として、大規模なホットラハール(熱泥流)が発生し、サコビア川とアバカン川の河谷を流下しました。このため、完成したばかりの砂防ダム(サコビア川で2基、アバカン川で4基)をほぼ完全に埋積し、5m程河床を上昇させました。しかし、これらの砂防ダムの効果により、それより下流にはラハールはあまり流下せず、大きな被害は発生しませんでした。その後、Abacan gapで河川争奪が起こってサコビア川方向にすべての流水やラハールが流れるようになりました。この時期以降、アバカン川ではラハールは発生していません(2000年10月には規模の小さなラハールが発生)。
写真2 アンヘルス市街地中心部のアンヘルス橋が流下したため、徒歩で渡る住民
(1993年11月,JICA調査団撮影)
その後、2年目の雨季になると、サコビア川上流部で再び二次爆発が活発に発生し、それに伴ってラハールが何回も発生するようになりました。そして、ラハール堆積物は国道3号線を越えて、バンバン川右岸側の20km
2の地区に氾濫し、多くの人家が埋没しました。しかし、この時期以降の堆積物は比較的粒子の大きな軽石(水より軽い)が多く、前年程下流には流下しませんでした(図5参照)。
DPWHでは、1992年の乾季から1993年の雨季までに、サコビア川の右岸側にコンクリートで保護した高さ5mの堤防を長さ6kmの区間に建設したため、それ以降右岸側の土砂氾濫はなくなりました。左岸側のバンバン市の市街地を守るため、堤防を厚さ数十cmのコンクリートで補強しました。
なお、この時期までのパシグ川のラハールは比較的規模が小さくなっていました。ピナツボ火山山頂から15kmの扇頂部では、むしろ下刻しており、20km下流の地点から氾濫していたが、それほど大きな被害は発生していませんでした。しかし、上流部の右支川はパシグ川本川から流出した土砂の堆積によって堰止められて、かなり大きな天然ダム(堰止湖)が形成されました(図6(3)の青色部分)。この天然ダムは豪雨時に決壊し、ラハールが数回発生しました。
5.3 3年目(1993年)−流出土砂量1.2億m3 −図6(4)
3年目の雨季になっても、サコビア川上流部で二次爆発が活発に発生し、それに伴ってラハールが何回も発生しました。そして、堤防の河床内にラハールが堆積すると、乾季に補強された堤防を乗り越え、かなり広範囲に堆積しました。
図7は、ピナツボ火山東部地域(EPPFF)の火砕流堆積物と二次爆発、ラハールの経年変化を示しています。図8は、サコビア川・アバカン川・パシグ川の河床断面図と火砕流・ラハールの堆積高さを示しています。1991年の火山噴火で堆積した高温の火砕流堆積物が最大200mも堆積して、サコビア川とパシグ川との流域界の尾根部は消滅して平坦な台地となってしまいました。高温の火砕流堆積台地は、降雨や地下水と接触すると、何回も水蒸気爆発と二次火砕流を引き起こし、高温のラハールが発生しました。
特に10月4,5日の台風Kadiangの襲来によって、サコビアとパシグ川で大規模な二次爆発に伴う火砕流とラハールが発生しました。ラハールはバンバン川右岸側の氾濫地帯を越えて国道329号線に達しました。また、国道3号線から3.8km下流のサパンバレンの集落も埋積しました。
しかし、この時の堆積土砂はむしろパシグ川の方が大きく、国道3号線付近では多くの人家が5〜10mの堆積物で埋没し、国道橋も流されてしまいました。PHIVOLCSのヘリコプターからの観察によれば、サコビア川の上流部が河川争奪され、パシグ川方向に流れるようになりました。JICA調査団の1994年2月7日の観察によれば、上記の河川争奪によって、パシグ川の河谷が非常に深くなっていることがわかりました。
図7によれば、1993年10月の河川争奪前はサコビア川の流域面積・火砕流堆積物がパシグ川のそれより多かったので、ラハールの発生・流下・堆積もサコビア川の方が多くなっていました。しかし、河川争奪によって、パシグ川の流域面積が多くなると、ラハールの発生・流下・堆積も逆転し、パシグ川下流域で激甚な被害が発生しました。
11月以降の乾季になると、二次爆発やラハールの発生がなくなり、被災地では復旧作業が本格化しました。DPWHでは、被災した砂防ダムや堤防の補修工事を行いました。また、私たちJICA調査団の調査も11月から開始されました。その後、JICA調査団の提案を受けて、沈砂地(Sand pocket)などの緊急工事が1994年3月頃から開始されました。
図7 ピナツボ火山東部流域(EPPFF)の火砕流堆積物と二次爆発,ラハールの経年変化
(日本工営・建設技術研究所,1996;広瀬ほか,2003)
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図8 サコビア・アバカン・パシグ川流域の河床縦断面図と火砕流堆積物の堆積高
(日本工営・建設技術研究所,1996;広瀬ほか,2003)
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5.4 4年目(1994年)−流出土砂量1.37億m3 −図6(5)
4年目の雨季には、サコビア川からのラハールの流下・堆積はほとんどなくなりました。しかし、パシグ川では雨季が始まった6月頃から上流部で大規模な二次爆発・二次火砕流とラハールが何回も発生し、二次火砕流・ラハール堆積物がパシグ川の河谷を50〜100mもの深さで埋めてしまいました。このため、パシグ川の中流部では、6月末頃から流路変更して、左支川方向に流下するようになりました。
その後も豪雨の度ごとに、二次爆発(水蒸気爆発)と二次火砕流が繰り返され、大量の土砂がパシグ川本川を埋めて堆積しました。そこから、豪雨の度ごとに高温(50度以上)のラハールとなって流下し、下流部に多大の被害を与えました。湯気を上げ、地響きを起こしながら流下したため、Steaming Laharとも呼ばれました。写真3はJICA調査団が8月31日にクラーク基地から撮影した二次爆発の写真です。
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写真3 1994年8月31日の二次爆発 |
写真4 1994年10月22日の二次爆発 |
クラーク基地でJICA調査団撮影(日本工営・建設技術研究所,1996) |
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写真5 1階部分が完全に埋まったバコロール教会 (1994年8月2日JICA調査団撮影) |
写真6 パシグ川中流域での被害状況 (1995年10月15日JICA調査団撮影) |
1994年8月末には、パシグ川の河床が最も上昇し、広範囲に土砂が堆積しました。特に、8月末の豪雨に伴うラハールは、パシグ川左岸側の堤防を乗り越え、一部の土砂がアンヘレスの市街地方向に流下し出しました。しかし、ラハール堆積物は堤防から下流部の平坦部に堆積しただけで、大きな被害は発生しませんでした。元のパシグ川本川を流下した二次火砕流は右支川を堰止め、再び大きな堰止湖を形成しました。この湖はヘリコプターからの観測によれば、8月末頃最大になったと判断されました。しかし、9月22日の台風襲来による豪雨により、堰止湖は決壊し、多量の土砂とラハールはパシグ川の下流30kmの範囲まで広範囲に氾濫・堆積し、多大の被害を与えました。
その後、10月21日の台風襲来に伴う豪雨により、非常に大規模な水蒸気爆発とラハールが発生しました。写真4はJICA調査団が10月22日にクラーク基地から撮影した二次爆発の写真です。この時の水蒸気爆発は、一次火砕流堆積物が存在するパシグ川やサコビア川の上流部ではほとんど発生しておらず、河川争奪地点より下流で発生し、噴煙が上昇していることが判明しました。1994年4月時点の地形分類図によれば、噴煙が上昇している地区には一次火砕流の堆積物は存在していませんでした。この地区は、1994年の雨季には上流部の二次爆発によって、流出してきた二次火砕流堆積物が50〜100mの厚さで堆積した地区でした。したがって、この地域では二次火砕流堆積物が水蒸気爆発を繰り返しているわけで、三次爆発を起こしていると考えられます。それだけ、3年半経過したにもかかわらず、一次火砕流堆積物だけでなく二次火砕流堆積物も非常に高温であることを示しています。
4年目の乾季に入ると水蒸気爆発やラハールの発生もなく、土砂氾濫区域も落ち着きを取り戻しました。また、DPWHによって、復旧工事が積極的に進められました。
5.5 5年目(1995年)−流出土砂量0.45億m3
5年目の雨季には、サコビア川からのラハールの発生はほとんどなくなりましたが、パシグ川では、河川争奪により土砂運搬力が増大したため、二次爆発と天然ダムの決壊により、ラハールが多発しました。このため、現在の本流であるチンブ川に本流が移り、Delta-5付近のホットラハール堆積物を侵食し、河床は次第に低下し始めました。ホットラハール堆積物には高温の二次火砕流堆積物も混じっており、豪雨時に三次爆発を起こしている箇所もありました。1995年末には、中流部のアンヘレス−ポーラック道路付近では、噴火前の河床より10mも低下しました(崖面に噴火前の旧地表面が見える)。
図9に示したように、パシグ川のラハール氾濫・堆積域では、噴火前の一線堤(Primary dike)が破堤したため、この外側に二線堤防(Secondary dike)が建設されました。この堤防もラハールの氾濫・堆積により破壊されたため、その外側に三線堤防(Tertiary dike)が建設されました。しかし、5年目の雨季に中流部に堆積したラハール堆積物は下流の農地・集落を襲い、二線堤防(Secondary dike)や三線堤防(Tertiary dike)を破壊し、オロンガポ道路やバコロール市街地付近に氾濫・堆積しました。
5.6 6年目(1996年)−流出土砂量0.33億m3
1996年には、ピナツボ火山周辺では集中豪雨はほとんどなく、東部火砕流堆積域(EPPFF)
から発生したラハールは集落の多い中・下流域には到達しませんでした。したがって、これまで中流域に堆積していたラハール堆積物の小規模な二次侵食が顕著になりました。サコビア川中・下流域では、国際協力銀行(JBIC)融資による泥流・洪水制御施設の建設が開始されました。
パシグ川中・下流域では、大規模堤防(Mega dike,延長47km)がフィリピン政府の自国資金により建設されました(図9参照)。大規模堤防は、高さ12mの左右岸堤防と下流部の横堤(延長3km)からなり、沈砂地(堤外地)の面積は80km
2と大変大規模なものでした。
5.7 7年目(1997年)−流出土砂量0.31億m3
1997年8月中旬には、太平洋上の台風に引き寄せられたモンスーン性降雨(3日間雨量,425mm)により、サコビア川ではラハールが発生し、右岸側既設堤防が越流破堤しました。堤内地とラハール堆積面(沈砂地)には5mの比高があり、破堤地点より上流8km区間に堆積していたラハール堆積物(河床勾配1/140)が幅150mにわたって侵食されました。土砂移動量(二次侵食量)
は600万m
3と推定されました。一方、パシグ川上・中流部では、1995年から河床低下の傾向にあったため、顕著な地形変化は起こらず、河幅を拡げながら谷地形が徐々に形成されました。特に、中流部アンヘレス-ポーラック道路付近での河床低下の傾向は強まり、泥流堆積面は段丘化して行きました。この際、上・中流域で二次侵食されたラハール堆積物は、下流域に建設された大規模堤防の横堤付近に氾濫・堆積(2800万m
3)しました。この際、横堤による二次移動土砂の土砂捕捉率は80%となり、土砂氾濫域の拡大はありませんでした。
5.8 8年目(1998年)と9年目(1999年)
1998年雨季には2回、1999年雨季には3回の中規模台風が襲来したものの、いずれも降雨量は少なく、大規模土砂移動は発生しませんでした。しかし、中・下流域における二次移動土砂堆積物からの微小粒子の断続的な流出が顕著となり、サコビア川下流部の河床上昇およびパシグ川下流域から河口に至る河床上昇および河口閉塞が発生しました。このため、パシグ川下流域デルタ地帯での洪水氾濫が長期化するようになりました。なお、ラハールの発生は少なく、比較的穏やかな年であったため、砂防施設やバンバン橋の建設など、円借款事業は順調に進みました。
5.9 地形変化のまとめ
図10は、Piersonほか(1992)による噴火後の土砂流出の傾向比較を示しています。インドネシアのガルングン火山や米国のセントヘレンズ火山での流出土砂量は次第に低減して行くという経験値をもとに、ピナツボ火山の将来予測を行っています。それによれば、ピナツボ火山周辺に供給された火砕流堆積物(67億m
3)のうち噴火後10年間に流出する土砂量は25億m
3で、その大部分がピナツボ火山から流出する扇状地に堆積すると推定しました。
図9 パシグ河流域の泥流制御施設配置計画図(日本工営・建設技術研究所,1996;国際砂防協会,2015)
図10 噴火後の土砂流出の傾向比較(Pierson, et al. 1992)
(広瀬ほか,2003,ピナツボ火山EPPFF流域のデータを追記)
図10のグラフの上に広瀬ほか(2003)は、ピナツボ火山東部流域(EPPFF)の推測データを追記しました。東部流域(EPPFF)に堆積した火砕流堆積物(14億m
3)のうち、噴火後7年半で半分以上の7.4億m
3(53%)が流下し、広大な堆積面(扇状地)を形成しました。1997年末で6.6億m
3(47%)の火砕流堆積物が残っていましたが、二次爆発(水蒸気爆発)や三次爆発を引き起こせるような高温状態ではなくなりました。1993年10月の二次爆発による流域変更によって、一時的にパシグ川方向のラハールによる流出土砂量は増加しましたが、次第に減少していく傾向は変わりませんでした。サコビア川やパシグ川では、次第に河床が低下して蛇行するようになり、より下流で氾濫・堆積を繰り返すようになりました。10年間の地形変化の状況を見ると変化の幅は次第に小さくなっています。25年以上経過した現在では、ラハールの発生はほとんどなくなりました。
ピナツボ火山東部流域(EPPFF)で実際に起こった地形変化の推定結果は、今後の火山噴火後の地形変化の将来予測に大変役に立つと思います。1991年噴火の前の地形状況は前回(Buag
期)の噴火から500年後の地形状況を示しているからです。日本でもピナツボ火山と同様の噴火(火砕流を大量に噴出するタイプ)をした火山は多く、これらの火山の周辺には多量の火砕流堆積物やラハール堆積物が認められます。未固結の堆積物は「シラス」と呼ばれることが多いのですが、火山から直接噴出した一次堆積物であるか、その後の二次堆積物であるか、詳細に分析する必要があります。
ピナツボ火山の周辺で観察する限り、火砕流の一次堆積物と二次爆発による二次堆積物との区別はかなり困難でした。現地の露頭で見る限り、二次堆積物でもほとんど層理が発達せず、上流部では一次の火砕流堆積物と区別がつかないほど、厚く堆積しています。二次堆積物が三次爆発できるほど、高温の状態で堆積している場合もありました。一度に5m以上の層厚で堆積したラハール堆積物も詳細に観察しないと火砕流堆積物と区別しにくい状態でした。ましてや、古い時代の堆積物が一次堆積か二次堆積かを肉眼だけで識別するのは難しいようです。
6.ピナツボ火山災害緊急復旧工事(PHUMP),フェーズT〜X
6.1 ピナツボ火山災害緊急復旧工事(PHUMP)の概要
ピナツボ火山噴火ならびのその後発生したラハールによる災害対策として、米国陸軍工兵隊(USACE)と日本の国際協力機構(JICA)は、マスタープランとフィージビリティ調査を実施 しました。この計画に基づき日本工営株式会社(NK)とPHILKOEI INTERNATIONAL, INC(PKII)による的確な施工管理がなされ、潜在的な被害軽減のための洪水・泥流制御事業(PHUMP)が実施されました。図11に示したように、PHUMP事業はJICAによりフェーズTからXまで提案・実施され、日本の有償資金援助により実施されてきました(Ang,2016)。
図11 ピナツボ災害緊急災害復旧計画(PHUMP)の位置図(DPWH-UMPO,2013;ロジャー・アン,2016)
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フェーズTは、1996年から2001年にかけて、サコビア−バンバン川流域を対象に24億ペソの有償資金協力により、既存堤防の修復、河道掘削・浚渫・開削、床固工及び橋梁施設を含む道路復旧が行われました。
フェーズUは、2000年から2006年にかけて、パシグ−ポトレロ川流域を対象に49億ペソの有償資金協力により、メガダイク復旧・ティルダイク建設、河道掘削・浚渫・拡幅・開削、橋梁建設、道路の復旧など多岐にわたる工事が実施されました。
フェーズVは、2008年から2015年にかけて、パシグ−ポトレロ川とポーラック−グマイン川流域を対象に47億ペソの有償資金協力により、内水排除水路や下流放水路の整備、主要河川の開削・浚渫、道路嵩上げ及び橋梁建設などが実施されました。
2002年に調査が実施されたフェーズWは、韓国の経済協力基金の無償資金を受けて調査内容が更新されました。統合災害リスク削減と気候変動適応(IDRR-CCA)と名称変更し、パンパンガ湾低地域を対象に詳細設計が行われました。
サンバレス州のピナツボ火山西部の河川を対象としたフェーズXは、2002年にフィージビリティ調査が実施され、当初は日本のODA案件候補でしたが、最終的にはフィリピン政府の独自資金により、フィージビリティ調査の基本設計にもとづき、治水施設が建設されました。
6.2 火口湖の水位上昇対策
ピナツボ火山噴火時に形成された火口湖においては水位上昇が顕著であり、PHIVOLCSは警戒情報を発していました。図12に示したように、噴火直後の火口底の標高は845mでしたが、2000年11月の観測では、湖水の水位は950m付近と100m以上も上昇し、2億m
3の水がカルデラ内に留まっていることが明らかとなりました。カルデラ壁で一番低いのは、ブカオ川
(北西)方向のMaraunot Notchでした。噴火前の1/5万地形図によれば、ブカオ川の支流マロノト川の上流部がこの付近にあり、1991年噴火によるカルデラ形成後、Maraunot Notchが最も低い鞍部(Notch)となっていました。次に低いのがO’donnell Notchですが、前者より18m高くなっていました。したがって、さらの湖面水位が上昇して湖水が溢れるとすれば、Maraunot Notchからマロノト川を経てブカオ川方向へラハールや洪水が流下する可能性がありました。写真7はJICA調査団が1995年10月に撮影したカルデラ内の湛水状況です。
PHIVOLCSの観測によれば、1998年5月7日にMaraunot Notchの余裕(Freeboard)は45mでしたが、1999年4月27日には27m、2000年3月10日には18m、6月28日には16m、8月5日には14.3m、8月16日には14.1m、9月16日には11.6m、10月13日には11.35m、11月23日には10.35mと1雨季毎に10m以上水位が上昇していました。このままの水位の上昇が続けば、1年ないし2年後の雨季には、Maraunot Notchを越流することが想定されました。
カルデラ内の流域面積は10km
2であるので、年間降水量を3000mmとすれば、年間流入量は3000万m
3で、9.5年間の総流入量は2.9億m
3となります。このうち、蒸発散量を1/3程度と
すれば、上記の2億m
3という貯留水量となります。
Maraunot Notchでは、2000年11月23日現在10.35m(Freeboard)がありましたが、さらカルデラ内で大規模な崩壊や地すべりが発生し、大量の土砂が湖水に一度に流入した場合、段波が発生し、Maraunot Notchを越波する危険性がありました。また、Maraunot Notch付近に湧水点があれば、パイピングによってカルデラの外側から崩壊が始まり、一気に湖水が大量に流下
する危険性がありました。マロノト川とブカオ川流域には大量の火砕流堆積物やラハール堆積物が大量に残っているので、火口湖から溢れた洪水流は途中でこれらの堆積物を取り込み、大規模なラハールとなって、ブカオ川下流域を襲う危険性が想定されました。このため、2001年の雨季までの乾季に早急な対応が必要となりました。
図12 ピナツボ火山山頂部の地形変化図(上:噴火前,下:噴火後)
(広瀬ほか,2003)
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写真7 ピナツボ火山カルデラ内の湛水状況 (1995年10月JICA調査団撮影)
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写真8 カルデラ内の湛水状況(余裕は10m) (2000年12月井上撮影)
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Maraunot Notchでは、2000年11月現在10.35mの余裕(Freeboard)がありました。さらに水位が上昇すれば、鞍部がパイピングによって、崩壊する危険性がありました。10m以下になれば、サイフォンによって事前に湖水を流下させることができます。カルデラ内の年間降雨による流入降水量は3000万m
3程度であるので、1m
3/秒(1年=60×60×24×365=3000万秒)
程度のサイフォンで湖水を排水するような対策が検討されました。写真8は、筆者が2000年12月に撮影したカルデラ内の火口湖の湛水状況で、満水まで10mしか余裕のない状況です。
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図13 ブカオ川の河床断面図(広瀬ほか,2003;国際砂防協会,2003)
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図13は、ブカオ川の噴火前の地形図から作成した河床縦断面図で、噴火以前からブカオ川の上流部・マロノト川がピナツボ火山の山頂まで伸びていました。噴火後もこの部分がMaraunot Notchとして残り、標高960m前後の鞍部となっていたものと考えられます。したがって、Maraunot Notchよりも上下流にもマロノト川の河道が残っていました。しかし、マロノト川の河道の地質状況によっては、湖水が越流して流下すれば、侵食が急激に進み、河床低下が進行する可能性がありました。このため、詳細な地質調査と対策工の検討が行われることになりました(楊ほか,2005)。
その後、2002年7月上旬に発生した台風Gloriaの襲来により、PHIVOLCS Quick Response teamの2002年8月3日の報告(インターネット公開)によると、9日間で740mmという豪雨となり、火口湖は決壊してラハールが発生しました。マロノト川からブカオ川流域は、1991年噴火時の火砕流堆積物が厚く堆積した地域で、そこに住んでいたアエタ族の住民はこの地域から転居しており、大規模な決壊洪水・ラハールが発生しても大きな被害は発生しませんでした。河口部のブカオ市街地では、決壊洪水の一部が堤防を越流しました。その結果、23mも水位が下がり、6500万m
3の湖水が流出しました。ブカオ川下流に流下した土砂と水の比率を3:2とすると、ラハールの堆積は1.6億m
3と推定されます。写真9は決壊後の2002年7月、写真10は2002年12月15日にJICA調査団が撮影したカルデラ内の状況を示しています。
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写真9 決壊後のカルデラ内の湛水状況 (2002年7月JICA調査団撮影)
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写真10 カルデラ内の湛水状況(水位は22m低下) (2002年12月15日JICA調査団撮影)
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6.3 西部流域対策
@ 西部流域の土砂流出状況
図11に示したように、ピナツボ火山西部河川流域(ブカオ川、マロマ川とサントトーマス川流域)は、ルソン島の中南部サンバレス州に位置し、流域面積は約1300km
2です。1991年6月のピナツボ火山噴火によって、同火山周辺の山麓に67億m
3の火砕流堆積物が厚く堆積しました。同火山西部河川流域には、このうち70%の47億m
3が堆積したものと推定されます。火砕流堆積物は雨季にはラハールとなって下流域に流下・堆積します。噴火から25年以上を経た現在、火山活動は沈静化していますが、中・下流域における河床上昇が著しく、既存堤防の安全性が確保できない状況となっていました。さらに山腹の残存火砕流堆積物や上流堆積土砂の二次移動により、今後も河床上昇も懸念される状況となっていました。このことは、1991年の被災後、脆弱性の高い西部地域に対しては投資が行われず、地域住民は雇用先がないため、収入源が確保されず、東部地域(EPPFF)に比べて経済的に地域格差が拡大する状況になっていました。
上記の状況から、ピナツボ火山西部河川流域の洪水・泥流による被害の現況分析及び今後想定される被害発生の予測を実施し、洪水・泥流を制御するための具体的な構造物による対策を検討し、また、非構造物対策として早期警戒、避難、移転などによる被害の軽減策を検討することなどを総合的に対処するため、東部地域で立案した洪水・泥流制御計画と同様なマスタープランを西部地域において策定し、緊急・優先対策について、フィージビリティ調査を実施する「ピナツボ火山西部河川流域洪水及び泥流制御計画調査」が、実施されました(2002年3月から2003年9月までの18ヶ月工期)。
A 西部河川流域の変化
ピナツボ火山の噴火は火山地域を取り巻く流域8河川の河川流域をドラスチィックに変えました。その影響は火砕流堆積物が70%堆積した西部河川流域で最も大きくなりました。噴火直後には広範囲に火砕流堆積物が堆積したため、堆積域内の生命体は死滅し、林業や農耕が不可能となり、未利用地が大幅に拡大しました。しかしながら時間が経過するにつれ、上流域の火砕流堆積物のエリアは少しずつ縮小していきました。噴火後11年も経過すると、上流域の火砕流堆積物がラハールとなって下流域に流出・堆積するとともに、徐々に植生が回復して行きました。上流域については、自然の回復力により、安定化しつつあるためです。図14に示したように、2002年7月の火口湖決壊にともなう洪水・ラハールがブカオ川方向に流下・堆積しました。
図14 ブカオ川流域の現況(2013年時点)(JICA・日本工営,2013)
一方、中・下流域においては、ラハールの堆積が著しくなっています。河道内堆積土砂累加量はブカオ川で8.43億m
3、サントトーマス川で8.18億m
3と推定されました。また、氾濫域の面積はブカオ川で55km
2、サントトーマス川で38km
2と推定されました。図15に示したように、河床上昇も著しく、特にサントトーマス川中・下流域においては、周辺の農地・居住地よりも最大で7mも河床の高い天井川を形成しました。
通常、自然河川は流域内の低平地を流下し、周辺地域からの排水機能を有しています。しかし、ピナツボ火山の西部地域では、ラハールの過剰堆積により河道の方が高くなり(重機でラハール堆積物を押し上げて堤防を構築する)、流域の排水機能は失われ、多くの排水不良地域が形成されました。図14のブカオ川や図15のサントトーマス川では、支流川から本流への流下が不可能となり、24の堰止湖が形成されました。特に、サントトーマス川支流のマレラ川とマパヌエペ川の合流点付近に形成されたマパヌエペ湖(湖水面積6.8km
2)が最も大きな堰止湖で、満々と水を湛えています。
図15 サントトーマス川流域の現況(2013年時点)(JICA・日本工営,2013)
B 洪水・泥流制御に係る課題と対策
ピナツボ火山の噴火から10年以上が経過して、西部地域の火砕流堆積物も次第に温度が低くなり、植生の回復が著しいことから、生産土砂量は減少傾向にあります。しかしながら、豪雨時には上流河道内の堆積土砂がラハール・洪水となって中・下流域に流下・堆積することが懸念されます。現在すでに天井川の様相を呈しているブカオ川並びにサントトーマス川の河床がさらに上昇を続ければ、下流域の洪水・泥流氾濫の危険性が高まります。したがって、流入土砂制御と洪水・泥流氾濫軽減策の実施は早急の課題です。
また、サンバレス州の西海岸を南北に走る国道7号線は、州内唯一の主要幹線道路であり、ブカオ川・マロマ川・サントトーマス川に架かる橋梁を含む7号線国道の確保は、経済活動の維持のみならず、住民の安全確保の観点からも、最重要事項のひとつです。河道内を安全に洪水・泥流が流下できるように、必要に応じて橋梁架替えも検討課題となっています。
下流域の洪水・泥流氾濫の問題とならんで、ピナツボ火山西部地域で解決しなければならない課題のひとつは、中・上流域での先住民アエタ族を含む住民の生計手段の確保です。ピナツボ火山の噴火と引き続く火砕流・泥流の影響で、河川敷を含む流域内の多くの人家・農地・生活道路が失われ、灌漑施設も破壊されました。いったんは再定住センターに入った人々も生計手段が確保できず、その多くが恒久的にあるいは季節的に元の村に戻っている現象も見られます。しかし、元の村に戻ったとしても、噴火以前の生活水準に遠く及ばない生活を強いられています(清水,1990,2003;ラカス,1993)。
フィリピン国政府は、自国資金や援助国の支援、NGOの支援の支援を得て、下流域の居住地・農地を守るための堤防建設を含む構造物対策を施し、非構造物対策として洪水泥流予警報施設を導入し、さらに再定住センターを整備し、生活支援活動も行ってきました。しかしながら、上記問題は未だ解決されていません。したがって、これらの課題に対処すべく、流域全体を見据えた総合的洪水・泥流制御計画の立案が求められています。
マスタープランの基本構想を図16に示します。調査の結果、9事業について事業実施が総合的観点から妥当であると判断され、事業化が提案されました。その後、橋梁事業などの一部の事業はすでにフィリピン国自国資金により実施され、フィージビリティ調査により、事業実施に必要な資金の調達準備、事業形成が開始されました。
図11に示したように、パシグ川下流のデルタ地帯でも、Phase U〜Wの災害復旧計画が実施されています。
7.むすび
以上、ピナツボ火山の地形変化と土砂災害とその対策の概要を説明しました。大局的にみれば、噴火に伴う火砕流堆積物の二次移動現象であるラハールは規模を縮小し、移動土砂量は減少して行くものと考えられます。また、多くのラハール/洪水対策施設も設置され、道路・橋梁などの社会施設も整備されてきました。しかしながら、問題点がなくなったわけではありません。ピナツボ火山の東部地域では、下流のデルタ地帯へ細粒土砂が流出し、河床掘削しているものの浸水期間が長期化しています。
また、ピナツボ火山の西側地域では東側地域以上に火砕流堆積物が存在し、ラハールも継続しているため、恒常的に土砂が河口部の市街地、主要国道付近まで流出し、橋桁までのクリアランスはほとんどありません。西側地域には噴火時の火砕流堆積物の2/3が堆積し、土砂量的には東側地域より格段に多いにもかかわらず、費用対効果が低いという理由で地域開発、防災対策の優先度が低く、これまであまり投資されてきませんでした。基盤整備がなされなければ、住民の生活基盤は安定せず、開発からますます取り残され、現状維持さえ出来ない可能性があります。このような悪循環を打ち切るために、どのような対策が考えられるのでしょうか。
一方、地域に住む住民からみれば、地域の復興は最大の関心事です。火山噴火、ラハール被害、そしてアメリカのクラーク空軍基地、スービック海軍基地が相次いで閉鎖されたことにより、地元経済は大きな打撃を受けました。防災対策を実施することにより、これまで以上に復興することを期待します。
図16 マスタープランの基本構想(JICA・日本工営,2013)
1999年10月には、日本の活火山を抱える市町村長の集まりである「火山フォーラム」がピナツボ火山で開催されました。日本からは委員長である吉岡庭二郎島原市長をはじめとして、19名の市町村長など、100名の砂防関係者が参加し、小野英男JICAフィリピン事務所長にも出席して頂きました。フィリピン側からは、ピナツボ、マヨン火山周辺の市町村長、公共事業道路省(DPWH)職員など100名が参加しました。「火山との共生」をメインテーマに被災地での復興対策について意見を交換し、技術的な面だけではなく火山噴火観測の体制、避難勧告の責任者、再定住地の造成、市町村財源減収対策、災害保険など、防災・地域復興に係る幅広い分野での発表、意見交換があり、非常に有意義なフィーラムでした。
最後に、本コラムをまとめるに当たっては、米国地質調査所(USGS)やフィリピン火山地震研究所(PHIVOLCS)の調査関係者から多くの論文を頂くとともに、貴重な観測資料を借用して解析させて頂きました。このような貴重な調査の機会を与えて頂いたフィリピン政府や日本政府、国際協力事業団(JICA)の関係各位に御礼申し上げます。
また、一般社団法人国際砂防協会の『ピナツボ火山の噴火と復旧・復興の25年―砂防技術協力の経緯―』から一部を引用させて頂きました。2012年以降の地形変化・復興対策の詳細については、この本をご覧ください。
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