1.はじめに
高知県中央部は、昭和50年(1975)の台風5号、昭和51年(1976)の台風17号に伴う異常な集中豪雨によって、河川の激しい増水・氾濫、並びに地すべり・崩壊・土石流などの土砂災害が発生し、2年連続して激甚な被害を受けました(岡林ほか,1978,(1),(2))。このため、高知県では復旧対策や長期的な防災対策の樹立を目的として、
「高知県地すべり等防災対策会議」(委員長:栃木省二)を設置しました。当技術会議の専門委員会では、①被災地区(モデル地区)の現地踏査、②地形・地質特性の把握、③写真判読による地すべり地・崩壊地の把握、④台風5号と17号に伴う土砂災害の比較、⑤土砂災害の発生原因及び発生機構の推定、⑥危険度分布図の作成、⑦防災対策の問題点と今後の対策の検討、などの調査と研究を実施してきました(高知県地すべり等防災対策会議,1977;高知県土木部砂防課,1978)。
筆者は1975年の台風5号の後、日本工営株式会社の東京本社から大阪支店(当時は大阪営業所)に転勤しました。1976年の台風17号時には、大渡ダムの貯水池周辺の地すべり調査と長者地すべりの調査で、1週間も仁淀村(現仁淀川町)の旅館で缶詰になりました。台風17号通過後、高知県各地の激甚な土砂災害地点の現地調査を高知県地すべり等防災対策会議のもとで担当させて頂きました。本コラムでは、防災対策会議で明らかとなった問題点について説明したいと思います。防災対策会議での調査内容を項目別に整理すると、図1のようになります。
2.調査地域の地形・地質特性〜地形発達史的考察
地すべりや崩壊などの土砂災害は、地形形成の一過程と考えられるので、これらの現象を解明するためには、現在の地形的・地質的特性を充分に把握し、その斜面が今日までに受けてきた変化の歴史を解明する必要があります。このため、防災対策会議では各種の地形学的手法を用いて、調査地域内の地形特性と地質条件を比較判読し、地形発達史的観点から考察を行いました。
2.1 主な地質構造と地形〜組織地形
調査地域は、西南日本外帯構造区に位置し、東北東〜西南西方向に数本の大規模な地質構造帯が並行して走るため、帯状の地形・地質構造が発達しています。これらの地質構造線は、北に傾斜した衝上断層の場合が多く、構造線付近では蛇紋岩や火成岩の貫入が認められ、変成作用や破砕作用が激しくなっています。このような地質構造を反映して、調査地域の水系は主要な構造線(破砕帯)上を東北東〜西南西方向に谷地形の比較的緩やかな縦谷(適従河川)となって流れている場合が多く、構造線と構造線の間を切って流れる場合には、険しいV字形の横谷となっています。
図2は、2km谷埋め法による接峰面図の上に、昭和50年(1975)の台風5号と昭和51年(1976)の台風17号による土砂災害発生箇所を追記したものです。図3は1/2.5万地形図をもとに作成した水系図(次数分類別)です。
図1 高知県地すべり等防災対策調査のフローチャート(岡林ほか,1978,一部改変)
北から順に、①清水構造帯(幅約1kmの異常に剥離性に富んだ泥質片岩からなる衝上剪断帯)、②御荷鉾構造線(上八川−池川構造線、三波川帯と秩父帯の境界)、③黒瀬川構造帯(秩父帯の北帯南縁から中帯にかけて数帯に分かれている)、④仏像構造線(秩父帯と四万十帯の境界)などが明瞭に識別でき、各構造線に区切られた地帯毎に接峰面高度が異なっています。
すなわち、
(a) 三波川帯主部(中央構造線から①まで)は、結晶片岩類からなり、山頂高度が1200〜1800mと調査地域では最も高く、早壮年期の地形を示しています。
(b) 三波川帯南縁帯や御荷鉾緑色岩類(鈴木,1977a)の地帯(①から②まで)は、一般に地質や地質構造が風化や侵食に対して弱いため、後述するように地すべりや土石流の多発地帯となっており、山頂高度が600〜1200mとかなり低くなっています。
(c) 秩父帯の北帯(②から③まで)のうち、北縁部は、主として風化に強い珪質岩類で構成される上八川層からなるため、この付近を横切る河川は険しい渓谷となっています。しかし、南部の白木谷層群の地帯は(石灰岩が点在する)は標高が300m〜600mで、山頂高度の比較的そろった中山性の山地または隆起準平原状の山地となっています。
(d)③の黒瀬川構造帯のうち、東部地区は物部川、香長平野、高知平野の北縁をなし、接峰面図上で標高200〜400mの急斜面として続いています。しかし、西部地区はシルル−デボン系岩石、寺野変成岩類、三滝火成岩類、蛇紋岩などの、種々の基岩が存在するため、接峰面高度はかなり複雑に変化しています(鈴木,1977b)。
図2 高知県中央部の2km谷埋め法による接峰面図と昭和50年(1975)の台風5号と
昭和51年(1976)の台風17号による土砂災害発生個所(岡林ほか,1976)
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図3 高知県中央部の次数別水系図(岡林ほか,1976),赤字は2018年9月13-14日の現地調査地点
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(e)秩父帯の南帯(③から④まで)は、物部川・香長平野・高知平野・佐川盆地などの低地となり、南縁部は標高200〜400mの丘陵地として続き、④から南で急に低くなる一種のケスタまたはホグバグ地形となっています。このことは、仏像構造線を形成した構造運動が比較的新しい時代まで続いていたことを示しており、各地で典型的な断層地形や断層露頭が認められ、図3の水系図にもその特徴が表れています。
(f)④から南の地帯では、土佐市の位置する盆地を経て、四万十帯からなる丘陵性山地(標高100〜200m)に達しますが、本調査地域ではその分布はわずかで、直ちに土佐湾に没しています。しかし、調査地域両側の室戸地方や足摺地方では、標高800〜1000mの山地となっています。
2.2 地盤運動と河川侵食
四国山地は、第四紀初頭以降に500〜1000m隆起したと考えられています(第四紀地殻変動グループ,1968;湊,1977)。この隆起速度は山地中央部でもっとも速く、周辺部では遅くなっており、土佐湾付近ではむしろ沈降しています。すなわち第四紀初頭以降の地殻変動によって、四国(島)の形状およびその起伏量が決定されたと考えられます。そして前述した各帯の接峰面高度の差は、その後の侵食に対する基盤岩の強度の差を反映した
「組織地形」であると考えられます。上記の隆起量を現在の接峰面高度から差し引くと、第三紀末の四国山地は標高500〜1000mの中山性〜丘陵性の山地で、周辺部は準平原状であったと考えられます。航空写真によれば、このような時期に形成されたと思われる山頂平坦面が点在しており、高知市北部の久礼野付近には顕著な隆起準平原が残っています。
図2,3に示したように、四国第一の河川、吉野川は高知県北部の三波川帯を西南西から東北東に向かって、比較的谷壁斜面の緩やかな適従河川として流れ、大豊町土佐岩原から徳島県池田町(現三好市)までの間は、大歩危・小歩危などの険しい渓谷となって、北北西方向に流れ、池田町から徳島市までの間は、中央構造線に沿って直線状の広い谷底平野をつくりながら、再び東北東方向に流れています。したがって、土佐岩原から阿波池田までの吉野川は先行性の横谷と考えられます。すなわち、四国山地の地盤隆起が速くなる以前から、吉野川は現在とほぼ同じ位置を流れていたが、四国山地の隆起速度が速くなっても、本流部分では上昇した分だけ下刻作用が進み、険しいV字谷が形成されました。大きな河川ほどこのような平衡作用は大きく、河川の位置をほぼ一定に保ち、縦断面形も各河川の侵食量と運搬土砂量に見合った指数曲線に近い形(平衡河川)となっています(谷津,1954)。それだけ、線状に進む河川の侵食作用は、他の地形形成作用に比べて速く、外的・内的環境が変化しても、その河川に適合した縦断面形に達するまで下刻作用(削平衡作用、土砂流出が多い場合には積平衡作用の場合もある)が進み、平衡状態に達すると、側方侵食を開始して、谷地形を広げる作用が働きます。このように、河川の本流部では外的環境に見合った縦断面形に変化しますが、最上流部や支流では侵食力が小さいため、本流の変化に追い付けず、過去の平衡状態の河床縦断面形を残すようになり遷急点が形成され、上流部には古い堆積物や風化帯が残され、緩い河床勾配となります。また、本流の谷壁斜面などには、過去の平衡状態時に形成された谷底低地や谷壁末端部の緩斜面が河成段丘面や山腹緩斜面として残されています(古谷,1967,1977)。このような地形変換点は
「侵食前線」と呼ばれ、上部の緩斜面には厚く二次堆積物や風化帯が存在し、崩壊や地すべりの多発地帯となっています(波田野,1968)。このような緩斜面や遷急点を結んでいけば、過去の河床縦断面形が復元できると考えられます(市瀬,1964)。航空写真などによれば、吉野川沿いの緩斜面は何段にも分かれて点在しているため、現在のところその形成年代は判っていないようです。
崩壊地や地すべりなどの土砂災害を解明するためには、地形面の対比や
14C法による年代測定を実施して、このような斜面の地形発達史を解明していく必要があります。吉野川の支流・瀬戸川流域の黒丸地区と地蔵寺川流域の下地蔵寺地区で集水井掘削中に地すべり土塊の下面付近から発見された木片をもとに実施した年代測定(学習院大学理学部・木越邦彦教授に依頼)によれば、9340±170B.T.(Gak-7419)、及び33240±3950B.T.(Gak-7493)という値が得られています。
2.3 仁淀川付近の地形〜氷河性海面変動との関連
調査地域の西部を流れる仁淀川は愛媛県との県境から伊野町(現いの町)伊野までは、秩父帯の中を大きく嵌入蛇行しながら西方向に流れていますが、伊野からは南南東方向に向きを変え、仏像構造線の位置する線状の尾根部を切って、土佐市を通り土佐湾に注いでいます(図2,3)。また、日高村付近の日下川はかなり広い低平な河谷となっているので、越知町越知から佐川盆地を経て日下川沿いに伊野方向へ仁淀川が流れていた時代があったものと考えられます。
図4は、仁淀川流域の模式断面図です(岡林ほか,1978)。愛媛県の県境から吾川村(仁淀川町)土佐大崎までの仁淀川は、河床が比較的狭く険しいV字谷となっているが、土佐大崎から伊野町伊野までは、河床幅が200〜400mとかなり広がっています。図4に示したように、この区間の谷壁斜面の中・上部には何段かに分かれて、緩斜面が多く認められます。谷壁斜面下部は急傾斜で直接基岩が露出していることが多くなっています。前項でも説明したように、これらの緩斜面には崩積土や風化帯が存在し地すべり地形が多く認められます。また、過去の比較的温暖な時期(間氷期)に形成されたと考えられる古赤色土壌が認められる場合もあります。
図4 仁淀川中流部の模式断面図(岡林ほか,1978)
以上のことから、仁淀川流域では一様に地盤が隆起したのではなく、汎地球的な氷河性海面変動の繰り返しによって、侵食基準面が変化したため、相対的な隆起・沈降現象が表われ、かつての河床面や山麓緩斜面などが、谷壁斜面に次々と段丘面や山麓斜面(上位面程古い)として残されてきました。しかし、最終氷期(ウィルム氷期,約2万年前)には、海面が130mほど下がったため、仁淀川も下流部では深く下刻し、V字谷が形成されました。しかも、縄文海進(約6000年前)以降海水準がほぼ一定化するにつれて、河床には沖積層が厚く堆積し、しだいに河床低地が広がり、現在は吾川村土佐大崎付近まで河床低地が広がったものと考えられます。
なお、一般に最終氷期の段丘面(立川面)は、下流部では現河床より低く沖積層に覆われていますが、中・上流部では現河床より高くなっています。これは氷期の方が現在よりも、凍結・融解作用が激しかったため、崩壊や土石流が多く発生したのに対し、降水量が少なく河川の流量が減少して、河川の土砂運搬力以上に土砂が供給されたためと考えられます(貝塚,1969)。その後、後氷期になって温暖化して降雨が増加し、土砂運搬力が回復すると、上流部では河床堆積物が下流に運ばれ、険しいV字谷となり、下流部では沖積層が堆積して、しだいに現在のような河床勾配のゆるやかな河床断面形になったと考えられます。
したがって、中・上流部の緩斜面が間氷期と氷期のどちらの時期に形成されたかは、土砂災害の現象を考える場合、非常に重要な問題です。また、後述するように、調査地域の上流部には、現在は森林に覆われ安定化しているが、大規模な地すべり性崩壊や土石流の堆積した痕跡地形が認められます。現地踏査の結果によれば、現在変動している地すべり地の上部にも、古い滑落斜面が認められ、過去の地すべり変動によって堆積した崩積土が再移動している地区もありました。このような地形が、いつどのようにして形成されたかも、今後検討すべき重要な問題です。
3.地すべり地、崩壊地の写真判読
本調査では、調査対象範囲が2458km
2と極めて広いため、昭和51年(1976)の台風17号以後に撮影した1/12,500航空写真(1573枚)を用いて、地すべり地・崩壊地の分布状況を判読し、地すべり地・崩壊地分布図(1/25,000地形図で36枚,判読図の一部を図12,13に示す)を作成しました。また、写真判読の精度を上げるために、26ヶ所のモデル地区を設定し、現地踏査を実施するとともに、昭和50年(1975)の台風5号以前、台風5号以後、台風17号以後の航空写真を詳細に比較判読しました(高知県地すべり等防災対策会議,1977;高知県土木部砂防課,1978)。
上記の作業は膨大な作業量であるので、5〜6人で市町村毎に分担して、写真判読を実施しました。個人差をなるべく少なくするために、判読の分類基準を最小限に留め、それらの事項についてはできるだけ細かく判読しまし。しかし、判読には1/12,500の密着航空写真を使用しているので、2〜3m以下(写真上で0.3mm以下)の滑落崖や幅10m以下(0.8mm以下)の崩壊地は識別できません。聞き込み調査や地表踏査によれば、台風などによって変動した地すべりブロックでも、1回の変動量は落差が10cmから1m程度のものが多く(地すべり性崩壊などの地区ははっきり識別できました)、航空写真を部分拡大するなど、充分な注意を払って判読しない限り識別できません。
しかし、地すべり地形はこのような地すべり変動の長い間の積み重ねによってできるものであり、このような地すべり地形を地すべりブロックとして識別しました。したがって現在は変動していなくても、今後とも豪雨や地震を誘因として変動する可能性のある地区については地すべりブロックとして表現しました。しかも、地すべり地をできるだけ細かく区分し、一連の地すべり変動で生じたと判断できる地形毎に1ブロックとして表現しました。
崩壊地は、台風5号や台風17号によって発生したと思われるものばかりでなく、かなり古い崩壊地(裸地,草地状を示し、写真上で白っぽく見える)でも、航空写真によって識別できるものについては、すべて地形図上に転記しました。したがって、標高の高い山地部では植生の回復力が弱いため、かなり古い崩壊地も判読されています。
また、山腹斜面などに現在は安定していると考えられますが、過去の大規模な地すべり性崩壊や土石流の堆積によってできたと判断される緩斜面や平坦面、並びに古い滑落斜面(これらの斜面は現在林地になっていることが多い)が判読できる場合があります。これらの地区は現在安定していると判断されるので、今後とも変動する可能性のある地すべりブロックとは区別しました。しかし、これらの緩斜面の周辺部には、地すべりブロックが認められることが多く、現在変動している地すべり地の上部に古い滑落斜面が存在することがあります。
4.地すべり地・崩壊地分布
調査地域内の地すべり・崩壊などの土砂災害の危険地区を推定するために、地すべり地・崩壊地分布図(1/25,000地形図で36枚)をもとに、図5 地すべり地密度図、図6 崩壊地密度図を作成しました。地すべり地・崩壊地分布図に500m(2cm)メッシュ毎に点格子板を重ねて面積百分率を読み取り、ハッチング法によって密度を表現しました。
図5 500mメッシュの地すべり地密度図で地すべり地の平面的分布をみると、大規模な地質構造帯(地質的な弱帯)と三波川帯・秩父帯の泥質岩類や御荷鉾緑色岩類の地帯に多く認められます。特に、清水構造帯や御荷鉾構造線(上八川−池川構造線)の地帯、黒瀬川構造体の蛇紋岩類の地帯に大規模な地すべり地帯が認められます。このような地帯は、図2でも明らかなように、過去の地すべり変動による活発な土砂流出によって、他の地帯よりも侵食速度が速く、その結果として、山頂高度(接峰面高度)が低くなり、斜面傾斜(起伏量)もゆるくなっています。つまり、他の地帯と比較して、これらの地帯は素因としての地質条件が悪いため、勾配がゆるくても斜面の土塊が地すべり変動を起こしやすいことを示しています。したがって、このような地帯の河川(南小川,南大王川で顕著)は、河川への流出土砂が極めて多く、荒廃した河川となっています。
御荷鉾緑色岩類の地帯のほぼ全域が地すべり地帯であり、接峰面高度が低くなり、傾斜のゆるやかな谷地形となっています。他の地帯では、2.2、2.3項で説明した谷壁斜面の地形的特徴を反映しています。すなわち、斜面の中腹部などに数段に分かれて、地すべりブロックが存在する場合が多く、斜面の上部から下部まで地すべりブロックが連なっている地区は少ないようです。本調査で作成した1/50,000地質図と比較すると、これらの地すべりブロックは、中・小規模な断層・破砕帯に沿って配列している場合が多いようです。
図5 500mメッシュの地すべり地密度図(岡林ほか,1978)
図6 500mメッシュの崩壊地密度図(岡林ほか,1978)
一方、図6 500mメッシュの崩壊地密度図によれば、地すべり地帯を除いた山間部に多く、地質的特徴はあまり認められません。しかし、大規模な崩壊地(崩壊土量1万m
3以上)は、砂岩泥岩互層、シルト岩〜泥岩互層、及び泥質岩類の地帯に発生している場合が多いようです。また、チャートの薄層を狭在する地区では、接する部分の緑色岩類や泥質岩類の地帯で破砕作用が進んでいることが多く、これらの地区にも大規模な崩壊地が認められます。崩壊面を観察すると、小断層が見いだされる場合が多く、これらの断層付近から湧水している箇所も多くありました。
5.台風5号(1975)と台風17号(1976)における土砂災害の比較
昭和50年(1975)の台風5号と昭和51年(1976)の台風17号では、降雨地域はそれほど変わりませんが、降雨強度と継続時間に大きな相違点があるため、土砂災害の発生の仕方に大きな差異が認められました。図7は昭和50年(1975)の台風5号の気象観測所別(35ヶ所)の平均時間雨量と累加曲線、確認された災害発生時間をグラフ化したものです。図8は昭和51年(1976)の台風17号のデータをグラフ化したものです。
図7 台風5号(1975)の観測所平均時間雨量と累加曲線、確認された災害発生時間(岡林ほか,1978)
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図8 台風17号(1976)の観測所平均時間雨量と累加曲線、確認された災害発生時間(岡林ほか,1978)
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図9 昭和51年(1976)台風17号襲来時の総雨量分布図
(高知県土木部砂防課(1978)をもとに、四国山地砂防事務所(2004)で作成)
図9は、昭和51年(1976)台風17号襲来時の総雨量分布図で、高知県土木部砂防課(1978)をもとに、四国山地砂防事務所(2004)で作成したものです。
昭和50年(1975)の台風5号は、カロリン諸島で8月12日に発生しました。17日9時頃高知県宿毛市に上陸し、その後伊予灘を経て、山口県西部に再上陸し、日本海に抜けました。上陸時には中型で並の台風でしたが、夏型台風の特徴を示し、高知県にとっては最悪のコースとなりました。8時10分には足摺岬で最大瞬間風速52.1m/s(観測史上1位)にも達しました。上陸後も台風はそれ程勢力が衰えず北上を続けたため、東側半円に非常に強い風が続き、地形の影響も加わって、仁淀川の中流部から上八川流域にかけて、雷を伴う激しい雨が降り続き、最大時間雨量133mm、最大24時間雨量910mm、総雨量930mmという記録的な豪雨となりました。このため、仁淀川、鏡川は大洪水となり、山崩れ(崩壊)や土石流が続発して大災害となりました。
昭和51年(1976)の台風17号は、9月3日にカロリン諸島東部で熱帯低気圧が発生し、4日に台風17号となりました。その後急速に発達し、非常に勢力の大きい(雨域の広い)強い台風となり、8日には中心気圧910hPa、最大瞬間風速60m/sにも達しました。南西諸島を通過後、屋久島の南西海上でほぼ1日半も停滞したことから、高知県には南から暖かく湿った空気の流れ込みが続きました。このため、降雨時間が著しく長く、断続的に1週間にわたって強い雨が降り続き、最大時間雨量95mm、最大24時間雨量750mm、総雨量1860mmにも達しました。
図2、図7、図8などから判断すると、上記の降雨パターンと土砂災害の形態には強い相関性が認められます。すなわち、昭和50年(1975)の台風5号は、仁淀川の中流部から上八川流域にかけて、崩壊と土石流が多く発生し、高知県警の調べによれば、山(崖)崩れ1107ヶ所、死者行方不明75人、住居全壊418棟などの被害が発生しました。これらの土砂災害は最大時間雨量60〜130mm、総雨量400〜900mmの地帯で、台風5号が四国西端部の宿毛を通過して伊予灘に出た8月13日昼から夕方にかけて、降雨がもっとも激しくなった時期に発生しました(栃木,1976)。
一方、昭和51年(1976)の台風17号の時には、高知県警の調べによれば、山(崖)崩れ233ヶ所、死者行方不明9人、住居全壊60棟と前年の台風5号に比較して土砂災害は少なくなっています(栃木,1977)。これは前年の大災害の経験を活かして、関係官庁、報道機関の適切な対応策によって、危険地帯の住民が事前に安全な場所に避難したことも寄与しています。しかしながら、前年の台風5号と比較すると、崩壊・土石流などの急激な変動を伴う土砂災害は比較的少なかったが、変動のゆるやかなすべり面が深くて規模の大きな
「地すべり変動」を生じた地区が多く認められます。これらの地区は、最大時間雨量が40〜60mmと、80〜100mmの地区で、総雨量が1200〜1800mmの地帯で、豪雨の降り続いた後半から降りやんだ後に地すべり変動が始まった箇所が多くなりました。
以上のことから、次のような土砂災害の発生要因が考えられます。昭和50年(1975)の台風5号の場合には、仁淀川中流の上八川流域を中心として、短時間に非常に強い降雨を受けたため、表層部を流下する地下水や地表水が多くなって、山腹斜面に存在する不安定土塊に多量の雨水が浸透し、多くの崩壊現象が発生したものと考えられます。その後もしばらく強い雨が降り続いたため、崩壊土砂は多量の雨水を含み、
「土石流」となって、渓流部を非常に速い速度で流下しました。このため、土石流の発生した渓流では、多くの実家が破壊され、多数の死者行方不明者を出す原因になったものと考えられます。
昭和51年(1976)の台風17号の場合には、強い雨が断続的に降ったが、何回かの小休止があったので、表層部を流下する地下水や地表水は前年の台風5号よりも少なく、崩壊現象を引き起こす前にすみやかに流下したと思われます。つまり、それだけ高知県下の山腹斜面は、何度も強い降雨を受けているため、崩壊に対してかなりの抵抗力を持っている(免疫性があるとも言われる)と考えられます。また、前年の台風5号によって、多くの不安定土砂が崩壊や土石流の形で下流に流下してしまったことも土砂災害が少なかった要因の一つと考えられます。しかしながら、時間雨量が90mmを越えた高知市円行寺や鏡村柿ノ又などの地区では、急激な変動を伴う大規模な地すべり性崩壊が発生しています。1週間も降り続いた豪雨(最大総雨量1860mm)であったため、豪雨の後半から降りやんだ後に、比較的変動のゆるやかなすべり面が深くて規模の大きい「地すべり変動」を生じた地区が多かったのでしょう。
6.地震と降雨による土砂災害の繰り返し
四国地方では、海溝型地震によっても激甚な土砂災害が発生しています。宝永四年十月四日(1707年10月28日)の宝永南海地震では、仁淀川中流・舞ヶ鼻の崩壊(コラム12)や東洋町名留川の大規模崩壊(コラム13)が発生しました。
谷陵記刊行会(1964)『谷陵記』(奥宮正明記)によれば、「宝永四丁亥年十月四日未之上刻(1707年10月28日14時頃)、大地震起り、山穿て水を漲し、川を埋りて丘となる。國中の官舎民屋悉く轉倒す。迯んとすれども眩て壓に打れ、或は頓絶の者多し。又は
幽岑寒谷の民は巖石の為に死傷するもの若干也。・・・・」と記されています。
図10 四国における地震と土砂災害(国土交通省四国地方整備局四国山地砂防事務所,2004)
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図10は、四国における地震と土砂災害(国土交通省四国地方整備局四国山地砂防事務所,2004)を示しています。慶長南海地震(1605)、宝永南海地震(1707)、安政南海地震(1854)、昭和南海地震(1946)と百数十年間隔で巨大地震が発生し、四国山地の斜面で崩壊や地すべりが多発しますが、他の斜面でも多くの亀裂や岩盤の緩みなどが発生します。このような地区に台風襲来などによって、崩壊や地すべりが多発するようです。
7.昭和50年(1975)、昭和51年(1976)などの災害地再訪
昭和50年(1975)台風5号、昭和51年(1976)台風17号などの災害地の現状を確認するために、平成30年(2018)9月13日(木)〜14日(金)に、いさぼうネットの運営会社である五大開発株式会社の小田兼雄社長と一緒に現地調査を行いました。この現地調査には高知県土木部防災砂防課の石尾浩市課長など、砂防課の方々にも同行して頂きました。小田様は昭和51年災害後に長者地すべりや長沢ダム周辺の地すべり調査を一緒に行いました。40年前の災害直後の状況を思い出しながら、現地調査を行いました。
9月13日(木)は、仁淀川沿いに昭和50年と51年の被災地を見ながら、コラム12で紹介した「1707年の宝永地震による仁淀川中流・舞ヶ鼻の天然ダム」地点を見学しました。その後、長者地すべり(詳しくはコラム53で紹介します)、大渡ダム貯水池周辺の地すべり対策施設を見学しました。
9月14日(金)は、鏡川上流部の高知市鏡(旧鏡村)の昭和51年災時の敷ノ山地区の大規模崩壊(河道閉塞地点)を見学した後、国道194号を北上し、吉野川最上流の長沢ダム周辺の地すべり地の現状を確認しました。その後、吉野川を下流に向かって行き、早明浦ダム湛水地周辺の状況を見学しました。そして、平成30年7月7日に大崩壊で落橋した高知自動車道の立川橋(長岡郡大豊町立川)の状況を見学しました。最後に昭和47年(1972)7月5日に発生した繁藤災害の現地と慰霊碑(詳しくはコラム54で紹介します)を見学しました。
7.1 高知市鏡(旧鏡村)敷ノ山地区
図11は高知市鏡(旧鏡村)敷ノ山地区周辺の1/2.5万地形図「川口」です。図12は高知県地すべり等防災対策技術会議(1977)で作成した地すべり・崩壊地の写真判読図です。報告書が高知県にもないため、井上が保存していたカラースライドから電子化した図で、少しぼやけています。
昭和51年(1976)災害から40年以上経ち、仁淀川沿いの日高村など激甚な被害を受けた地域でも、植生が繁茂し、崩壊地形はほとんど認められませんでした。しかし、鏡村の敷ノ山地区の大崩壊は崩壊地の植生が異なっていました。崩壊地は高知市鏡庁舎から北西に向かい平家の滝の近くの橋の上流左岸側の斜面です。写真1は、広報かがみ(No.30)の表紙で、敷ノ山の大規模崩壊の状況が良くわかります。写真2は敷ノ山の大規模崩壊地の現況写真(2018年9月14日井上撮影)です。崩壊発生から42年経過しているため、裸地だった崩壊斜面には樹木が繁茂していますが、周辺の樹木よりは背が低いので、崩壊の範囲が分ります。下部斜面には擁壁工が構築されています。図11を見ると崩壊地には数段の崩壊対策擁壁工事が施工され、崩壊地下部に道路がありましたが、現在は橋梁で対岸に渡っています。
図11 高知市(旧鏡村)敷ノ山周辺の
1/2.5万地形図「川口」
図12 地すべり・崩壊地写真判読図
高知県地すべり等防災対策技術会議(1977)
写真1 広報かがみNo.30表紙の敷ノ山崩壊写真
鏡村広報委員会(1976.10),台風17号特集
写真2 敷ノ山大規模崩壊地の現況写真
2018年9月14日井上撮影
広報かがみ(No.30,1976年10月)によれば、昭和50年(1975)の台風5号による豪雨によって鏡村は激甚な災害を受け、災害復旧工事を各所で実施していました(激甚災害の指定を受けました)。その災害復旧工事中に、昭和51年(1976)の台風17号により、9月7日〜13日に柿ノ又で1835mmの豪雨を受け、鏡ダムの最大放水量は1342m
3/s(12日21時)にも達し、鏡川下流の高知市内は各地で氾濫しました。
台風17号が通過した9月13日夕方18時頃に敷ノ山の大崩壊は発生しました。崩壊地の下を通る道路を通りかかった母と子を一瞬のうちに呑みこみました。崩壊土砂は対岸まで打ち上げ川を塞き止め、天然ダムが形成されました。一時はこの天然ダムが決壊する危険があるとして、下流住民を避難させました。自衛隊、消防団、県警機動隊や地元民によって、この大規模崩壊による行方不明者の本格的な捜索が実施されました。しかし、2週間の必至の捜索にも関わらず、行方不明者は発見できませんでした。上流部の柿ノ又地区の住民は陸の孤島となり、鏡中学へ通う生徒は公民館で宿泊することになりました。
7.2 吉野川最上流部の長沢ダム周辺の地すべり変状
長沢ダムは高知県吾川郡いの町(旧本川村)長沢、吉野川最上流部に日本発送電株式会社(現四国電力株式会社)が昭和16年(1941)〜昭和24年(1949)に建設した堤高71.5m,総貯水量3190万m
3の発電用ダムです。昭和51年(1976)の台風17号の襲来によって、ダム軸右岸直下流の斜面が大規模に崩壊しました。また、ダム軸より上流側斜面には地すべり変状が発生しました。写真3は、災害直後に撮影された長沢ダム右岸側の写真(高知県砂防課,1978)です。写真4,5は、平成30年9月14日に井上が撮影した長沢ダム右岸のダム軸下流側の写真と上流側の写真です。
写真3 吉野川最上流・長沢ダム右岸側の大規模地すべり(高知県土木部砂防課,1978)
写真4 長沢ダム右岸下流側写真
写真5 長沢ダム右岸上流側の写真
(2018年9月14日井上撮影)
図13 いの町(旧本川村)長沢ダム周辺の
1/2.5万地形図「日比原」
図14 地すべり・崩壊地写真判読図「日比原」
高知県地すべり等防災対策技術会議(1977)
図13は長沢ダム周辺の1/2.5万地形図「日比原」で、図14は地すべり・崩壊写真判読図「日比原」で、長沢ダム右岸直下流の大規模崩壊地形が良く判ります。ダム軸の上流部には斜面上部に緩斜面があり、地すべり変動が継続しているようです。
引用・参考文献一覧表
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