1.はじめに
コラム52で述べたように、2018年9月13日(木)に高知県吾川郡仁淀川町(旧仁淀村)長者地すべり地の現地調査を行いました。長者地すべり地は、長期にわたって変動が継続している活発な地すべり地で、地下水が非常に豊富であることが地すべり変動の重要な発生誘因になっています。長者地すべりは、昭和33年(1958)に地すべり防止区域(防止区域面積68.6ha)に指定され、多くの地すべり対策事業が実施されました。
筆者と小田は、昭和51年〜54年(1976〜1979)に高知県越知土木事務所の業務で長者地区の地すべり調査を担当しました。40年前の長者地すべりを振り返りながら、長者地すべりの地形・地質特性と地すべり変動の経緯を整理しました。
2.長者地すべり地の概要
写真1は国土地理院が昭和50年(1975)9月9日に撮影したカラーの航空写真を立体視できるように加工したものです(図1 長者地区地すべり防止区域全体平面図と方角を合わせるため、上を南にしてあります)。長者地すべりは高知県の仁淀川上流部の長者川右岸の浅い谷地形に存在し、規模は長さ900m、幅200m、平均勾配15度で、地すべり末端部は長者川の対岸に達し、末端隆起しています(檜垣,1992)。地すべり斜面は、北〜北北東に延びる舌状の押し出し地形を示し、地塊の移動が現在も続いていることを示していますが、頭部の滑落崖ははっきりしません。9月13日には上部の平坦地である
「星が窪キャンプ場」まで行きました。写真1の左上部に稜線上の凹地として見られるのが、星が窪で、競馬場のコースがはっきりと残っています。昭和30年(1955)まで、草競馬場となっていました。年に一度、近隣地域から多くの馬が集められて競馬が行われ、大変賑わっていました。現在は広場の中央には隕石が落ちた跡といわれる
「星影の池」があります(図1の左上写真参照)。
写真1 長者地区カラー立体航空写真(国土地理院1975年9月9日)
CSI-75=9,C9-1A-4〜6,元縮尺S-1/10000
図1 長者地区地すべり防止区域全体平面図(高知県越知土木事務所)
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長者地区の地質は、秩父帯に属し、近傍を黒瀬川構造帯が走り、準片岩化の進んだ粘板岩・砂岩及び輝緑凝灰岩を主とし、それに貫入した蛇紋岩・花崗閃緑岩(三滝火成岩と呼ばれる)からなっています。三滝火成岩は地すべり斜面頭部の背後に分布する他、同種の岩屑が地すべり斜面中部の東側にも分布しています(藤田・竹内,1982)。
図2 長者地区の明治19年(1886)災以前の地籍図
図3 昭和51年(1976日)現在の小字図
(上図は旧仁淀村長者支所の切図(地籍図)などをもとに竹内(1980)作成)
3.明治19年(1886)災害以前の長者
地すべり変動は江戸時代以前から続いていたようです。明治19年(1886)の台風襲来で、
長者川が北側の流路から現在の位置に流路に変えて以来、地すべり移動が活発化しました。
図2は、明治19年災害以前の様子を再現したものです。旧仁淀村長者支所に保存されていた切図(地籍図)をもとに、竹内(1980)が西村支所長、旧長者村村長難波氏の考証に基づいて、作成したものです。上記二氏の言によると、明治19年災害前の長者川は、
「ヲイッチ」から
「アタラシ」、
「小池」、
「川ブチ」に沿って流れ、
「大明神の本」で現流路に流入していました。
「ホソダニ」、
「カヂヤガハナ」、
「アタラシ」、
「小池」、
「池の元」、
「川ブチ」、
「大明神の本」等は帯状の青田であり、
「小池」、
「池の元」には池がありました。図2のハッチングした場所は、災害前には人家が密集していた地区で
「寺野」と呼ばれていました。
「上ナロ」、
「下ナロ」地区には当時の人家跡と思われる石垣が残されています。
長者地すべり地の中央部は
「寺野」と呼ばれ、傾斜が緩くて日当たりが良く、作物が良く出来た地区でした。延暦年間(平安時代の782〜806年)にはすでに人家があり、応永年間(1394〜1427年)には
長泉寺という寺も構築されました。長泉寺は
「古寺屋敷」にあったようですが、天正年間(1573〜1591)の検地帳にはすでに
廃寺と記載されています。長泉寺建立時には図2の
「ゴヲハシ」付近に位置していたようです。寺野地区は元々地すべり地であったため、多少の地すべり変動はあるものの、明治19年災害以前は比較的平和で実り豊かな集落だったようです。明治19年災害直前には43軒200名が暮らしていました。
4.長者地すべりの地形発達史
図4は、長者地区の地すべり地形模式図(檜垣,1992)です。地すべり地は以下の順に形成されたと考えられます。
Ⅰ)岩屑に埋められたガリーの存在する谷地形
Ⅱ)現在のG〜H測線付近を頭とした地すべりの発生(第Ⅰ期地すべり)
Ⅲ)上部斜面にあった蛇紋岩が分断され現在のすべり面((Ⅱ)のすべり面よりやや深い)に沿う地すべり活動の開始(第Ⅱ期地すべり)
Ⅳ)第Ⅱ期地すべり東部凹地に東側サイド、西側サイドから三滝火成岩及び粘板岩地すべり土塊の侵入、堆積(サイドからの地すべり)。
Ⅴ)明治19年(1886)以降の上部斜面の滑動開始による、地すべり全体の活発化(第V期地すべり)
という過程をたどったと考えられます。
図4 長者地すべり地の斜面変遷過程(桧垣,1992)
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5.長者地すべりの地質構造
長者地すべりは図1と図6に示したように、多数の調査ボーリングや集水井、排水トンネル掘削が行われ、地質構造がかなり明らかになってきました(中村ほか,1989;檜垣,1992)。
図5は檜垣(1992)がまとめた長者地すべり地の地質縦・横断面図です。縦・横断面図の測線位置は、図5の左上の平面図に示したように、縦断面はM測線、横断面はA〜L断面です。
長者地すべりの中・下部では、粘板岩・砂岩・蛇紋岩・三滝火成岩などの崩積性の岩屑層が5〜30mの厚さで堆積しているのに対し、斜面上部のK測線付近の浅い凹地形を境に斜面上部は岩屑層の厚さが5m以下となり、風化の進んだ粘板岩・蛇紋岩からなっています。
中部斜面の頭部では、三滝火成岩の岩屑層が基盤の粘板岩を厚く覆っています。また、下部斜面のA-4ボーリング孔(D測線)やNo.4集水井(B測線)付近にも三滝火成岩の岩屑層が存在します。これらは地すべり斜面の南東外側に分布する三滝火成岩から供給されたものと考えられます。
下部斜面(A測線)のA-1、A-2孔では、埋没土壌がそれぞれ深さ4m、22〜25m付近に存在していて、その上の岩屑層が地すべり変動によって移動して来たことを示します。この下部斜面の岩屑層の礫種はボーリング孔ごとに垂直方向に比較的一様で、水平的な場所ごとに異なっています。したがって、岩屑層は土石流のような急激な運搬ではなく、地すべり変動によって移動・堆積したものと考えられます。
また、上部斜面のNo.8集水井(J測線)では、掘削中に深度23mの井壁から新鮮な埋木が見つかりました。この埋木は深さ15mの粘板岩とその下位にある粘土質マトリクスの岩屑層の境界付近にあり、
14C年代測定によると、約400年前であることが判明しました(高知県越知土木事務所・長崎工業梶C1991)。一見基岩とみられるこの粘板岩は岩盤地すべりによる移動岩塊であることが判明しました。
地中変動計測で明らかになった現在のすべり面は、上記で述べた崩積性の岩屑層の下限とは一致せず、粘板岩や蛇紋岩の強風化層及びそれらの境界付近に存在することが多いようです(中村ほか,1989)。また、No.8集水井で認められた岩盤地すべりのすべり面は現在のすべり面位置よりも浅い位置にあり、この岩盤地すべりは規模の小さな地すべり変動により移動したものと考えられます。
長者地すべり地域の斜面に存在する蛇紋岩は、すべり面にほぼ並行で15m以下の塊状や層状、あるいはレンズ状をなして狭在することが多く、平面的な分布位置は周辺斜面の蛇紋岩分布と調和していません。これは蛇紋岩が地すべり変動によって元の位置から分断され、移動して現在の堆積形態になったためと考えられます。この蛇紋岩は一般に粘土化が進み、含水比も高くなっています。
図5 長者地すべり地の測線配置平面図と地質縦・横断面図(檜垣,1992)
(桧垣(1992)では、図3,図5,図6としていますが、図5として編集しました)
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図6 長者地区地すべり防止区域平面図,拡大図)(高知県土木部砂防課,2009)<拡大表示>
図7 長者地区横断面図,①〜⑤断面(高知県土木部砂防課,2009)
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6.No.1排水トンネルの掘削と顕著な変状
私たちが長者地すべりの調査を担当した時期(1976〜79)は、竹内(1980)論文の出る前で、暗中模索のなかで、主測線(A測線)を中心に調査ボーリングを行いました(図6 長者地区地すべり防止区域平面図,拡大図参照)。図7は長者地区の地質推定断面図で、①断面、②断面、③断面、④断面(1号排水トンネル縦断面)、⑤断面を示しています。昭和50年〜51年(1975〜76)災害で地すべり変状が激しくなりました。調査ボーリング時にパイプ歪計や集水井の変形深度からすべり面の位置を推定しました。長者地区の中央部に施行されていた集水井などの変形深度を考慮して、すべり面下5mの位置に排水トンネルの標高を決めました。そして、西側の長者川付近に坑口を設定し、昭和52年度から昭和63年度(1977〜1988)まで、排水トンネルの施工を行い、ボーリング室(径4mに拡大)から集水ボーリング工を実施しました。しかし、掘削を開始すると坑口から185m〜210m間でトンネルの変状が現れ始めました。このため、高知県越知土木事務所では、180m〜226m間で径4mにトンネルの断面を拡大することになりました。
図8に示すように、排水トンネル拡幅工事中に、排水トンネルの変形状況が明らかになりました、坑口から180m〜226m間の拡幅工事とボーリング室からの拡幅工事は無事完了し、排水トンネルへの排水量も多く、変動量は少し小さくなりました。しかし、排水トンネルの変形が進んだため、反対側の坑口から掘削して排水トンネルを両方向から通行できるようにしました。
しかし、No.1号排水トンネルの変形が継続しているため、長者地すべりの中・上部斜面の排水を目的として、平成8年度から平成11年度にNo.2号排水トンネルも施工されました。
図8 長者地区1号排水トンネル拡幅工事中の変動状況(昭和57年度)(高知県土木部砂防課,2009)
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写真1 下流の橋から見た長者地すべり(降雨後,2018年9月13日井上撮影)
その後、No.3号排水トンネル工も施工されました。その結果、排水トンネルや集水井から多量の排水が可能となりました。
7.あとがき
長者地区では、昭和39年(1964)9月の台風に伴う連続雨量886mmの豪雨により、長者川の護岸工が流出し、地すべり変動が活発化しました。翌年から移動杭観測が行われていますが、当初は1.5m/年の水平移動量が認められました。その後、各種調査が行われ、地下水排除工を主体とする対策事業が実施され、地すべり活動は徐々に収束に向かいました。昭和50年代には集水井No.1〜No.7が施工され、移動量は50cm/年程度になりました。1号排水トンネルが施工された昭和63年(1988)には10cm/年、集水井No.8〜No.12施工後の平成11年(1999)には5cm/年と次第に小さくなりました。
1号排水トンネルの地すべり変状が激しくなったため、2号と3号排水トンネルが施工され、地すべり変動は沈静化していくと判断されますが、綿密な地すべり移動量観測を継続することにより、長者地区にふさわしい地すべり対策工の組み合わせを検討していく必要があると思います。
引用・参考文献一覧表
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