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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム54 昭和47年(1972)の高知県繁藤災害
 
1.はじめに
 昭和47年(1972)7月5日の豪雨によって、高知県香美市(旧土佐山田町)(しげ)(とう)、通称追廻山(おいまわしやま)の山崩れは、同日早朝の山崩れによる家屋の土砂排除などの作業中に埋没した一人の消防団員の救出中に起こった二次災害で、消防団員や一般協力者など、60名の尊い犠牲者を出しました。
 地元である土佐山田町は、役場内に一部の保安員を残して、災害対策本部に町長以下、全職員の総力を結集してこれにあたりました。 しかし、集中豪雨の被害は110.98km2の町内全域におよび、国道195号線の香我美橋の橋脚が陥没して車両等全面通行止めになるなど、全町的に災害が発生していました。 土佐山田町ではこの痛ましい二次災害を繰り返すことのないように誓い、犠牲者へのご冥福を祈りました。
 この災害は筆者が日本工営株式会社に入社して2年目の7月5日に発生した土砂災害で、新聞・テレビなどで大きく報道されたため、良く覚えています。 また、昭和50年〜54年(1975〜1979)の高知県内の現地調査時にも何度か繁藤駅付近や慰霊塔を訪れました。 本コラムでは既往の資料などを参考に、平成30年(2018)9月14日の現地調査結果を含めて、紹介したいと思います。
図1 繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木,1972)
図1 繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木,1972)

写真1 繁藤付近の立体視写真(国土地理院1975年11月1日撮影)(CSI-75-12,C17-37,38,元縮尺S=1:15,000)
写真1 繁藤付近の立体視写真(国土地理院1975年11月1日撮影)
(CSI-75-12、C17-37,38,元縮尺S=1:15,000)


 図1は繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木、1972)を示した図で、写真1は繁藤付近の立体視写真(国土地理院1975年11月1日撮影、CSI-75-12C17-37,38)です。 繁藤災害から3年後のカラー写真ですので、崩壊地形とその後に施行された治山工事の状況が良くわかります。

2.繁藤災害の概要
 土佐山田町繁藤の地は、終戦前までは「天坪村」でしたが、戦後の町村合併によって昭和30年(1955)3月31日に大豊村となりました。 昭和31年(1956)9月1日大豊村の一部(繁藤地区を含む)は、香美郡土佐山田町に編入されました。 土佐山田町は平成18年(2006)3月1日に香北町・物部村と合併して香美市となりました。 「あまつぼ」という地名については、四方を高い山で囲まれた中を穴内川が北流して凹地をなし、土地が非常に高いところにあるから、『土地が非常に高くてかつ壺のように凹地をなしたところ』と言われています。 また、当地方は昔から雨がすこぶる多いためとも言われ、天正の検地帳(太閤検知)以来、明治の初年に至るまで「雨坪」とも記されていました。
 日本国有鉄道の土讃本線は、昭和5年(1930)6月21日に土佐山田駅−角茂谷駅間が開通し、高松―高知間が繋がりました。 土讃本線は土砂災害が頻繁に起こり「土惨線」とも言われています。 繁藤駅は開通と同時に天坪駅として開業しましたが、昭和38年(1963)10月1日に繁藤駅に名称を変更しています。 繁藤駅は昭和45年(1970)10月1日に無人駅化されました。
 昭和47年(1972)7月4日から5日にかけて、温かく湿った空気「湿舌」が四国山地にぶつかったことにより、繁藤(天坪)では5日6時の1時間雨量95.5mm、24時間雨量742mm(4日9時〜5日9時)にも達する集中豪雨に見舞われました。平年の3か月分という大量の雨が降り続いたため、地盤が緩み至るところで小規模な崩壊や土石流が発生していました。
 連続雨量が600mmに達した5日6時45分に繁藤駅前の追廻山(高さ550m)の山腹が高さ20m、幅10mにわたって小崩壊し(崩壊土砂量200m3程度)、人家裏の流出土砂を除去していた消防団員1名が行方不明となりました。 早速、消防団員や町職員120名が招集され、降りしきる雨の中、重機を使用した捜索活動が行われました。 激しい雨は降り続き、連続降雨量が780mmに達した午前10時50分頃、大音響とともに幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万m3の崩壊土砂が駅周辺の民家や駅構内に流入し、駅構内に停車中だった高知発高松行の224列車(客車4両)を直撃しました。 突如発生した大崩壊による土砂は、家屋12棟と機関車1両・客車1両を一気に飲み込み、現場付近で救助活動を行っていた町職員や消防団員、周辺住民や乗務員・乗客らを巻き込み、駅背後の20m下を流れる穴内川まで流れ落ち、川を埋めつくしました。 このため、国鉄土讃本線(四国旅客鉄道(JR四国)土讃線)は、復旧までに23日を要しました(国鉄施設局土木課監修・国鉄防災100年史編纂会、1972)。
 
3.反省と教訓
 この災害の教訓から高知県の防災行政が見直されたほか、消防団員の研修内容に「現場の状況から危険を察知し避難する判断力の重視」という新たな項目が加わりました。
 また、駅から国道32号線を高松方向に数百m進んだ地点には、本災害の慰霊碑やモニュメントを設けた広場があり毎年、慰霊祭が行われています。 写真2は、平成30年9月14日に撮影した繁藤災害の慰霊碑で、列車の窓からも見ることができます。 この慰霊碑は昭和49年(1974)4月1日に建立され、高知県知事・溝渕増己の撰の碑文が刻まれています。
 繁藤災害の発生と同時に、高知県の動脈と言われる国鉄土讃本線、国道32号線は分断されました。 高知から東京・大阪に向かうには、松山(国道33号線)、または室戸岬(国道55号線)経由の大迂回路となり、復旧に至る20数日間は日常の足を奪われ、流通機構も乱れて、高知県下全般に大きな被害を与えました。
 国鉄土讃本線では、繁藤災害以来、7月28日の開通までの23日間に、特急46本、急行597本、ローカル421本、貨物403本、合計1467本の列車が運転不能となりました。 バス・トラックによる松山(国道33号線)経由の代替輸送、通勤通学者のバス連絡、旅客のキヤンセルなどの間接被害額は、2億2000万円にも達しました。 輸送ルートの延長によりハウス園芸、鮮魚の出荷物は、混雑する輸送便の確保、鮮度の低下など、農魚民に大きな打撃を与え、同時に消費物資の流通ルートの変動は、商工業者や消費者にも大きな影響を及ぼしました。 また、足摺岬の国立公園への昇格、新幹線岡山駅開業などによって、大幅な伸びが予想されていた県下の観光地は、軒並みにキャンセルが相次ぎ、特に年間100万人観光客を数える土佐山田町の「龍河洞」も予約の取り消しなど、損害額は約2000万円にのぼりました。 交通網の復旧後も、この影響はしばらく続きました。
写真2 繁藤災害の慰霊碑(2018年9月14日 井上撮影)
写真2 繁藤災害の慰霊碑(2018年9月14日 井上撮影)

写真3 繁藤駅の跨線橋からみた追廻山崩壊地の現況 (2018年9月14日 井上撮影)
写真3 繁藤駅の跨線橋からみた追廻山崩壊地の現況
(2018年9月14日 井上撮影)

 これらの経済的な損失とは別に、災害がもたらした精神的な苦痛は、遺族だけでなく町民一人ひとりに計り知れない深い痛恨として残りました。 また、献身的な救援活動や、全国から寄せられた数多くの温かいご厚情とともに、長く忘れえないものとなりました。
 繁藤の追廻山の崩壊地は、山上まで崩壊土砂は取り除かれ、完全な治山工事が行われました(高知県農林部森林土木課,1973)。 平成30年(2018)9月14日に現地を訪れ、繁藤駅の跨線橋から写真3を撮影しましたが、植生に覆われ治山工事の状況は判りませんでした。
 
引用・参考文献
高知県(1973):『繁藤山くずれの記録(付,昭和47年災害記録)』,225p.
高知県土木部砂防課(1987):『高知県の砂防,土砂災害から県民の生命と財産を守るために』,高知県土木部,123p.
高知県農林部森林土木課(1973):高知県香美郡土佐山田町繁藤(昭和47年7月集中豪雨災害),治山事業の概要),15p.
国鉄施設局土木課監修・国鉄防災100年史編纂会(1972):『鉄路の戦い―鉄道防災物語―』,山海堂,22 八波むとし,p. 121-126. ,38 災害と闘ってきた土讃線,p. 224-233.
佐々木冨泰・細谷りょういち(1993):『事故の鉄道史,―疑問への挑戦―』,日本経済評論社,261p.
佐々木冨泰・細谷りょういち(1995):『続事故の鉄道史』,日本経済評論社,299p.
栃木省二(1972):昭和47年7月4日,5日の豪雨により高知県繁藤地区に発生した地すべり性崩壊について,地すべり,9巻2号,p. 44-46.
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