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 シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く 
 コラム54 昭和47年(1972)の高知県繁藤災害
 
1.はじめに
 土佐山田町報道委員会(1973)によれば、昭和47年(1972)7月5日の豪雨によって、高知県香美市(旧土佐山田町)(しげ)(とう)通称追廻山(おいまわしやま)の山崩れは、同日早朝の山崩れによる家屋の土砂排除などの作業中に埋没した一人の消防団員の救出中に起こった二次災害で、消防団員や一般協力者など、60名の尊い犠牲者を出しました。
 地元である土佐山田町は、役場内に一部の保安員を残して、災害対策本部に野口陽美町長以下、全職員の総力を結集してこれにあたりました。しかし、集中豪雨の被害は110.98km2の町内全域におよび、国道195号線の香我美橋の橋脚が陥没して車両等全面通行止めになるなど、全町的に災害が発生していました。土佐山田町ではこの痛ましい二次災害を繰り返すことのないように誓い、犠牲者へのご冥福を祈りました。土佐山田町報道委員会は『昭和47年7月豪雨・繁藤山くずれ災害記録』を昭和48年(1973)出版しました。
 この災害は筆者が日本工営株式会社に入社して2年目の7月5日に発生した土砂災害で、新聞・テレビなどで大きく報道されたため、良く覚えています。また、昭和50年〜54年(1975〜1979)の高知県内の現地調査時にも何度か繁藤駅付近や慰霊塔を訪れました。本コラムでは既往の資料などを参考に、平成30年(2018)9月14日の現地調査結果を含めて、紹介したいと思います。
図1 繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木,1972)
図1 繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木,1972)

写真1 繁藤付近の立体カラー航空写真(国土地理院1975年11月1日撮影)<br>CSI-75-12,C17-37,38(元縮尺S=1:15,000)
写真1 繁藤付近の立体カラー航空写真(国土地理院1975年11月1日撮影)
CSI-75-12,C17-37,38(元縮尺S=1:15,000)


 図1は繁藤付近の地質図と山崩れの範囲(栃木,1972)を示した図で、写真1は繁藤付近の立体カラー航空写真(国土地理院1975年11月1日撮影,CSI-75-12,C17-37,38)です。繁藤災害から3年後のカラー写真ですので、崩壊地形とその後に施行された治山工事の状況が良く分ります。

2.繁藤災害の概要
 土佐山田町繁藤の地は、終戦前までは天坪村でしたが、戦後の町村合併によって昭和30年(1955)3月31日に大豊村となりました。昭和31年(1956)9月1日大豊村の一部(繁藤地区を含む)は、香美郡土佐山田町に編入されました。土佐山田町は平成18年(2006)3月1日に香北町・物部村と合併して香美市となりました。「あまつぼ」という地名については、四方を高い山で囲まれた中を穴内川が北流して凹地をなし、土地が非常に高いところにあるから、『土地が非常に高くてかつ壺のように凹地をなしたところ』と言われています(土佐山田町報道委員会,1973)。また、当地方は昔から雨がすこぶる多いためとも言われ、天正の検地帳(太閤検知)以来、明治の初年に至るまで「雨坪」とも記されています。
 日本国有鉄道の土讃本線は、昭和5年(1930)6月21日に土佐山田駅−角茂谷駅間が開通し、高松―高知間が繋がりました。土讃本線は土砂災害が頻繁に起こり「土惨線」とも言われています。繁藤駅は開通と同時に天坪駅として開業しましたが、昭和38年(1963)10月1日に繁藤駅に名称を変更しています。繁藤駅は昭和45年(1970)10月1日に無人駅化されました。
 昭和47年(1972)7月4日から5日にかけて、温かく湿った空気「湿舌」が四国山地にぶつかったことにより、繁藤(天坪)では5日6時の1時間雨量95.5mm、24時間雨量742mm(4日9時〜5日9時)にも達する集中豪雨に見舞われました。平年の3か月分という大量の雨が降り続いたため、地盤が緩み至る所で小規模な崩壊や土石流が発生していました。
写真2 繁藤追廻山の山くずれ現場(海上自衛隊小松島航空隊機から写した写真)(土佐山田報道委員会,1973)
写真2 繁藤追廻山の山くずれ現場(海上自衛隊小松島航空隊機から写した写真)
(土佐山田報道委員会,1973)

図5 長者地すべり地の測線配置平面図と地質縦・横断面図(檜垣,1992)
図2 繁藤地区山崩れ災害現場原形見取り図(土佐山田町報道委員会,1973)

 連続雨量が600mmに達した5日6時45分に繁藤駅前の追廻山(高さ550m)の山腹が 高さ20m、幅10mにわたって小崩壊し(崩壊土砂量200m3程度)、人家裏の流出土砂を除去していた消防団員1名が行方不明となりました。早速、消防団員や町職員120名が招集され、降りしきる雨の中、重機を使用した捜索活動が行われました。激しい雨は降り続き、連続降雨量が780mmに達した午前10時50分頃、大音響とともに幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万m3の崩壊土砂が駅周辺の民家や駅構内に流入し、駅構内に停車中だった高知発高松行の224列車(客車4両)を直撃しました。突如発生した大崩壊による土砂は、家屋12棟と機関車1両・客車1両を一気に飲み込み、現場付近で救助活動を行っていた町職員や消防団員、周辺住民や乗務員・乗客らを巻き込み、駅背後の20m下を流れる穴内川まで流れ落ち、川を埋め尽くしました。このため、国鉄土讃本線(四国旅客鉄道(JR四国)土讃線)は、復旧までに23日を要しました。

3.豪雨と土砂災害の経緯(土佐山田町報道委員会(1973)をもとに編集)
昭和47年(1972)7月4日(火)
15時00分:繁藤白川武男氏(町議)より、町役場企画課防災係に「繁藤地区の降雨が激しく、谷川の水が非常に増水しているので見に来てほしい」との電話連絡があった。武内防災係長は直ちに町消防署に通報した。
15時30分:野口消防署次長、田中消防士および武内防災係長は出発。16時、繁藤に到着。
16時00分:この時点では雨はやんでおり、谷川の水も減水中だったので、野口次長は小野寺繁藤分団長宅により、「今後の降雨状況によく注意して、地区の警戒を十分にするよう」指示して帰署した。大雨・雷警報発令(高知地方気象台)。
17時00分:町役場に災害対策本部設置。近森福祉係長ほか4名、第一号配備につく。
19時00分:繁藤地区より今のところ被害なし――との報告あり。
19時30分:降雨がはげしくなったため、小野寺繁藤分団長は、分団員25名を非常招集。地区の巡視警戒にあたった。
20時30分:土佐国道事務所では注意体制2種発動。
21時00分:北組西、植野地区の住民から消防署に「裏山からの水の流出が激しく危険だから、見に来てほしい」との電話あり、吉川隊長以下10名と、岡本企画課長らが出勤、土のうを構築して水路をつくり、土生川に落とす作業を行った。
21時30分:高知気象台から大雨情報第1号。「今日、昼過ぎから降り始めたにわか雨は、主として高知市付近と、嶺北地区のごく限られた地域で降っています。21時までの総雨量は、高知125mm天坪327mm、津賀31mm、西豊永134mm、成山34mm、上魚簗瀬64mm、平石42mmとなっています。室戸岬レーダーによると、高知市付近から嶺北地区にかけて、厚い雨雲が観測されており、この方面ではさらに強いにわか雨が断続して降り、山くずれ・崖くずれ、低い土地では浸水のおそれがありますから注意して下さい。」
図3 7月4・5日の天坪地点の時間雨量(土佐山田町報道委員会,1973)
図3 7月4・5日の天坪地点の時間雨量(土佐山田町報道委員会,1973)

21時45分:大雨警報・洪水、雷注意報発令(高知地方気象台)「梅雨前線の活動が活発になっており、雷を伴った強いにわか雨が続いています。すでに局地的に300mmを越えた所もあり、今後さらに100〜200mmの雨が降る所があります。―-充分警戒して下さい。」
23時00分:北組西の土のう構築作業を終えて消防署へもどる。
23時30分:繁藤より「降雨減少のため、一応非常警戒を中断し、自宅待機とした」との状況が消防本部にあった。
昭和47年(1972)7月5日(水)
3時00分:大雨警報、洪水、雷雨注意報解除(高知地方気象台)
5時50分:大雨、雷雨、洪水注意報発令(高知地方気象台)
6時00分:4時59分高知駅発高松行き上り国鉄快速列車(224列車・4両編成)が繁藤駅に6時00分定時到着した。乗客は一人もなかった。発車予定は6時16分であった。同時刻、繁藤検査班の警報ベルが鳴動したため、国鉄では同列車を抑止した。
第1回目の山崩れ
6時00分:繁藤郵便局から「駅前の伊藤方の裏山がくずれ、土砂が家に流入して危険である。すぐに来てくれ」と、小野寺繁藤分団長宅に通報があり、分団長は直ちに分団員を非常招集した。
6時12分:小野寺分団長は消防本部に応援を要請した。連絡を受けた土佐山田町消防署、 土佐山田町消防団本部では、野口消防署次長、当直隊長以下7名、浅井消防団長および武内防災係長らが繁藤に向けて出発した(途中、根曳峠付近で、「繁藤地区の山崩れで生埋め」情報を消防署からの無線連絡で受信した)。
6時15分:第二配備発令。小野寺分団長は、本部に連絡後雨がはげしいので有線放送で、団員招集の依頼をするとともに、屯所でサイレンを鳴らす。かけつけた山本班長、吉川団員および途中乗車の中西副団長の4名で、現場に急行した。都筑消防長の命令を受けた中西副団長は、繁藤地区における消防活動の総指揮をとった。
 小野寺分団長は現場到着後、中西副団長の指示により、山本班長ら3名の団員で危険区域内の住民に対し、繁藤駅付近に避難するよう、口頭で勧告する。また、中西副団長は川合団員を連れて現場裏山の崩壊箇所の調査を行う。小野寺分団長も、吉川班長に命じ、重ねて裏山の警戒にあたらせた。吉川班長は岡部食堂の西側を登って巡視警戒した。
 作業は、特に危険が予想される近藤徳一さんの裏側で、流出した土砂の取り除き、および排水作業を実施した。土砂取り除き作業中、繁藤私設消防団の西岡・岡林の2名が到着し、作業に加わる。現場の応急措置を終り、国道に待避した。
6時20分:高松行列車は発車時間が来たが信号機が下りず、616分から第三次態勢となっているので出発を見合わせる」とのセンター指令を受け、約2時間おきにエアーを作るためにエンジンをかけたりして、待機していた。
6時30分:駅にいた国鉄管理助役は、消防団から避難するように勧告を受けた。いったん駅上屋の広い場所に避難したが、雨が降って来たので客車の中に入った(国鉄)。
第2回目の山くずれ 第一次災害発生(消防団員が生埋めに)
6時45分:突然、高さ20m、幅10mにわたる山くずれがおこり、近藤さん宅は半壊となる。臼杵団員の奥さんが近藤さん宅から飛び出して来て、避難作業を手伝っていた同団員が生埋めとなったことを知らせる。この時、避難準備中の近藤徳一さんの妻公子さん、長女正美さん、長男広樹さんは、倒壊しかけた同家に閉じ込められ、救出を求める声を聞き、山本班長ほか2名の団員がガラス戸を壊して3人を無事救出した。この時、特に雨が激しくなり、流出する土砂も多く、臼杵団員の救出作業はできなかった。
 中西副団長は現場の状況から判断して、二重遭難にならぬよう小野寺分団長にたびたび注意し、すぐに臼杵団員の救出作業に着手せず、警戒にあたった。
6時48分:中西副団長は臼杵団員が生埋めとなったので、救出のための消防署に全団員を要請した。同時に繁藤分団員および地元住民の協力を得て、救出作業に全力を注いだ。雨が激しく降り、3度目の山くずれがおこり、救出作業は進まなかった。一方、近藤さんの家屋の傾斜がはなはだしく、倒壊の恐れがあるので、支柱を加えるなどの作業を行い、7時30分頃この作業を終了した。
第3回目の山くずれ
6時50分:中西副団長の要請を受けた岡林消防署長は、町南部の災害を考慮して山田、片地の2分団を残すこととし、6時50分有線放送により佐岡、楠目、明治、岩村、植、新改の各分団に出動を命じた。中西副団長は国道32号線が各所で山くずれがあり、通行不能の現状から、救援消防団の到着に時間がかかるものと判断し、繁藤地区私設消防団(団長西岡統一)に協力を要請した。また、有線放送や消防団から聞いて駆けつけて来た人たちに作業内容を説明し、土砂の取り除き、家財の搬出・避難作業などに従事するように指示した。大二製材所からも中西副団長に協力を申し出た。中西副団長はこれを受けた。
写真3 7月5日朝、生き埋めになった消防団員の救出現場(土佐山田町報道委員会,1973)(ショベルカーの奥の山ぎわに消防団員は埋まっている、この後、大崩壊が発生した)
写真3 7月5日朝、生き埋めになった消防団員の救出現場(土佐山田町報道委員会,1973)
(ショベルカーの奥の山ぎわに消防団員は埋まっている、この後、大崩壊が発生した)

7時00分:山田警察署は繁藤駐在所よりの連絡で松田次長ら署員5名を先発させた。
7時10分:第三配備・町災害対策本部設置
7時15分:大二製材所から社員・工員14名が、クワ・スコップ、家屋倒壊を防ぐ木材、製材をもって現場に到着。中西副団長の指揮のもとに作業を行った。繁藤駅構内は1番線高知よりと貨物線は浸水していた(国鉄)。大雨・洪水警報、雷雨注意報発令
7時30分:岡本企画課長ほか5名、繁藤へ出発。支柱による家屋の補強作業を終了した。
野口署次長ら一行が現場に到着。現場は雨が激しく、再崩壊の恐れがあるとして作業を中断していた。中西副団長は山田方面から消防団員が到着したので、一般住民は危険だから消防団員に作業をまかせるよう注意した。現場に到着した浅井団長は、この救出作業については崩土が多く、このままでは長時間を要し、また作業員に危険をおよぼす恐れがあると判断して、近藤さんの家屋を取り壊すこととし、所有者の阿部智枝さんに野口次長を連絡にいかせたが、連絡の取れないうちに来合わせていた同人の承諾を得て9時頃、雨の状況をみて、斎藤分団、地元協力者の応援消防分団などと家屋の取り壊しを開始した。
7時50分:応援の分団が逐次、現場に到着し作業を始めたので、浅井団長は現場の管理、警戒のため、吉川副団長、三木本部分団長、吉川消防士長の3名に現場管理と警戒監視を命じた。吉川消防士長は電柱あるいは塀などにあがり、臼杵団員救出作業を、三木本部分団長は国道東方上を、吉川副団長は国道西方上をそれぞれ警戒監視した。浅井団長は団員とともに、付近住民に避難勧告を行った。また、佐岡分団の五百蔵副分団長も避難勧告を行った。
7時55分:山田警察署長ら12名到着、交通整理、避難誘導にあたる。
8時00分:駅前で乗務員の食事(パン)を手配した。この時待合室の高知行きの高校生4名と一般乗客3名がいたので、「バス代行は不能」の旨をつげると全員帰った(国鉄・管理助役)。
繁藤支所に現地本部設置(土佐山田町役場)。第4号配備につき、都筑助役ほか3名繁藤へ出発。調査班9名も出発。浅井団長、中西副団長は崩土の除去作業について、このまま続行することは多くの時間を要し、かつ作業員に危険をおよぼす恐れがあると判断し、近藤徳一方の家屋を取り壊す事とした。
8時30分:土佐国道事務所では警戒体制にはいる。
9時00分:消防本部から、豪雨により町南部一帯、物部川流域が氾濫して危険であるので、分団の一部移動の必要ありと指示があった。このため、浅井団長は9時に明治分団を、9時30分に岩村・植・楠目分団を町南部に移動させた。浅井団長は楠目分団とともに移動した。
9時15分:現地より雨量状態が小康状態にありと連絡あり。植・上田地区一帯が冠水のため通行止めとなる。
9時30分:県警察本部ではとりあえず先発部隊として、機動隊安藤警部以下5名と、移動交番車1台を現地へ出動。通信部から機動隊通信班も派遣した(途中の山くずれなどのため到着がやや遅れ、第二次災害発生直後の午前11時頃現地に到着)。雨の状況をみて地元分団、協力者および応援団などと家財の搬出、家屋の取り壊しを開始した。なお、この作業に繁藤の大二製材所などから廃材土砂などの運搬用としてトラック2台の提供を受けた。 
9時40分:駅では再度、客車を巡回したところが、1両目客車に高校生3名が乗車していたので、「車は動かないから帰るよう」助役は告げた(国鉄)。
9時45分:高知気象台から大雨情報第2号「特に中部から北東部の山沿い地方では厳重に警戒して下さい。今朝9時までの各地の雨量は次のとおりです。天坪741mm、槇山341mm、上魚簗瀬257mm、高知240mm、江川崎116mm、永瀬302mm、別府598mm、和久保459mm、平石72mm
10時頃:これまで崩土の除去作業を実施したが、人力ではなかなか進まないので、中西副団長は現場から西方1kmの地点の国道修理のために来ていた香川建設のショベルカー1台に作業を要請した。このため、ショベルカーにより土砂を国道上まで移し、国道上においてトラックへの積込作業および近藤徳一方と伊藤重子方との間からの土砂の除去作業を消防団および協力者が交替で実施した。
10時30分:土砂の除去作業中は、他の作業員は国道のガードレール寄りに退避させ、待機と見張りをさせた。また、一般住民も退避させた。ショベルカーの運搬車が国道のセンターライン上に駐車していたので、宮崎駐在巡査の指示で香川建設作業員(福永氏)が支所付近まで後退させた。また、同巡査はショベルカーの作業中、国道上に停車中の自動車を20〜30台位、高知側から高松方面に通行させた。
 新改川入野で2名が濁流に呑まれ、行方不明になったと連絡があった。吉川副団長は新改分団を同方面における捜索をさせるため移動を命じた。現場の指揮は南部に移動した浅井団長のあと、吉川副団長と中西副団長があたった。横畠山田警察署長らも、新改川の事件発生で、署員10名を残して南下転進した。
 中西・吉川両副団長は、これまでの経過から臼杵団員はすでに死亡しているものと判断したと思われる。救出後における遺体の処置について、野口署次長をして町当局と協議するように指示した。野口署次長は繁藤支所にいた岡本企画課長と協議したが、棺が火葬用か土葬用か不明のため、小野寺分団長は吉川消防警察隊長に「棺の形式を確かめるよう」無線で連絡した。分団長は一存で決定できないので、家族に問い合わせるため現場を離れ臼杵宅へ向かった。駅前の委託販売店の前田さんが乗務員の昼食を届けてくれたので、乗務員に渡した(国鉄助役)。
10時40分:国道が開通し、車が通りだしたので高知駅へ連絡した(国鉄)。
10時50分:ショベルカーの香川建設運転手は、降雨がはげしく崩土が流れ、作業が困難となり、危険を感じて作業を中止し、坂本店前まで後退した(臼杵団員の着衣が見えかけていたので、あとは手作業に移るほかはないと判断したためである)。
第4回目の山くずれ
10時54分:国道上で待機見張中の消防団員および協力者も、崩土が流れ出してきたので、東西に数十mそれぞれ退避したその直後、現場東側で高さ10m、幅25m位の山くずれが起こり、徳岡勇さんの家とほか1棟が被害を受けた。
第5回目の山くずれ
10時55分頃:退避していた消防団員と協力者は、お互いに注意しながらさらに、現場より遠くに避難待機したが、予想もしなかった大崩れが生じた。約10万m3の土砂が一瞬のうちに、地軸をゆるがすような響きとともに、駅前付近の集落を押し流して、約60人が行方不明となった。また、崩壊土砂のため国道32号と国鉄土讃線が埋没し不通となった。
写真4 駅構内に停車していた機関車は穴内川を飛んで向い側の山にぶつかってスクラップ化 今さらながら山くずれのすざまじさを知る(土佐山田町報道委員会,1973)
写真4 駅構内に停車していた機関車は穴内川を飛んで向い側の山にぶつかってスクラップ化
今さらながら山くずれのすざまじさを知る(土佐山田町報道委員会,1973)

10時55分:町役場に岡本企画課長から繁藤現場で大規模な崩壊あり、救助作業隊員など60〜80名生埋めとなる。「自衛隊の出動要請せよ」との第一報入る。
救援・捜索活動 自衛隊の出動を要請・県が現地に災害対策本部・
災害救助法発令さる・下流町村に捜索依頼
10時56分:新改の2名は、1名は自力であがったが、負傷のため香長小学校まで救急車の派遣手配する(消防署)
11時00分:土佐山田町は県に5回目の崩壊による二次災害の発生を急報する。
11時03分:南国土木事務所へ重機の手配を依頼する。
11時10分:県警察は災害対策本部を設置する。
11時25分:県は陸上自衛隊善通寺駐屯地司令に対し、災害派遣を要請する。
11時30分:土佐山田町は繁藤支所に現場災害対策本部を設置する。毛布と医者の手配を開始、炊き出しを天理教会で開始するように手配する。本山署を経由し、大豊町に応援依頼。同時に現場東側へ大石同対策室長を責任者として3名派遣。南国土木から重機2台、車両10台現場へ到着。
11時34分:新改消防団を再び繁藤へ出動命令。
11時38分:県の東京事務所、田村良平事務所に電話連絡。
11時54分:町医師団(宇賀・佐野・坂本医師と看護婦1人)を派遣。
12時00分:①災害救助法発動さる。A県は災害対策本部会議を開催し、現地対策本部の設置を決定する。
12時11分:高知市の救急車来庁。現場へ急行さす。
12時15分:国道32号線通行止めに伴う広域交通規制を開始する(県警)。
12時20分:保険所長から連絡。土居所長以下保健婦が現場に出動。
12時30分:①県は繁藤山くずれ現地対策本部を土佐山田町繁藤支所内に設置し、関係機関との情報収集の救援活動を開始する。②県警察は現地警察本部を設置。③国鉄は現地対策本部を設置。④警察繁藤駐在、宮崎巡査重傷で救出される。
12時43分:県機動隊現地に到着、救急作業を開始。
12時45分:無線電話3回線(電報電話局)設置。繁藤支所3回線、夜は無線・天理教会1回線、支所2回線となる。日赤救護班2班、県立中央病院1班、知事ら現場へ出発。
12時50分:土佐山田町役場職員、甲藤栄一さん、救出され入院。
13時00分:列車内にいた西村和彦さん、軽傷。土佐山田町々議会は全議員を招集して現地に出動する。第1回県現地災害対策本部会議開催。組織、救助作業の業務分担など決める。
◎本部長−溝淵知事、副本部長−福島副知事
 各機関責任者 警察=山崎警備部長、曳田交通部長、土佐山田長=都筑助役
      県=斉木総務部長、黒瀬土木部長、国鉄=野原施設部長、自衛隊=織田二佐
      建設省=四国地建局長、土佐国道神田所長、同片山道路部長
13時01分:棺40個を手配する。
13時20分:県警本部発表(12時現在の行方不明者)
地元40名・消防18名(うち1名救助)・国鉄業務員1名
遺体安置所を繁藤小学校に 現地対策本部長に溝淵県知事
13時56分:自衛隊、岸本駐屯隊到着、救助作業開始。
13時58分:山くずれによる家屋被害。全壊・流出 7戸(このうち倉庫1棟)
14時00分:12時に繁藤山くずれ被害に対し、災害救助法が適用される。
14時20分:遺体安置所を繁藤小学校講堂に決定。
14時25分:自衛隊から土砂捨て場について電話連絡。四電用地その他手配。
14時35分:日赤など現場到着。
15時12分:新改・休場で約20m決壊。地元消防団50名出動中。
15時20分:自衛隊善通寺部隊現場に到着。大雨警報解除
16時30分:大雨注意報発令。災害現場には、町消防団、県警察機動隊、陸上自衛隊、国鉄、建設業者、医療班などが次々に救援にかけつけ、ショベルカー、ブルドーザー、クレーン、ダンプなど機械力も投入して、土砂の取り除き、行方不明者捜索作業が続けられたが、あまりにも大きな災害と雨のため、懸命な活動にもかかわらず、救出作業は難航した。
 一方行方不明者については、生存確認者、新たな家族からの不明届、遺体収容、死亡確認などがあり、数値は変動している。これらのため、土佐山田町は、総力をあげて事態処理に対応している。
21時40分:吉川村より漁業組合長 漁網1丈物、50m物を貸してくれる(本部まで持って行ってくれる)。
図4 崩壊箇所断面図(土佐山田町報道委員会,1973)
図4 崩壊箇所断面図(土佐山田町報道委員会,1973)

4.その後の遺体捜索と復旧対策工事
 その後も様々な遺体の捜索活動と災害復興事業が実施されました。
昭和47年(1972)7月6日(木)
徹夜で遺体捜索活動が続けられた。
0時50分:国道上の土砂取り除き作業は、上層に亀裂あり、雨のため作業中止。
▼1時現在8遺体収容(確認5体、未確認3遺体)
2時45分:大雨警報、洪水注意報発令。大雨となり、県警の指示で全作業中止。
3時:避難命令、亀裂増え、各所に水が滝の如く落ち、危険状態。
5時:作業再開。繁藤小中学校、片地小学校、鏡野中学校休校。保育園も全園休園とする。水道課飲料水を配る。吉川村より捜索用漁網届く。岩崎議長、臨時議会招集。潜水夫2名捜索。町は下流に網を張る。県対策本部会議で行方不明者の救出を第一とすること再確認。
▼20時20分現在16遺体収容(身元確認8体)
22時16分:作業中止(上層部の亀裂広がる)。小雨であるが、終日断続的に降る。
東京に出張中の野口町長は連絡を受け急遽帰町、現地で指揮をとる。
昭和47年(1972)7月7日(金)
  現地の空は灰色の雲どんよりと覆うも雨は止んでいる。証明設備完備する。遺体を傷つけぬよう手掘り作業。下流約500mまでゴムボートなどで捜索。香川県より機動隊到着。役場と現場間にマイクロバス運行始まる。繁藤災害遺族会が結成される。吉野川河口は徳島県が担当。ダイバーによる潜水捜索。落石警報ベル装置。山側に出水あり。ガス発生。線路上の作業を除き、危険防止のため夜間作業中止。国道32号線は作業用車両が通行できる臨時道をつくる。自民党、社会党、国会議員団が現地調査に来る。
▼遺体収容25体(確認25体)
昭和47年(1972)7月8日(土)
 マイクロバス運行が香我美橋−繁藤支所など4コースでピストン輸送。郡福祉事務所が繁藤小学校(遺体安置所)に被災者生活相談所を開設。徳島県山城町より河川捜索協力申し入れあり。木村建設大臣(国家公安委員長)、田村良平次官が視察、遺族見舞い。現場隣接2戸に避難命令(避難戸数は累計8戸)。時々激しい雨降る。共産党の議員団が現地調査。
▼遺体収容32体(確認29体)
昭和47年(1972)7月9日(日)
8時30分:行方不明者のうち、最年少の伊藤和正ちゃん(満1歳7ヵ月)の遺体見つかる。泥にまみれていたが。遺体はほとんど損傷がなかった。日曜市組合が現地の住民に生鮮食料品、農産物、日用品など販売奉仕。
▼遺体収容35体(確認32体
昭和47年(1972)7月10日(月)
 通勤、通学輸送は本朝より、町と警察の手配で、マイクロバス2台で輸送開始。衆・参両院議員団が現地視察。現場付近の山を調査する。山の西側危険個所にも警報器をとりつける。
19時03分:雨多く警戒警報発令。作業中止避難。
23時50分:大雨、雷雨、波浪注意報発令。
▼遺体収容36体(確認35体)
昭和47年(1972)7月11日(火)
0時30分:5日以来最も激しい雨となる。町対策本部では、現場東側地区民16世帯57人の避難命令を出す。県警パトカー誘導で大豊町役場へ。
8時30分:領石の交通規制を解除、繁藤橋までとする。
9時:増水によるドロ水でダイバー不能。
17時30分:現場上方の山腹から湧出していた水が突然止まる。避難のサイレンで全員作業中止。18時頃にも作業を一時中止した。
▼遺体収容38体(確認36体) 穴内川対岸からは一体のみである。
昭和47年(1972)7月12日(水)
2時30分:現地に退避命令。
5時10分:大雨、波浪注意報発令。
9時:大雨注意報。
10時19分:大雨のため、作業中止。
12時40分:穴内川ダムより最高30t/s放水の連絡。河川捜索中の重機など建設機材を退避さす。住民の避難命令。東側は大豊町中央公民館(17世帯45人)、駅前は天理教会(9世帯23人)へ避難した。
13時50分:大雨警報「高知県は大雨の降りやすい状況。特に高知市西方から繁藤付近は、強い雨雲が停滞していますので、山くずれ、崖くずれに充分注意されたい。」
14時40分:天理教会の背後の山に亀裂できる。この対策としてビニールで幅30m、長さ50mを手配。繁藤小学校対岸の3世帯20名に避難命令。穴内ダムより放水続く。繁藤橋下流住民に警察から避難勧告。
15時30分:本山署員らによる下流捜索を中止。
19時40分:繁藤中学校の上り口に亀裂ありと連絡あり。
20時40分:穴内ダムの放水続く。累計雨量(4時〜20時40分)216mmとなる。
24時:累計雨量(4時〜24時)226mmとなる。天理教会における炊き出しは本日で終了。13日から高知市よりポリパック入りの給食となる。
昭和47年(1972)7月13日(木)
 朝、雨が小降りとなり捜索活動を8時30分再開。山腹の崩壊箇所の湧き水止まる。22時47分作業中止。消防団員は遺体捜索のため、川の流れを変える土のうを約9000袋作った。建設省は国道沿いに防護柵の打ち込み工事開始。自衛隊は対岸の通行迂回路用の架橋作業。住民の避難命令は解除されたが、18時、25名が大豊町に出発した。
▼遺体収容38体(確認38体)
昭和47年(1972)7月14日(金)
 めずらしく曇り後晴れとなる。11時50分、大雨注意報が解除される。水量の減少した穴内川には十数台のブルドーザーが作業。20時50分、川岸で1遺体を発見、つづいてすぐ近くで2遺体が発見された。遺族による身元確認作業が終日、繁藤小学校(6人)で行われた。
昭和47年(1972)7月15日(土)
 天気は晴天。心配された台風6号も四国地方をそれた。徹夜の捜索活動が続き、駅陸橋下の穴内川一帯を中心に作業。建設省は国道上に遺体がないことを確認してもらい、国道32号線の復旧にピッチをあげる。
11時40分:塩見厚生大臣が現場視察に到着。遺族を弔慰する。
▼遺体収容48体(確認45体) 血液型や指紋による照合、確認は日が経つにてれて困難となった。
昭和47年(1972)7月16日(日)
 曇り後晴れ。国道復旧工事は路肩と線路の間に鋼矢板の打ち込み作業開始。通勤、通学生らにバス連絡(国鉄は大杉・土佐山田間で折り返し運転)のため、南岸の林道を利用して徒歩迂回路を新設した(1800m)。
▼遺体収容57体(確認53体)
昭和47年(1972)7月17日(火)
 曇り時々小雨。河床の巨岩を爆破する。連日約1000人が捜索作業にあたる。未確認4遺体のうち、1遺体は家族らによりほぼ確認されているが、残る3遺体は困難。
 本日は遺体収容なし。
昭和47年(1972)7月18日(水)
 雨のち晴れ、懸命の捜索作業が続く。国鉄は遺族会の了解を得て、擁壁(国道との間)に着工する。くずれた河床のコンクリート擁壁の爆破作業も行う。
 この日も収容遺体なし。
昭和47年(1972)7月19日(木)
11時20分:台風7号接近の気象情報あり。強風。波浪注意報。にわか雨あり。現地対策本部会議において、19日12時55分現在の犠牲者収容数を次のように訂正する。
▼遺体収容56体(確認54体)、行方不明4体。
県警本部では、地元に対象者のいない確認不能の一遺体(遺体番号55号)について、全国の県警に特徴などを手配した。
昭和47年(1972)7月20日(金)
 曇り時々雨。自衛隊、県警、消防団など約700人が、穴内川一帯を中心に捜索活動。国道わきの防護柵は完成。建設省は国道復旧の擁壁工事を始めた。
▼犠牲者総数60人、身元確認56体、身元未確認1体。
昭和47年(1972)7月21日(土)
 台風9号の影響で黒雲広がる。22日の河川捜索に備え、にごった水を澄ます目的でダムから毎秒20〜40t/sの放水始める。このため、全面的に作業を翌朝9時まで中止する。消防団は増水による遺体流出防止用の金網を監視する。国鉄、建設省、県森林土木課は復旧工事。
▼11時35分と15時25分に遺体の一部が発見された。15時52分、穴内ダムのダムゲートを締め、放流を中止する。
昭和47年(1972)7月22日(日)
 各機関、全総力をあげて一斉河川捜索の作業を9時00分開始する。水はささ濁りである。穴内川から吉野川までの延べ22kmに、ダイバー67人を中心に900人が参加した。午前中は渕周辺を、午後は浅瀬と、機関、団体ごとに定められた区域を絨毯作戦で行われた。
 水中の泥を沈めるために、機動隊はボートでミョウバンを散布するなど苦心した。しかし、遺体の一部が見つかったのみで、主な捜索地域の捜索はほぼ終了した。事故発生以来、活躍された自衛隊が引き上げた。
▼遺体の状況は次の通り。
◎遺体収容・・・57体  ◎未確認・・・1体(地元で全く手がかりのない男子)
◎身元確認・・・56体  ◎行方不明・・・3体(松岡茂、入交信芳、出間滋浩の3人)
昭和47年(1972)7月23日(月)
 台風9号来襲。追廻山の現場に、台風の余波を思わせる強い雨がたびたび降った。台風のため、現場の作業は中止した。県現地対策本部は、崩れた土砂の大部分の取り除きが終わったことなどの状況を判断し、この日から動員数を縮小した。そして、長期捜索体制に切り替え、国道、鉄道、河川の復旧作業を兼ねて行うことを決め、遺族の了解を求めた。残る遺体の捜索は河川の再捜索などに努め、下流の網は当分設置したままとし、消防団員を配置監視する。
昭和47年(1972)7月24日(火)
 遺族の要望により、国鉄構内をユンボ2台により遺体捜索を行う。19日に収容されていた遺体の一部は、出間滋浩さんの遺体であると遺族が確認した。県警は、遺体安置所における遺体などの鑑識、確認、引き渡しなどの作業を終了した。
昭和47年(1972)7月25日(水)
 消防団と国鉄は河川の遺体を再捜索した。
昭和47年(1972)7月26日(木)
7時00分:国道32号線が開通した。
昭和47年(1972)7月28日(金)
6時00分:土讃本線が開通した。
昭和47年(1972)8月01日(火)
 松岡さんの遺体確認。遺体の一部により遺族が確認する。
昭和47年(1972)8月03日(木)
 土佐山田町では、地元の人や消防団員、県、大豊町、国鉄、町議会議員、町役場職員など300人を総動員し、2つのグループにわかれ、再度大規模な穴内川流域の遺体捜索を9時30分より16時まで行った。遺体は発見できなかった。
 Aグループ=県、国鉄、町関係=穴内川の繁藤から大杉まで10km。
 Bグループ=大豊町消防団、嶺北漁協=穴内川の大杉から吉野川合流点まで7km。
昭和47年(1972)8月21日(月)
 土佐山田町は最後の河川遺体捜索を国鉄と共に行ったが、遺体を発見できなかった。区間は繁藤現場から大杉まで、9時〜16時。国鉄が140名、土佐山田町は町職員49名の合計189名が参加した。
▼遺体収容59体(身元確認58体、未確認1体、この1体は地元で身元不明)
行方不明者1人(国鉄職員、入交信芳さん)
昭和48年(1973)2月19日
 11時50分、行方不明の最後の1人、入交信芳さんの遺体発見さる。国鉄繁藤駅の下流200mのところで、護岸工事中に右手の白骨を見つけ、着衣などから国鉄職員の入交さんであるとを確認した。最後の1人も下流で発見。
▼これにより、犠牲者総数60人、遺体収容60体となった。(推定年齢20〜30歳、男子の未確認遺体1体は、町内予岳寺で引き取り人を待っている)

5.反省と教訓
 繁藤災害は、最初の小崩壊によって生き埋めになった消防団員の捜索、救出活動を行っている最中に起こった「二次災害」といえるものです。その後、死亡した私設消防団及び一般住民らの遺族7名が国及び高知県に対し、総額900万円の賞じゅつ金ないし特別ほう賞金の支払いを、県及び土佐山田町に対し、国家賠償法一条に基づき、総額4727万円のぼる損害賠償を求めたものでした(山口・増山,1983)。訴訟では、「怠慢による不作為」という行政の責任が問われることとなりました。災害発生当時、降り続く雨によって災害現場の地盤が非常に不安定であり、なおかつ落石等で頻繁に救出作業が中断されていたという当時の現場状況において、作業に従事していた消防団員が大規模崩壊を予測できたか否か、自然災害における行政の責任を問う全国初の裁判となりました。
 昭和57年(1982)10月28日の高知地方裁判所の判決では、「消防団幹部が崩壊の予兆を見逃す『不法行為』をし、そのために大勢の死者が出た人災」と判決され、原告が勝訴しました。しかし、控訴審の高松高裁では一転して、「予測不可能な天災」と判決された後、19年後の平成3年(1991)9月に最高裁で和解が成立しました。
 この災害の教訓から高知県の防災行政が見直されたほか、消防団員の研修内容に「現場の状況から危険を察知し避難する判断力の重視」という新たな項目が加わりました。
写真5 繁藤災害の慰霊碑(2018年9月14日井上撮影)
写真5 繁藤災害の慰霊碑(2018年9月14日井上撮影)

 また、駅から国道32号線を高松方向に数百m進んだ地点には、本災害の慰霊碑やモニュメントを設けた広場があり毎年、慰霊祭が行われています。写真5は平成30年9月14日に撮影した繁藤災害の慰霊碑で、列車の窓からも見ることができます。この慰霊碑は昭和49年(1974)4月1日に建立され、高知県知事・溝渕増己の撰の碑文が刻まれています。
 土佐山田町報道委員会(1973)によれば、繁藤災害の発生と同時に、高知県の動脈と言われる国鉄土讃本線、国道32号線は分断されました。高知から東京・大阪に向かうには、松山(国道33号線)、または室戸岬(国道55号線)経由の大迂回路となり、復旧に至る20数日間は日常の足を奪われ、流通機構も乱れて、高知県下全般に大きな被害を与えました。
写真6 山上まで削り取り完全な治山工事が行われた追廻山の崩壊地(土佐山田町報道委員会,1973)
写真6 山上まで削り取り完全な治山工事が行われた追廻山の崩壊地(土佐山田町報道委員会,1973)

写真7 繁藤駅の跨線橋からみた追廻山崩壊地の現況(2018年9月14日,井上撮影)
写真7 繁藤駅の跨線橋からみた追廻山崩壊地の現況(2018年9月14日,井上撮影)

 国鉄土讃本線では、繁藤災害以来、7月28日の開通までの23日間に、特急46本、急行597本、ローカル421本、貨物403本、合計1467本の列車が運転不能となりました。バス・トラックによる松山(国道33号線)経由の代替輸送、通勤通学者のバス連絡、旅客のキャンセルなどの間接被害額は、2億2000万円にも達しました。輸送ルートの延長によりハウス園芸、鮮魚の出荷物は、混雑する輸送便の確保、鮮度の低下など、農魚民に大きな打撃を与え、同時に消費物資の流通ルートの変動は、商工業者や消費者にも大きな影響を及ぼしました。また、足摺岬の国立公園への昇格、新幹線岡山駅開業などによって、大幅な伸びが予想されていた県下の観光地は、軒並みにキャンセルが相次ぎ、特に年間100万人観光客を数える土佐山田町の「龍河洞」も予約の取り消しなど、損害額は約2000万円にのぼりました。交通網の復旧後も、この影響はしばらく続きました。
 これらの経済的な損失とは別に、災害がもたらした精神的な苦痛は、遺族だけでなく町民一人ひとりに計り知れない深い痛恨として残りました。また、献身的な救援活動や、全国から寄せられた数多くの温かいご厚情とともに、長く忘れえないものとなりました。
 繁藤の追廻山の崩壊地は、写真6に示したように山上まで崩壊土砂は取り除かれ、完全な治山工事が行われました。平成30年(2018)9月14日に現地を訪れ、繁藤駅の跨線橋から追廻山を写真撮影(写真7)しましたが、植生に覆われ治山工事の状況は判りませんでした。
 
引用・参考文献一覧表
高知県(1973):繁藤山くずれの記録(付、昭和47年災害記録),225p.
高知県土木部砂防課(1987):高知県の砂防,土砂災害から県民の生命と財産を守るために,高知県土木部,123p.
国鉄施設局土木課監修・国鉄防災100年史編纂会(1972):鉄路の戦い―鉄道防災物語―,山海堂,
22 八波むとし,p.121-126.
38 災害と闘ってきた土讃線,p.224-233.
佐々木冨泰・細谷りょういち(1993):事故の鉄道史,―疑問への挑戦―,日本経済評論社,261p.
佐々木冨泰・細谷りょういち(1995):続事故の鉄道史,日本経済評論社,299p.
土佐山田町報道委員会(1973):昭和47年7月豪雨・繁藤山崩れ災害記録,土佐山田町,104p.
栃木省二(1972):昭和47年4日,5日の豪雨により高知県繁藤地区に発生した地すべり性崩壊について,地すべり,9巻2号,p.44-46.
山口茂一・増山宏(1983):繁藤災害国家賠償請求事件第一審判決,判例時報,10593号,p.32-54.
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