1.はじめに
『掘るまいか 手掘り中山隧道の記録』(橋本信一監督)という映画をご存知でしょうか。どんな映画なのか、インターネットで検索してみて下さい。平成16年(2004)10月23日の新潟県中越地震の1年前の平成15年(2003)春に完成した16ミリ・83分の映画です。ときどき各地で上映会をやっていますので、ぜひご覧になって下さい。映画の原作の三宅雅子著
『掘るまいか−山古志村に生きる』は、平成18年(2006)に鳥影社から出版されました。
また、橋本信一監督は平成16年(2004年)の新潟県中越地震直後から4年に及ぶ長期間の撮影と8か月の編集作業をもとに、平成23年(2011)に
『1000年の山古志』(93分)を完成させました。これらの映画は研修・教材用に販売するため、DVD化されています。
図1 中越地方の活断層と主な被害地震の震央(湯沢砂防工事事務所,2000に⑯中越地震、⑰中越沖地震を追記)
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表1 新潟県周辺の地震災害の記録(湯沢砂防事務所,2000に⑯中越地震,⑰中越沖地震を追記)
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本稿は、これらの映画の舞台となった長岡市旧山古志村について、旧版地形図の読図などから、当時の生活と歴史を読み取ったもので、新潟県中越地震の被害について、改めて考えてみたいと思います。図1は、湯沢砂防工事事務所(2000)の図に
⑯新潟県中越地震(2004)と⑰中越沖地震(2007年7月16日,M6.8)の震央を追記したものです。表1は同様に、
「新潟県周辺の地震災害の記録」で、〇数字は図1の地震の番号と対応しています。図1と表1を見ると、新潟県周辺は被害地震が多く発生している地域であることが判ります。
2. 山古志地域(小松倉)の厳冬期の生活
図2は、井上・向山著(2007)
『建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編』の裏表紙で、1/2.5万地形図
「
小平尾
」図幅(2006年1月1日発行)の一部です。この地形図は、2005年末までの調査結果に基づいた
「新潟中越地震対応版」で、復旧未定の道路不通区間と破損個所が(×)で示されています。道路不通区間を赤色のペンでトレースしました。また、中越地震で発生した土砂移動の範囲をピンク色、河道閉塞によって形成された天然ダム(湛水範囲)を緑色で示しています。この地域は魚沼丘陵と呼ばれ、新第三紀系からなる丘陵地で、
コシヒカリで有名な棚田地帯です。水色の部分は棚田から錦鯉の養殖池に作り替えられたもので、中越地震で多くの養殖池が破壊されました。
図3は、1/5万の旧版地形図「小千谷」図幅(明治44年(1911)測図,昭和6年(1931)修正測図,昭和27年(1952)応急修正)で、この範囲には、
竹沢中学校、池谷小学校、竹沢小学校、梶木小学校、芹坪小学校、水沢小学校(小千谷町)が存在しました。この地帯は日本で有数の豪雪地帯で、冬期間は外の集落とも徒歩でしか連絡することができず、陸の孤島となっていました。図3では、古志郡東竹沢村小松倉と北魚沼郡広神村水澤新田・茂澤との間は、徒歩道だけが描かれています。これが
『掘るまいか』の映画の背景となる地形条件と生活空間です。
図2 1/2.5万地形図「小平尾」図幅(2006年1月1日発行,井上・向山,2007)
図3 1/5万「小千谷」(82-1)(1911年測図,1931年修正測図,1952年応急修正)
(竹沢中,竹沢小,池谷小,梶木小,芹坪小,水沢小を赤○で示す)
筆者は昭和44年(1969)12月末に、卒論の準備のため東頸城丘陵の松之山町(現十日町市)で現地調査を行いました(コラム25参照)。国鉄飯山線の越後外丸駅(現在のJR東日本の津南駅)からバスで松之山温泉・松代へと抜けました。その後十日町を経由して東京に帰る予定でしたが、国道253号線はすでに1m以上の積雪で閉鎖されていました。仕方なく、地元の方に峠越えの道の方向を聞き、徒歩で3時間かけて必至に薬師峠を越えました。20時頃に十日町側の
名ヶ山
集落に着き、大工さんの家に泊めてもらいました。このため、厳冬期に数mも積雪した徒歩道の峠越えがどんなに大変か、ある程度知っている積りです。
東竹澤村は明治14年(1881)5月に竹澤村から分離しましたが、昭和31年(1956)に
種伯エ村・太田村・竹沢村・東竹沢村が合併して山古志村となり、新潟県中越地震後の平成17年(2005)4月に長岡市に合併しました。東竹沢村の小松倉集落には、大きな店も医院もありません。集落の東側に小規模な芹坪小学校がありました。冬季は数mの積雪があるため、完全に孤立しました。徒歩で中山峠を越え、北魚沼郡広神村水沢新田・茂沢から小出(現魚沼市)まで行かないと、医者に診断を仰ぐこともできませんでした。病人を背中に負い、徒歩で峠越えをすることは、どんなに大変なことであったでしょうか。
「妊婦が産気づいた時は、男5人がかりで小出の病院に運んだ。1人が妊婦を背負い、2人がそれを縄で引っ張り、2人が後から押した。体を冷やさないように妊婦に巻き付けた綿入れと布団が雪で水を含み、重さをました。吹雪で一寸先も見えない中、夜を徹して運ぶこともあった。」(朝日新聞・新潟版,2000年12月23日)。
3.日本一長い手掘り中山隧道の掘削
図4の上図は、1/2.5万地形図「
小平尾
」(82-1-1)の昭和41年(1966)7月測量、下図は昭和49年(1974)10月修正測量の一部です。地形図の中央右側に中山隧道があります。写真1は、東側の水澤新田(茂沢)側の坑口を撮影したもので、大きなトンネルの坑口は、平成10年(1998)完成の
「中山トンネル」で、左上の小さな穴が
「中山隧道」です。写真2は小松倉側の坑口を写したもので、折り畳み椅子で坑口の大きさがわかると思います。坑口右側にある看板(写真3)には、
「本隧道は、子々孫々の暮らしの安からんことを願い、我々のツルハシで掘り抜き、49年間村を支えてその役割を中山トンネルに引き継いだものである。」と書かれています。図4上に2本線で示された隧道は、軽トラックしか通れない道路トンネルなので、図4下と同様に細い破線で表現すべきでした。
小松倉集落では、63戸のうち有志41戸の共同出資で、昭和8年(1933)11月12日の
「山の神の命日」に併せて、中山隧道の鍬立て式が行われました。全長502.8尺(実距離877m)、幅4尺(1.2m)、高さ6尺(1.8m)の隧道を、農閑期にツルハシを唯一の開削道具として用い、4〜5人を一組として掘り始めました。昭和18年(1943)には180間(324m)まで掘り進みましたが、戦争によって工事は中断されました。ツルハシ1つで1000mも掘る気になったのは、地山が比較的やわらかい新第三系の泥岩・砂岩だったからでしょう。魚沼丘陵では湧水確保のため、多くの手掘り隧道が掘られていました。
図4 上図 1/2.5万地形図「小平尾」(82-1-1),1966年7月測量,
下図 1/2.5万地形図「小平尾」(82-1-1),1974年10月修正測量
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写真1 中山トンネル(1998年完成,水沢側)と
左上の中山隧道(1949年完成)
写真2 小松倉側の中山隧道の坑口
(2007年4月井上撮影)
戦後になって、昭和22年(1947)に県費補助30%を取り付け、工事は再開されました。工事は2交替制から3交替制で通年施工となり、昭和24年(1949)5月1日に貫通しました。その後、幅2m、高さ2.5mに拡幅する2期工事が徐々に進められました。昭和37年(1962)には県道に認定され、昭和56年(1981)には国道291号と公示されました。この隧道は軽自動車(幅1.4m、高さ1.5mの道路規制)のみ通行可の道路トンネルでした。写真4は、平成19年(2007)4月に現地調査を行った際に、中山隧道を一人で通り抜けた時に撮影した写真で、素掘りのままの状態や掘削に使ったトロッコが陳列されていました。
写真3 小松倉側の中山隧道の坑口にある説明看板(2007年4月井上撮影)
写真4 中山隧道の内部の状況(2007年4月井上撮影,井上,2007)
中山隧道を通る国道291号線と中山峠の関係を断面図に示したのが図5です。妊婦を背負って雪の中山峠を越えるしかなかった時代に、中山隧道を掘ろうとした小松倉の人達の意図が分ると思います。小松倉の集落は中山峠西側の平坦地にありました。芹坪小(中)学校は小松倉集落の小(中)学生が通う学校として設立されていました。校舎は残っていませんが、プールは現存しています(図4上の写真)。国道291号線は中山隧道完成後、徐々に整備されて行きました。
図5 茂沢〜小松倉〜東竹沢小学校に至る断面図と中山隧道,国道291号線の位置(井上,2007)
4.山古志村と小・中学校の歴史
新潟県中越地震後の平成17年(2005)4月に山古志村は長岡市に合併していますが、長岡市のホームページで
『広報やまこし』のすべてが公開されています。広報1号の発行は昭和43年(1968)5月で、平成17年(2005)3月の439号の最終号まで、毎月発行されていました。その後、長岡市の山古志支所は
『山古志支所だより』として、平成17年(2005)7月の創刊号から平成30年(2018)12月の176号まで発行が続いています。旧版地形図と広報を読み比べながら、この地域の暮らしの変化を詳しく考察してみました。
図6は、平成8年(1996)3月発行の『広報やまこし』332号に記載されていた山古志村の変遷です。
古志郡山古志村は、昭和31年(1956)3月31日に
種伯エ
村・太田村・竹沢村・東竹沢村が合併して誕生しました。広報1号によれば、昭和43年3月末の山古志村の人口は5135人、世帯数1145人です。村の面積は39.83km
2ですから、人口密度は129人/km
2となり、地すべり地帯としてかなりの人口保持力を持っていました。
図6 山古志村の変遷(『広報やまこし』332号(1996)より)
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図7に山古志村の人口・世帯数・児童・生徒数の変遷を示しました。広報の3月号には、中学校を卒業する全員の顔写真が掲載されていたので、中学卒業生の数を棒グラフで示しました。広報の5月号には、昭和58年(1983)から小学校入学1年生全員の顔写真が掲載されるようになりました。小学1年生の人数は9年後の中学の卒業生徒数となります。山古志村には高校(昭和23年(1948)から平成18年(2006)まで長岡農業高校の分校がありました)はないので、通学するとしても就職するとしても、ほぼ全員が山古志村を去ることになります。
国勢調査の結果によれば、大正9年(1920)の山古志村の人口は5915人(人口密度は149人/km
2)で、最も人口の多かった昭和22年(1947)の人口は6880人(人口密度は173人/km
2)となっています。日本全体の大正9年(1920)の人口は5596万人(面積37.8万km
2,人口密度は148人/km
2)となっています。つまり、大正9年以前は山古志村の方が日本全体の人口密度より高かったことが判ります。それだけ、丘陵地(地すべり多発地帯)の山古志地域は暮らしやすかったのでしょう。
図7 山古志村の人口・世帯数・児童・生徒数の変遷(広報やまこしなどをもとに作成)
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平成17年(2005)の国勢調査では、大正9年(1920)と比較して日本の人口は2倍、山古志地域は1/3となり、人口密度は6倍の差となりました。平成17年(2005)3月の広報最終号(439号)によれば、平成17年2月の人口は2113人(人口密度53人/km
2)、世帯数676となりました。
平成30年(2018)12月発行の『山古志支所だより』(176号)によれば、10月1日現在の山古志地区の人口は979人(人口密度25人/km
2)、世帯数428となっています。
山古志村の変遷を小・中学校の歴史で辿ってみましょう。昭和47年(1972)7月の広報49号によれば、山古志村に2つの中学校(種芋原中と山古志中,9学級,生徒数284人)と6つの小学校(種芋原小,虫亀小,池谷小,竹沢小,梶木小,芹坪小,28学級,児童計469人)がありました。いずれもかなり小規模な学校ですが、冬季の豪雪を考え、徒歩で通学可能な地点に小学校が開校されていました。中学生は冬期間のみ、中学校近くで寄宿舎生活をしていた生徒もいました。図7に示したように、この地域の過疎化に伴う人口減少はこの頃から始まり、児童・生徒数はそれ以上に急激に減少していきました。
図4上図(1966年測図)に示した範囲には、梶木小と芹坪小、小千谷市の十二平分校、広神村の水沢小、芋川小学校の5つが認められます。旧東竹沢芋川地区は、昭和32年(1957)10月に芋川隧道が完成したため、北魚沼郡広神村に分離合併されました。このため、芋川小学校は広神村の水沢小学校に統合されました。図4上図(昭和41年(1966)測図)では地形図上に小学校の表記がありますが、芋川小学校はすでに廃校になっていました。図4下図(昭和49年(1974)測図)では、芋川小学校は消されています。平成19年(2007)4月に現地調査した時には、芋川小学校の建物の一部が物置として残っていました。
写真5 芋川隧道(左側の小さな坑口:1957年完成)と芋川トンネル(右側の坑口:1991年完成)
坑口に描かれた闘牛と錦鯉は、この地域の名物です(2007年4月井上撮影)
なお、図4上の水沢新田の北側には集落がありますが、図4下では集落は消滅し、水田となっています。その北側には半円形の崩壊地形と2基の砂防ダムが認められます(
赤〇で示した)。これは図8に示した昭和44年(1969)4月26日に発生した水沢新田地すべりで、倒壊人家10戸、死者8人の激甚な被害となりました。その後、慰霊碑と地蔵像が建立されていましたが、中越地震で地蔵像は倒れました。地震で砂防ダムも破損しましたが、復旧対策事業が実施されました。
図8 水沢新田地すべりの土砂移動状況
(1/2.5万地形図「小平尾」)
写真6 水沢新田地すべり(全景)
(国土交通省湯沢砂防事務所,2001)
写真7 水沢新田の昭和44年(1979)災害の
犠牲者(8名)の慰霊碑
写真8 お地蔵さんと慰霊碑は中越地震で倒壊
(中越地震前後に井上撮影)
写真7は、水沢新田の昭和44年(1979)災害の8名の犠牲者を祀る慰霊碑です。写真8は中越地震直後に現地調査した時に撮影したもので、お地蔵さんと慰霊碑は倒壊していました。1年後に現地調査した時には、お地蔵さんは元に戻されていました。
図9 1/2.5万地形図「小平尾)」(82-1-1),1981年10月修正測量
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図9に示したように、昭和56年(1981)の地形図では、梶木小、芹坪小、小千谷市立塩谷小学校の十二平分校は地形図から消え、芋川の右岸に東竹沢小学校が建設されました。昭和50年(1975)6月の広報84号によれば、この地域の児童の減少が激しく、各小学校の機能を維持するため、新しく芋川右岸に小学校を建設することが決まりました。昭和52年(1977)4月の広報106号によれば、梶木小、芹坪小は75年の歴史を終えて廃校となりました。昭和52年(1977)4月には、東竹沢小学校が59名の児童を集めて開校しました。7月19日に体育館を含むすべての校舎が完成しました。
しかし、豪雪の冬期間に小松倉集落から東竹沢小学校に通学するのは困難で、図9に示した前沢川沿いの細い道は、積雪と雪崩で通行できませんでした。このため、小松倉集落では、昭和52年(1977)12月に長さ620m(子供の足で1000歩以上)にも達する
『雪中隧道』を建設しました。この隧道は地形図には表現されていませんが、図5の断面図に雪中隧道の位置を示しました
平成17年(2005)4月の現地調査時に、雪中隧道の存在を確認しました。前沢川沿いの自動車道は中越地震後の崩壊で通行不能となっています。左奥の斜面は大きく崩壊し、流木も存在します。東竹沢小学校開校後、小松倉の児童はこの道路を通学していましたが、冬期間は雪中隧道(写真9,10)を通っていました。隧道の反対側の坑口は東竹沢の天然ダムで水没しています。雪中隧道は子供用なので、大人は立って歩けません。入口から隧道の中を覗くと、蛍光灯が所々に設置されていました。この地域は地すべり対策としての排水トンネルの掘削技術が進んでいるため、鉄板のライナープレートなどで保坑されている箇所もありました。昭和52年(1977)にこの隧道を通学する3人だけの児童の写真や記事が、
『雪中隧道』として、インターネットなどで紹介されていました。このような細い隧道は、道路・取水・排水(地すべり)対策として、豪雪・地すべり地帯の山古志地区では、手掘り隧道を含めて、かなりの本数掘られていました。写真5の芋川隧道や梶金の隧道(旧東竹沢村役場や梶木小学校へ通うための隧道:現在は使われていない)もこれらの隧道の一つです。
前沢沿いの細い道と中山隧道は、昭和37年(1962)に県道に指定され、図9の地形図(昭和56年(1981)修正測図)では、尾根筋をジグザグに登る自動車道が徐々に建設されていることが判ります。
写真9 前沢川沿いの雪中隧道の入り口と中越地震後の崩壊で通行 雪中隧道の内部(子供用の高さ)
不能となった自動車道 (2005年4月井上撮影)
写真10 小松倉集落と中山峠・雪中隧道(2005年4月井上撮影)
そして、この県道は昭和56年(1981)に国道291号線と指定されます。インターネットで中山隧道を検索すると、軽自動車(幅1.4m、高さ1.5mの車両規制)のみ通行可のトンネルを持つ国道として、バイクファンなどに知られていました。
5.中山トンネルの建設と『掘るまいか』の撮影
図10は1/2.5万地形図「小平尾」(82-1-1)で、上図は1991年7月修正測量、中図は2001年9月修正測量、下図は2005年1月更新を示しています。上図では、国道291号線は1981年に指定され、ジグザグの道が西側から小松倉まで達していることが判ります。自動車交通の進展に伴い、2車線の中山トンネルの建設が山古志村の悲願となりました。現在の中山トンネルは、平成7年(1995)2月に起工され、平成10年(1998)12月14日に開通しました。
このように、自動車道が整備されるにつれて、通学も楽になったのですが、過疎化・人口の減少は止まりませんでした。図7に示したように、児童・生徒の減少は人口の減少以上のスピードで減少しました。毎年3月の広報では巣立って行く中学卒業生(ほとんどが村外や県外に進学や就職)が、5月には小学1年生の顔写真が掲載されています。小学校の入学者は9年後の中学卒業生になります。平成3年(1991)3月の広報273号(人口2916人,世帯数790)によれば、種伯エ中学校は山古志中学校に統合され、中学生の卒業生は38名でした。5月の287号によれば、中学校の新入生は32名、小学校全体の新入生は26名となりました。平成9年(1997)5月の広報346号(人口2556人,世帯数728)によれば、5つの小学校全体の新入生は11名となりました。
平成11年(1999)1月の広報366号(人口2460人,世帯数715)には、中山トンネル(写真1)開通の記事が掲載されています。その後、国道291号線は次第に整備されていきました。平成12年(2000)3月の広報380号によれば、49年間小松倉地区などの生活を守ってきた日本一の手掘り隧道を題材にした
『中山隧道物語シンポジウム』が、1月30日に村民会館で開催されました。平成12年(2000)5月の広報382号によれば、山古志村の5つの小学校は廃校となり、旧竹沢小学校(図3)のあった場所に新たにつくられた
「山古志小学校」に統一され、14名の新入生を迎えました。このため、図9の中図の範囲に学校はなくなりました(東竹沢小学校の校舎は描かれています)。
平成13年(2001)9月の広報398号の表紙には、
『中山隧道記録映画・掘るまいか』の撮影が進行中である記事が掲載されています。この映画は、橋本信一監督が地元民からインタビューしながら、地元民と一緒になり、豪雪の厳冬期に撮影した画像などをもとに、製作したものです。インターネットによる橋本監督の映画撮影日誌@〜Iなどによれば、撮影を開始した平成13年(2001)1月は16年ぶりの豪雪で、カメラが故障するなど、豪雪の中の撮影は大変だったようです。
平成15年(2003)6月の広報419号(人口2236人,世帯数691)によれば、平成15年春に映画は完成し、5月10・11日には東京新宿「新潟館ネスパス」でも上映されました。平成16年(2004)4月の広報429号(人口2198人,世帯数687)によれば、山古志中学校の卒業生は15名でした。
写真11は、小松倉地区の立体航空写真(平成17年(2005)9月6日国土地理院撮影,CB20052,C6-26,27,28)です。図5と比較すると、中山隧道(トンネル)の坑口、小松倉集落、国道291号,東竹沢の河道閉塞(天然ダム)の関係が良く判ります。中越地震(平成16年(2004)10月24日)から1年経っているので、河道閉塞の対策工事がかなり進んでいることが判ります。写真12は、東竹沢小学校付近の立体航空写真(昭和51年(1976)11月2日国土地理院撮影,CCB763,C3-34,35)で、東竹沢小学校(昭和52年(1977)4月開校)の建物の建設がほぼ完成していました。写真13は、中越地震から4日後の東竹沢小学校付近の立体航空写真(2004年10月28日国土地理院撮影,CCB20041,C26-915,916)です。東竹沢小学校の校舎(平成12年(2000)3月廃校)と河道閉塞を起こした地すべり地形(上流部の天然ダムに湛水している状況)の関係が良く判ります。
平成16年(2004)10月23日の新潟県中越地震により、山古志村は大小様々な土砂災害を受け、一時全村避難という事態となりました。しかし、中山隧道や中山トンネルは被災することはありませんでした。トンネルから芋川の宇賀地橋までのジグザグの国道291号線は、かなり大きく破損したものの応急復旧して、工事車両を通行させました。この道路は東竹沢の河道閉塞(天然ダム)対策への補給路として、重要な役割を果たしました。中山トンネルと国道291号線がなかったら、東竹沢の河道閉塞対策は非常に困難だったでしょう。
国道291号線の中越地震後の復旧工事は、宇賀地橋地点の天然ダムによる湛水や道路決壊箇所が多く、難工事が続きました。このため、国道291号が完全復旧したのは中越地震から2年後の平成18年(2006)9月3日でした。最後まで避難指示が残っていた地区が解除されたのは、平成19年(2007)4月1日でした。
図10 1/2.5万地形図「小平尾」(82-1-1),上図:1991年7月修正測量
中図:2001年9月修正測量,下図:2005年1月更新
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写真11 小松倉地区の立体航空写真(2005年9月6日国土地理院撮影,CCB20052,C6-26,27,28)
写真12 東竹沢小学校付近の立体航空写真(1976年11月2日)
(CCB763、C3-34,35)
写真13 東竹沢小学校付近の立体航空写真(2004年10月28日)
(CCB20041,C26-915,916)
まだ、長岡市道や農道・林道などには復旧していない区間も多く、山古志地域で生活するには克服すべき問題が多く残りました。平成18年(2006)10月30日に山古志小学校は、山古志小・中学校に統合されました。
新潟県中越地震による地形変化については、次回のコラム56で説明したいと思います。
6.むすびに代えて(『地理』52巻8号のあとがきに追記)
本コラムは、井上公夫・向山栄著(2007年5月)
『建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編』(古今書院)の事例調査として、現地調査を何回も行い、1/2.5万地形図「小平尾」図幅の読図(作図)作業を行ったことがきっかけです。読図作業中に中山隧道と小松倉の人たちのことを考えました。特に、小学校が地形図から次第に消えて行くのを見つけて驚きました。
拙著の原稿がほぼ完成した平成19年(2007)3月15日に、「お江戸広小路亭」で初演された神田香織の防災講談
『モクベイ伝説−杢坂の由来』(十日町市・旧松之山町杢坂,詳細はインターネットでご覧ください)で、橋本信一監督とお会いし、中山隧道や山古志のことを話しました。橋本監督は新潟県中越地震後の旧山古志村を題材とした映画
『1000年の山古志』を撮影中でした。資金難に陥っているということで、
「中越地震山古志復興記録映画製作基金」に入会しました。その後、私は4月に旧山古志村を訪れ、写真を撮影しました。自宅に帰って、長岡市のホームページを読み、旧版地形図と比較しながら、本稿(コラム)を書きました。
『初・中級編』を購入され、地形図の読図・作図作業に挑戦される方は、旧山古志村の地形・地質、気象条件とそこに住み続けている人たちのことを考えて下さい。また、機会があれば、橋本監督の映画
『掘るまいか 手掘り中山隧道の記録』を鑑賞するとともに、現地に行き中山隧道を歩いてみることをお勧めします(雪中隧道は通ることはできません)。
なお、中山隧道と山古志村の生活については、三宅雅子著(2006)
『掘るまいか、山古志村に生きる』(鳥影社)をご覧ください。橋本信一監督映画
『1000年の山古志』も平成23年(2011)に完成していますので、機会があればご覧ください。
いさぼうネットの原稿を書いていて、橋本信一監督が平成23年(2011)6月17日に49歳で亡くなったこと知りました。彼の映画やテレビの作品名を見ると、若くして亡くなったことが悔やまれます。
ご冥福をお祈りします。
引用・参考文献
井上公夫(1971):東頸城丘陵東部松之山町の地すべり地形,昭和45年度東京都立大学卒論
井上公夫(2005a):河道閉塞による湛水(天然ダム)の表現の変遷,地理,50巻2号,p.8-13.
井上公夫(2005b):中越地震と河道閉塞による湛水(天然ダム),測量,2005年2月号,p.7-10.
井上公夫(2005c):中越地方で地震に関連して発生した歴史時代の土砂災害,平成17年度砂防学会研究発表会概要集,p.354-355.
井上公夫(2006):新潟県中越地震と河道閉塞(天然ダム),全測連,2006年新年号,p.13-17.
井上公夫(2007):映画『掘るまいか 手掘り中山隧道の記録』の地形的背景―旧版地形図から山古志の地形と歴史を読む,地理,52巻8号,口絵,p.1-4,本文,p.62-73.
井上公夫・向山栄(2007):建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編,古今書院,83p.
宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧増補改訂版416-1995,東京大学出版会,493p.
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