1.はじめに
新潟県中越地震は、平成16年(2004)10月23日17時56分に新潟県中越地方で発生した
直下型地震です。震源の深さ13km、マグニチュードM6.8、川口町で最大震度7を震度計で観測しました。また、同日18時11分にM6.0、18時34分にはM6.5の余震が発生し、川口町で最大加速度2515ガルを観測しました。新潟県中越地震の本震・余震は、深さ5km〜20kmの浅い地層がずれて発生したため、中越地域で非常に多くの土砂災害が発生しました。このため、新潟県中越地震災害対策本部の平成19年(2007)8月23日現在の消防庁のまとめでは、死者68名、重傷633人、軽傷4172人、全壊4172棟、半壊1万3810棟、一部損壊10万5682棟もの大きな被害となりました。
コラム55でも述べたように、私は砂防学会新潟県中越地震土砂災害調査団(川邉ほか,2005)の一員として、現地調査するとともに、1/2.5万地形図
「小平尾」図幅などを用いて作図・地形判読作業を行い、平成19年(2007)5月に、井上公夫・向山栄
『建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編』を著しました。
本コラムでは、初・中級編をもとに、新潟県中越地震による地形変化の状況を説明したいと思います。コラム55の図2は、平成18年(2006)1月1日発行の1/2.5万地形図をもとに、中越地震による地形変化状況を示したものです(初・中級編の裏表紙としました)。
2. 新潟県中越地震後の崩壊地・地すべり分布図(国土地理院作成)
平成16年(2004)の新潟県中越地震以後、驚くほど多くの地形・地質に関する論文や写真判読解析図がインターネットや学会などの調査・研究報告として公表されました。ここでは、国土地理院が作成・公表した新潟県中越地震による、崩壊地・地すべり分布図などを紹介します(コラム55の図2も参照して下さい)。
図1は、地震翌日の10月24日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した
崩壊地・地すべり分布図(縮尺1/3万,中越地震前の1/2.5万地形図に追記)で、地震から6日後の10月29日に公表されました。中越地震によって発生した非常に多くの崩壊地、地すべり地や土石流などの土砂移動が赤線で示されています。山古志村や小千谷市などの境界が緑線で示されています。
北陸地方整備局中越地震復旧対策室・湯沢砂防事務所(2004年12月)によれば、
山古志村芋川流域では842箇所で崩落が起き、52箇所で河道閉塞を生じ、一部では湛水による被害が始まりました。地震発生当時、各河川の水位が低かったため、大きな被害はでませんでしたが、信濃川の堤防の一部には亀裂が生じました。
電気・ガス・水道・電話・携帯電話・インターネットなどのライフラインが破壊されたほか、新潟県内に電話が集中したため、交換機が輻輳し、発信規制がかけられました。また、山間部を繋ぐ通信ケーブルやその迂回路も破壊され、山古志村などは外部から情報面でも孤立する事態となりました。
図1 10月24日撮影の航空写真判読による崩壊地・地すべり分布図(国土地理院,2004年10月29日)
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北陸自動車道や関越自動車道などの高速道路、国道17号や国道8号などの一般国道、多くの県道や生活道路は、亀裂や陥没、土砂崩れ・崖崩れによって寸断されました。このため、山間部の集落の一部は全ての通信・輸送手段を失って孤立しました。とりわけ、古志郡山古志村(現長岡市山古志地区)は村域から外部に通じる全ての道路が寸断されたため、ほぼ全村民が村内に取り残されました。
山古志村の長島 忠美村長は、全村民に対し村外への避難指示を出し、自衛隊のヘリコプターにより、地震から3日後の10月26日までに、隣接する長岡市などに避難させました。避難者の大半が長岡ニュータウン内の仮設住宅での避難生活を余儀なくされました。その後、山古志村は平成17年(2005)4月1日に長岡市に合併しました。
図2 10月28日撮影の航空写真判読による崩壊地・地すべり分布図(国土地理院,2004年11月1日)
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図3 地すべり地形の分布図と凡例(防災科学技術研究所,2004年11月)
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また、山古志村や小千谷市では、数箇所で発生した地すべりによって、河道が閉塞され、複数の集落で大規模な浸水の被害が出ました。閉塞地点より下流域では、天然ダムの決壊による土石流が発生する危険性があるため、ポンプによる排水や、河道付近の民家を撤去するなどの措置が取られました。主要地方道の小千谷川口大和線の木沢トンネルも損傷しましたが、崩落箇所を修復し、復旧しました。
図2は、地震から5日後の10月28日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した崩壊地・地すべり分布図で、11月1日に公表されました。地震から5日経って、河道閉塞地点の背後に河川水が徐々に湛水している状況が紺色で示されています。芋川本川などに多くの天然ダムの湛水池が連なっているのが分ります。特に、
東竹沢地区の大規模地すべりによる天然ダム(流域面積18.6km
2、湛水高31.5m、湛水量256万m
3)は規模が大きく、湛水範囲が紺色で示され、大きくなっています。芋川上流部の
寺野地区の大規模地すべりによる天然ダム(流域面積4.87km
2、湛水高31.1m、湛水量38.8万m
3)も比較的規模が大きく、湛水範囲が拡大しています。この2箇所の天然ダムについては、国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所によって、天然ダムの排水対策が検討されました。
図3は、防災科学技術研究所が新潟県中越地震前に作成していた
1/2.5万地すべり地形分布図(中越地震直前に、地すべり地形分布図,第17集「長岡・高田」として発行)です。中越地震後カラーの立体図として、平成16年(2004)11月に公開されたもので、図1,2とほぼ同じ範囲を切り出しました。東頸城丘陵の地域では、無数の地すべり地形が形成されています。コラム55の図2に示したように、この地域ではこの地すべり地形を利用して、集落が形成され、天にまで達する
棚田と
溜池が構築され、
こしひかりや
錦鯉の産地として栄えていました(詳しくはコラム55を参照して下さい)。図3と図1,2を比較すると、
古い地すべり地形が新潟県中越地震の激震を受けて、再移動していることが判ります。大日山や東竹沢、寺野も古い地すべり地形とほぼ同じ範囲が再移動しました。
図4は、地震から16日後の11月8日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した崩壊地・地すべり分布図で、11月12日に公表されました。地震から16日経って、河道閉塞地点の背後に天然ダムの満水位に近い高さまで湛水している状況が紺色で示されています。特に、東竹沢地区の大規模地すべりによる天然ダムは規模が大きく、
湛水量と
湛水範囲がもっとも大きくなっています。この頃には北陸地方整備局 湯沢砂防事務所による様々な排水対策が行われ、満水・決壊までは達しませんでした。芋川上流部の寺野地区の地すべりによる天然ダムも比較的規模が大きく、湛水範囲が拡大したため、天然ダムの排水対策が実施されました。
なお、国土地理院(2005)では、
平成16年新潟県中越地震1:25,000災害状況図(地形分類及び災害情報),小千谷,山古志,十日町図幅,国土地理院技術資料,D・1−No.451 として公表しました。日本地図センターでは、国土地理院長の承認(承認番号 国地企調発第350号 平成17年12月12日)を得て、2006年1月5日に3枚の図幅として発行し、全国の地理院地図販売店で販売しています。
図4 11月8日撮影の航空写真判読による崩壊地・地すべり分布図(国土地理院,2004年11月12日)
<拡大表示>
図5は、芋川流域の芋川本川と支川の
河床縦断面図を作成したもので、その上に主な河道閉塞を起こした
地すべり・崩壊の位置(河床から最高点まで)を
黄色で示し、
河道閉塞の高さを
赤色で示しました(井上,2005b)。河道閉塞地点上流部に湛水できる
最大湛水深の湛水範囲を
青色で示しました。東竹沢と寺野地区を除く他の河道閉塞地点は湛水高が低いため、河床縦断面図では湛水範囲はほとんど表現できませんでした。東竹沢の地すべりの移動土塊量は192万m
3(堰止土量65.6m
3)、湛水量は256万m
3でした。寺野の移動土塊量は104万m
3(堰止土量30.8万m
3)、湛水量は38.8万m
3でした。
図5 芋川本川・支川の河床縦断面図と天然ダムの位置(井上,2005b)<拡大表示>
図6 2004年12月28日現在の芋川流域の主な天然ダムと監視・観測体制
(国土交通省北陸地方整備局,2005年1月)
図6は、平成16年(2004)12月28日現在の
芋川流域の主な天然ダムと監視・観測体制(国土交通省北陸地方整備局,2005年1月)を示しています。寺野と東竹沢の天然ダムの状況をテレビカメラで監視するとともに、天然ダムの湛水位を観測する水位計が設置されました。天然ダム下流の芋川の河道沿いには、天然ダムが決壊した場合に洪水流・土石流の到達を監視するワイヤーセンサーと下流地域への警報・連絡装置を数箇所設置しました。芋川の最下流部(信濃川との合流点付近)には
竜光集落があるため、警報器を設置し、決壊洪水が発生した場合に地域住民を速やかに安全な場所に避難させる体制を構築しました。竜光住民には天然ダムの湛水状況を知らせて、避難訓練を数回行いました。
3.東竹沢地区の地すべりによる地形変化
写真1は、国土地理院が昭和51年(1976)11月2日に撮影したカラー写真を立体視できるように加工したものです。写真2は、国土地理院が新潟県中越地震の5日後の平成16年(2004)10月28日に撮影したカラー写真を立体視できるように加工したものです。コラム55の写真12,13は、写真1,2と同じ写真で立体視できる範囲を変えてあります。
写真1は、中越地震から38年前の昭和51年(1976)11月の写真で、東竹沢小学校の校舎がほぼ完成し、校庭の造成工事が行われています。12月以降長い積雪期間となり、翌年の昭和52年(1977)4月に梶木小、芹坪小は75年の歴史を終えて廃校(小千谷市立塩谷小学校の十二平分校も廃校)となり、東竹沢小学校が開校しました。
図7,図8は、大八木(2007,2018)が写真1,2を用いて地震前後の
東竹沢の地すべり地形を判読したものです。中越地震後の現地調査結果から判断すると、当地区は新第三紀層の泥岩・砂岩互層が17〜22度西側に傾斜した斜面で、過去に地すべり変動を起こした地区であることが判りました。
写真1 地震前の東竹沢地区の立体写真
(1976年11月02日撮影 CCB-76-3, C-34,35)
写真2 地震から5日後の東竹沢地区の立体写真
(2004年10月28日,C26, 0916,0917)
図7 東竹沢地区の1976年写真による地すべり地形
図8 2004年写真による地すべり地形
(大八木,2007,2018)
東竹沢地区の天然ダムは、河道閉塞により形成された最も大きな天然ダムですが、写真2の空中写真は、中越地震から5日後に撮影された写真であるので、まだ湛水域はまだあまり拡がっていません。図8によれば、中越地震によって大規模な地すべり変動が発生して、芋川の対岸にぶつかり、河道閉塞している状況が良く判ります。地すべり土塊の上の樹木は立ったまま変動しているので、17〜22度の単傾斜な地層に沿ってすべり面があり、その上を地すべり土塊はほとんど変形せずに移動しました。河道閉塞の上流側の芋川の河谷は次第に湛水するようになりました。しかし、最大湛水量は256万m
3とかなり大き
いのですが、まだ湛水はそれほど進んでいません。芋川の上流部にある寺野地区の天然ダムにより、上流部からの流水が流下してこないことも影響しています。
写真3 東竹沢の天然ダムの湛水状況(2004年11月25日井上撮影)
写真4 東竹沢の中央部付近に現れたすべり面(2004年11月25日撮影)
写真3〜8は、
砂防学会中越地震調査団で現地調査した平成16年(2004)11月20〜25日に井上が撮影したものです。写真3は、中山トンネルを通り小松倉から国道291号線を下って、天然ダムの湖畔から湛水状況を撮影したものです(11月25日井上撮影)。写真4は
、台船で湖水を渡らせて頂き、地すべり地域を歩き、河道閉塞を起こした地すべりの背後に現れた泥岩層上面のすべり面を示しています。すべり面は17〜22度の単斜構造となっていました。すべり面の右側は地すべり移動土塊で、移動土塊の上に繁茂していた樹木が山側に傾斜しています。中越地震によって、前回動いた時とほぼ同じすべり面で移動したと考えられます。
写真5は、地すべりの対岸に登り、
河道閉塞区間を撮影したものです(11月20日)。湯沢砂防事務所が排水作業のための排水ホースを何本も敷設している状況を示しており、奥に
東竹沢小学校の校舎が見えます。写真6は
、排水ホースが東竹沢小学校の体育館を通過して敷設している状況です(11月20日)。写真7は、東竹沢小学校の内部を撮影したもので、今にも子供が飛び出してきそうでした。写真8は東竹沢小学校の
閉校記念碑で、平成12年(2000)に廃校となって4年が過ぎていました。
写真5 天然ダムの排水対策のホース敷設と東竹沢小学校(2004年11月20日井上撮影)
写真6 排水ホースが東竹沢小学校の体育館を通過している状況(2004年11月20日井上撮影)
写真7 東竹沢小学校の体育館(子供が飛び出してきそう)
写真8 東竹沢小学校の閉校記念碑
図9は、北陸地方整備局が平成17年1月にまとめた
東竹沢河道閉塞の水位経時変動図(平成16年(2004)12月28日現在)です。新潟県中越地震が10月23日に発生してから緊急排水対策(ポンプによる排水対策)がほぼ整った11月10日からグラフは描かれています。標高161.0mが
天然ダムの最高
水位ですので、ここまで水位が上昇すれば、天然ダムは決壊してしまいます。11月16日頃までかなりの降雨があったため、天然ダムの水位は158mまで上昇しました。その頃からポンプ排水が軌道に乗りました。砂防学会の調査団が現地調査を行った11月20〜25日の頃は、水位が157mから158m付近にあり、
緊急排水路と
仮設排水管の工事が懸命に行われていた頃です。これらの工事も12月9日には完成し、水位を急激に低下させることができるようになり、12月20日には144mまで水位を下げられました。
平成16年は台風通過後、降雨が少なく、芋川の流量が減少して(12月末まで積雪がなかった)、天然ダムの排水工事は順調に進みました。平成10年(1998)に中山トンネルが開したため、国道291号経由で排水資材や重機が運搬できたことも大きいと思います。
図9 東竹沢河道閉塞水位経時変動図(北陸地方整備局,2005年1月)
写真9 芋川対岸から東竹沢地すべり地頭部を望む(2005年4月19日井上撮影)
写真10 芋川の河道閉塞区間に建設された緊急排水路(2005年4月19日井上撮影)
写真9,10は、中越地震から6箇月後の平成17年(2005)4月19日に現地調査を行った際に撮影したものです。芋川の河道閉塞区間に建設された
緊急排水路が完成し、上流の天然ダムの湛水域からの排水が正常に行われていました。また、地すべり移動土塊の森林伐採と廃土工が行われたので、東側の
地すべり跡地形が良くわかります。
4.東山丘陵の地形特性
井上・向山(2007)
『建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編』では、平成18年(2006)1月1日に改版された
「小平尾」図幅などを用いて
水系図・接峰面図・河床縦断面図などの読図・作図作業を行い、演習帳としました。ここでは、
『1/20万新潟県地質図』などと比較しながら、当地区の地形・地質状況と平成16年(2004)10月23日の新潟県中越地震によって発生した地すべり・崩壊・土石流などの特性を考察してみたいと思います。
図10は、1/20万の新潟県地質図の東頸城丘陵から東山丘陵の範囲を示しています。この地域は新第三系の堆積岩類からなる丘陵地で、地すべりの多発地帯です。本図の南部にある楕円形の地形は、
松之山ドームと呼ばれる貫入岩体で、南東側に松之山温泉があります。コラム25で述べた私の卒論の調査地
「湯本地すべり」は松之山ドームの南側にあります。
図10 1/20万の新潟県地質図(2000年版)
図11は、1kmメッシュで作成した
接峰面図で、図10の地質図から主な向斜軸と背斜軸を追記しました。
接峰面(Summit-Plane)とは、山地を刻む谷を埋めて河川侵食以前の原地形を推定する目的で作成されます。芋川流域は接峰面で見ると、標高250m〜450mの平坦な地形となっています。実際東山丘陵の中に入ると、スカイラインはほぼ水平で、支渓流が多く発達し、20度〜30度の斜面では地すべり地形が多く認められます。接峰面上で高く見える地区は火山岩類からなる山塊からなります。芋川の本川流路は、北北東−南南西方向の背斜軸にほぼ平行に北から南方向に流下しており、接峰面高度が少し低くなっています。
図12は、図11と同じ範囲の
次数別水系図(ストレーラー(Strahler)の分類による)です。芋川の流域境を一点鎖線で示しました。芋川本川水系次数は6次で、支渓流は1〜4次となっています。大日岳と東竹沢など、中越地震で発生した主な地すべり・崩壊地形と天然ダムによる湛水範囲を示しました。芋川本川はかなり大きく嵌入蛇行していますが、全体の流路方向は北北東−南南西方向に流下しています。
図11の接峰面に×印で示しましたが、東山丘陵には多くの
河川争奪(Piracy)地点があり、上流部の河川が×印から下流は別の方向からきた河川に流れを変えています。河川争奪された元の河川の頭部は
無能谷(不適合谷)となって、かなり広い低平な谷底が残されています。東山丘陵では、このような地形変化が数箇所で発生し、より複雑な河川地形や地すべり地形を形成しています。
図11 1kmメッシュ法による接峰面(井上,2007)
<拡大表示>
図12 次数別水系図(井上,2007)
<拡大表示>
5.芋川流域からの年平均流出土砂量
コラム22 飛越地震(1858)による土砂災害でも説明しましたが、Strahler(1952)の
面積−高度比曲線(Hypsometric curve)を用いて、芋川流域の年平均流出土砂量を検討してみます。流域全体の侵食状態を示す指標の1つとして、流域内の高度分布の相対値を著すのに
面積−高度比曲線があります(井上ほか,1986)。図13は、面積−高度比曲線の説明図です。この図の曲線は、縦軸に流域全体の高度差Hに対する任意の高度hとの比(h/H)を、横軸に全面積Aに対するh以上の面積aの比(a/A)をとった曲線です。図13に示したように、原地形面(始源面)を破線で囲まれた山頂水平投影面(Summit Plane)と仮定すると、この曲線より上部が侵食された部分、下部が残った山体を表すことになり、侵食の進行速度を表現できます(鈴木,2000)。この曲線と]軸とY軸に囲まれた部分の面積α(現地形面に対する山体の堆積)を面積−高度比積分といい、侵食の程度を示す目安となります。
図14は芋川流域で1/2.5万地形図をもとに、1cmメッシュ(実距離250mメッシュ)で標高を読み取り、面積−高度比曲線を作成しました。芋川流域は縦軸(Y軸)に示したように、最高標高Hが猿倉岳の680m、最低標高(魚野川との合流点)が70mで、比高(高度差)は610mです。芋川流域の全面積Aはメッシュ数が628点ですので、
A=メッシュの大きさ×メッシュ数=250×250×628=3.93×107(m2)=39.3(km2)
となります(湯沢砂防事務所によれば、芋川の流域面積38.4km
2)。メッシュ毎の標高値を高い順に並べて、面積−高度比曲線を作成すると、図14に示したようになり、積分値α=0.337となります。
地殻変動や火山活動が激しい日本列島では、山頂水平投影面を原地形面(始源面)と考えることは妥当ではありません。原地形面が判明している丘陵地や台地、火山山麓斜面では、適当な谷埋め幅で描いた接峰面を原地形面と考える方が現実的です。図11は、東山丘陵の接峰面図(1kmメッシュ)で、接峰面による面積−高度比曲線を求めると、β=0.463となります。
面積−高度比曲線のβ(接峰面)とα(現地形面)との間は、魚沼丘陵が形成された以降の芋川流域の侵食土砂量(V1)と考えられますので、
V1=A×(H―h)×(β―α)=3.93×107×(680―70)×(0.463―0.337)
=3.02×109(m3)=30.2億(m3)
となります。
図13 面積−高度比曲線の説明
(Strahler,1952;井上ほか,1986,田畑ほか,2002)
図14 芋川流域の面積−高度比曲線
(井上・向山,2007)
βを求めた東山丘陵の原地形面(1kmの谷埋め接峰面)の形成時期は何時頃でしょうか。図11 接峰面図を見ると、猿倉岳(680m)を除いて、標高300〜400mの平坦面であることが判ります。
東山丘陵の起伏量図(井上・向山,2007の図2.9.1)によれば、1/2.5万「小平尾」地域は、100〜199mの起伏量の地区が卓越しています。魚野川南側の河岸段丘分類図(金,2004;井上・向山,2007の答図1.7.2,1.7.3,1.7.4参照)によれば、分布の広い堀之内付近の更新世段丘1,2は、9〜15万年前と推定されており、魚野川の現河床より約150mの比高差があります。
このため、芋川流域の標高300〜400mの平坦面(接峰面)は、9〜15万年前形成されたと考えることができそうです。つまり、芋川流域などの東山丘陵と魚沼丘陵(魚野川の南側)は、9〜15万年前には標高150〜200mの平坦面が広がっていたと考えられます。魚野川はこの平坦面上をかなり自由に蛇行しながら流下していたと考えられます。
その後、東山丘陵と魚沼丘陵は地盤の隆起が活発になったと考えられます。魚野川の現河床と堀之内付近の更新世段丘1,2との比高差(150m)がこの地域の9〜15万年間の地盤隆起量と仮定すれば、年平均隆起速度は1.0〜1.7mm/年となります。
接峰面と現地形との差(β―α)から求めた芋川流域からの侵食土砂量(V
1)の流出期間(T)が上記と同じ期間とすると、年平均侵食土砂量(V
2)は
V2=V1/T=3.02×109/9〜15×104=2.1〜3.4×104(m3/年)=2.1〜3.4万(m3/年)
芋川流域の流域面積(A)は39.3km
2ですから、年平均侵食速度(S)は、
S=V2/A=(2.1〜3.4×104)/3.93×107=5.1〜8.6×10-4(m/年)=0.56〜0.86(mm/年)
となります。
つまり、氷河性の海面変動を無視すれば、地盤の隆起速度の半分程度の速度で侵食されたため、接峰面高度が次第に高くなったと考えられます。
上述のように、芋川流域からの全流出土砂量は30億m
3と考えられますが、平成16年(2004)の新潟県中越地震で移動した土砂量は何億m
3だったのでしょうか。地震から14年経過しましたが、芋川流域から魚野川に流出したのでしょうか。芋川流域では、東竹沢や寺野などで河道閉塞のための対策工事が実施されましたが、もしこれらの対策工事が実施されなければ、どの程度の土砂が流出した可能性があったのでしょうか。
本年(2019年)10月で新潟県中越地震から15年となりますが、このような長期的観点(地形発達史的観点)から、地震とその後の降雨・積雪による地形変化を見直す必要があると思います。
6.むすび
コラム55の図2や本コラムの図1〜4を見ると、国土交通省湯沢砂防事務所や新潟県が災害復旧工事を実施した地すべり・崩壊地(河道閉塞した地区が中心)以外にも非常に多くの地すべり地形があり、地すべり災害を繰り返し受けてきました(国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防工事事務所,2001;新潟県土木部砂防課,2005)。筆者は日本工営轄ン職中に、湯沢砂防工事事務所(2001)の業務で、
『湯沢砂防の管内とその周辺の土砂災害』冊子の原稿を作成する業務を担当しました。また、県営の
芋川ダム建設計画の業務で、貯水池周辺のダム湛水による地すべり対策を検討したことがあります。詳しいことは覚えていませんが、芋川流域の谷壁斜面を現地調査してみると、新第三紀層からなる魚沼丘陵内の芋川流域には地すべり地形が非常に多く、貯水池ダムの建設は困難であると報告した記憶があります。
東竹沢地区や寺野地区では、国土交通省北陸地方整備局の湯沢砂防事務所が天然ダムの河道閉塞対策として、ポンプ排水や緊急排水路や仮設排水管が地震後2ヶ月の短期間で建設し、天然ダムの決壊・洪水を防止することができました。
平成16年は9個の台風が日本に上陸しました。特に、10月13日にマリアナ諸島近海で発生した台風23号は、宮古島の南東で超大型の強い台風となり、20日12時に高知県土佐清水市に上陸し、中部地方内陸を横断し、茨城県大洗町で太平洋に抜けました。日本全体で、死者・行方不明者98人にもなりましたが、新潟県でも大きな被害を受けました。中越地震の方が台風23号襲来よりも先に発生していたらどうなっていたでしょうか。
幸いなことに、台風23号通過後の降雨は比較的少なく、芋川の流量が次第に減少して(12月末まで積雪がなかった)、天然ダムの排水工事は順調に進みました。平成10年(1998)に中山トンネルが開通したため、国道291号経由で排水対策用資材や重機が運搬できたことも大きかったと思います。
新潟県中越地震から2019年10月23日で15周年となりますが、中越地震後の調査・観測結果に基づき、地震直撃による地形変化や工事による地形変化を長期的視点に立った地形発達史の観点から見直す必要があると思います。
引用・参考文献
井上公夫(1993):地形発達史からみた大規模土砂移動に関する研究,京都大学学位論文(農学),235p.
井上公夫(2005a):河道閉塞による湛水(天然ダム)の表現の変遷,地理,50巻2号,p.8-13.
井上公夫(2005b):中越地震と河道閉塞による湛水(天然ダム),測量,2005年2月号,p.7-10.
井上公夫(2005c):中越地方で地震に関連して発生した歴史時代の土砂災害,平成17年度砂防学会
研究発表会概要集,p.354-355.
井上公夫(2006):新潟県中越地震と河道閉塞(天然ダム),全測連,2006年新年号,p.13-17.
井上公夫・水山高久・大内俊二(1986):常願寺川上流部の大規模崩壊(鳶崩れ)とその後の河床変について,昭和61年度砂防学会研究発表会講演集,p.238-241.
井上公夫・向山栄(2007):建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編,古今書院,83p.
宇佐美龍夫(1996):新編日本被害地震総覧増補改訂版416-1995,東京大学出版会,493p.
越南タイムズ(2005):特別記録写真集 「激震魚沼」魚沼市川口町,82p.
小千谷市役所総務課防災係(2010):新潟県中越地震 小千谷市の記録,466p.
大八木規夫(2000-2006):地すべり地形の判読,1-18,Fukadaken News,@,51号,p.7-22.,②,53号,p,5-20. 以下、⑱,88号,p.9-20.まで続いています。
大八木規夫(2004):分類/地すべり現象の定義と分類,地すべり―地形地質的認識と用語―,地すべり現象に関する地形地質用語委員会編,(社)日本地すべり学会誌,p.3-15.
大八木規夫(2007):地すべり地形の判読法―空中写真をどう読み解くか (防災科学技術ライブラリー・シリーズ Vol. 1),316p.
大八木規夫(2018):増補版 地すべり地形の判読法―空中写真をどう読み解くか (防災科学技術ライブラリー・シリーズ Vol. 1),368p.
川邉洋・権田豊・丸井英明・渡部直喜・土屋智・北原曜・小山内新智・笹原克夫・中村良光・井上公夫・小川喜一朗・小野田敏(2005):2004年新潟県中越地震による土砂災害(速報),砂防学会誌,57巻5号,p.45-52.
国土交通省湯沢砂防工事事務所(2000):平成11年度土砂災害履歴調査報告書,日本工営株式会社
国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防工事事務所(2001):湯沢砂防の管内とその周辺の土砂災害,44p.
国土地理院(2005):平成16年新潟県中越地震1:25,000災害状況図(地形分類及び災害情報),小千谷,山古志,十日町図幅,国土地理院技術資料,D・1−No.451,日本地図センターが国土地理院長の承認(承認番号 国地企調発第350号 平成17年12月12日)を得て,2006年1月5日に3枚の図幅は発行されています。
鈴木隆介(2000):建設技術者のための地形図読図入門,第3巻,古今書院,段丘・丘陵・山地,p.555-942.
Strahler,A. N.(1952):Hypsometric (Area-Altitude) analysis of erosion topography., Geol. Soc. Am. Bull., vol. 63, p.85-110.
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害,古今書院,カラー,8p.,白黒,206p.
長島忠美(2017):山古志に学ぶ震災の復興,かまくら春秋社,208p.
新潟県魚沼市(2009):新潟県中越大震災 魚沼市震災記録集,96p.
新潟県土木部砂防課(2005):新潟県中越地震と土砂災害,砂防地すべり技術センター,68p.
新潟日報社(2004):特別報道写真集 新潟県中越地震,89p.
日経コンストラクション(2004.1.26):新潟県中越地震 山間地をのみ込んだ斜面崩壊―山古志村など信濃川右岸に被害が集中―,日経コンストラクション,2004年1月26日号,p.34-42.
防災科学技術研究所(2004.11):地すべり地形分布図,第17集,「長岡・高田」,防災科学技術研究所研究資料,244号.
北陸地方整備局中越地震復旧対策室・湯沢砂防事務所(2004年12月):平成16年(2004年)新潟県中越地震芋川河道閉塞における対応状況.